直木三十五記念館の日々

直木賞にその名を残す直木三十五の記念館は市民参加型のミュージアム。運営の悪戦苦闘をストレートにお伝えします。

大衆文藝作法を再読する

2007年08月01日 | Weblog
 以前に大阪府立文化情報センターでの直木三十五についての連続講座で「大衆文藝作法を詠む」というテーマで講義をしたことがあるのだが、「可能性のまち上町台地」でオダサク倶楽部の井村氏と「可能性の文学」という題でトークバトルとするので、「大衆文藝作法」を再読した。
 「大衆文藝作法」は直木三十五が大衆文学について述べている数多くの文章の中でも著名な文の一つであり、直木三十五の小説に対する姿勢がよく示されている。よくよく読むとオダサクの「可能性の文学」と共通する部分も多い。
 昨年の「ダイチの上の文学」で奇しくも三島先生、井村氏、私で谷崎、織田、直木の話しをしたときにも三人の共通する点は物語を作る作家であると言う点であるということが一致した見解であったし、小説はもっと物語でなくてはいけないとも語った。
 日本の文学、特に「純文学」と称されるものは(しかし、純文学というのは何と言う言葉か純喫茶みたいに無意味にも思われが)心情的私小説こそが小説であるという風潮はなぜか絶対的にある。しかしながら本当にそうであろうかという疑問が「大衆文藝作法」であり「可能性の文学」ではないかと思う。