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名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

¶ 非論理エッセイ 【チャップリンの口癖】

2025年08月06日 | 日記
「ドラマには誇張が大切だ」という溝口健二の言葉があります。それが氏の基本姿勢であった様ですが、その論点とは異なる映画藝術家の存在があります。映画芸術の総体を観る観点であり、偉大な映画作家お二人を比較する様な積もりの無い点だけ先にお断りして置きます。

「チャップリンは誇張を極端に嫌った」という証言が多々残されています。「ゴールド・ラッシュ」の撮影で靴を食べ過ぎ、長期入院しました。「街の灯」では盲目の少女が「落ちた花を拾うごく短いシーン」に一年半掛ける。車のドアを閉め紳士が走り去るのを、「お釣りは要らない」と勘違いする場面です。お釣りを待っている浮浪者が、「ありがとう」と呟く娘と一緒に去り行く車を見送る姿がおかしい。その名場面が出来上がると、既に完成していた序幕の映像を惜しげもなく没にしてしいました。処が捨てられたカット「溝に落ちた棒を拾おうと悪戦苦闘する姿」は、歴史に残すべき名演技です。「キッド」「独裁者」「ライムライト」「サーカス」など、どの作品にも気の遠くなる様な取り直しとあっさりとフィルムを没にする驚くべき姿勢が記録されている。どれも実話です。撮り直しを気にせず延々と撮影を続ける。「OK、完璧だ」と云った後に「もう一度、他の可能性を試してみよう」と云うのが癖でした。廃棄されたNGフィルムの山は芸術の宝庫です。

 その後、多くの名監督諸氏がチャップリンの姿勢を見習った史実は、疑いの余地がありません。

 観客動員数の世界新記録となった「街の灯」の記者会見で、「あなたの最高傑作はどれですか」と聞かれました。既に名作が多々あるにも拘らず、チャップリンは迷わず答えたそうです。

「次の作品(NEXT ONE)」

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¶ キネマ倶楽部 【アルフレッド ヒッチコック】

2025年05月30日 | 日記
 本ものと云える程の作品を創作する作家には、特殊な生き方が求められます。描こうとする物語を、実際に体験せねばならない。更には体験から昇華された思想的な経験を描くという事であり、不可能の壁を前提とした行為とも云えます。本当の映画作家に共通する素質と云えるかも知れません。ヒッチコックの演技指導は、正に作家のお手本と云えます。

 新聞や雑誌のインタビューほど当てにならないものはありません。政治家はもとより、企業家でも、音楽家でも、小説家でも、本音は話さないものです。映画作家を例に取っても、ジョン・フォードやフェデリコ・フェリーニなど、とぼけた冗句で取材陣を煙に巻く表現が多々あります。が、その中でも極め付けの変人がいる。アルフレッド・ヒッチコックが遺した言葉や対談集は、全て冗談、嘘、皮肉、逆説、照れ隠しと捉えると、殆ど辻褄が合います。映画作品も同様。作品が象徴する思想、裏面に暗喩されたモチーフ、決してそうとは表立って云わなかった深い主題に驚きます。それは、連作の中に流れる映画的な技巧、執念とも云える映像感覚と云えるかも知れません。

「興行的な成功だけ考えた。チケットの売上が全てだ」
「観客が怖がればそれで良い。恐怖映画の代表と云われれば本望だ」
「イングリッド・バーグマンが出演すれば、映画の成功は約束されたも同然だ」

 そんな商業宣伝的な台詞とは裏腹な名作映画が多々遺されました。映画作法のお手本だという多くの意見は、ヒッチコック技法の核心を見失っています。ヒッチコックの様な作法は、学ぼうとして真似られるものではありません。これしかないという絶対性と、極めて特殊な感性が、連続する映像と編集技術を牛耳っているからです。御本人も、表層の技巧以外誰も追随出来ない作法に、自信を持っていた筈です。ヒッチコックを真似た並み居る映画作家達は、その殆どが個性と感性を破壊され無残な失敗に終わりました。ヒッチコック技法の影響を受けた映画監督で本当に優れているのは…ピーター・ボグダノビッチ…と考え出すと、後が思い浮かびません。勿論、そうとは喧伝なさらない方々の中には名人が多々いる事でしょう。

 B級映画という変な形容の為に、当時観客動員力のある大スターを使えなかった背景が多々あります。処がそういう作品程、天才作家のすご腕が発揮されます。「39階段(邦題「39夜」)」「バルカン超特特急」「逃走迷路」「海外特派員」「鳥」「マーニー」などを最高傑作と見做すのは、間違っているでしょうか。後に「チップス先生さようなら」でアカデミー賞主演男優賞を受賞した「39階段」のロバート・ドーナットも、「バッファロー・ビル(邦題:「西部の王者」)」の怪演で有名な「海外特派員」のジョエル・マクリーも名優中の名優です。ローレンス・オリビエ、イングリッド・バーグマン、レイ・ミランド、グレース・ケリーなど、既に名声を博していた大スターが作品の完成度に合致すると、興行的にも大成功となりました。「レベッカ」「白い恐怖」「汚名」「ダイヤルMを廻せ」など、御本人が過小評価する作品でさえ完成度が飛び抜けています。

 「サイコ」「疑惑」は、狂気の本質を描いています。「引き裂かれたカーテン」「救命艇」「舞台恐怖症」「ハリーの災難」などは実に粋な映画でした。逆に、ヒッチコックが気に入っているとされた「北北西に進路を取れ」「めまい」「知り過ぎた男」「見知らぬ乗客」などは、興味を引く点に於いても、面白さも、興行成績も抜群でしたが、他のヒッチコック映画の完成度に比較するとやや劣って見えます。それは、主役を演じる男優に存在感が足りなかったからでしょう。確かに、ケーリー・グラントもジミー・スチュワートもうまい。が、他の名作群に比べると、やや老いて迫力に欠けていたのです。が、そういう場合でさえ、悪役を演じた名優の存在感に感銘を受けます。クロード・レイン(「カサブランカ」の名優)、ロバート・ウォーカー、ジョセフ・コットン、ジェームズ・メイソン、女優ではキム・ノバックなどがいますが、往年のミュージカル・スターであるジャネット・リーが盗人で敢えなく殺される「サイコ」などは、キャスティングだけでも抜群のセンスを感じます。

 歴史に遺るであろう最高傑作は、映画藝術的な完成度で総合判断すると…「レベッカ」「サイコ」「鳥」「海外特派員」「私は告白する」「パラダイン夫人の恋」「ダイヤルMを回せ」「白い恐怖」「逃走迷路」「マーニー」「39夜」…かな。この選択は非難ごうごうとなるでしょう。が、興行成績やファン投票などに拠って高く評価された作品には同調出来ない映画技法上の観点があります。欠点という訳ではありません。「ヒッチコックにしては完璧と云えない」と云う、ヒッチコック映画を基準とした分析です。現代名監督といわれる映像作家より格段に優れており、戦後の作品で一流と云えないのは「トパーズ」一作だけでしょう。が、エンディングのミスを除けば、アカデミー賞に名を連ねる作品群より優れています。役者諸氏の名演技も脚本の流れも決して駄作とは思えません。重病で体調が悪く、時間に追われ編集したと伝わる「トパーズ」でさえ、凡庸な監督の及ば得ない技巧が随所に観られます。

 まるで、怖がりで小心者の様に自虐的に語った記録が多々遺されました。これ以上ない図太い神経の持ち主ゆえ、全部芝居掛かりの台詞の様に思えてなりません。ヒッチコックは、役者に演技させるのを嫌ったとも伝わっています。これも事実とは云えません。この皮肉で冗談ばかり云う虚言癖の名監督は、名優の名演技を誰よりも望んでいた筈です。特に難しい演出術は、役者に登場人物の心理を叩きこむ特殊な方法です。一例を挙げれば。「レベッカ」の女主人公でしょうか。前半は、おどおどしている。が、後半になると毅然として夫を援けようと変身する。主演女優は、撮影が始まると皆から無視されました。ヒッチコックの命令で、彼女が不安になる様に仕向けられたのです。後半は、逆に自信を与えられました。「鳥」と「マーニー」でパワハラ、セクハラと社会的な非難を受けたヒッチコックですが、被害者と云われる女優の過剰反応かも知れない。どちらの役も、恐怖と不安を描く役処だったので、撮影中に特殊な心境に追い込まれた演出意図があった事は、ほぼ疑いの余地がありません。こういう事は映画製作では日常茶飯事であり、名作ほど役者諸氏に同情を禁じ得ない作為が多々存在します。しかしながら、犯罪とは異なる正しい見地で映画創作の困難を理解する姿勢も大切ではないでしょうか。

 御本人が既に亡くなっているゆえ真相は闇の中ですが、御存命であったとしても本音は決して語らなかったでしょう。そこが、ヒッチコックのヒッチコックたるゆえんであり、他の映画作家とはかなり異なる人物の大らかな魅力があります。確かに云える事は、厳格で妥協しない完全主義の映画作法。その反対に、常に相手の立場で物事を考える優しい人柄であったという奥ゆかしい人物像です。記者会見の記録を読むと、ヒッチコックの観点を理解し得ない場合には、相手を傷付けまいとする深淵な配慮を感じます。

 後は、そうですね…完璧に人をおちょくっている悪戯好きで洒脱な精神と云えるかも知れません。「ヒッチコックの映画術」と云う対談集がありますが、本音は語っていない。事実に反したジョークだらけなのです。対談の相手は崇拝者のトリュフォー氏だったので、相手の思惑に合わせたのでしょう。「どうせ、こんな説明をしても理解出来まい」という本音が、妥協したさりげない話術の中に溢れています。どこが本音でどこが演技なのか見破りながら読むと、実に面白い本と云えるかも知れません。


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@ 非論理エッセイ 【放射能と酢】

2025年04月13日 | 日記
 放射能汚染は…と書く事さえためらいがあります。世の混乱を招く意図など無い点だけ先にお断りさせて頂き、被災地の方々にほんの一言。放射能汚染には、個人レベルで被害を緩和する方法もあります。放射能検査測定法は多々あり、将来的には放射能を中和したり除去する科学的な対策が生まれる事でしょう。が、ごく身近な方法があるのです。

 水で十倍に薄めた酢は、放射能の約九割を洗い流します。野菜などの食物を十倍酢に漬けて乾かすのみ。十倍とする理由は浸透圧の調整ゆえ、食品に拠り倍率は微妙に異なるかも知れません。酢漬けの食材は、放射能が骨に侵食するのを防ぎます。酢は化学薬品と異なり無害ゆえ、先ずお試しになる事をお勧めします。何故ならば、酢には歴史的な実績があるからです。 

 今から約七千年前のメソポタミア文明以来、酢は、食材の防腐、殺菌効果だけでなく伝染病対策に使われている。世界的浸透の経緯を辿ると、発生当時の塩・胡椒も単なる調味料ではありません。元々味覚には、まがい物ではない自然の滋養を味わうという機能があります。その点味覚、臭覚、視覚、聴覚の狂った現代よりも、古代から伝わる人類の智慧にはうなずける点が多々あります。大都市よりも、自然の食材そのままの贅沢が生産地に残っているものです。

 酸化脂肪の増加と高血圧の抑制、血液の浄化作用、カルシウム代謝の増進を促し苛々を抑える効果など、酢の効用は多岐に渡ります。生命体系の循環に関わる大発見とも云える。とはいえ、高額な特殊健康食品の類をお勧めする訳ではありません。普通の安価な穀物酢で効果は十分過ぎる程ですし、容易に入手可能な混じり気の無い酢を継続摂取するのが一番です。情報過多で過剰宣伝が溢れる世の中ですが、優れた製造元の善い商品も多くあります。

 食欲増進効果ゆえに、茶懐石の前菜として「酢のもの」があります。千利休は、質素で妙趣溢れる風味を好んでいました。欧米系ディナーのピクルスや、東洋・宮廷料理の酢漬け食材も脂肪分過多の豪華料理に欠かせません。風邪の緩和にも多くの改善症例がありますし、疲労回復効果もあります。化学食品企業群も軍事産業系も専門解析に興味を持たないせいか、酢の正体は未だに曖昧です。煙草のヤニの様な頑固な汚れを落とす効果からも、酢という人類の発明には、今後更に科学的根拠が発見される事と思います。

 良識ある人類には、地球を害毒から守ろうとする、何世代もの時空を経て積み重ねられた智慧があります。「酢」は一例に過ぎません。癌や老化を防ぐ抹茶、霊芝、朝鮮人参、梅子(メイツ)、フカひれ、海燕の巣、蜂蜜、キャビアなど人智を超えた食材が存在します。

 放射能の研究は続く事でしょう。さもなければ、人類に残された道は祈る他ありません。神がかりの祈りや楽観論では、生き延びられない時代が来ているのです。どんな時にも希望があります。正しい見地に基く叡智さえ見出せば、地球の生命体系は永く続く事でしょう。

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@ 非論理エッセイ 【告子の言葉】

2025年04月13日 | 日記
「人間の性(さが)の善なるは水の低きに流れる如し」という孟子の言葉があります。

 屁理屈風自然現象的非論理で考えてみましょう。本来人の性に関わらず、天地体系の循環に善も悪もありません。全ては生命の連鎖法則に基づいて動いている。卵を盗まれる側から見た悪は、盗む側の命の糧である。親鳥を殺される側から見た悪は、殺す側の命を繋ぐ。その生き物の卵を主食とする生物もおり、延々と循環する巨大な食物連鎖の構造がある。人類の歴史には、忠臣蔵の様に大衆の人気を得た仇討ちまであります。が、悪と評される側にも何らかの理由、と云うよりもその人物が属する組織を守ろうとする盲信があり、それは今日現在でも世界中に日々生じている争い事の実態です。

 あらゆる生き物には、何千万年もの試行錯誤を経て選び抜かれた食糧があります。それが命の絆を繋ぐ糧であり、その根本義を破ったのは人類他僅かな生命体のみと云える。人間界の法律は形式に過ぎず、善悪を裁く道徳基準とはならない。盗みや殺人を悪とするのはトラブルを避ける近代社会の便法に過ぎず、権力者の盗みや殺戮は裁かれる事すらない。大統領や総理大臣が失脚するのも、単に反対派に更に強大な権力があると云う力関係に過ぎません。

 人間の本性を水に例えれば【流れに押し流される者達もいれば、流れに逆らいながら進む人間も居る】と云う表現が正しい。喩えに過ぎないとは云え「水は下に流れるばかりでは無く、蒸気となり空(くう)に溶け込む本質もある」と云う概念を孟子は引用しませんでした。が、科学の進歩に拠って表現が変わるだけの事であり、前提自体が間違っていれば同じ事です。

 【水が西にも東にも流れる様に人間の本性にも善悪の区別は無い】と云った告子の言の方が正しい。人間を善とする孟子の王道世界にも、多くの宗教が説く無条件の愛にも無理があります。イエス・キリストが説いた愛の精神は、曲解されているのではないでしょうか。かの聖人の云う愛とは無為無相無差別の愛であり、むやみやたらと家族を溺愛する事ではありません。そういう似非情愛を、禅思想では貧愛すなわち小極分離の執着と捉えます。しかしながら、凌辱と虐殺の人類史では家族を守らねばならない。それが間違っている訳ではありません。敵から家族を守るのは当然です。真理に従えば、多くの犠牲が生じる。そこに矛盾などありません。それを不条理などと定義付け様とする考え方に無理があります。

          *

 過日、からゆきさんに同情する八十九歳になるお婆ちゃんのお話をお聞きしました。シンガポールに駐在なさっていたご主人と、同地に何年も住んでいらしゃった教養のある女性です。未だに舞踏を教えているという気丈な方ですが、その話題になると涙ぐんでいらっしゃいました。海外の後進国に居住経験のある方々は…もし正しい見地に基づく良心があるとすれば…毎日哀しい想いをせねばなりません。そこで、僕自身が問題解決に奔走したより悲惨な事件を幾つか例を上げてお話ししました。涙を流す暇などなく、動き回って解決する他ありませんが、政財界のトップを動かす政治力が無ければ無理な話です。殆どのトラブルは、恥ずべき日本人の行為でした。その中には、日系上場企業の代表者までいます。出張者が巻き込まれた事件も百以上経験しましたが、軽率なミスばかりでなく卑劣な行為も多々ありました。

 経済大国と評される中国には、未だに約三百万人の奴隷が人身売買されており、子供の誘拐は年に十万人もいます。内状は、日々野蛮な行為が繰り返される戦地同様です。国家は豊かに観えます。が、その利益供与を受けるのは僅かな政府関係者と事業家のみ。他の一般市民は、極貧の中で日々生活の危機に瀕しています。日本の駐在員は、特権階級の様な暮らし振りで、本当の事は何も知らず、聞かず、話さず、現地人を馬鹿にするしか能がありません。これは、何十年もの間経験した確かな事実です。戦時中の野蛮な行為と何ら変わりがありません。勿論、中には立派な日本人もいます。が、恐らく三十人に一人という割合でしょう。そう云う方々には、跳び抜けて立派な人物が多い。それも確かな事実です。先の大戦で何が起きたか。日本軍の実体も概ね想像が付きます。現代も基本心理に違いはありません。海外では、日本人が未だに敵視されます。が、そこにはマスコミも大使館も駐在員も知り得ない実情があるのです。これは「海外駐在員」という作品で小説にしましたが、発表を躊躇う程に悲惨な物語です。恐らく現代人には理解出来ないであろうし、的外れな反感を買うという諦念もあり、二十年間寝かせながら校閲しております。が、いずれ出版する積もりです。それはさておき…話題を戻しましょう。

          *

 命の連鎖法則に基づけば、全ての現象に何らかの背景があります。マイナス事象にでさえ意味はある。あるマイナスはどこか別な側のプラスであるのが常です。食物連鎖という言葉の真意を捉えるのは、どんな怪談よりも恐ろしい想念です。

 スペインで闘牛を観た直後、ステーキが食べられませんでした。牛舎の子供達にも、同じ様に肉を食べられないという反応があるそうです。僕は河原で小鳥に米や麦などの餌をやる時に、回りを取り囲む鴉達にパンを与えます。鴉は、鳩や小鳥を襲うのです。餌を食べる時に隙が生じる小鳥達を食べ様とする鴉を満腹にして、か弱い命を守る為なのです。小鳥達が安心して餌を食べる光景を観るのは…特に冬場で食べ物も無い場合には…何よりも心安らぐひと時です。

 さて、これは愛でしょうか。


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@ 非論理エッセイ 【蹲踞の姿勢】

2025年04月13日 | 日記
 しゃがむ、うずくまる事を指す言葉です。お茶室で清め水の入った石鉢は、蹲踞(そんきょ)と書いて「つくばい」と読む。日本の藝道は先ず形を優先しますが、言葉の奥義にも茶道の精神が潜んでいます。

 「心戒上人は、生涯常に蹲踞したまふ」と法然上人の「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」にあります。他の記録にも「しゃがんだまま過ごした」と伝えられました。腰の低い偉人という褒め言葉です。が、それだけの事でしょうか。むしろ逆の意味ではなかろうか…。

 相撲力士の仕切り構えは、「蹲踞の姿勢」と云われる。しゃがめば立つ。謂わば、闘いに向かう気魂の充溢した瞬間です。敵意をむき出しにする様な凡俗の攻撃よりも、じっと蹲踞の構えを取る人物の方が恐ろしい。心を戒めると自ら名付ける様な心戒上人が、本当の意味で解脱していたでしょうか。法然という名にも執着を観ます。名は体を現わさないものです。とはいえ、御本人と面識が無いゆえ何とも云えません。個人的には、大愚という名の禅僧や、百丈、黄檗、臨済、普化などが善い名かと思います。執着の欠片すら無いからです。

 真相は藪の中ゆえ、ひとつの演繹推理として読み流して下さい。間違ったお伽噺が、その後の世界に大きな影響を及ぼし続ける。良いか悪いかかという観点ではなく、考え方による智慧、精神の在り方の問題です。僕は古い新しいを観ません。本ものとにせものがあるだけの事かと思いますが、いかがなものでしょうか。

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@ 非論理エッセイ 【パブかバ―か。語源の疑惑】

2025年04月13日 | 日記
 ロンドン郊外サルズベリーの街で、英国の友人と呑み歩いた夜の事です。英国のパブでは、皆立ったまま話すのが好きですが、その内疲れるので次の店まで運動がてら歩き、呑み潰れるまで酒を交わします。

「足元に長い棒がある。アメリカでは、パブと云わずバーと云う。その語源を知っているかい」
「足休めだから、バーは休息という意味じゃないかな」
「この長い棒の語源を聞いているんだ。先ず分かるまい」
 暫く考えて答えた。
「昔は、バーの外に馬を繋いでいた。それが語源だろう。要するに、客を馬と同等視したんだろうね」
「皆呑み潰れてしまうので、馬泥棒に盗まれて仕舞う。それで要らなくなったバーを足安めに使い始めたのさ」
               *

 様々な憶測が伝わっていますが、真相は藪の中です。馬を繋ぐバーが無くなれば客が来ないという推測も成り立ちますが、「列車の登場で馬を繋ぐ棒が要らなくなり、それからバーが出来た」という屁理屈もまことしやかに伝わっています。誰かが、思い付きで足安めの棒を置いたので、パブを「BAR」と呼んだのではないでしょうか。そもそもパブは「PUBLIC HOUSE」の略称です。普通の家に皆が集まり、「公の」と云う意味になったものです。言葉にしても歴史にしても「起源」ほどあてにならないものはありません。そもそも、そんな瑣末な事に意味を付けたがる現代人は、情報過多で精神に異常を来していると思いますが、作家にもそういう性癖があるので、それはさておき…。

 多くの伝説や語源は当てにならないものです。が、元々曖昧な情報に尾ひれを付ける事を人類は好む。なぜならば、辻褄を合わせて安心したがるからです。バーの語源を探求しても仕方ないと思われるむきもあるでしょう。が、僕はもう25年間考え続けています。他に語源が不明なのは雲古(ンコ)ですが、こちらの方は、別に知りたいという訳ではありません。

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@ 非論理エッセイ 【正しい批評】

2025年04月13日 | 日記
 「批評という行為は、人に石を投げておいて自分は安全な処に隠れる行為だ」という言葉があります。

 批評家は、殆どの藝術家から嫌われます。創造の過程を知らず、結果から推測する無責任な意見が多いという苦情が多々残されている。何でも傾向や流派や主義などに分別せざるを得ない客観性、論理性を求められるのが批評家の難しい立場です。多数の賛同を得ようとする立場から、どうしても論点が狭まる。世界観を拡げた反論は容易ですが、安易に否定するのは行き過ぎかも知れません。

 一例を挙げてみましょう。印象派と呼ばれる画家群は、優れた異なる作風の画家が同時期に排出したにもかかわらず、派閥の様に一まとめにされます。個々の画家が「自分は印象派ではない」と主張した記録がありますが、そもそも何々派とする論理に無理があります。そんな立場にいるのが批評家と云えます。しかしながら、良心的な批評家には基礎知識しかない子供達や学生、分野外の方々に概論を教える基本姿勢があります。基本概念を伝えたいという良心がなければ、自己矛盾を感じながらも本音を語るでしょう。しかしながら、誠実な批評家ほどその良心ゆえに表現方法が狭まるものです。

 東北311災害に付いて報道陣から多くの批判が出ました。攻撃の矛先は政治家や東電です。東電の醜態という表現には、報道システムの問題もあります。トップがうろたえるのは当然です。社員の皆さんは命がけで闘っているのです。それを理解して応援するのが、正しい見地と良識ある方々は承知しています。が、批判的な意見も出さねばならない。そういう辛い立場、相手の苦境や努力も知りながら、比較論理として攻撃する場合が多々あります。

 どんなに悲惨な事態にも拘わらず、自然は無常のことわりを示し、人の心に真理を伝えます。災害時には不埒な動きも出ますが、逆に小さな真心や良識ある方々の意外な善意に接するものです。悪い面ばかり見ればきりがありません。「報道の自由」という意味を取り違えない事が肝要です。多数意見に迎合せず、喩え少数でも正しい見地に立つ人々が歴史を支えて来ました。多くの政治家も、企業家も、予測し得ない困難と日々闘い続けています。そういう方々を応援するのが正しい見地ではないでしょうか。

 その裏面には、良識ある報道陣が口を閉ざせない歴史的因果があります。軍国主義という単純な一言で一緒くたに論じ得ない複雑な歴史がある。評論家や報道陣は、異なる立場で批判を続ける。政治家はじっと黙さざるを得ない。それが社会の均衡を保つ因力でもあります。表層の言葉は信頼に足りません。寧ろ誤解を生みます。立派な政治家や企業家の沈黙には、葉隠れ精神があるものです。


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@ 非論理エッセイ 【萩原朔太郎の言葉】

2025年04月13日 | 日記
「社交の秘訣とは、真実を語りなお相手を怒らせない技術である」

 特に難しくはありませんが、時と場合にもよります。
「実はね、あの子あんたの血筋じゃないの」
「知ってるよ。DNA鑑定したもの。山犬のDNAだった」

                *

 社交の秘訣とは、真実を知りながら知らない振りをする粋な諦念かも知れません。余り大きな声では云えませんが、殆どの人類の起源は…と、その先を云わないのが社交の秘訣なのであります。
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@ 非論理エッセイ 【詩的と云われない本当の詩】

2025年04月13日 | 日記
 フランスの詩人・ジャン・コクトーにこんな言葉があります。

「最大の大胆は単純だ。偉大な単純さを求めよ。藝術は真実を告げる嘘だ。画家は常に自画像を描く。君達は泣く振りをすれば良い。詩人は死んだ振りをするだけです」

 好意的に拡大解釈すれば、理解出来ない事もない表現です。しかし、藝術は本当に単純でしょうか。確かに、真の藝術家は主題を単純に表現する。しかし、言葉尻や似非論理で同調するにせものが余りにも多過ぎます。

 単純という藝術の真意は、生命体系や精神世界の循環構造、一即多の法則にあります。全体を識る者には単純表現が可能となる。そんな基本構造を無視して、まるで広告看板に書く様に「単純」「大胆」と連呼する方々が多過ぎる世の中と感じます。

 どなた様にせよ批評や批判に興味はありませんが、客観的にジャン・コクトー他近代フランスの詩風はかなり曖昧な表現と感じます。深層心理にこだわり真理からは程遠い。詩は陶酔や神秘体験の表現手段ではないし、麻薬などの幻覚から心裡の一現象を引き出しても、そんなものに価値があるでしょうか。我々の時代においては、いつわりの自由が高らかに謳歌されました。にせものが氾濫している。駄目なものを駄目と論証し出すと際限がありません。そんな暇があれば、一行のジョークでも書く方がましでしょうね。そもそも「詩」とは何を指すのか。そんな観点から、「詩的でないと云われる様な詩」に出逢うと感銘を受けます。


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@ 非論理エッセイ 【禁句と云われるであろう禁句】

2025年04月13日 | 日記
 かつて「原爆」や「戦争裁判」は映画や藝術に於いて禁句でした。が、「生きものの記録」の黒澤明、「東京裁判」の小林正樹などを受け継ぐ作家が今後出てくるでしょう。スタンリー・クレーマー監督の「ニュールンベルグ裁判」は、名作映画という以上に人類の誇りと云えます。

 神に付いて語るのは、現代でさえかなりの軋轢がある。しかしながら、「聖書」と「オディプス」を比較対象とする方々には、大きな勘違いがある。共通しているのは、共にベスト・セラーだという点位です。

 科学や数学の時間に方程式を教えながら、神の実体が語られる事はまれです。アインシュタインの様に「この宇宙には、何らかの意味がある」と考える知識人は少なくない。この世には方程式の様な法則が存在します。人間の喜怒哀楽なども、その中に含まれる。自然科学同様確として存在する事は、間違いありません。神という概念を生み出した動機でさえ、その大きな法則に呑み込まれる事でしょう。

 亡霊は存在するだろうか。人の心には何でも生じる。人間世界の此処かしこに虚構概念として幅を利かせています。幽霊の話は禁句とならない。亡くなった身内や友人の魂が蘇る事はある。が、どれも心に存在するのです。

 巨大な宇宙(マクロ)を思い浮かべ、顕微鏡の中で分裂と結合を繰り返す細胞(ミクロ)に生命体系の不思議を感じても、誰も文句は云わない。大自然の食物連鎖を、法則に基づいて語る事も可能ではあります。そちらの方が怪談などよりよほど残酷ですが、誰もその恐ろしさを語ろうとはせず、牛のステーキや魚料理を平らげます。神も亡霊も本当の恐怖の緩衝材と思えば、喧々諤々の論争は生じないかも知れません。要点は何かというと、禁句なのではっきりとは云い難いのですが、せいぜい余命三十年と先の短い作家が、ひと言真理を語ってみましょう。

 原爆など赦せない。どう屁理屈をこね様が、愚かな殺戮です。戦争裁判には公平と云う摂理が欠けている。神がこの世を創ったと云う表現は正しくない。神とは人間の生み出した概念であり、【裡に矛盾を含まぬ無欠無極の循環的総体因果律】を統(す)べる…目に観えぬ力に他ならない。人間には未だに正しい智性は無く、弱肉強食の動物である。そこに付けた理屈を智性と勘違いしている。真理は、道徳律の様なものではありません。国に拠って、宗派に拠って、人種に拠って、貧富の差に拠って異なる道徳など、皆まがいものなのです。

 と、【禁句】を語るのは気分が良い。突然後ろから撃たれるかも知れません。さて、どうなる事やら…。唯ひとつ確かなのは、死んだ後亡霊となって現われても誰も文句は云わないであろう事です。何故ならば、亡霊は禁句とならない。実に不思議な現象です。

 怪獣も同様。皆さん、ご存知ですか。ゴジラは、原爆批判から生まれた映画なのです。亡き父の畏友である映画プロデューサー田中友幸氏は、禁句を実に見事な形で表現しました。「ゴジラ」が原爆を投下した米国で製作された事を知ったら、さぞかし感無量であったに違いありません。


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@ 非論理エッセイ 【笑える宗教】

2025年02月02日 | 日記
 ウンベルト・エーコに「薔薇の名前」という言語学風宗教的怪奇サスペンス推理小説があります。その物語の中に「神が笑いを禁じた筈がない」という主旨の言葉がある。もっともだと安易にうなずかれても困ります。何故ならば、教会も、仏殿も、祈祷所も、企業も、学校も、軍隊も、牢獄も笑いを不謹慎だとして締め出し続けた長い歴史と、今に残る悪習があるからです。

 確かに、宗教に可笑し味がないのは変です。人生には苦もあるでしょう。しかしながら、究極の苦悩から悟りが生じる。悟りには歓びがある。宗教の中には、笑いを勧めた例外もあります。中国本禅の系統、達磨、慧能、百丈、黄檗、大愚、臨済、普化、慧念の伝説には、深遠な葉隠れ精神に基づく禅問答を繰り返しながら、けらけらと笑う場面が多い。日本でも、沢庵、白隠、良寛の様な本ものは冗談ばかり云います。

 三船敏郎主演の映画「宮本武蔵」で、名優中村九郎衛門が演じた沢庵和尚の洒脱な人物像は見事でした。創作とはいえ、日本の伝統である武士道や葉隠れ精神、悟りの正しい姿が描かれています。米国のアカデミー名誉賞(最優秀外国映画賞)を受けてから、戦後日本人を見る世界の視線ががらっと変わったと聞きます。黒沢映画の「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」「赤ひげ」にも優れた武士道の表現があります。全く可笑し味のない名作は少ない。それが、本ものと贋ものを見極めるコツかも知れません。音楽にも、絵画にも、映画にも、藝道にも似た様な観点があります。

 子供の頃、臨済録を読んで笑い転げた思い出があります。あれ程おかしい滑稽本はない。同時に、史上最高の禅書とも云えます。人類の生んだ名著の窮みでしょう。思考が柔軟な子供達に読ませたいものです。学校に行きたくない。宿題などしたくない。授業中に笑うと叱られる。罰則は嫌だ。恥ばかりかかされる。反動的に今や核家族と揶揄された結果、TV番組のCM、皮相的なタレント風の笑い、幻覚癖に侵される。これが健全な現代っ子の平均的な環境です。その分母には、儒教的教育制度がある。欧米人から見ると、学校で道徳を教える方式が不思議な光景と映る様ですが、教会で道徳を教えるのも同じ事です。教育の基盤に「孔子」を置くよりは「老子」や「臨済録」を読ませたい。

 道徳は、本来教わるものではありません。幼少時から親が躾け、自分自身で選択しながら自覚を積み重ねる。押し付けられた道徳はいずれ化けの皮が剥がされ、教条的な視線からしか人生を見なくなるものです。回りを見渡すと、そんな方々ばかり。

 臨済録を含む禅の名著を読むと、子供達の心構えが変わります。先祖代々の宗教や学校道徳の概念ではなく、心の裡から自由な生きた想念が芽生える事でしょう。


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@ 非論理エッセイ 【白隠禅師と隻手の音声】

2025年02月02日 | 日記

 冬竹や   光も陰もあやもなく 
 雨の調べが 降りそそぐ

 巷に広がる詩や俳句の概念は、人惑でどろどろに塗り固められています。本当の詩や俳句は、言葉の背後にある想念を表現する行為です。藝術か如何かと云う観点にも、何ら意味がありません。何故か…【藝術】という言葉の正しい想念は、レベルの高い芸術家ほど無処無住で捉えているからです。詰まり…形式などまやかしの常識に過ぎず、藝術には留まる処が無いのです。

 良く短歌の基本型として「5・7・5・7・7」と云う事を云いますが、本当でしょうか…。実際には【溜め】と【間】があるので、【8・8・8・8・8・】。8x5音律であり、シェクスピアの5韻律と似ている。下記の【*】を一つずつ数えると、8拍子である事がお分かり頂けるかと思います。

 ふゆたけや*** ひかりもかげも*  
 あやもなく*** 
 *あめのしらべが ふりそぞぐ***

 それもともかく…お遊びの俳句をひとつ。

 冬竹や 雨振りそそぐ 鐘の音

 第一節は【静】、第二節は【動】 第三節は【ものや具象を離れた想念】。初学の方々は、この様に書くと俳句らしく観えます。

                   *

 白隠禅師の公案に「隻手の音声」があります。論理的には、片手で出す音を聞けという矛盾した問い掛けです。物質的に不合理だと考える限り、答えは無い様に思えます。観点を変えて、アインシュタイン博士の論理を適用してみましょう。「常識を疑う」「前提を外す」「同じ類の現象として同属化する」。それ程難しい思考法ではありません。

 「隻手の音声」の音とは、空気を伝わる常識的な波動音でしょうか。「片手の音」に物理的な前提はあるでしょうか。「片手」と「音」は異なる存在概念でしょうか。常識、前提、差別化を放下すると実体が観えて来ます。
 一例を示して見ましょう。

「隻手の音声」とは音そのものではない。聞くのではなく智慧の力で直観する。直観する自分自身も居ない。心で観ると云うその心も消える。色も音も形もない。その彼岸に隻手の音声が鳴り響いている。要するに、隻手も音も捨て去れば無為自然の存在概念が現われる。

 チンプンカンプンだと良く云われます。だからこそ、詩や禅思想は面白いのです。

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@ 非論理エッセイ 【ウィンストン・チャーチルの言葉】

2025年02月02日 | 日記


 偉大な政治家となる条件は二つ。

 ひとつは、先を読みながら最善の解決策を見出す事。だが、二つ目が更に重要な素質だ。

 良い選択肢が見付からない場合に、うまい云い訳を思い付く能力である。



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♪ スクリューボール・ジョーク 【唯一人の生存者】

2024年08月11日 | 日記
「ロープが細くて切れそうだ。十一人をささえきれない。誰か一人とび降りろ」
「下は流氷の流れる凍て付いた荒海だ。その上、鮫がうようよしている」

 ヘリコプターの海兵隊員がロープを引き上げ様とすると、細縄は今にも切れそうだった。
「女性は私一人ね。それなら私が飛び降りて犠牲になります。私達女性は…、夫と子供達の為に何もかもを奉げ、何ひとつ見返りを望みません」

 十人の男達は、その感動的な名演説に…思わず拍手してしまったと伝えられる。



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♪ スクリューボール・ジョーク 【LAPDの捜査方法】

2024年06月09日 | 日記

 CIA(中央情報局)、FBI(連邦捜査局)、LAPD(ロサンジェルス市警察)の競技会が海辺で開かれた。
「海の中からウサギを捕まえた組織が勝者だ」

 CIA特別捜査官が云った。
「海の中に…ウサギがいるものか。CIAは、論理的根拠が無ければ動かん」
 FBIの古顔は、別な立場から見解を述べた。
「我々は大事件専門だし、理屈にも合わん。LAPDの捜査領域なので辞退する」

 顔に古傷のあるロサンジェルス市警の警部補は、葉巻をくわえたまま海に入ると亀を掴まえて審査員の前に放り出した。審査員席は騒然となり、苦情の嵐に包まれた。
「これは、亀じゃないか。ウサギを捕まえろと云った筈だ」
 甲羅を無惨に割られ顔に殴打された傷跡のある亀が、声高に主張した。

「白状します。私は、ウサギです」

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