五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

やっぱり頼りはイエス様?

2005-05-29 10:10:42 | 法話みたいなもの
今回は毎度お馴染み「玄奘さん」シリーズから脱線しまして、先日発生した
青森の「王子様(ご主人様)」事件について考えてみたいと思います。

■青森の「王子様(ご主人様)」の毒牙にかかって監禁された少女が、悪夢から醒めたのはキリスト教の教会の中だった!


……被害少女が監禁されていた東京都足立区のマンションから命からがら逃げ出し、たどり着いたのは、事件現場から約60㌔離れた千葉県内のある教会だった。……
千葉県木更津市のカトリック木更津教会。昨年6月20日の日曜日、午後1時半からのミサが始まってしばらくした時、現れた少女は静かに長いすに腰掛けた。マリア像の前でじっと頭をたれたまま動かない。……約1時間のミサが終わり、少女に話しかけていた女性が訴えた。「神父さん助けてあげて」。……気持ちを落ち着かせるための水と暖かい毛布を与えられ、少女は話し始めた。木更津駅から海に向って歩いていて、あとわずかのところで教会から音楽が聞こえてきた。信徒の人たちが聖歌の曲を奏でていた。それにひかれて訪ねた。………………2005年5月15日(日)朝日新聞より


「ミサ」や「聖歌」が出て来るので、朝日新聞の記者も何やら厳かな書き方をしていますなあ。聖書の一節でも思い浮かべて書いたのでしょうか?兵庫県から東京都渋谷区のホテルに呼びつけられた少女が、もともとカトリック信者であったなら、感動的な信仰と救済の物語ですが、足立区のカトリック教会には逃げ込まずに弁当屋さんの裏口に飛び込んだ後は、東武鉄道の浅草駅附近の漫画喫茶で夜を過ごしているので、彼女はクリスチャンではないような気がします。以下の駄文は、その前提で書きますが、後で彼女が元々熱心なクリスチャンで、あの時は放心状態で何も考えられなかったというような話が有れば、少し論旨がズレるかも知れません。

■結論を先に出しておくと、「日本は仏教国ではない」という事です。足立区にも夥(おびただ)しい数の仏教寺院が有るでしょうし、仏教系の新興宗教団体の施設も掃いて捨てるほど(失礼しました)、要するに沢山有るでしょう。恐ろしい監禁生活の中で、「警察に言ったら殺すぞ」と肉体に刻み込まれた洗脳メッセージが、彼女を交番の中に入れない呪縛(じゅばく)となっていた事は、木更津の教会での会話からも分かります。心の救済を目的とする大乗仏教の僧侶は、足立区にも、彼女が木更津の海岸に到達するまでに通過した場所にも無かったのは事実でしょう。恐怖と絶望で混乱する頭には、電車の窓から見える風景は歪んだモノクロ写真のような物だったかも知れない。その中には、十字架を載せた尖った屋根の教会も有ったでしょうし、窮屈な土地に墓石や卒塔婆を並べた仏教の寺も有ったはずです。しかし、彼女は途中下車せずに木更津まで行ってしまったのです。

■家族や親しい友人にも語りようが無い体験を背負って、見知らぬ町の海岸に向って歩く少女の姿を想像するのは、ひどく悲しく不愉快です。兵庫県で馴染んだ瀬戸内海と同じように、東京湾は波が穏やかで、海はどこまでも続いて帰るに帰れない懐かしい海にも繋がっています。彼女は大昔から日本人が崇(あが)めた「海神(わだつみ)」に会おうとしたのかも知れない、などと想像するのも寒々とした思いに襲われるばかりです。彼女はカトリック信者のネットワークの中に逃げ込んで、信徒の家に一泊した後に千葉県内の福祉施設に保護されたそうです。福祉施設は法が定める「最低限度の文化的生活」を保障するだけの場所ですから、「救済」の場所ではありません。たった一人で背負わねばならない傷を癒す場所が、日本には無いという現実が、この痛ましい事件の報道で浮き彫りになってしまいましたなあ。

■ほとんどの日本人は江戸幕府の反キリシタン政策によって定着した仏教各宗派の「檀家制度」の網の中にいることになっています。これが日本仏教を決定的に変質させて「葬式仏教」と呼ばれる冠婚葬祭産業の一部門を担う個人経営の企業にしてしまったと言われる元凶です。地域のコミュニティが衰退して崩壊した後、お寺はサービス業の一形態となってしまったようです。木更津まで電車に揺られていた彼女の目に映った沢山のお寺は、見ず知らずのお坊さんが守っている「家庭」でしかなかったのではないでしょうか?核家族化が進んで、それぞれの家庭内で人の死を体験することも無くなり、それに従って、お坊さんと接する機会も無くなってしまいましたから、彼女の家庭が先祖供養で世話になっているお寺さんは、墓参りと法事の時に足を向ける疎遠な場所でしかないでしょう。その習慣さえも無くなっているのですから、恐ろしい災厄に襲われた時に、馴染みの住職さんの顔を思い浮かべる日本人は皆無に近いのではないでしょうか?

■「菩薩の道」を目指して誕生した大乗仏教運動は、文化的な活動や社会救済運動を盛り上げた歴史が有ります。しかし、江戸幕府の天下泰平政策は仏教を完全に骨抜きにしてしまいました。とても恐ろしい空想ですが、木更津のカトリック教会に逃げ込んだ少女を心配して、彼女が檀家となっているお寺の住職さんが駆けつけることは無いかわりに、不幸にも入水自殺をしてしまったら、悲しい知らせを受けた遺族が彼女の遺体を受け取って、兵庫県の家に運んだ後に、住職さんが初めて彼女と対面するのではないでしょうか?

■もともと仏教は、悩みながら生きている人間に語りかける教えでした。今でも、それは変わりません。こんな悲しい空想をしたことも有りました。阪神大震災や中越地震で生活を破壊されて、学校の体育館や公民館に避難して心身ともに衰弱している人々の中に、もしも袈裟を着けたお坊様達の姿が有ったらどうでしょう?「縁起でもない!」と怒鳴り声が上がったりしないでしょうか?罰当たりにもお坊様の袈裟を鷲づかみにして追い出す人はいないでしょうか?「塩を撒け!塩だあ!」と真っ赤になって怒る人はいないでしょうか?それが仏教国の姿でないことは、スマトラ沖の大津波で沢山の犠牲者が出た時に証明されました。インドで活動しているチベット仏教系のお坊さん達が、すぐに仏教国のスリランカに渡って救援活動に当たったのです。被災した人々は、皆、手を合わせてお坊様達の徳を称(たた)えたようです。生きる元気を失った人々を慰め、御布施や寄付を遣って救援活動をするのは「菩薩行」そのものですから、信者さん達は御経に書かれている菩薩の姿を現実に目にして手を合わせるのです。

■日本では、「菩薩行」さえも受け付けないことになります。お坊様達は、死者が出て葬儀の日程が決るまで、葬儀屋さんからの電話をただ待っていることしか許されないとしたら、日本は仏教国でもないし、仏教文化がまったく根付いていない国ということになります。今回の詐欺・逮捕・監禁・暴行・詐病事件の犯人とされる青森県の「王子様」にしても、地元の資産家で名士と言われる父親の子供ですから、おそらく有力な仏教寺院の檀家になっていたのではないでしょうか?家庭でも、学校でも、病院でも、警察でも、裁判所でも救われない檀家の息子を寺に呼ぶことは無かったのでしょう。呼んだところで、話して聞かせる法話も無かったのかも知れませんなあ。

■オウム真理教の地下鉄サリン事件から10年です。日本は釈尊の教えが完全に滅んで邪教が流行する「末法」の世になっているのかも知れませんなあ。釈尊が語った事と龍樹菩薩が解明した大乗の源流を少しでも知りたいと念じているだけの浅学菲才で業(ごう)が深くて愚かな悪事ばかりしている者の愚痴でしかないでしょうが、日本仏教は江戸時代を通じて、「言葉」を失ったのだと思います。文明開化の大変化の時代を通り抜ける時に、外来のキリスト教文明と勃興して来た国学思想に対抗しようとした仏教徒や御坊様もいらっしゃったのですが、大勢は時代の荒波の中に呑み込まれて、残念ながら消極的な生き残り策だけを考えて過ごして来たように思えます。カトリック教会は悩める人々に門を開いていたからこそ、この少女は飛び込めましたが、多くの仏教寺院の門は苦悩する人々に門戸を開いているのでしょうか?

■この世には「苦」が満ちている。という釈尊の教えが、少しでも少女の心を癒すことを願いながら、青森県の「王子様(ご主人様)」も地獄から救われることを祈るしかございません。合掌
------------------------------------

玄奘さんの御仕事特集 目次

■こちらのブログもよろしく

旅限無(りょげむ) 本店。時事・書想・映画・日記
雲来末・風来末(うんらいまつふうらいまつ) テツガク的旅行記
--------------------------------------

最新の画像もっと見る