五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

ポール牧さんの自殺 其の参

2005-06-19 10:22:16 | 法話みたいなもの
其の弐の続き。

■ポール牧さんがマンションから飛び降りてしまった事件が起きた一月後の5月20日に、九州の名刹が焼け落ちる「事件」が起きました。すぐに放火事件であることが判明したのですが、犯人は26歳の修行僧だったので、ニュースを知った人の中には、三島由紀夫『金閣寺』と重なるイメージを持った人もいたようです。まあ、金閣寺全焼に至った現実の放火事件も、「滅びることで永遠の美を獲得する」ための放火ではなかったらしく、噂では、沢山の観光客の中に混じっているオテテツナイデいちゃいちゃしている恋人達に嫉妬した若い僧侶が、還俗を考えずに自分を縛り付けている寺自体を消滅さえようとしたらしい。

■今回の旧福岡藩主だった黒田家の菩提寺・崇福寺さんに火を放ったのも、「日頃の不満が募って火を点けた」ようです。犯人は、11人の修行を指導する役を担っていたとのことで、夜の座禅の時間にアリバイ工作して、簡単な自動発火装置を作って犯行におよんだ事件でした。犯人の修行僧が京都市内の寺から2年ほど前に移って来たという事ですから、京都という地名は『金閣寺』と関連するかも知れません。京都は日本が誇る観光都市として定着しているのですが、その観光の目玉が沢山の有名寺院であることを、当然のように認めている日本人には問題が無いのでしょうか?

■御寺の境内に入る時に要求される金銭は、「拝観料」という名目になっていますなあ。ホトケを「拝む」のにもお金が必要なのか?と問われたらどうするのでしょう?伽藍の修繕や維持に必要な費用を負担して欲しいのならば、「寄付金」や「協賛金」と呼ぶべきなのですが、これではきっと誰も払わないのでしょう。まして「お布施」などと言われたら、「檀家じゃない!」と強弁して大手を振ってタダ見をする不心得者もたくさん出てきそうですなあ。ホトケのイメージと、教えを授けて頂いたお礼にお金や品物を捧げるのは普通の習慣でしたが、いつの間にか、観光寺院はサービス業の施設になってしまいました。

■チベットでも、「解放」後に全ての出家者が「人民」「労働者」と規定されて、小平さんの改革開放政策が始まると、伝統的な寺院も「独立採算制」を求められて、已む無く観光寺に変身した所が有ります。チベット人信者は、遠くから五体投地しながら寺にやって来るのが伝統で、最近ではバスや自動車を利用する人々も増えましたが、どちらにしても、彼らは「観光」に来るのではなく「巡礼」に来るので、境内入り口に突然設置された「入場料」徴収所の前を素通りしますし、御堂ごとに立っているモギリ役のお坊さんを無視したり、睨みつけたりするようです。尊敬すべき出家者ではあっても、「金払え」と露骨に要求するのは許せないと、食って掛かっているチベット人を見たことも有ります。

■観光業・墓地経営・幼稚園経営……仏教はどこまで変質して行くのやら、いつまで日本はぼんやりと仏教国らしいと自認していられるのやら。そんな気分になっている時に、新聞の小さな記事で痛快な話を読みましたぞ!舞台は仏教国のタイ。


 31日のミスユニバース世界大会を前に、参加者らが仏教寺院の近くでビキニ姿の撮影界をしたところ、政府や仏教界が「不謹慎だ」と激怒、大会組織委員会はこの映像を使わないことを約束した。
 大会当日に上映するビデオの収録のため、チャオプラヤ川の船上で実施、ビキニ姿の美女らがワット・アルン(暁の寺)などを背景にポーズを取った。
 政府は「水着ならほかの場所で撮影すべきだ」と非難し、仏教界も「文化や道徳を無視している」とカンカンだ。担当の政府官公庁は「ビキニ姿とは聞いていなかった」と釈明している。
2005年5月31日 朝日新聞より


■何とも微笑ましくも、元気付けられる話ですなあ。こういう記事を読んで、「表現の自由」だの「女性蔑視」を主張したい人達は、ちょっと想像してみて欲しいのです。葬式仏教だけは何とか生き残っている日本に当て嵌めるならば、あなたの近親者が亡くなったとして、その弔いの儀式をシメヤカニ執り行っている葬儀場や御寺をバックにしてビキニやら真っ裸の写真撮影会を催されたら、喜びますかな?あるいは、偶にはお参りに行くあなたの一族を弔っている墓石にビキニ娘さんが乗っかって、ややこしいポーズを取っていたら、どうでしょう?上座部仏教が活きているタイでの寺院をバックにしたビキニ撮影会から信者達が受ける衝撃は、こうした不埒な行為よりも強いものなのです。

■仏教も男性宗教として誕生したので、女性蔑視としか思えない比喩や表現が用いられる場合が有ります。釈尊を誘惑する悪魔の使いは、美しい女性の姿だったとされていますし、修行の場に張られた結界の中には、特に女性だけを締め出しているものも有ります。日本の高野山が長い間「女人禁制」だったのは有名ですが、修行の場に、魅力的な女性が姿を見せると、厳しい戒律を守る心が動揺することを心配しての措置だと考えると、女性蔑視どころか、女性崇拝に通じる思想のようにも思えます。チベットの学問寺では、特定の祭り期間以外は、女人禁制ですし、特例として境内に入ることが認められる時にも、不必要にお坊様達に声をかけるのは遠慮しなければなりません。

■やはり、日本仏教を再点検するには、戒律に関する復習が必要なようですなあ。時期を見て、とても面白いエピソード満載の戒律書を下敷きにして、原始仏教の姿を調べてみようと思います。ポール牧さんの事件は、いろいろ考えさせてくれる機会となりましたが、とても悲しい事件でありました。
改めて、ご冥福をお祈りします。合掌

おしまい。

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3 コメント

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Unknown (土岐正造)
2005-06-21 09:37:23
鑑真和上がなぜ日本に来たのか、歴史教科書で詳しく説明しないためか、あんまりわかっていないですね。戒壇の為なんですが、日本では肉食妻帯まで解放してしまいましたし。



明治以後は、政府によって戒律が開放され、それに対して「宗教弾圧だ!」の声が上がらなかったのが、実に日本的だと思いますね。もっとも、京都の古いお寺さんはだいたいが飯縄や管狐など現世利益の裏の顔を持っていますから、それも当然なのでしょうが。
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土岐正造さんへ (旅限無)
2005-07-10 19:55:45
日本の仏教を考えると、どうしても戒律が問題になってしまいます。戒・定・慧の順番は伊達じゃない!とチベットのお坊さんが怒ります。過去も未来も存在しない時間、実は現在も存在しないから時間さえも幻だ、と分析できるのは言葉の力で、しかし、その言葉は「戯論」なのだと気が付かないとダメらしいのですが、ついつい、明日の約束やら去年の後悔などが頭に浮かんでしまうのですなあ。時間を切り裂いて生きるには、戒律に依拠して死が訪れるまで修行するのみ、戒律がなければ全てが幻になってしまうのだそうです。困りましたなあ。
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ポール牧 (まじへん)
2007-10-25 14:05:11
芸人と言いつつ、猿回しの猿のように芸をさせられ、
僧侶とはいえ、先人の言葉に従う。
悲しくも失われた人生を転落で締めくくる

「20世紀の」などと大上段に振りかぶられると、ときに弱い人は虚飾に走り、転落が見えなくなってしまう。
それを「知りたいのはソコやねん!」というブログで見ると悲しい世界であることがひしひしと伝わってきて堪りません。.
それらは五蘊といわれるものでしょう。
今も戦争をやっています。
諸条件の結果、避けられない現状、と五蘊を否定するようであって肯定している自己矛盾。
 その原因がいまだに見えないから修行をしている。
でも本当は簡単なことで、

「自他の別はない」という教えによって自他を別っするような前後矛盾を取り去れば良いだけのこと
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