東京新聞・中日新聞 <自著を語る>「苦難が鍛えたカリスマ」(10月24日)

2008年11月23日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
「嬉遊曲、鳴りやまず」で、小澤征爾の師斉藤秀雄の生涯を描いたあと、私は朝比奈隆を書きたいと考えるようになった。二人は同時代の指揮者だったが、その人柄、指揮法など、すべてが対極にあった。

こうして私は1998年から二年半あまり、朝比奈にインタビューを重ね、リハーサルに同行した。親類や関係者ら80人余名の協力も得た。

朝比奈は関西風にいうと、「ええ格好しい」のところがあり、語り口は豪快洒脱である。しかし、その生涯は出自から複雑で、病気がちな少年時代は孤独だった。そんな彼の心を唯一癒したのが音楽であり、朝比奈は「音楽は孤独から生まれる」と言ったこともある。

京都帝国大学出のエリートが、困難な音楽家の道を選んだのはなぜか。朝比奈の生涯に私は「四つの試練」を見たのだが、人生とは必然と符号に満ちているものである。

複雑な出自、戦時中の満州では甘粕大尉に重用されたが、終戦と同時に逃亡生活を余儀なくされ引き揚げを経験。大阪の焼け野原で関西交響楽団を結成するが、NHKとの確執から資金繰りに苦しんだ。晩年には、大阪フィルに音楽大学卒の若い楽員が入団してきて、朝比奈の独裁に対抗して組合を結成した。-それらの試練がすべて朝比奈を鍛えたのだ。

朝比奈には「よきにはからえ」と楽員たちが名づけた不思議な指揮法があった。それは典型的なアンチ斉藤メソッドであり、彼にとって指揮とは技術でなかった。

朝比奈は大阪フィルを「自分のオーケストラ」と終生豪語しつづけた。93歳で亡くなったカリスマの最後の言葉は、「引退するには早すぎる」。54年間一つの楽団の長をつとめた例は、世界の音楽史にも類をみないのである。