梶井基次郎の不遇な死
1932年3月24日、梶井基次郎は第三高等学校時代以来の持病だった肺結核のため、大阪府住吉区の自宅で母に看取られながら31歳の生涯を終えた。1901年に大阪に生まれた梶井は、東大英文科在学中の25年に同人雑誌『青空』を創刊。この年に『檸檬』など青春の虚無と退廃の詩情を繊細な文体で綴った秀作を続々と発表したが、文壇からは黙殺された。結核のために大学も中退し、その後も不遇な時期が続いた。大阪での療養生活を描いた『のんきな患者』でようやく文壇も認めるところとなったが、皮肉にもこれが絶筆となった。彼の書き残した作品は、いずれも短編あるいは散文詩ふうのもので、量も多くはない。しかし、鋭い感受性と的確で豊かな詩情の混じり合った美しい表現は、死後ますます高く評価されて、35年には『梶井基次郎全集』3巻が刊行されている。
今日(京)ことば
がとこ・・・・・・~ほど。 「きゅうり5本がとこおくれやす。」
1932年3月24日、梶井基次郎は第三高等学校時代以来の持病だった肺結核のため、大阪府住吉区の自宅で母に看取られながら31歳の生涯を終えた。1901年に大阪に生まれた梶井は、東大英文科在学中の25年に同人雑誌『青空』を創刊。この年に『檸檬』など青春の虚無と退廃の詩情を繊細な文体で綴った秀作を続々と発表したが、文壇からは黙殺された。結核のために大学も中退し、その後も不遇な時期が続いた。大阪での療養生活を描いた『のんきな患者』でようやく文壇も認めるところとなったが、皮肉にもこれが絶筆となった。彼の書き残した作品は、いずれも短編あるいは散文詩ふうのもので、量も多くはない。しかし、鋭い感受性と的確で豊かな詩情の混じり合った美しい表現は、死後ますます高く評価されて、35年には『梶井基次郎全集』3巻が刊行されている。
今日(京)ことば
がとこ・・・・・・~ほど。 「きゅうり5本がとこおくれやす。」