中国残留孤児初来日
太平洋戦争終了時、満州(現在の中国東北地区)には約150万の日本人が居住していたが、敗戦による引き揚げの過程で死亡、行方不明となった人々も多く、数万人に上る孤児が生じたといわれる。日本政府は、その孤児のうち、両親が日本人であって、日ソ開戦が直接の原因で両親が死亡または生き別れとなった当時12歳以下の者を「中国残留孤児」と定義している。その中国残留孤児が、1981年3月2日、肉親探しのために初来日。東京・代々木の青少年総合センターで47人の対面調査が始められた。涙と歓喜のなか、30数年ぶりに肉親と抱き合う姿や、家族が見つけられずに悲嘆にくれる姿がTVに映し出され、戦争の傷跡を思い出させた。
今日(京)ことば
おぞよ・・・・・種々の安っぽいおそうざい。少し上等なものが“おばんざい” 「今日はおぞよもんなと食べといてんか。」
太平洋戦争終了時、満州(現在の中国東北地区)には約150万の日本人が居住していたが、敗戦による引き揚げの過程で死亡、行方不明となった人々も多く、数万人に上る孤児が生じたといわれる。日本政府は、その孤児のうち、両親が日本人であって、日ソ開戦が直接の原因で両親が死亡または生き別れとなった当時12歳以下の者を「中国残留孤児」と定義している。その中国残留孤児が、1981年3月2日、肉親探しのために初来日。東京・代々木の青少年総合センターで47人の対面調査が始められた。涙と歓喜のなか、30数年ぶりに肉親と抱き合う姿や、家族が見つけられずに悲嘆にくれる姿がTVに映し出され、戦争の傷跡を思い出させた。
今日(京)ことば
おぞよ・・・・・種々の安っぽいおそうざい。少し上等なものが“おばんざい” 「今日はおぞよもんなと食べといてんか。」