それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

斗争記―個人総括(6)(1987年6月25日)

2017-01-22 04:25:46 | 斗争記―個人総括

永山則夫元支援者の武田和夫さんが、永山から追放された後、発行された『沈黙の声』という会報を冊子にまとめたものです。どうして追放されたかは、武田和夫著【死者はまた闘う】(明石書店)を読まれてください。この『斗争記―個人総括』と合わせて読むと感慨深いと思います。

この冊子中には、『N(永山)裁判闘争記』という記事が収録されて…いたのですが…途中から『斗争記―個人総括』に名前が変わりました。


斗争記―個人総括(6)

 五

永山則夫との決別 

82年11月25日の面会後、私は「個別・永山則夫」との共闘を解消した。

具体的には、そのあと、当時の永山の妻Kとの電話の内容をKから聞いた永山が、「追放処分」を下してきた事によった。

後日、永山らのパンフで、この電話の内容をKがかなり主観的に伝えていたらしい事が分ったが。私はこの時、Kに「彼は自分のために闘っていただけじゃないか」と言ったのである。 

その前約2ヵ月もの間、私は「三億円事件の権力謀略」の問題をめぐって永山と全く非生産的なやりとりを続けていた。「三億円事件」は69年12月10日―「連続射殺事件」の過程で、権力が永山則夫を「犯人」と知りつつ泳がせていた事が判明する「静岡事件」から3週間後に発生した。

当時の新聞資料を調査して、「連続射殺事件」犯人を静岡で逮捕する構えをみせ、「取り逃がし」後犯人像を変更して「犯人かくし」を行なった捜査当局側の実態を浮き彫りにし、一審での静岡事件糾明要求に合理的根拠を与えたのは私自身である。

そして「三億円事件」についても権力謀略の疑いが大きい事の合理的根拠を示しえたのも私である。「三億円事件」が権力謀略の疑いがある以上、静岡での「取り逃がし」まで新聞で大キャンペーンを行なっていた「連続射殺事件」から世論をそらせる為という事は充分考えられた。処が永山はそれには「三億円事件」の準備開始は「静岡事件」発生の11月18日以降でなくてはならない、という前提から逆に、事実を見ようとした。

翌年4月に団地で発見された、三億円を運んだ力ローラにかかっていたシートは、「’69年9月盗難」のものと発表されていた。永山は、実際に使われたのは9月盗難とは別物で、それを「’69年9月盗難のもの」としたのは「権力の工作」だと主張したが、永山がシートは車の付属品だと思い込んでいたり、「シート」には特徴のあるキズや結び方があった事が判るなど、やりとりを進めれば進めるほど永山の主張にはムリが生じてきた。

私は、権力ならば、当時多摩地域で他にもかなりあったシート等の盗難物を予め把握できるし、「三億円事件」の計画自体、「静岡事件」以前から検討されていたものを使ったという事も考えられるのだから、「シート」が静岡事件以前の盗難物としても無理にそれを「権力の工作」という必要はないのだと言ったのである。 

処が永山は、威丈高に私を「言い負かそう」という対応をとり始めた。「バカ」という言葉を多用し、驚いたことに、私の文に自分で都合のいい文章をくっつけて論難する、という無茶をやり出したのである。 

とうとう永山は、「中間報告」と課して、コピー用箋77枚にわたる批判文を書いてよこし、私に 「大きな自己批判」を求めた。

その内容は、三億円犯人(白バイ警官)が「片手運転の高度な技術を身につけていたから、白バイの訓練をうけた警察庁・警視庁最高幹部に側近としてつながる現職警官乙だと断定(その後、獄中の二人の仲間から、〝500c.c.にバイクの片手運転は私でもできる〟ときかされた。事件当時「犯人警官説」として問題になったのは片手運転ではなく、〝片手を水平にあげて車を止める正確な指示を行なった〟点てある。これは背後に権力がついていれば、警官でなくとも教えられれば出来るはずだ)し、あるいは、 「三億円事件に使用のシートは2件中1件が車よりシートをあとから盗っているので、〝計画的にやるならシートを予め盗るほうがふつうだ〟という武田の主張は誤り」(後日、これは〝6件中5件〟に増えた。

処がこの6件は静岡事件の一年九ヵ月近く前からの盗難品を含み、「全て静岡事件以降」という永山の前提そのものが破産しているのである)と主張するなど、およそ「科学的思考」を云々する者のものではなかった。私はこれらの一つ一つの誤りを完全に指摘すると共に、この永山の主観に武田を従わせようとするなら「運動を離れるしかない」旨を書き送った。その後、11月25日の面会となったのである。 

この経過は明らかに、私を自分に「全面服従させるか、追い出すか」というものであった。この期におよんで永山が何故こういう対応をとってきたか、私にははっきりしている。

一審での「永山裁判闘争」は、運動(武田)が永山と完全に方針一致し、弁護団をその方向に説得しつつすすめられた。処が二審開始前、米国よりKが永山の妻として来日して以降、永山と支援の間にKがわって入る形となった。二審は当初から裁判所側か、〝配慮ある〟事を暗示し、静岡事件を法廷で追及しない。〝取り引き〟を求めてきたものであった。

これに弁護団が、〝獄中結婚〟を前面に出す〝情状裁判〟として応じた。「沈黙の声」18号「闘争記」(2)で述べたように、武田は〝取り引き〟自体に反対ではなかった。

ところがKと弁護団は、運動(武田)を、ことさら過激な方針をとろうとする者として〝排除〟する姿勢を示した。

永山にとって、「K・弁護団か、武田か」という図式が出来上ったのである。そして永山は前者を選んだのだ。これは勿論、永山の主観にとっては「妥協か非妥協か」という単純なものではない。前者が、永山個人の意にかなう存在であり、武田は思想的に後退しつつあり、改造の必要な人間、として映ったのであろう。

然し同時に、K・弁護団の〝闘わない方針〟に対して武田が〝歯止め〟として存在している、という認識が永山にあった事も否めない。

私が、永山の対応を、「武装解除し、武田を権力に売って〝取り引き〟を求めるもの」と指摘したのは、客観的に正しかった。

永山は「K・弁護団」を選んだ。

そして武田を「スパイ」と中傷し、闘えなくするという対応をとり始めた。―自分の闘いを責任をもって担おうとする者なら、この様な攻撃を防ぐ範囲内での全ゆる反撃が許される事を、確認しておこう。

私の批判はあくまで、闘う立場からの運動上の批判であり、これが最高裁の判決に影響を及ぼす事などあり得なかった。判決に影響を及ぼす事があったとすれば、それは「武田と永山が分裂した」事実、それ自体であった。それは永山自身が先に、委細かまわず、公表したのである。

一活動家の運動上の批判などは影響しないが、私の支援している秋山芳光氏の弁護人(当時1人=永山の主任弁護人)を引きあげようとした行為は、やられておれば確実に秋山氏の裁判に影響した筈である。

永山は、秋山氏に「S弁が辞任するから他の弁を探すよう武田に言え」と葉書を出し弁護人も、その様な発言があった。私の強い対応で事なきを得だのだが、最近永山はこれをデマと言い「実際に辞めたのか」と言っているそうだ。

現在、私自身が永山則夫に関わるのは、以上から全く不可能である。死刑廃止運動で「永山裁判を無視できない」と言う人は、それが利用主義からのものでないなら、運動上のきちんとした原則をもって、永山則夫に真正面から正しく関わってほしい。私自身は、「個別永山則夫」の在り様は批判しつつ、「死刑囚」としての彼も含むその背後の状況に、責任をもってきたつもりだ。然し永山則夫自身については、私一人の力ではもうどうにもならない。

とはいえ、高裁減刑のあとも、永山裁判を無視し続け、権力側かまき返しの体制を整えた、最高裁弁論(83年4月)頃、ようやく「永山裁判の重要性」に気づき、それ迄の永山裁判闘争の作り上げた状況―最高裁での死刑事件審理停止―へのまき返しとしての、最高裁の個別死刑事件への審理再開攻撃と闘ってきた者に対して「永山裁判は無視できない」と、言いたてる「死刑廃止運動」に対しては、《沈黙》するしかない、様にも思う。(つづく)

抜粋以上


 

管理人のつぶやき

 

>処が永山は、威丈高に私を「言い負かそう」という対応をとり始めた。「バカ」という言葉を多用し、

さあ!もうそろそろ泣こうかな!(笑)(永山ファンとして)

 

>82年11月25日の面会後、私は「個別・永山則夫」との共闘を解消した。

私はただ漠然と、『武田氏は1982年に支援を止めた』しか知らなかったのですが…

 

>その前約2ヵ月もの間、私は「三億円事件の権力謀略」の問題をめぐって永山と全く非生産的なやりとりを続けていた。

これだけ気長に永山支援できた人って、どんな職場の人間関係や困難も乗り越えられそう。人間関係のプロフェッショナルになれそう(´д`ι)

 

>これに弁護団が、〝獄中結婚〟を前面に出す〝情状裁判〟として応じた。「沈黙の声」18号「闘争記」(2)で述べたように、武田は〝取り引き〟自体に反対ではなかった。ところがKと弁護団は、運動(武田)を、ことさら過激な方針をとろうとする者として〝排除〟する姿勢を示した。

ここが…

 

>現在、私自身が永山則夫に関わるのは、以上から全く不可能である。死刑廃止運動で「永山裁判を無視できない」と言う人は、それが利用主義からのものでないなら、運動上のきちんとした原則をもって、永山則夫に真正面から正しく関わってほしい。私自身は、「個別永山則夫」の在り様は批判しつつ、「死刑囚」としての彼も含むその背後の状況に、責任をもってきたつもりだ。然し永山則夫自身については、私一人の力ではもうどうにもならない。

武田さんが『お手上げだ』と言っている人を、他の人がどうにかできるとは…とても(´д`ι)



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