ニニギの尊が日向の地に新しい政権を立て、争いのない時代がしばらく続く。古事記ではニニギノ命の二人の息子について「海幸彦と山幸彦」と言う名で綴られる。長子が火照尊(ほでりのみこと)と言い今風に言えば水産大臣であり、物語では海幸彦という。次男がが農林大臣・山幸彦の火遠理命(ほをりのみこと)である。これらは軍事力を含み互いが陸軍、海軍の長も兼ねていたのであろう。物語は山彦が海彦の釣竿を借りて釣りに行き、魚に針を取られ代品を用意したが、海彦はそれを認めず元の針を返すよう求めた。山彦は仕方なく海に針を探しに行き、そこで経験する様々な事が語られている。
これは親から与えられた権力で満足せず、互いの権力を奪い合った、権力闘争を表わしていると考えられる。結果は山彦が海の権力も握り、更に九州南部の水軍を持つ勢力を手中に治めたことが記述されている。ここに日向政権は弟・山幸彦のものとなり、政権は一本化する。山彦は水軍の娘・豊玉姫を娶り、二人の間に鵜葦草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)が生まれる。この尊が後の神武天皇の父になる。ここで水軍を手にしたことは、後の神武東征に大きな力となったのは間違いない。
この鵜葦草葺不合命の名の意味はこう説明されている。山幸彦が針を探す旅で海の神・綿津見神と会い、その娘・豊玉姫を娶る。この海の神の一族は生活そのものが海中(古事記ではこう表現されているが当然海上の意味で舟で生活する一族と思われる)生活であった。従ってお産も海中(船上)が当然であったが、豊玉姫は「生む時になれば、本つ国(夫の国)の形を持ちて生むなり」として陸上で生むことを申し出た。そこであわてて鵜の羽を葦草にして産屋を葺いた(作った)が、産屋が出来る前に生まれてしまった子なので、その様がそのまま名前になった。これは本来葦で屋根を葺く事が慣わしであるが葦が無く、海辺に沢山居た鵜の羽を葦の代わりに用いた事を記しているのであろう。国生みの話で述べたが「伊邪那岐命と伊邪那美命が最初に生める子・比蛭子を葦舟に入れて流した」事について、何故‘木舟’で無く‘葦舟’なのかと言う疑問を提示した。ここで再び葦葺の産屋が登場する。やはりこの日向政権・天孫族は「失われたイスラエルの支族」であり、パピルスの国から葦(パピルス)の舟で海を渡って来た事を示す状況証拠の一つと思っている。
こうして水軍を得た山彦は、その子・鵜葦草葺不合命に政権を譲る。鵜葦草葺不合命は、豊玉姫の妹(古事記では弟、姨と記している)依玉姫命を妻とし、4人の御子を生む。初めに五瀬の命、次に稲氷命、次に御毛沼命、そして末の御子が若御毛沼命、亦の名を神倭伊波禮毘古命(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・ミコト)、後に初代神武天皇となる御子がここに誕生した(以後、‘神倭命’と略す)。
先にもお話したが改めて記述しておきたい。カム・ヤマト・イワレ・ビコ・ミコトの由来について。これらの言葉はヘブライ語で読むと以下のようになる。
カム・・・・創造する、神
ヤマト・・・神ヤハウェの民
イワレ・・・ヘブライ
ビコ・・・・最初の、高貴な
ミコト・・・皇帝(マキト)
「創造の神・ヤハウェの民、ヘブライ出身の高貴な最初の皇帝」と名のって日向の地に登場した。
この章で次男は「波の穂を踏みて常世国に渡った」と記され、三男は「母の国として海原に入りましき」としている。これはどう解釈するのだろうか。4兄弟で権力争いがあって、長男と末子が手を握り中の二人を追い出したのか。或いは争いごとは無く、諸国の状況から協議した結果、次男は政情不安となっていた韓国を治めるために海を越え、三男は母方(水軍の国)の国が後継者が無かったため、養子として行ったのだろうか。争いか、平和裏の内の相続か?
いずれにしろニニギノ尊の作った日向政権は、長子・五瀬命と末子・神倭命の二人に委ねられる。
古事記はこの節の後の「神武東征」で、末子の神倭命が政権を引き継いだとしている。この末子相続については「古代の世には末子相続の習慣があった」と言う説が有る。しかし私は古事記の「神武東征」の冒頭に記述されている一節から、「そうではない」と判断している。そこにはこう記されている。「神倭命、その異母兄・五瀬命と二柱・・・・」。この意味は神倭命は本妻の子で、兄の五瀬命は妾の子であったのではないか。或いは神倭命の母方の家系のほうが由緒があったかの何れかにより、末の子でありながら王権を引き継いだと見ている。
こうして判断は色々有るが、4人の御子の中から末の御子が王となり、東に有る良き国、那賀須泥彦の治める難波の国を奪うべく、兄・五瀬命を従えて東征の長旅に出発することになる。
これは親から与えられた権力で満足せず、互いの権力を奪い合った、権力闘争を表わしていると考えられる。結果は山彦が海の権力も握り、更に九州南部の水軍を持つ勢力を手中に治めたことが記述されている。ここに日向政権は弟・山幸彦のものとなり、政権は一本化する。山彦は水軍の娘・豊玉姫を娶り、二人の間に鵜葦草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)が生まれる。この尊が後の神武天皇の父になる。ここで水軍を手にしたことは、後の神武東征に大きな力となったのは間違いない。
この鵜葦草葺不合命の名の意味はこう説明されている。山幸彦が針を探す旅で海の神・綿津見神と会い、その娘・豊玉姫を娶る。この海の神の一族は生活そのものが海中(古事記ではこう表現されているが当然海上の意味で舟で生活する一族と思われる)生活であった。従ってお産も海中(船上)が当然であったが、豊玉姫は「生む時になれば、本つ国(夫の国)の形を持ちて生むなり」として陸上で生むことを申し出た。そこであわてて鵜の羽を葦草にして産屋を葺いた(作った)が、産屋が出来る前に生まれてしまった子なので、その様がそのまま名前になった。これは本来葦で屋根を葺く事が慣わしであるが葦が無く、海辺に沢山居た鵜の羽を葦の代わりに用いた事を記しているのであろう。国生みの話で述べたが「伊邪那岐命と伊邪那美命が最初に生める子・比蛭子を葦舟に入れて流した」事について、何故‘木舟’で無く‘葦舟’なのかと言う疑問を提示した。ここで再び葦葺の産屋が登場する。やはりこの日向政権・天孫族は「失われたイスラエルの支族」であり、パピルスの国から葦(パピルス)の舟で海を渡って来た事を示す状況証拠の一つと思っている。
こうして水軍を得た山彦は、その子・鵜葦草葺不合命に政権を譲る。鵜葦草葺不合命は、豊玉姫の妹(古事記では弟、姨と記している)依玉姫命を妻とし、4人の御子を生む。初めに五瀬の命、次に稲氷命、次に御毛沼命、そして末の御子が若御毛沼命、亦の名を神倭伊波禮毘古命(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・ミコト)、後に初代神武天皇となる御子がここに誕生した(以後、‘神倭命’と略す)。
先にもお話したが改めて記述しておきたい。カム・ヤマト・イワレ・ビコ・ミコトの由来について。これらの言葉はヘブライ語で読むと以下のようになる。
カム・・・・創造する、神
ヤマト・・・神ヤハウェの民
イワレ・・・ヘブライ
ビコ・・・・最初の、高貴な
ミコト・・・皇帝(マキト)
「創造の神・ヤハウェの民、ヘブライ出身の高貴な最初の皇帝」と名のって日向の地に登場した。
この章で次男は「波の穂を踏みて常世国に渡った」と記され、三男は「母の国として海原に入りましき」としている。これはどう解釈するのだろうか。4兄弟で権力争いがあって、長男と末子が手を握り中の二人を追い出したのか。或いは争いごとは無く、諸国の状況から協議した結果、次男は政情不安となっていた韓国を治めるために海を越え、三男は母方(水軍の国)の国が後継者が無かったため、養子として行ったのだろうか。争いか、平和裏の内の相続か?
いずれにしろニニギノ尊の作った日向政権は、長子・五瀬命と末子・神倭命の二人に委ねられる。
古事記はこの節の後の「神武東征」で、末子の神倭命が政権を引き継いだとしている。この末子相続については「古代の世には末子相続の習慣があった」と言う説が有る。しかし私は古事記の「神武東征」の冒頭に記述されている一節から、「そうではない」と判断している。そこにはこう記されている。「神倭命、その異母兄・五瀬命と二柱・・・・」。この意味は神倭命は本妻の子で、兄の五瀬命は妾の子であったのではないか。或いは神倭命の母方の家系のほうが由緒があったかの何れかにより、末の子でありながら王権を引き継いだと見ている。
こうして判断は色々有るが、4人の御子の中から末の御子が王となり、東に有る良き国、那賀須泥彦の治める難波の国を奪うべく、兄・五瀬命を従えて東征の長旅に出発することになる。
マンハッタンを離れ、ニュージャージーの湖の畔に構えた別荘で、虚庵氏は時差ボケにて真夜中に目覚め、半眠半醒のまま、古事記とヘブライ王国の話が交差する世界を、逍遥させて貰いました。
へぶらい人に、もっともっと潤沢な時間を与え、限りなく膨らむ構想の羽根を自由に広げさせてみたいものだ。
全体の骨格は既に出来上がっていると見た。これまでの素晴らしいテーマと素材だけでも、本格的に取組んだら一体どんな素晴らしい作品が出来るのだろうか。
そんな作品がお目見えしたら、ドウシヨウ!