大和朝廷は古事記の中に一族の祖・アブラハムの生誕の地・‘タガマ・ハラン’を、‘高天原’として残す事ができた。大和一族にとって今一つ、どうしても残したい地名があったと推察している。それは神がアブラハムに与える事を約束した地・カナン(現在のイスラエル)を古事記の中に残す事であったのではないだろうか。
大分昔になるがアメリカのTVドキュメンタリードラマで「ルーツ」と言う番組があった。物語はアメリカのある黒人が、「奴隷であった自分の祖先は、アフリカの何処から連れてこられたのか」を追求し、遠くアフリカをさまよう話であった。自分達は何処から来た何者なのか?と言う事はどの民族にとっても非常に重い命題である。
自分達の祖先について今は解っていても、記録に残しておかなければ将来忘れ去られる可能性は十分有る。その心配をしたのが為政者であれば、歴史書を編纂しその中に残す事であろう。
話を戻す。アブラハムの孫に当たるヤコブは、神からイスラエルと言う名を与えられた。モーゼに導かれてエジプトから約束の地カナンに辿り着いた一族は、その土地をヤコブの聖名を取り、‘イスラエル’とした。
古事記の編者はまず最初はイスラエルに漢字を当てて、倭国のある土地の名にしようと試みたのではないだろうか。しかしもともと大和言葉の言の葉とはかけ離れた‘イスラエル’と言う言葉に、高天原のような上手い大和風となるような漢字が見つからなかったと思える。次はイスラエルの本来の意味「神のように支配する」、「神と争う人」、「神の兵士」を意訳して地名にすべく考えたが、どれも上手く行かなかったのであろう。そこでイスラエルを諦め、次に考えたのが、イスラエルの別名`カナン'であったのではないか。
既に倭国の九州の地に築いた王国の名は、‘神ヤハウェの民’と言う意味の‘ヤァウマトウ’から`ヤマト'(邪馬台国・大和)としている。ここでカナンとして残そうとしていたのが、出雲の地であったと考えている。その理由は天照大神が出雲の国に国譲りを迫るとき、出雲の国を次のように呼んでいる。「「・・・豊葦原の水穂の国は我が御子・天忍穂耳命の知らす国ぞ」と。(葦原の国は倭国全土を意味する見方もある)なんと驚く事にカナンとは、ヘブライ語で‘葦原'と言う意味になると言うのだ。
折角このように命名された‘葦原の国’であったが、記紀から出て地名として残ることなく、元の地名の出雲で通されるが、‘葦原水穂の国’と同義で使われた‘葦原中津の国’の‘中つ国’が‘中国地方’として残っている。
どうだろう。イスラエルの支族の末裔にとって、自らの出目に係わる重要な名称を、それとは解らないように見事に後世に残す事ができたではないか。
整理してみよう。
1)イスラエル人の祖・アブラハム生誕の地タガマ・ハランを高天原とした。
2)アブラハムが神と約束した地カナンを葦原の国とした。
3)神ヤハウェの民と言う意味のヤァウマトゥをヤマトとして残した。
4)イスラエルの十支族がアッシリア帝国の奴隷から解放され、流浪の民となった忘れえぬ年・紀元前660年頃を、神武天皇の即位の年として残した。
以上を物語風に記述すると次のようになる。
イスラエルの支族の有る一族は黒潮に乗って倭国に辿り着き、北九州に都を築いた。その王国をヤマトと定めた。魏の国はこの卑弥呼のヤマトの国を、邪馬台国として記録に残した。一方大陸から朝鮮半島を経由して倭国に渡来した一族は出雲に都を造った。後に両国は争いとなり、出雲はヤマトに国を譲った。時が流れ邪馬台国が畿内に移り(神武東遷)大和朝廷となり、天武天皇の時代に国の記録を残す事になった。神武天皇以前を神話の世界とすることにし、九州の都(邪馬台国)をイスラエルの祖・アブラハム生誕の地・タガマハランの名を取り高天原とした。更に出雲の国との戦いも神話とし、出雲の地を神との約束の地・カナンを和訳し、葦原の国として残した。その後九州から東遷して神武天皇が大和に都を開いた年を、流浪の旅の始まった年・紀元前660年を当て、皇紀元年として残した。
こうした見方で記紀を見ると、記紀の編纂者達は想像を越える創作力を持っていたようだ。「イスラエルの古事を残したいが、自分達が渡来人と解ってはならない」と言う、二つの相反するテーマを、邪馬台国を高天原(タガマ・ハラン)とし、卑弥呼を天照大御神とし、出雲を葦原の国(カナン)とする事により見事に纏め上げたのだ。稗田阿礼と太安万侶に脱帽するしかない。
大分昔になるがアメリカのTVドキュメンタリードラマで「ルーツ」と言う番組があった。物語はアメリカのある黒人が、「奴隷であった自分の祖先は、アフリカの何処から連れてこられたのか」を追求し、遠くアフリカをさまよう話であった。自分達は何処から来た何者なのか?と言う事はどの民族にとっても非常に重い命題である。
自分達の祖先について今は解っていても、記録に残しておかなければ将来忘れ去られる可能性は十分有る。その心配をしたのが為政者であれば、歴史書を編纂しその中に残す事であろう。
話を戻す。アブラハムの孫に当たるヤコブは、神からイスラエルと言う名を与えられた。モーゼに導かれてエジプトから約束の地カナンに辿り着いた一族は、その土地をヤコブの聖名を取り、‘イスラエル’とした。
古事記の編者はまず最初はイスラエルに漢字を当てて、倭国のある土地の名にしようと試みたのではないだろうか。しかしもともと大和言葉の言の葉とはかけ離れた‘イスラエル’と言う言葉に、高天原のような上手い大和風となるような漢字が見つからなかったと思える。次はイスラエルの本来の意味「神のように支配する」、「神と争う人」、「神の兵士」を意訳して地名にすべく考えたが、どれも上手く行かなかったのであろう。そこでイスラエルを諦め、次に考えたのが、イスラエルの別名`カナン'であったのではないか。
既に倭国の九州の地に築いた王国の名は、‘神ヤハウェの民’と言う意味の‘ヤァウマトウ’から`ヤマト'(邪馬台国・大和)としている。ここでカナンとして残そうとしていたのが、出雲の地であったと考えている。その理由は天照大神が出雲の国に国譲りを迫るとき、出雲の国を次のように呼んでいる。「「・・・豊葦原の水穂の国は我が御子・天忍穂耳命の知らす国ぞ」と。(葦原の国は倭国全土を意味する見方もある)なんと驚く事にカナンとは、ヘブライ語で‘葦原'と言う意味になると言うのだ。
折角このように命名された‘葦原の国’であったが、記紀から出て地名として残ることなく、元の地名の出雲で通されるが、‘葦原水穂の国’と同義で使われた‘葦原中津の国’の‘中つ国’が‘中国地方’として残っている。
どうだろう。イスラエルの支族の末裔にとって、自らの出目に係わる重要な名称を、それとは解らないように見事に後世に残す事ができたではないか。
整理してみよう。
1)イスラエル人の祖・アブラハム生誕の地タガマ・ハランを高天原とした。
2)アブラハムが神と約束した地カナンを葦原の国とした。
3)神ヤハウェの民と言う意味のヤァウマトゥをヤマトとして残した。
4)イスラエルの十支族がアッシリア帝国の奴隷から解放され、流浪の民となった忘れえぬ年・紀元前660年頃を、神武天皇の即位の年として残した。
以上を物語風に記述すると次のようになる。
イスラエルの支族の有る一族は黒潮に乗って倭国に辿り着き、北九州に都を築いた。その王国をヤマトと定めた。魏の国はこの卑弥呼のヤマトの国を、邪馬台国として記録に残した。一方大陸から朝鮮半島を経由して倭国に渡来した一族は出雲に都を造った。後に両国は争いとなり、出雲はヤマトに国を譲った。時が流れ邪馬台国が畿内に移り(神武東遷)大和朝廷となり、天武天皇の時代に国の記録を残す事になった。神武天皇以前を神話の世界とすることにし、九州の都(邪馬台国)をイスラエルの祖・アブラハム生誕の地・タガマハランの名を取り高天原とした。更に出雲の国との戦いも神話とし、出雲の地を神との約束の地・カナンを和訳し、葦原の国として残した。その後九州から東遷して神武天皇が大和に都を開いた年を、流浪の旅の始まった年・紀元前660年を当て、皇紀元年として残した。
こうした見方で記紀を見ると、記紀の編纂者達は想像を越える創作力を持っていたようだ。「イスラエルの古事を残したいが、自分達が渡来人と解ってはならない」と言う、二つの相反するテーマを、邪馬台国を高天原(タガマ・ハラン)とし、卑弥呼を天照大御神とし、出雲を葦原の国(カナン)とする事により見事に纏め上げたのだ。稗田阿礼と太安万侶に脱帽するしかない。
I`m so happy! See you at school.
変わらずブログを更新されていらして、いつも楽しみに
読ませていただいてます。
つくづく、歴史に疎い私には初めて知ることばかりで
勉強になります。