新しい年を迎えて今までの‘古事記斜め読み’を簡単に振り返り、纏めてみたい。
私は日本・ユダヤ同祖論に係わる数々の本を読むうちに「もしかしたら古事記にも‘失われたイスラエルの十支族'の事が記述されているのではないか」という考えに取り付かれていった。そこでそんな視点から古事記を斜めに読んでいくと、今まで色々読んできた古事記の解釈とは、‘全く違う世界’が見えてきた。それは古事記の「上つ巻」(上巻)である『別天つ神五柱』から『神武東征』迄の物語の中に、イスラエルの支族が倭国を侵略し、新しい国・ヤマトを造って行く過程が、それとは解らない様に、正に暗号の如く隠されているのを発見したのだ。この解釈によれば今まで意味をなさなかった各段階の物語が、生々しい倭国侵略の歴史物語として描かれている事に、発見した私自身が驚き、そして徐々に「この仮説はもしかしたら、仮説ではないのではないのか?!」と言う想いにまで育ってきた。
ここに今までの仮説の大筋を振り返る。
アッシリア帝国の奴隷であったイスラエルの十の支族は、紀元前660年以上の昔、奴隷の身を開放されて東に向かって流浪の旅に出た。そして何年か後、インド洋経由の海のルートと、シルクロードを経由した陸のルートを辿り、幾つかの支族が倭国にたどり着いた。一つはイザナギ率いる支族が淡路島に上陸し、縄文時代の倭人たちと比べれば、圧倒的に強い武器と知力により、瞬く間に四国、九州、紀州の南、瀬戸内、山陽地方をその手に治めていった。他の支族は壱岐の島から出雲を狙い、いま一つの支族も佐渡島から越の国を伺っていた。
イザナギ率いる一族は、第一次倭国侵略計画が無事終わった時点で、都を九州の北に定めた。しかしその後共に戦ってきたイザナミとイザナミの間で、政権運営上に意見の食い違いが生じ争いとなった。イザナミを政権の座から追い出したイザナミは、次々に新しい施策を打ち出し、組織体制を固め安定したイザナギ政権を誕生させた。イザナギは国の名を自らの出目である‘イスラエルの神ヤハウエの民'と言う意味の「ヤァ・ウマトゥ」からヤマトとした。その頃の中国はそのヤマトに「邪馬台」と言う漢字を当てた。邪馬台国である。
しかしイザナギは老齢となり出雲の国や、畿内の難波の国など、更なる領地の拡張は次に譲らざるを得なかった。
イザナギは多くの子の中から天照大神を選び政権を委譲した。同じ時代に壱岐の島から本土を伺っていた支族は、出雲を侵略し出雲王国を築いていた。佐渡島から越の国を伺っていた支族も、同様に越の国を手中に治めていた。残りの支族も難波の国や尾張地方に侵略していったと想像される。
天照大神は第2次倭国侵略を出雲と定め、別のイスラエルの支族が治めるようになっていた出雲王国と長く厳しい戦いを続けた。出雲王国は山陰地方を拠点にして越の国から、信濃、関東地方にもその勢力範囲を及ぼす巨大な国に成長していた。
このため天照大神一族と、出雲の大国主命との戦いは互いに策謀をめぐらし、あの手この手の長期戦となったが、最後は建御雷神と建御名方神の力比べで決着がつき、出雲王国は天照の軍門に下った。
そして天照の孫に当たるニニギの命の時代に東の国を攻めるため、九州南部の日向に都を移す。ここにニニギ政権が誕生し、更に安定政権を目指すため戦力を整備していった。そして神武の時代になり、いよいよ第3次倭国侵略が始まる。これが神武東征である。
神武による東征はイザナギの時代に瀬戸内、山陽道は手中に治めていたため苦も無く進み、難波の国との戦いが初戦となった。難波の国には那賀須泥彦と言うつわものがいたため苦労したが、舟で先に治めていた紀州南東部へ回り、そこから上陸し、苦戦の末難波の国を破った。ここに神武は都を築き、土地の名をヤマトと改めヤマト王朝を名乗った。
以上が古事記に秘められたイスラエルの失われた支族による倭国侵略の仮想の物語である。しかしこの仮説は今まで述べてきた数々の逸話から、仮説ではなく隠された物語ではないかと思っている。
これからは日本の風習や伝統、習慣などの何処に、その痕跡が残されているかを検証していきたい。
私は日本・ユダヤ同祖論に係わる数々の本を読むうちに「もしかしたら古事記にも‘失われたイスラエルの十支族'の事が記述されているのではないか」という考えに取り付かれていった。そこでそんな視点から古事記を斜めに読んでいくと、今まで色々読んできた古事記の解釈とは、‘全く違う世界’が見えてきた。それは古事記の「上つ巻」(上巻)である『別天つ神五柱』から『神武東征』迄の物語の中に、イスラエルの支族が倭国を侵略し、新しい国・ヤマトを造って行く過程が、それとは解らない様に、正に暗号の如く隠されているのを発見したのだ。この解釈によれば今まで意味をなさなかった各段階の物語が、生々しい倭国侵略の歴史物語として描かれている事に、発見した私自身が驚き、そして徐々に「この仮説はもしかしたら、仮説ではないのではないのか?!」と言う想いにまで育ってきた。
ここに今までの仮説の大筋を振り返る。
アッシリア帝国の奴隷であったイスラエルの十の支族は、紀元前660年以上の昔、奴隷の身を開放されて東に向かって流浪の旅に出た。そして何年か後、インド洋経由の海のルートと、シルクロードを経由した陸のルートを辿り、幾つかの支族が倭国にたどり着いた。一つはイザナギ率いる支族が淡路島に上陸し、縄文時代の倭人たちと比べれば、圧倒的に強い武器と知力により、瞬く間に四国、九州、紀州の南、瀬戸内、山陽地方をその手に治めていった。他の支族は壱岐の島から出雲を狙い、いま一つの支族も佐渡島から越の国を伺っていた。
イザナギ率いる一族は、第一次倭国侵略計画が無事終わった時点で、都を九州の北に定めた。しかしその後共に戦ってきたイザナミとイザナミの間で、政権運営上に意見の食い違いが生じ争いとなった。イザナミを政権の座から追い出したイザナミは、次々に新しい施策を打ち出し、組織体制を固め安定したイザナギ政権を誕生させた。イザナギは国の名を自らの出目である‘イスラエルの神ヤハウエの民'と言う意味の「ヤァ・ウマトゥ」からヤマトとした。その頃の中国はそのヤマトに「邪馬台」と言う漢字を当てた。邪馬台国である。
しかしイザナギは老齢となり出雲の国や、畿内の難波の国など、更なる領地の拡張は次に譲らざるを得なかった。
イザナギは多くの子の中から天照大神を選び政権を委譲した。同じ時代に壱岐の島から本土を伺っていた支族は、出雲を侵略し出雲王国を築いていた。佐渡島から越の国を伺っていた支族も、同様に越の国を手中に治めていた。残りの支族も難波の国や尾張地方に侵略していったと想像される。
天照大神は第2次倭国侵略を出雲と定め、別のイスラエルの支族が治めるようになっていた出雲王国と長く厳しい戦いを続けた。出雲王国は山陰地方を拠点にして越の国から、信濃、関東地方にもその勢力範囲を及ぼす巨大な国に成長していた。
このため天照大神一族と、出雲の大国主命との戦いは互いに策謀をめぐらし、あの手この手の長期戦となったが、最後は建御雷神と建御名方神の力比べで決着がつき、出雲王国は天照の軍門に下った。
そして天照の孫に当たるニニギの命の時代に東の国を攻めるため、九州南部の日向に都を移す。ここにニニギ政権が誕生し、更に安定政権を目指すため戦力を整備していった。そして神武の時代になり、いよいよ第3次倭国侵略が始まる。これが神武東征である。
神武による東征はイザナギの時代に瀬戸内、山陽道は手中に治めていたため苦も無く進み、難波の国との戦いが初戦となった。難波の国には那賀須泥彦と言うつわものがいたため苦労したが、舟で先に治めていた紀州南東部へ回り、そこから上陸し、苦戦の末難波の国を破った。ここに神武は都を築き、土地の名をヤマトと改めヤマト王朝を名乗った。
以上が古事記に秘められたイスラエルの失われた支族による倭国侵略の仮想の物語である。しかしこの仮説は今まで述べてきた数々の逸話から、仮説ではなく隠された物語ではないかと思っている。
これからは日本の風習や伝統、習慣などの何処に、その痕跡が残されているかを検証していきたい。