北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

園内には桜はない? 肥後細川庭園:文京区

2020-03-26 11:58:10 | 水のある風景

 都電早稲田駅近くから神田川に入ってきたときの橋の上から上流を見る。日陰の桜は6分咲きくらいか・・・。

 写真には右手に僅かに木立が写っている。下流の「江戸川公園」に先に行ったので折り返してからそちらに向かった。前回来たときは(このblogでも紹介しているがクリック)「新江戸川公園」とあったが今は「肥後細川庭園」と記されている。椿山荘・芭蕉庵との間に狭い階段・・・「永青文庫」を経て目白通りまで続くが・・・とにかく崖地なので急!「胸突坂」とあったが・・・上らずに川沿いを行く。

 すぐに「肥後細川庭園」の裏門があった。

 「回遊式泉水庭園」とあって、中心部に池があり回遊するように設えられている。

 正面に「松聲閣」の一部が見えている。

 正門方向に進む。「松聲閣」方向から眺めるとまた異なった“絵”になる。

 とりあえず正門を出て、門前の広場に立つ。広場には「松聲閣」の入り口がある。

 「松聲閣」現在では集会所や茶室など一般に開放されているが、成り立ちは?『当地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷になり、明治時代には細川家の本邸となった。その後都の公園となり後に文京区立となった。「松聲閣」は細川家の学問所であった。』

 再び庭園に入り、残り半周に向かう。永青文庫への道は急な階段なので脇に逸れて池を回る。小さな滝、水の流れが斜面を落ちる。

 少し高見から眺める。どこからでも風情を感じる作りになっている。

 入ってきたとき真っ先に目に入った石橋も、反対側から眺めるとまた趣が異なる。

 昼前に川沿いを離れ、昼食に「うだつ食堂・徳島ラーメン」なるものを食す。店内は鳴門の渦潮、阿波踊りが大画面に映し出されて賑やかだった。久しぶりに都電と併走して新目白通りを後にした。


川は流れる・・・ 神田川:三鷹市→墨田区

2015-04-04 12:42:43 | 水のある風景

 三鷹市の井の頭公園井の頭池、神田川の源となっている。池尻南東の外れから流れ出ている。

 今回天気も思わしくなく荒涼とした趣だったので公園を流れる川の写真を撮っていないが、2007年6月、花菖蒲の咲く川辺で子供の水遊びの画像を再掲してみた。

 「ひょうたん橋」の上から小さな流れの下流を眺めていると、前にも一度訪れては居るが、この流れの行き着く所をレポートしたくなった。公園を出てJR吉祥寺駅まで歩き中央線でお茶の水へ、総武緩行に乗り換え2つ目浅草橋で下車、並行してきた靖国通り近くで神田川へ行き着いた。

 柳橋は料亭の町で岸辺は屋形船の基地、多くの舟が係留されている。地名が先か橋名が先か?最下流にかかっている「柳橋」の姿もある。

 柳橋上から上流を見ると緑はなくコンクリートの街ばかり、“は~るの小川はさらさら・・・”の情緒はない。

 柳橋の先すぐのところで隅田川に注ぎ神田川の名は終わる。隅田川の対岸には首都高が走っている。水上バスも行き交っている。

 飯田橋あたりからやや離れてはいるが並行に進んできた靖国通りが、傍らで両国橋を通じて隅田川を渡っている。もっとも旬な名所スカイツリーを入れて気取ってみた。

 神田川は蛇行しながらいくつかの区と「区境」を流れている。ネットサーフィンしていると川の流れを追って探訪しているblogが多数ある。川は風景の中では“絵”になる題材ではあるが特に拘ってはいないのであえて追いかけてはいないが、今回は秋葉原への買い物を予定していてついでとなったので、入り口と出口の探訪のみしてみた。が、かってこの流域のいくつかの場所を訪れているので、編集直し・再掲を含め記録にとどめておくこととした。

 井の頭公園内では土手の土を見せていた神田川も、東へ向かい杉並区に入る頃には都市河川の姿コンクリートの壁に囲まれてしまう。井の頭線沿いを進み桜の咲く高井戸で環八を越える。2013年4月の画像。

 多少蛇行しながら東へ進むがやや東北東に向きを変え永福町辺りで井の頭通りをくぐり、更に蛇行をしながら方南で七環を渡る。その先中野区に入る辺りで善福寺川を合わせている。六環を越えると北へ向きを変えるが、しばらくの間は中野区と新宿区の境界となっている。早稲田通りを越すと新宿区の領域となり西武新宿線下落合駅近くで東へ向かいその辺りで妙正寺川を合わせ、JR山手線をくぐると新宿区と豊島区の境界となる。

 新江戸川公園辺り関口で文京区に入る。2009年3月、新江戸川公園脇の桜の咲き始めた神田川の画像が残っていた。

 その先東、南、東と蛇行する辺りは文京区と新宿区の境界を流れ飯田橋に至る。江戸川橋から飯田橋まで川の上、空を覆うように首都高が走っている。2014年5月、小石川後楽園へ行く途中飯田橋駅前歩道橋上から撮った画像。

 飯田橋からは新宿区を離れ文京区と千代田区の境界になり総武・中央線緩行に沿い東に向かい水道橋を経てお茶の水に至る。川の上を地下鉄丸ノ内線が地上に顔を出している。2009年11月、湯島聖堂の紅葉を撮りに行ったときの画像。

 その先千代田区内を流れ隅田川に至るのだが、浅草橋から河口までは台東区と中央区の境界となっている。・・・と、ここまで地図を見ながら記載してきたのだが、大きな川が市町村境や県境にあるように都市河川も行政界を示しているようなのに気がつき、川には別の役割がある???発見!!!ちなみに神田川・隅田川の合流点は中央区、台東区、墨田区に接することとなる。


見知らぬ土地でした 鬼子母神:豊島区雑司が谷

2009-04-01 16:34:08 | ご近所の旅

 春分の日、目白・目白台界隈を歩き回って、同じ山手線沿線に住んでいても、ごく狭い範囲を蠢いているだけで、殆ど知らないことばかりであることを痛感しました。目白駅周辺にしても、何年かに一度、妻が目白庭園でお茶会を開くのにアッシー君として手伝う程度で、往復の道と目的地のスポットしか分かりません。秋葉原や水道橋もしょっちゅう行くのですが、目的があってのこと、駅周辺半径1キロにも満たない範囲しか行動しません。庭園や神社も狙い定めてですから、話題になりやすい場所を“点”で選んでしまいます。

 新江戸川公園の帰り道、目白通りを駅に向かっていると、「鬼子母神参道」の看板がありました。頭をよぎったのは落語でよく聞く「おそれいりやの鬼子母神」の名文句、鬼子母神は“入谷”の先入観があったので、一瞬戸惑いました。鬼子母神は神仏の名、何処に社寺があっても、あちこちに祀られていても不思議はないのですが・・・。途中都電「鬼子母神駅」の先、参道らしくなってきましたが、門前町らしからぬ商店が続きます

 かなり進んで角を曲がると、石畳の参道の正面に本殿が見え、一安心でした。



 参道両側には、まだ芽吹き前の高木が続いていました。帰って調べたところ、「参道のケヤキ並木」が一つの名物とのこと、本殿前の写真に僅かに写っていますが、全体は撮り損なってしまいました。事前の下調べ無しの場合、かなり見落としが多く残念な思いをしますが、知っていると下調べの単なる確認など野暮な行為になりがちなので、逆に先入観無く素直に感慨に耽ることもあり、出たとこ勝負も捨てがたいものです。何気なくはためく旗の赤の色彩と仁王さんの対照がおもしろく撮った写真に、樹齢約600年東京都指定天然記念物の大公孫樹(おおいちょう)が写っていました。この場合、“けがの功名”ではなく、・・・???というのでしょう。



 この稲荷、武芳稲荷ですが、この地はかって稲荷の森と呼ばれていたので、数百年の歴史を持つ・・・受け売りです。



 入り口を守る仁王像、「左右全く同寸」が特徴とのこと、と言うことは、他の寺の仁王さん左右一対ですが、必ずしも同寸ではないと言うことでしょうか・・・初めて知りました。

 

 雑司ヶ谷の鬼子母神と呼ばれ、都電にもその名の駅がありますが、本名??は威光山法明寺、本殿にはもちろん鬼子母尊神が祀られています。



 たまにはしおらしくお参りをして、半日の目白台散策を終えました。



 それにしても、いくつかの思い違いと、思いがけない発見?が有りました。目白駅から数分で文京区に入ること、(文京区は、水道橋、後楽園辺り、つまり山手線でなく中央線沿いと思いこんでいました。)雑司ヶ谷は豊島区であり、都電荒川線鬼子母神前駅の真下に東京メトロ副都心線の雑司ヶ谷駅があり、(副都心線が山手通りの地下を通るようになるのは、目白通りとの交差千登世橋から先でした!)目白は豊島区、目白台は文京区であること!?!・・・ア~ア~ややこし!!ア~ア~知らなかった!!!


関口は土地の名?芭蕉ってアノ芭蕉? 関口芭蕉庵:文京区

2009-03-28 14:42:12 | ご近所の旅

 永青文庫を出て、新江戸川公園に向かうため、胸突坂を下って行く途中に立派な門がありました。蕉雨園と読み取れる看板が掛かっていましたが、その時は実態が何であるかは分かりませんでした。更に下って坂のほぼ終わりと思われる辺りで、一枚の張り紙を見つけました。先週、春分の日の午後のことです。



 「関口芭蕉庵」なるものが何であるかも知る由もなく、“ご自由にお入り下さい”とあるので、おそるおそる木戸を開け中に入りました。左手には母屋の玄関があり扉が開いていましたが、覗いてみると集会の案内と注意書きがありました。集会に使用出来るのでしょうか?まっすぐの方向に敷石があり、先に植栽と池が見えそちらの方向へと進みました。母屋から張り出したような建物はガラス戸で囲まれ中に何人かの人がいます。テーブルの上にはなにやら小冊子が置かれていました。

 パンフレットなど有ればと期待して中に入ると、全て定価が書かれた売り物でした。ちゃっかり見本の小冊子をめくり由来を拾い読みし、「松尾芭蕉」ゆかりの場所であることが理解出来ました。壁面にも張り紙で案内がありましたが、保存会が運営している模様で、庭は自然の趣を生かすために最小限しか手を入れていない・・・これは帰宅後調べたのですが、確かに草が足に触れる程の小道で、池もそれほど大きくなく、周回する路面もごつごつとした石が露出する様でした。



 「古池や・・・」の句碑を始め、芭蕉を偲ばせる雰囲気に満ちていました。



 崖地の下、神田川に面していましたが、目白台への傾斜地はさながら郊外へのハイキングの様で、竹藪の彼方に先ほど通ってきた蕉雨園の建物が見えていました。



 蕉雨園は、明治時代の宮内大臣田中光顕伯の邸宅ということで、現在は講談社が所有し一般公開はされていないけれど、茶会や生け花などの展示会、映画のロケなどに使用されているとのこと、機会が無いわけではなさそうなので、雄大な回遊式の庭園と荘厳といわれる邸宅に潜入するチャンスを狙ってみることにしました。

 庭の端、池の先をがけの上にある椿山荘の方向に上っていったところに、木造の庵風の建物がありました。扁額の文字ははっきりとは読み取れないので、写真に撮っておきました。「芭蕉堂」でした。



 帰宅後、曖昧のままでは気が収まらないので、暇に任せて探索した結果です。『江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んだ。当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれる。後に、芭蕉ゆかりの人々が龍隠庵(りゅうげあん)を建築し、それが関口芭蕉庵の由来とされるが、芭蕉が居住したかどうかは定かではない。その後焼失し、現在のものは第2次大戦後の建築である。芭蕉の木像をまつる芭蕉堂は消失を免れたので、元来の姿を留めている』

 芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られたという『さみだれ塚』も、「芭蕉堂」の写真の脇に写っているようないないような???偶然立ち寄った芭蕉庵から、随分色々なことを学んだようで、“尻軽”も捨てたものではないようです。


残念!休館中でした 永青文庫:文京区

2009-03-27 13:56:24 | ご近所の旅

 春分の日、午後から青空が広がりポカポカ陽気になり、最初に向かったのは永青文庫でした。JR山手線目白駅から椿山荘方向に徒歩十数分、田中元総理邸の先椿山荘の手前で、神田川方向の坂を下り始めた辺りにありました。小さな木の看板の奥、伸び放題にも見える木立の中に建物が見えました。



 砂利道の奥、ここにも小さな表示の看板がありましたが、休館中の張り紙???でした。webサイトで確認したのですが、正月からの展示会が15日までとの記載を25日と見間違えたようで、16日から10日あまりの間展示替えで休館中なのでした。残念!!!



 この地は『江戸時代の熊本54万石細川家の江戸下屋敷跡であり、細川家伝来の文化財と16代護立のコレクション4500点を収蔵し、展示公開を行っている。昭和46年に一般公開し、翌48年に博物館法による登録博物館となり現在に至っている。旧細川侯爵家の家政所(事務所)として昭和初期に建設されたもの。』と、これは文庫のサイトからの受け売りです。



 文庫の庭はそれほど広くはなさそうで、手入れはされているのでしょうが雑木林の様相を呈していました。庭の中程に人が通れる程にくりぬかれた石碑?門?が建っていました。



 上の方には文字が刻まれていましたが、隷書体のようで解読出来ません。知識のなさを露呈です。



 細川家の本来の庭は、江戸時代の純日本式武家庭園の回遊式泉水庭園であり、崖下の新江戸川公園として整備公開されています。昨秋、永青文庫と公園を直接行き来出来る道が付けられたとありましたので、石をくぐり抜け突き当たりの柵の辺りまで行ってみましたが、文庫休館中とあって扉に鍵がかけられていて、通ることが出来ませんでした。

 文庫と公園の入り口は正反対の位置にあり、かなりの距離両方の敷地を一回りすることになります。文庫の先神田川までは、その名も“胸突坂”と名付けられた転がり落ちそうな急坂を下ります。「人間万事塞翁が馬」とはよく言ったもので、門が閉まっていて遠回りしたおかげで、思いがけない出会いがありました・・・。


回遊式庭園にも色々? 続・新江戸川公園:文京区

2009-03-26 12:35:02 | ご近所の旅

 新江戸川公園は、「回遊式泉水庭園」とあったので、回遊式庭園について確認したところ、小石川後楽園は「回遊式林泉庭園」とありました。また別に、「池泉回遊式庭園」と記載された庭園もあり、多少混乱しました。解説を分析(大げさ!!)してみると、いずれも池を中心に回遊式の小道が付けられ、場合によっては築山や林などの植栽が設えられていて、それぞれの言い回しに厳密な区分は認められませんでした。今までにも各地で巡り会っていますが、 小石川後楽園金沢の兼六園讃岐の栗林公園、池の周辺だけ見ていると、どれがどれやら区別が付きません!

 木戸の向こうに庭が現れました。



 お決まりの灯籠と松、遙か彼方には橋も架けられ、景観を引き締めています。



 橋の方向から松声閣のある方向を眺めると、右手は崖地で林の中散策路が上へ上って行きます。かなりの急坂ですが、つづら折れの小道を登り切ったところに永青文庫が有ります。



 池の彼方から眺めると高木に白い花が認められました。コブシのようにも見えましたが、近づいてみるとやや大きな花、遙か高いところに咲いていたので見えにくかったのですが、木蓮のようでした。

 

 ブログを始めてから、掲載前に辞書を引いたりweb検索をして確認するのが習慣になりました。時間を費やし、時には堂々巡りしたり、結論が出なかったり・・・それでもプロセスを結構楽しんでいる?と自己満足しています。

 旅をしたり散歩の時も殆ど理解(判別)出来ないのが、鳥と花(植物)です。図鑑と見比べても、似たような写真が何枚も並んでいて、はっきり区別出来ません。特徴と“鑑別診断”のキーポイントが述べられていても、理解出来ないことが多いのです。春になると空き地や川の土手に沢山見られたタンポポ、最近では外来種に追いやられ、在来種が極端に少なくなったと聞いています。独り寂しげに花を開いていましたがやや大きめ、果たしてこれはどちら?


雨のち晴れ! 新江戸川公園:文京区

2009-03-25 09:32:58 | ご近所の旅

 このところ休日のお天気が今ひとつ落ち着きません。20日、お彼岸の中日・春分の日、当然休日、しかし朝から空模様ははっきりしません。間もなく道路が濡れてきました。そして雨、やむなくスーパーへ買い出しに!帰って早い昼ご飯、お正月に頂いた新潟の切り餅、米所とあってこれがおいしいのです。 真空パックですから、冷蔵庫保存でいつでもおいしく食べられます。

 急に窓に日が射してきて、青空も広がってきました。そうなればじっとしていられない我が夫婦、webサーフィンでお出かけ先検索です。高速道路は依然渋滞の模様、近場で・・・ありました。!?!目白駅から歩くこと十数分、「椿山荘」「田中邸」近く、お屋敷街の急坂を下って神田川沿い「新江戸川公園」。はや桜が咲いていましたが、種類は??ともかく、右奥のこんもりした辺りです。



 『江戸時代末期、熊本藩主細川家の下屋敷、その後、細川家の本邸となる。松声閣の名がつく建物は、明治20年ごろの建造で細川家の勉強所であった。』(文京区ホームページから)老化が激しく、現在は使用中止中とのこと、外観のみの見学でした。



 正面はややうらぶれた様子ですが、庭側からは明治の洋館造りの有様が見て取れます。



 門の中に庭への導入路に、更に門が?通常柴折り戸があるはずが?扉は一切ありません。庭との区切りが明確で分かり易いのですが、こんな場合の“呼び名”は??調べることが増えました。



 桜を撮して入り口に辿り着くまでかなりの距離がありましたが、神田川沿いに歩いている間、かなりの異臭、どぶの匂いに辟易としました。住民は常にこの匂いを嗅いでいるのでしょうか。上流高井戸は仕事場で、毎日神田川に会います。水道橋も月一で母校へ行きますから、やはり下流の神田川沿いです。かってはどぶ川の様相でしたが、現在は魚の姿も見られる程澄んでいます。上流の井の頭公園から流れ出た清流は、何処へ消えてしまったのか?不思議でした。
 この後、回遊式泉水庭園を文字通り回遊したのです・・・・。