北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

とにかく賑やか!! 黒壁スクエア:滋賀県長浜市

2018-09-12 17:33:02 | 町並み

2018夏旅 その11 古刹「大通寺」もあり

 目の前に広がっているのは「琵琶湖」、雲が空を覆っているのでやはり冴えない。それでも正面の比叡山は姿を見せている。

 名神高速道「大津SA」のレストラン脇からの眺望。今夜の宿長浜のホテルから「盆期間中は夕食は二替わり」と時間指定されたので、鳥取から寄り道をせず新名神経由で渋滞もなく大津まで昼前に来てしまった。関西以遠から帰京の時は、東京400km辺りで一泊して安全運転を心がけている。近江八幡辺りか墓参りを兼ねて愛知県下で泊まりとすることが多かったが、今回は「琵琶湖の畔」として長浜の港に宿を取った。

 宿は取ったものの「長浜」は全く未知、此所に着くまでは情報すらなかった。SAの案内カウンターで長浜の観光お勧めを聞くと、間髪を入れず「黒壁スクエア」とかえってきた。そしてガイド図も・・・。広い通りと思える駅前通り長浜アートセンター前のPマークに目的地を指定し向かった。目的の駐車場は満車、歩く人もぞろぞろ状態で多く多く、駐車場所を求める車も連なっていた。前を行く車が旧国道方面へ躊躇無く進んでいくので、後に付く。スクエアを大きく迂回してお寺の境内に入った。広々とした広場があり車を止めた。

 「大通寺」、山門も本堂も大きく見事な佇まい、安土桃山時代の建築様式とあった。

 参道を少し行き、角を折れて町並みに入る。

 「黒壁ガラス館」を目指すが、碁盤目の町並み直接行き着くのも芸が無い、とりあえずジグザグ進むことにした。???どの通りで撮った写真か判らない???

 しっとりとした町並みだが、殆どが現役の店舗、商売も活気があり歩いている人もかなり多い!!同じような漆喰壁、黒壁が連なり、やっと黒壁5号館の表示を見つけた。物産館のようだった。

 すぐ側で「黒壁ガラス館」があり、妻はお目当ての買い物を済ませた。

 北国街道に入り、「常夜灯門」を過ぎると大通寺に戻った。

 町を歩きながらふと前日訪れた「倉吉の白壁土蔵の町」と比べていた。同じ“町並み”山陰の山中と古くから往来の激しかった近江の街道筋の町とは比較出来ないが、それでも規模の大きさは比べようもない。生活を賭けている「近江商人」の活気が今も続いていることを実感した。


伝統的建造物保存群ではあるが・・・ 白壁土蔵の町:鳥取県倉吉市

2018-09-06 16:20:55 | 町並み

2018夏旅 その8 小川と白壁はどこかで見た・・・

 黒い腰板と白壁の土蔵が並ぶ、海岸沿いと思ったが意外に山の中にあった。倉吉市の推す観光名所だった。

 plalaのpub blogの頃、倉吉の喫茶(レストラン?)の店主のサイトと時折コメントをやり取りしていたが、gooに移って見失ってしまった。その頃から「倉吉の町並み」に思いを馳せていた。山陰方面はちょっと其所までの距離・ちょっと寄り道の所でもなく機会が出来なかったが、今回「足立美術館」メインの旅ならば、通過地点に設定出来るので寄ることにした。大山周遊の最後の展望台はすでに倉吉市の範疇だった。

 観光案内所前の駐車場に目的地を定めていたがすでに満車、道路反対側の市役所駐車場が僅かに空きがありかろうじて止めた。案内所でガイド地図をもらい、昼少し前なので食事場所を尋ねすぐに向かう。それらしい町並みを抜けて行く。

 1軒目はすでに満席だったのですぐ隣の店へ、やや余裕があり席に案内された。雰囲気が何か違う??ガイドを見ると「元国立第三銀行」の建物とあったので写真を・・・天井と階段のみで雰囲気を。すぐに満席となり場内が撮れなくなった。

 

 急いで入ったので外観を撮り損なっていたので、他のサイトから借りてきた。夜の灯りがペンキの剥げを隠している。

 ガイドのコース案内に従って行く。整った町並みが続く。

 案内所から町並みへ行き着く角に「ふるさと工芸館」があったが、この建物は転用?新規に模して建てた?・・・???

 路地に灯籠が並び、奥に山門が見える。大蓮寺の参道であろう。

 本堂はインドの寺?

 山門の前の道には小川?堀?水の流れと白壁土蔵の姿がよく似合う。

 「白壁土蔵」のほかにも各所に「赤瓦」とあった。通りを歩いていると屋根は見えなかったが、この通りに入って先の方に屋根が見える。あれが「赤瓦」なのであろうか?(赤瓦=商業施設の記載があったが、赤瓦の古い家を商業施設に指定??)

 途中弁天さんがあり、石橋の先木戸が開いていたので覗く・・・中は広くて立派な庭が・・・。

 今までも多くの「伝統的建造物保存群」に類する町並みを訪れている。「飛驒高山・古川・白川郷」「栃木市」「郡上八幡」「倉敷美観地区」「大内宿」「海野宿」「妻籠・馬籠宿」「谷汲山・金比羅宮」等々数え切れないほど。分類は定かでないが、大まかに分けると古くからの宿場、門前町、城下町、かっての商業の中心地、そして開発から逸れた地方集落が多い。現在では各地とも観光に主眼を置き、保存と誘客に力を入れている。規模と保存状態、客の好みにより繁盛に差が出ているが、客となる人口の多い都市からの交通の便の良さが更に差を生んでいるようだ。


松の緑と堀川の流れ 塩見縄手と武家屋敷:島根県松江市

2018-08-30 15:06:48 | 町並み

2018夏旅 その6 漆喰壁と下見張りの屋敷

 水の流れと松並木、古い町並みが続く。タイムスリップしたようだ。

 明々庵から通りへ戻り、松並木の脇遊歩道を行く。堀に面して見事な屋敷が並ぶ。そば屋や土産物屋、駐車場に利用しているものもあるようだった。

 武家屋敷の案内があったので入ってみる。???長屋門の写真がない!

 座敷や台所など、解説と共に公開されていた。

 天井の梁が見事!!

 庭も見学者が歩く踏み石は殺風景だったが、脇の植栽は手入れされていた。

 長屋門の中元部屋は、かろうじて撮っていた。

 通りを更に進む。松の幹のトンネルは、「恋人達のスポット」とガイドにあったような??

 遠くに小泉八雲所縁の記念館や旧居の見える辺りまで来た。お城も違う角度で見え、櫓も現れた。

 この後小泉八雲記念館まで行き撮影し、堀川に添い撮影しながら城を一周したのだが、我がカメラはまたしてもその間の画像を保存していなかった。翌朝からは正常なので、なぜ???この現象前にも数度あった。記録には代えがたいのだが、この手のカメラの代替えが見つからない。40倍以上の手動ズームレンズを持つ廉価なコンパクトデジカメ、現有する機種以外お目にかかったことがない。しかも生産はとっくに終了している。


不昧公所縁の・・・ 明々庵:島根県松江市

2018-08-29 14:43:15 | 町並み

2018夏旅 その6 お城も正面に

 

 堀川に添い松並木の中を塩見縄手に入ってすぐ道標があった。脇の緩やかな坂道両側は築地塀のお屋敷、この先にお目当て「明々庵」はある。

 やや広い空間を囲んで屋敷が並ぶ。松江藩重臣の屋敷のあった地域であろうか、この先の訪れる塩見縄手と重なる。

 長屋門かと見まがう立派な門構えの屋敷、扉が開いていたのでそっと覗くと、中門まであり先に庭が・・・この先は???

 明々庵の入り口の案内、この階段を上る。

 門を入り受付を済ませる。

 待合を抜けると、茅葺きの「明々庵」にやっと出会う。

 床の掛け軸は、不昧公の書とあった。

 受付脇の「百草亭」に上がり抹茶を頂く。干菓子が二種、不昧公好みの当庵独自のものと後で知った。前庭の先丘の上なので、松江城が正面に見えていた。


スクラップ・アンド・ビルド 駅前再開発と住宅街:渋谷区

2018-07-23 12:06:24 | 町並み

 JR渋谷駅南口、東急百貨店南館越しに組み上がってきた東館・東横線旧渋谷駅跡地のビル、高さはまだ伸びるのでしょうか。

 奥にはすでに稼働しているヒカリエが覗き、右手には南改札から246号線の向かい側に完成稼働を始めたビルが見えています。左手東急東横店西館ビルは1950年代に建てられています。現在では地下鉄銀座線の渋谷駅が内部にあり、地下鉄ホームが明治通り上に移設される計画ですでに工事が行われていますので、この先どのように変化するのか???

 東側に少し遅れて西側東急プラザを含めての再開発も始まっており、駅前広場バスターミナルも雑然としています。

 7月16日海の日休日、ぽっかりと1日空いてしまいました。連日の暑さで外出はためらわれたのですが、家でゴロゴロではなお体に良くありません。涼しさを求めて出てみたものの軽井沢ですら暑さに耐えられないとの情報があり、東京近郊での海山川では涼は求められそうにありませんでした。とりあえずは冷房の効いた電車からの沿線観察とし京王線を往復、途中下車してみたものの、結局渋谷へ逆戻りし近場の町並みウオッチングとなりました。

 玉川通り歩道橋から南平台方向を見ています。工事中の東急プラザ後の首都高の向こうには東急セルリアンタワーが聳え、その先東急本社ビルの上に顔を出している看板は、建て替えられる前は我が仕事場があった所、年の流れを思い知ります。

 玉川通りを隔てた線路沿いは「桜ヶ丘町」この一帯も再開発計画が動き出しているようですが、数十年も置いてきぼりだったので、この先どうなることやら。

 南平台方向に坂を上り始めると、セルリアンタワーの庭園通路の入り口、草木の育ちはすさまじく、森の様相になっています。

 かって30数年も通い慣れた道、南平台・代官山とひとくくりにされていますが、猿楽町、鉢山、鶯谷など由緒ある地名が入り交じっているのです。生活道路の両側もお屋敷跡はいずれも共同住宅・マンションに変貌しています。幸い用途指定の規制により低層建築で良い景観を保っています。

 Tサイト(蔦屋書店)が出来てから、代官山を中心とするこの地区も人の流れが多くなり、こんなレンタサイクルのステーションも出来ています。

 Tサイトの植栽も緑豊富になり訪れる人を歓迎しています。


完成した姿が見られるでしょうか? 渋谷駅周辺再開発:渋谷区

2017-12-31 16:26:47 | 町並み

 忠犬ハチ公の周りは人だかりができていました。いつの頃からか、常に人に囲まれているようになりました。一時期は、特に壁際に移転させられていた頃は、立ち寄る人も途切れがちだった記憶があります。

 大晦日は家の仕事の分担があるのですが、今年は暦の関係で早めに終えられましたが買い忘れの正月用の品があり、東急東横店へ行ったついでに東口へ出てみました。仕事場を渋谷から他所へ移してからは渋谷駅は単なる乗換駅となり、時折の買い物で西口へは出ますが、東口へ出ることはまずありません。時折ニュースで渋谷駅の映像を見ることがありますが、かなりビル群が建ち上がっているようなので、ぐるっと回ってみました。

 見上げるほどに躯体は聳えていました。

 東横東館や東横線の線路、名店街などのあった場所なのでしょう。

 同時に開発されていた恵比寿よりにも、高層ビルがありました。

 もっとも、明治通り沿いはそれほど変わってはいません。

 駅前広場のバスターミナルも、今は仮の配置となっているようです。先行して数年前に「東急文化会館」の跡地に建てられた「ヒカリエ」と対面するのもまもなくでしょう。

 地下鉄駅も明治通りの上に移動するので、その工事も並行して進められているようです。

 今年は夏休みと秋の初めのお出かけがメインとなり、、2・3年来の遠出は無かったのでblogの更新がまばらになりました。本年は打ち止め、来年もよろしくお願いいたします。


東京には空がない 銀座中央通り:中央区

2017-12-14 14:48:13 | 町並み

 銀座通りと呼ばれるのは通称か?銀座1丁目辺りから尾張町交差点(銀座4丁目)方向を見ている。新橋で第1京浜が別れ、上野駅で再び昭和通りと合流する辺りまでが「中央通り」と呼んで良いかは定かではないが・・・。

 例年通り師走のこの時期旅のブログの端境期、だんまりを決め込んでいたら友人のfacebookに「渋谷周辺の再開発で日が地上に当たらない」とあったので便乗してお蔵入りの画像を取り出した。

 11月の半ば、所用で銀座へ行くという妻に同行して出かけた。銀座といえば「天龍」の餃子が定番、例によって行列に並んで入店。が、様子が少し違った。かって木造の2階建てが、ビルに生まれ変わってきれいになった。それを目当てに来たのだが入り口が見つからない。角を曲がって見渡すと行列が・・・入店を待つ人の列、エレベーターで4階へ上がるという、ビルが建て替えられ、此所もさらにかなりの高さになっていた。

 今回の画像だが、ホワイトバランスなど一切の処理をせず、見たままを表現してみた。正午頃だが日の射さないビルの谷間、これでは雑草も生えられないほど暗い!天龍から出て中央通りへ戻る。ビルの壁にはブランドのロゴ、カルティエ ティファニー ダンヒルetc.これでも「銀座」!

  

 それでも4丁目の交差点はやや広い空間、「和光」と「三愛」のビルはやや明るいので救われる。

 和光は建て替えられると聞いているが、この時計台は???形だけの「歌舞伎座」並みにはなって欲しくないが・・・。

 本日のメインは「ギンザシックス」松坂屋の跡地とあって、広角レンズでも収まりきらない。

 寄ったり離れたり、この程度か。もっとも、ブランドショップばかりで、我が夫婦には“オヨビデナイ(古)”

 目の前には「ユニクロ」が、少し離れて「GU」も、この対比が面白い。

 それにしても、やはり東京には空がない「智恵子は 東京に空が無いといふ(智恵子抄)」


雁木通りだった 鈴木牧之記念館・牧之通り:新潟県南魚沼市

2017-05-25 17:28:10 | 町並み

2017GWの旅 その5・終章

 駐車場に車を止めて見渡すと周囲は公園になっていて緑があふれていた。木立の先に落ち着いた雰囲気の建物があり「鈴木牧之記念館」とあった。

 鈴木牧之(すずきぼくし)は記念館のwebサイトによれば「『北越雪譜』の著者、明和7年(1770)塩沢に生れました。幼名:弥太郎、元服後:儀三治。牧之の家は、代々縮みの仲買商を稼業とし、父の影響を受け幼い頃から学問や文芸の道に励みました。雪国越後の民俗、習慣、伝統、産業について詳述した『北越雪譜』は牧之の代表作。」

 記念館を観覧して表に出ると公園になっていた、野外舞台や遊具などが置かれていた。

 GW5月5日は晴天であったが、翌6日は朝から雨が降っていた。野山の散策には向かない。ということで室内で満足出来る場所、柏崎の「木村茶道美術館」へ向かった。峠をいくつか越え(道路が整備されバイパスのトンネルが多く造られ、30年前初めて今のほくほく街道方面に行った頃と比べ峠越えは僅かになっている)海に近づくと雨脚は強くなった。久しぶりの茶道美術館、茶席には人間国宝柿右衛門作や楽O代作などの茶碗が出され、普段はガラスケースの中の展示品が手に取れる。そのために訪れるのだが雨のためか客は2組4名だけであった。美術館と松雲山荘についてはすでに数度紹介しているので割愛。

 魚沼の背骨となる「魚沼スカイライン」を発箇峠トンネルで抜けて南魚沼へ戻ると六日町、少し東京寄りが塩沢となる。そこに「牧之通り」はある。宿場町、雁木通りが再現されている。

 地方の小さな村・町の合併が進められていた時代があったが、明治時代には数か村が纏まり塩沢町が誕生、昭和後半さらに周辺石打村などを吸収した後2005年に六日町市を中心とした南魚沼市に吸収合併されている。学生時代、独身時代に頻繁にスキーに来ていた石打・塩沢・六日町の名前も今は字名としてしか残っていない。

 「塩沢町の中心街は旧三国街道(日本海側と江戸を結ぶ輸送路)沿いの宿場町として栄えておりました。それから300年。その歴史と文化を復興させようと地元住民が「塩沢らしさ」とは何かを町役場そして県地域振興局の職員の方々と長い時間をかけ、三国街道塩沢宿「牧之通り」として完成いたしました。」と塩沢観光協会のサイトにあって見事に再現されていた。

 「牧之通り」は前から気にはとめていたが、「牧之」そのものに知識がなく行動に起こせずにいた。実際訪れてみるともっと大々的に広報してもよいのでは・・・。商店はもちろん銀行や郵便局もこの中に入っている。どれがどれやら記録はしてない。

 上越の高田の雁木、学生時代に行きその見事さにびっくりしたが、1昨年「雁木通り」と名付けられた町筋を訪れたが、往時の思い出と食い違いがっかりしている。塩沢は、かなりの長さの町並みを往時さながら復元していた。時は端午の節句、土間奥に人形を飾っている家屋もあった。

 湯沢へ帰りいつもの食事処で夕食を済ませ、翌日朝、GW「その1」の足利フラワーパークの藤を観て今年の細切れ休日は終った。

 

 




寺がひしめいて 谷中寺町②:台東区

2016-06-24 17:33:45 | 町並み

 細い路地なのか参道かは定かでない。奥まったところに本堂が見えている。「霊梅禅院」とあったから禅宗寺院であろうか。

 2月に掲載を開始したが始めたところで他の記事が輻輳して中断している。60ほどの寺があるというが半分ほどを歩き撮ったようだ。門を入ると目前に本堂があったり、広い境内に広い墓地が並んでいたり、金色のお釈迦様が立っていたり大小新旧様々だった。まとめはじめ宗派を始め仏教に関する知識がほとんどないことに気がついた。画像も門前か本堂前の表面ずらしかない。blog記事にまとめるのは困難のようだ。

 ということで、画像の羅列にとどめることとした。

 商店が並ぶ通りを一本入った道の両側に寺の多くは並んでいた。「赤穂浪士ゆかりの寺」と台東区教育委員会のお墨付きのある「観音寺」は山門も本堂も風格のあるたたずまいで、傍らにあるのは観音堂?・・・勝手な推測!

 弘法大師と門柱にあったのは「加納院」

 「本立寺」は一見住宅風だった。

 「養傳院」の門構えは武家屋敷を彷彿させる。

 そして「安立寺」、実家の墓のある寺の佇まいに似て何か懐かしい。

 まだ画像はあるが整理がはかどらない。上野といえば「寛永寺」とりあえずはそちらをまとめ、他は材料不足の時のつなぎに掲載することとした。


田園調布に家が建つ!! 田園調布:大田区

2016-05-23 17:13:13 | 町並み

2016GW-7

 銀杏並木が続いているが人は殆ど歩いていない。整然と駅から放射状に延びている道路には、初夏の青葉の茂った並木が続いている。東横線田園調布駅を背に放射状に広がる街路の一つを見ている。

 等々力渓谷から多摩川へ出て次は何処へ?多摩堤通りは頻繁にバスが行き来していたが、せっかく天気も気候も良いので散策を続けることにした。

 かって漫才ブームの最中金儲けをして「田園調布に家が建つ!」という星セント・ルイスコンビのギャグが受けたことがあった。地域の田園調布会や大田区も取り決めや条例によりいくつかの規制をかけているといつか聞いた覚えがあるが、「最小区分(狭小に土地を分割しない)や生け垣を原則とする、集合住宅にしないなど」表現や制限は確かではないが、この地域の家並みは超高級住宅街の表現に値し地域で保存に努めている。

 ということで世田谷区玉堤の住宅街、工場や普通の住宅・アパートの中を抜け、東京都市大学(旧武蔵工大、東横学園短大)のキャンバスを横に見て進む。いつの間にか住居表示は世田谷区尾山台となっていた。大井町線の尾山台駅は台地の上にあるので、低地まで尾山台の地名が付けられていたとは???

 左手が世田谷区尾山台、右手は大田区田園調布となる。坂を登ると環八に至る。

 目前にも坂がある。街路表示は大田区田園調布五丁目であった。

 田園調布の街並みは、駅を中心に放射状に延びる街路と、同心円を描く輪状の道路で構成されている。坂下の低地にある宝来公園を通る道路が輪状の最外周になると思っているが、多摩川園のテニスクラブに通っていた頃は、環八からこの道路を毎回通っていた。が、時折並木道を駅方向に車を走らせ車内から街並み見物をしたことはあるが、徒歩で散策をしたことはなかった。

 坂を上がり始めて、かなりきつい斜度があることに驚いた。坂下に僅かに田園調布雙葉学園中学・高等学校のグランドの端の網が写っていた。この坂がyukimiさんのblogにあった「国分寺崖線」に当たるのであろうか。

 坂の上は台地となり駅方向に向かう放射道路は並木か続き、周りの“御屋敷”は手入れの行き届いた生け垣に囲まれている。

 程なく駅前に出た。駅舎は東横線が地下に潜る前の旧駅舎を復元したと聞いている。駅前のロータリーの中心には池と噴水と花壇が高級感を高めていた。

 昼を過ぎ食事と思ったが、噴水サイドにはレストラン・食堂・商店の類いは少ない。反対側には商店街はあり、寿司やとんかつ屋(以前利用したことはあるが)はじめある程度の飲食店はあるが、やはり活気がなくはいる気持ちになれなかった。(同じくyukimiさんのblogにあった「京中華・磊磊落落」を見つけたが今日は独り、贅沢をする訳には行かないので、又の機会にした。)

 ということで近くて沿線で活気のある「元住吉」の商店街に向かって東横線に乗った。いつ来ても活気のある商店街の中で食事を済ませ、ある遊歩道に向かったが、その件は後日機会を見て紹介する。