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海路を示す光を持て!

2011年10月13日 | チュチェ思想入門
ゲーム、ネット、携帯、漫画とどのように付き合っていくのか。これは、現在日本に住む人々が持つ重要な課題の一つです。

特に、これから子供たちを育てようとする、「セセデ」の親たちにとって、現在の日本における家庭教育をマネージメントする上で、社会的に普及されているモノをどのように有効的に使うのかという問題は、大事な関心事の一つだと思われます。

現在、日本を含め「先進国」と称される社会で、問題の一つとなっているのが、上記のような、「サブカルチャー」(いわゆる若者文化)です。今回は、このような社会を哲学してみましょう。

本来ならば人間は、人と人との関係を築いていき、その過程に新しく出会い、別れ、自らを育て上げていきます。そういった人々の関係の中で、自分の感情、そして世界観を養っていくのが人間です。人間が大人になる上で必ず、通らなければならない登竜門がこの「人間との付き合い」だとも言えるわけです。なぜならば、人間は社会的存在だからです。

ですから、人との付き合いの中で、恥をかいてみたり、他人に新しく習うということは、人間にとって極めて「普通」なことなのです。

しかし、私たちがいる社会では、この「普通なこと」が「普通じゃない」。それは、この人々の関係を自らが商品、モノとして感じてしまっているがゆえにです。本来、社会的存在としての自らの意思で、人々の間で暮らしていく存在こそが人間です。しかし、私たちはいつの間にか、何を持っているのかという観点から「人間の価値」を決めてしまいがちです。
それは、人と人をつなぐツールとしての、携帯やネットなどが、大量に生産され、それを管理しえない若者までもが無責任的に過剰使用してしまう、社会にも要因があるとは思いますが。

しかしながら、そのような社会において、モノを使うというのはごく自然なことです。大事なことは、この社会に生きる人々が自らの世界観をしっかり持っていないことによって、「全ての主人であり、全てを決定する」自らの価値を、本来、彼(彼女)らが扱うはずである「モノ」によって規定してしまうこともあり得るということです。

これは特に、人間の「自由」などを考えてみるとよくわかります。ポテトチップスやポッキーを買う、そして買わない自由があるのと同じように、ある人は友達をつくり、またある人は、友達なんかいらないと思う。一言で、人々が「人間関係」すらも取捨選択できる「自由」が、横行しているのではないのかと、思います。この状況から、「一人でも大丈夫」という考えが少なからず許容されてしまうのが、現在の特徴だと私は、思います。

私は、この状況が、集団的存在であるからこそ全てを開拓していくことのできる人間の才能を埋没させ、「自分だけ」という暗い闇に閉じ込めてしまうメカニズムのように見えて、不安を覚えてしまうのです。
ゲーム、ネット、携帯、漫画といった問題を最初に提起しました。
「ワカモノの問題」の中には、ただダメだ、と一方的に判断される問題も多いのですが、今、このようなモノが氾濫している社会の中で、それを無視したり、もしくは単純に「ダメ」という方法で、拒絶するのはナンセンスだと私は思っています。

拒絶は「解決」ではありません。このような社会的状況を理解して、これらのモノとどのように付き合っていくのかという視点こそ大切だと、私は思っています。

人間を個人の枠の中に閉じ込めてしまう、この真夜中の大海のような大量生産・消費社会の中に生きているがこそ、私たちは、人間として自らの進む道を、いつでも照らす灯台となる世界観を持たなくてはならないのではないのでしょうか。

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