朝鮮について知りたい

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人はモノじゃない

2011年10月13日 | チュチェ思想入門
「環境は人を変える。しかし、人は環境を変える」。とある日、テレビで聞いた言葉です。コマーシャルを作った当事者は、いわゆる「第3諸国」において、現在どれほどの人々が、日本の資本主義的大量生産、消費によって、自然破壊に伴う甚大な被害を受けているのか、確実にわかっているでしょう。(体のいい言葉を並べていやがる)などと、考えながらペンを取ってみました。

前回の内容は、人間のみが社会的集団を形成し、集団的な結束力を持って、「世界」と向き合うがゆえに、まさに「人は環境を変える」ということでした。

今回のテーマは、では人間はなぜそのような行動をできるのか、しようとするのかという問題に接してみようと思います。

これまで哲学者たちは、人間に対するあらゆる哲学的問いに対して、色々な答えを出しては、疑い、新しい答えを打ち出し、哲学の歴史を発展させてきました。その先達による人間観の発展過程を、紙面上お披露目できないのは、少し寂しいところです。

チュチェ哲学は、「人間は社会的存在」という答えを前提に、そのような人間は、「どのような特徴を持つのか」というところに注目しました。
人間が「すべての主人であり、すべてを決定する」ことを成し遂げうる要因はなんなのでしょう。それは、人間が持つ自主性、創造性、意識性です。「人間は自主性、創造性、意識性を持った社会的存在である」。これが、チュチェ哲学の人間観です。


社会に属し、社会的な揺りかごの中で自らを育んできた人々全員が、社会からもらえるプレゼントは、この自主性、創造性、意識性です。人間は、自主性を持っているがゆえに世界と自分自身の主人となり、創造性を持っているがゆえに自身の要求に沿って世界を変えていきます。そのすべての行動を、目的意識的にできるところに人間の魅力があるわけですね。

イジメをきらい、民族差別を憎み、異国でウリマルを学びチョゴリを守るのも、自主性を持つからであり、子どもを愛し、電車で席を譲り、広い心で他国の文化を尊ぶのもやはり、人間に自主性があるからです。自ら奴隷の道を選ぶ人は、人間としての命を絶たれたも同然です。人を人と見なせないヒトは、自ら尊い命を捨てるも同じです。

人間として、自主的な存在として自分が持った志向を叶えていくための自分の行動を、目的意識的にできるのは、自主的な人間が創造性、意識性も持つからです。

 一言で、人間は自主という運命開拓における第一目標を達成するため、創造という極めて意識的な活動をし、自然の主人として、社会の主人として、そして人生の主人としての運命を開拓していくのです。
 人々は、このような自主性を持つ人間として、長い歴史の過程の中で、自然の束縛から抜け出し、社会の恩恵を受けるため努力し、自身を磨いてきたのです。難しい条件の中でも人間としての、民族や同胞といった社会の一員としてのプライド=自主を守っていく道こそが、ヒトから人間になる大きな一本道ではないのでしょうか。

 最近話題のAKB48。年端もいかない若い女の子が、「人気」という「選挙」に身を投じて、「当選」「落選」で自らの「価値」を決めつけられるこの状況。自らを「商品」にして、他人を蹴落とす「美貌」と「愛嬌」を兼ね備えなければならない。もちろん1位や2位になれれば、その子は「夢」を果たすでしょう。しかし、彼女たちがもし自分「だけ」が一等賞になろうと考えているとしたら、それは人間としての尊い生き方ではないと思います。

他人の自主性を尊重する。そして集団的自主を達成するために、創造的活動を目的意識的に、集団的にする時、素晴らしい人の生き方が生まれるのではないでしょうか。


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