最近、ある記事に連載を始めました。
「21歳からの哲学」ということで。
そんなこんなで、更新もしてなかったので、軽~くいってみますか。
今回は初回ですので、準備体操と思って「哲学する」ということはどのようなものなのかを簡単にガイダンスさせていただきましょう。
さて、みなさん、「哲学」というと、どのようなイメージをお持ちでしょうか。哲学者というと、言葉遊び好きな偏屈な人とか、頭固そうという意見がありますね。 私もよく言われます。「難しそう」というのが「哲学」に対しての一般的な意見ではないでしょうか。しかし、「哲学」というものは誰もが持っているものです。哲学を「ものの見方、考え方」とも言います。うまく言い表せていると思います。
「俺はジャイアン、ガキ大将~」、「真の友よ~」で有名な、あのジャイアン氏。彼の名セリフは「俺のものは俺のもの、お前のものは俺のもの」です。これもやはり、彼の「ものの見方、考え方」でしょう。
これを哲学的に解釈してみますと、こうなります。「俺は子供たちのトップ(親分)。自分の持っているいいものを子分が親分に渡すのは当たり前の道理。したがって、自分はすべてのものを持つべきである。」
これは簡単な例ですが(個人的にジャンアンは好きです)、ある人の言葉や実践が、その人の哲学(ものの見方、考え方)というものを象徴するという例えになったとは思います。逆に考えると、その人の哲学はその人の言葉と実践でしか表せないものなのです。
さて、このように、人々は各々、自分の考えを持っていますし、その信条に従って行動するものです。しかしながら、全ての人がその自分の信条(モットー)を、自分自身の要求に即してうまく持ち得ているわけでは決して、ないのです。
『理知と学問、人間のこの至高の天分を軽蔑するならするがよい-さすれば悪魔に身をゆだねたも同じこと、滅びいくにきまっている。』
「ファウスト」という著書で書かれたゲーテのこの言葉は、人は時に、理に合わない考えを「自身の観」として確立してしまう「浅はかさ」を持っているということ、またそれは「悪魔の使者」となりうる可能性すら、秘めているということを、我々に警告しています。この言葉は、人生のパイロットとしての自分自身がしっかりした「哲学」を持っていないとき、その人生が途中で墜落する事すらあるということを教えてくれているのです。
今の「悪魔に身を委ね」つつある日本の中で生きていく私たちは、語り継がれる賢者の言霊をしっかりと焼き付けておかなければならないのではないのでしょうか。
ヒトを「人」たらしめるのは、「動物性」でも「植物性」でもなく、「人間性」です。花の個性を香りと色彩とするならば、人の個性は「人間性」です。包容力があり、暖かい人間性を持ってこそ、その人の周りには次第に人が集まるものです。
ヒトとして生まれた人が、「人間性」を持った「人」として成長していく過程と、「人間性」を考え、理解し、自分の哲学として確立する過程が一致するのはそのためです。たとえば、人が人生において「幸せ」とは一体何なのかを考えるのも、また同じです。「幸せ」とは何なのかを考え、そこに対する答えを探しだす。その「真理」にもとづき、自分の要求に沿って自分自身の力で創っていくものこそ、人生です。
自分の生きる状況から逃げ出すことはできません。人間は自分のおかれた世界の中でのみ、自分の人生を切り拓いていけるのです。その運命を切り拓いていく「ものの見方、考え方」とは、一体なんなのか?
これに対する答えを探りだしていく過程がまさに、「哲学する」というではないのかと、私は思います。
今の「理知」が欠けている日本社会の中で我々自身がより良く、「人間らしく」生きていくために、持つべき「哲学」がどういうものなのかという、問題提起をこれからの連載で綴っていきたいと、思います。
「21歳からの哲学」ということで。
そんなこんなで、更新もしてなかったので、軽~くいってみますか。
今回は初回ですので、準備体操と思って「哲学する」ということはどのようなものなのかを簡単にガイダンスさせていただきましょう。
さて、みなさん、「哲学」というと、どのようなイメージをお持ちでしょうか。哲学者というと、言葉遊び好きな偏屈な人とか、頭固そうという意見がありますね。 私もよく言われます。「難しそう」というのが「哲学」に対しての一般的な意見ではないでしょうか。しかし、「哲学」というものは誰もが持っているものです。哲学を「ものの見方、考え方」とも言います。うまく言い表せていると思います。
「俺はジャイアン、ガキ大将~」、「真の友よ~」で有名な、あのジャイアン氏。彼の名セリフは「俺のものは俺のもの、お前のものは俺のもの」です。これもやはり、彼の「ものの見方、考え方」でしょう。
これを哲学的に解釈してみますと、こうなります。「俺は子供たちのトップ(親分)。自分の持っているいいものを子分が親分に渡すのは当たり前の道理。したがって、自分はすべてのものを持つべきである。」
これは簡単な例ですが(個人的にジャンアンは好きです)、ある人の言葉や実践が、その人の哲学(ものの見方、考え方)というものを象徴するという例えになったとは思います。逆に考えると、その人の哲学はその人の言葉と実践でしか表せないものなのです。
さて、このように、人々は各々、自分の考えを持っていますし、その信条に従って行動するものです。しかしながら、全ての人がその自分の信条(モットー)を、自分自身の要求に即してうまく持ち得ているわけでは決して、ないのです。
『理知と学問、人間のこの至高の天分を軽蔑するならするがよい-さすれば悪魔に身をゆだねたも同じこと、滅びいくにきまっている。』
「ファウスト」という著書で書かれたゲーテのこの言葉は、人は時に、理に合わない考えを「自身の観」として確立してしまう「浅はかさ」を持っているということ、またそれは「悪魔の使者」となりうる可能性すら、秘めているということを、我々に警告しています。この言葉は、人生のパイロットとしての自分自身がしっかりした「哲学」を持っていないとき、その人生が途中で墜落する事すらあるということを教えてくれているのです。
今の「悪魔に身を委ね」つつある日本の中で生きていく私たちは、語り継がれる賢者の言霊をしっかりと焼き付けておかなければならないのではないのでしょうか。
ヒトを「人」たらしめるのは、「動物性」でも「植物性」でもなく、「人間性」です。花の個性を香りと色彩とするならば、人の個性は「人間性」です。包容力があり、暖かい人間性を持ってこそ、その人の周りには次第に人が集まるものです。
ヒトとして生まれた人が、「人間性」を持った「人」として成長していく過程と、「人間性」を考え、理解し、自分の哲学として確立する過程が一致するのはそのためです。たとえば、人が人生において「幸せ」とは一体何なのかを考えるのも、また同じです。「幸せ」とは何なのかを考え、そこに対する答えを探しだす。その「真理」にもとづき、自分の要求に沿って自分自身の力で創っていくものこそ、人生です。
自分の生きる状況から逃げ出すことはできません。人間は自分のおかれた世界の中でのみ、自分の人生を切り拓いていけるのです。その運命を切り拓いていく「ものの見方、考え方」とは、一体なんなのか?
これに対する答えを探りだしていく過程がまさに、「哲学する」というではないのかと、私は思います。
今の「理知」が欠けている日本社会の中で我々自身がより良く、「人間らしく」生きていくために、持つべき「哲学」がどういうものなのかという、問題提起をこれからの連載で綴っていきたいと、思います。
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