朝鮮について知りたい

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平和か、戦争か。

2011年10月12日 | 現代朝鮮、朝鮮半島
2009年4月19日午後、中川前財務相は、北海道帯広市で開かれた自民党の会合で、ミサイル発射を非難する国連安全保障理事会議長声明に反発し、朝鮮が核開発再開を宣言したことに関連し「純軍事的に言えば核に対抗できるのは核だというのは世界の常識だ」と述べ、日本として核武装を議論していかなければと表明したと、いう。


この中川氏、は安倍政権で自民党政調会長を務めていた2006年10月にも「憲法でも核保有は禁止されていない」と発言している。

中川氏は、朝鮮が日本に対して予告なしにいつでも「ノドン」(そんなものはないのだが…)を撃ってくるという態勢に一歩近づいたとして、対抗措置を常に議論しておかなければならないと訴えたという。

そして、現時点での、日本の核兵器保有の必要性については「核(武装)の論議と核を持つことはまったく別問題」と述べ、当面は国民レベルでの議論に委ねるのが望ましいとしたらしい。

このような最近の記事を見ながら思うことが多々ありますが。

まず、朝鮮が「核」をもったことによって「日本も武装しなければならない」という論理について。

中川氏はこの発言をするにあたって、朝鮮が何のために核実験をしたのか、という部分を完全に省略している。
大東亜共栄圏思想をもって、アジアの国々に対し、侵略を行ってきた日本という国が、今現在もわれわれの眼の前で在日朝鮮・韓国人に対して一貫した差別政策を行い、そして当時植民地にしていた国々に対し、恥ずべき歴史を拭えていないのは、全世界共通の認識である。

自分のことは棚に置いて、人をもって罪を隠す。

日本が辿ってきた戦前、戦争、「戦後」(日本において、真の戦後は存在しないのだが)の過程でいつ、人々のために、世界の未来のために自らを投じてきたのであろうか。

アジアの国々対する植民地主義と、他国の植民地主義に加担することによって得た経済大国という地位にある日本において、まがりなりにも政治家の中心人物でもある誰かが「核武装をする」という言葉にどれだけの人が痛い過去を思い、震え、涙するというのか。

まして、日本国の政治を責任持つ首相の中で、歴史をなき者にし、核武装・戦争を促した「指導者」は、どれほどいるのであろうか。

日本の「核問題」、「核武装問題」は、これらの主張がされてから提起されてきたものではないことは明らかである。

日本はすでに、核武装を軍国化の一つの政策的核心とみなし、そこに力を注ぎ続けたのは否めない事実である。
日本における核の制作と保有は日本自身の決心にゆだねられる、もっというならば、簡単に核武装できるというのは、専門家の一致した意見である。

長い間、終戦のその日、GHQの監視下、そして結託の中で、植民主義という戦前とまったく同じ「戦後」を歩き、長い時間と資金を投与し準備されてきた日本の核武装化が当時は非核国であった「朝鮮の脅威」によるものと断定するならば、これこそ、論理において、常識において辻褄の合わない話であろう。


アジアの諸国において、今日の日本の核武装論が軍国主義海外侵略野望の実現のためであると、疑い恐れ、また怒りに震えるのも至極当然の結果であろう。

日本は終戦時、世界の模範となりうる「平和憲法」を打ち出し、「集団的自衛権」を放棄していた。 しかし、それも日米安保の境地という理由で、「集団的自衛権の行使」云々を力説するに至っている。

大東亜共栄圏思想を持って、アジアの国々がまるで、ゲームや漫画、映画の中で殺され、なぶられ、人間の尊厳を蹂躙され続けた、中国や朝鮮、フィリピンの人たちからすると、このような議論は一体どのように映るのであろうか。

現在、日本は「朝鮮という国」=「脅威」であると言っている。

しかし、過去、朝鮮本土に砲を撃ち、「法に従わざるもの死ぬのみ」(東条英機)として、土地を奪い、教育を奪い、名前、そして命までをも奪ったのは、まぎれもなく、日本である。

日本と朝鮮の関係の間で、悲しい過去があったのは事実である。

それが、今「解決法」も論議されぬまま、「アメリカに対する核武装」に対する「核武装」と、先の見えぬ、いや殺戮と戦争という過去が繰り返さざるを得ない結果のみを追求しているように見える。

朝鮮半島の非核化は日本や朝鮮はおろか、世界平和を築く大きな大きな第一歩であるであろう。

それを、論議し、はじめてこれからの本当の意味での「安保」が論議されてこそ、また論議しようとしてこそ、人のための政治家、人の尊厳を守れる政治家、「人」としての人でいれるのではないだろうか。

日本における、「核武装」まで含めた「集団的自衛権行使」の問題は日本という国が戦争と永遠に決別し、平和の道を選び、世界の模範として生きられるのか、それとも、軍国主義、植民主義を掲げ海外侵略の道、殺戮機としての人間形成の道に転げ落ちるかの、試金石となるであろう。

「人」として。
「人の尊厳を守れる人」として。
「人の痛みを知ろうとする人」として。




恥じることのできる心を持った人は暖かい心を持っているものだ。
人には暖かみを、自分には厳しさを。

すべての事象を主体的、実践的に課題づける努力が今の世の中必要だと思うものである。

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