平成うきよの覚え書き

日々の出来事などを老化防止の為 書いてゆきます。

初めての横浜の街

2008年06月05日 | 私の「小話」史
昭和24年の旧盆の頃初めて電車に乗り横浜の町に出かけた。金魚を買う事が目的であった。何時の頃か覚えていないが、「金魚」と言う綺麗な魚の話を祖父から聞き、何としても飼って見たいと思うようになった。「横浜に行けば売っているだろう。そのうち連れて行ってやろう。」父がこう言ってくれたのは4月頃であったろうか。父は比較的無口で普段余り会話をしたことが無かったが、これ以来お茶の時などに恐る恐る「何時金魚買いに行ってくれる」と何度も聞いたが何時も曖昧に「ソーダナー」と考えている様子であリ一向に埒があかなかったが、遂に何度目かの時「お盆の頃に行こう」と答えがあり天にも昇る気持ちであった。父をずっと煙たく思っていたが、このとき初めて父に「親近感」を持った。祖父は金魚を飼う水槽を、近くでコンクリート製品を作っている所に注文してくれた。水槽が出来上がりリヤカーで家に運んだのは6月頃であったろうか。コンクリートのアクを取る為、水を張り1週間くらいで水を替える事を何度か繰り返して金魚を飼う準備をした。お盆の来るまで見たことのない金魚を想像しながら過ごす日々は永く楽しい物であった。愈愈横浜へ出かける日はとても早く起きて支度をした。終戦から4年経ってはいたが、まだ食堂は無いかもしれないという事で母はおにぎりを沢山作った。水筒とおにぎりを持って出かけた。兄弟3人(長姉、次男は行かなかったかもしれない)が父と一緒に出かけるのは始めてであった。私は金魚の絵が書いてある小さなナブリキのバケツを持っていった。これは親戚の人から頂いた物であったと思う。
 電車に乗るのは初めてであったが、沢山の人が乗っている事と酷い揺れにはビックリした。恐らく桜木町迄電車で行き、桜木町、野毛の街を歩き金魚を探したたが見付からなかった。「伊勢佐木町に行けば売っているよ。昼にしよう」と言う父の言葉で小高い所にある公園に行きおにぎりを食べた。(掃部山公園・当時銅像は供出されてなかったと思う)コンクリートの台のようなところに座り皆でおにぎりを食べた。伊勢崎町に行けば売っているという父の言葉に望みを託し、私も半べそでおにぎりを食べながら景色を眺めた。街は黒っぽく煤けた感じであり船も沢山見えたがみんな汚れて見えた。公園には私達以外人影はなかった。(人も街も港も戦争の傷が未だ癒えていなかったのだろう。)昼食を食べ伊勢佐木町に行くと、建物は皆煤け、歩いているのは異形の雲突くような大男ばかりが目立ちとても怖く別世界に来た感じがした。そんな訳で周囲の景色をゆっくり見る余裕は無く恐々と父の後ろについて歩いた。多分今の6丁目辺りまで歩いたのであろうか。「前は幾らでも売っていたが、今は無いなー」と言う父の言葉に悲しくなってシクシクと泣き出してしまった。この日は8月のお盆の頃であり未だ相当暑かったであろうがそんなことは全く覚えていない。4歳上の姉が白い帽子を被り疲れたような顔をしていたことは記憶にある。父が時々何かを喋る以外兄弟は殆ど無言であった。弟の我侭に付き合わされていると家を出た時から思っていたのであろうか。伊勢佐木町から日出町を経て野毛山に来ると、子供達が破れた身なりで大勢たむろしていた。この光景にも驚いた。戦争に負け、空襲があり家を焼かれ多くの身寄りの無い子供がいること、このようなことは全く知らずただただ異様な人たちと思ったに過ぎない。あの子供たちと我が身の隔たりと、そして自分と同世代のあの子供たちはその後どうなっただろうかと、10年以上後になって考えた。

野毛坂から今の動物園の西側に出て細く静かな道を、首をうなだれ泣きべそをかきながら暫く歩いて行った。恐らく父は藤棚に行けば売っているかもしれないと考えたのであろうか。  続く



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