平成うきよの覚え書き

日々の出来事などを老化防止の為 書いてゆきます。

「天地不仁」と「雨降らば降れ、風吹かば吹け」

2015年08月11日 | Weblog
次のサイトから転載させていただきます。「老子道徳経」
www.globe.sh/guzzi/tommy/lao-link-5.htm

第五章



天地不仁。以萬物爲芻狗。

聖人不仁。以百姓爲芻狗。

天地之間。其猶?籥乎。

虚而不屈。動而愈出。

多言數窮。不如守中。

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口語訳


天地は不仁、万物を以って芻狗と為す。

聖人は不仁、百姓を以って芻狗と為す。

天地の間は、其れ尚 ふいごのごときか。

虚にして屈せず、動きて愈々出ず。

多言は数 窮す、中を守るに如かず。


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とみぃ意訳



天と地は無情である、

万物をまるで無用になったおもちゃのように扱う。

(芻狗とは祭りの時に使う藁細工の犬の人形、祭りが終われば捨てられる)

「道」に沿う聖人もまた、無情である、

すべての人々を天地と同じようにおもちゃのように見る。


すべてのものの生まれ出る天と地の間は、まるで鞴(ふいご)のようだ。

中は空っぽであるが、いくらでも新しいものを生み出す。

それは動けば動くほど、どんどんと生まれ出てくるのだ。


人もあまり知識をため込んでいると新しいものが出てこなくなる。

頭を空っぽにして、自然にしていれば良い。


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雑記



天地(宇宙)の原理は無情なのである、非情なのである。

生み出した万物はそのまま放っておくだけで一切こだわらない

人間的な「仁」と言った慈愛の念など、かけらもない。

自然とはそういうものだ、そこに作為も無く、導くこともしない。

生きるものは生き、滅びるものは滅びる、助けもせず、守りもしない。

新しいものを次々に生み出して行くからこそ、生み出したものへの

こだわりは一切、持たない、だからこそまた新しいものを生み出せる。

自然とはあるがままでしかなく、何がどうなって行こうが気にしない

すべては生まれ出て、死に行くだけである。


道に沿った聖人の行う統治も同じだ、人々をあるがままに放っておく

教育もしなければ慈悲もかけない、作為の無い自然な統治とは

そういうものだ、意識的に人民を愛している風に「仁」を装ったり、

情をかけて支配したりはしない、道に従いただ放っておくのだ。

そうすれば人々は延び延びと創造をし、新しいものを生み出していく

自然に任せれば、何事も解決していく、聖人はそれを知っている。




すべてのものが生まれ出る天と地の間(無と有の融合するところ)

はまるで鞴(ふいご)のようだと言う、中身は空っぽなのに

動けば次々に新しい風を起こし、そのエネルギーは尽きる事が無い

中身が詰まっていれば、この無限の作用は起こらない。

空っぽだからこそ、永遠ともいえるこの無限の働きが起きるのだ。



人も同じ事、無用な知識を詰め込んで、あれも知ってるこれも知ってると

偉そうに語れば、そのうちに知識も枯渇して呆れられる。

また知識にこだわり、執着すれば新しいものは入らず、そして生まれない。



頭を空っぽにして、永遠に流れる「道」の原理に沿って生きるということ。

それは日々新しく、日々動き続け、どこにも留まらず進み続ける

昨日にこだわらず今日を生き、今日にこだわらず明日に向かうこと。



天地(宇宙)の原理は無情なのだ、明日の事はまったく解らず

いつ災難に会うか解らない、安全という保障などどこにも無い。

ちっぽけな知識などいくら貯め込んでも、自然の力には到底かなわない

それよりも日々動いていく「道」に沿って、空っぽでいる方が良い

無為自然の生き方とはそういうものだ。





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追記




たとえば大きな台風が来る。

山がくずれ、洪水が発生し沢山の犠牲者が出たとしよう。

しかし、自然は天地はそんな事、気にもかけない。

なんと非情な事か・・・・・



今度はあなたが車で走っていたとしよう。

道路の真ん中を小さな虫が歩いている。

あなたの運転する車はまるで気にもかけずにその虫をつぶして走る

なんと非情な事か・・・・・



実は人間も、小さきものにはこれほど非情なのである

しかもそれは日々起きていて、ただ気がつかないだけの事だ。



さて、その虫と人間と「命」という意味で、どれだけの違いがあるか?

まったく違いは無い、天地の中で生きるひとつの「命」でしかない



実は世界の原理は「無情」で成り立っている。

愛情や慈愛や義理や人情など、人間が考え出した「たわごと」でしかない

そんな事で一喜一憂するのは人間の社会だけの事である。

自然の中にそんなものは存在しないし、原則でも原理でもない

自然も天地も宇宙も、そんな事は気にかけない

ただ、永遠に道に沿って流れていくだけだろう。



だからと言って非情に生きろと言っているのではない。

助ければ助かる人が目の前に居れば、自然に助ければ良いし

わざわざ非情になる必要もない。

自然に生きる動物も家族を守ったり助けたりもするのだ。

知識や考えで動くのでなく、自然に動けば良いと言う事だ。

時に有情に、時に無情に、自然のまま生きろと老子は言う

無理に人を愛したり、憎んだりすれば、それは相手にも無理を強いる

それは余計な苦しみを生むだけなのだ。


聖人が非情な統治をするというのは、そういう意味だ。

余計な苦しみを人々に与えないようにするには、無理に愛したりせず

または罰したりしない、何事も強要はしないということだろう。

転載以上

 「雨降らば降れ風吹かば…・」は彼の一休禅師の短歌。
以下のサイトから転載させていただく。
kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic16.html
以下転載
・・・・・
1410年(16歳)、11年間修行した安国寺を出て、学問・徳に優れた西金寺の謙翁(けんおう)和尚の弟子となる。謙翁は自身の名前・宗為から一字を譲り「宗純」の法名を与えた。一休はこの謙翁和尚を心底から慕っていたらしく、1414年(20歳)に和尚が他界した時は、悲嘆のあまり、来世で再会しようとして瀬田川に入水自殺を図っている。
運良く助けられた彼は、翌年から滋賀堅田(かただ)祥瑞庵の華叟(かそう)禅師に師事した。華叟は俗化した都の宗教界に閉口し、大津に庵を結んでいた。志は高かったが餓死しかねないほど師弟は貧しく、一休は内職をして庵の家計を支えたという。
1418年(24歳)、ゴゼ(盲目の歌方)の平家物語を聞いて、無常観を感じた彼は「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と詠んだ。有漏路の“漏”は煩悩の意味。つまり「人生は(煩悩溢れる)この世から、来世までのほんの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことない」とした。

転載以上
 一休さんの和歌からヒントを得たような名前のブログを拝見している。
「人生は冥途までの暇つぶし」というブログで「カメさん」という方が書かれている。
この方は、福島原発事故に関して飯山一郎さんと同じ見解をお持ちのようである。

以下明日
 




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