平成うきよの覚え書き

日々の出来事などを老化防止の為 書いてゆきます。

古川柳

2015年11月27日 | 私の「小話」史
 昭和40年代頃まで(化学肥料があまり使われず、下水道が普及する以前まで)人糞は貴重な肥料であり、農家は町まで、牛車に肥え桶を積み人糞を買いに行った。農家ごとに行く家は決まっていたということだ。人糞をいただき、なにがしかのお金を住んでいる方に支払った。長屋(借家)の場合は、住んでいる方ではなく家主に支払うことが慣例であったらしい。暮になれば、便所をきれいにしたいという住人の要望と、年内に肥料を確保したい農家の思惑が重なり、人糞に支払われる代金は相当な額になったらしい。幾人もの店子を持つ大家さんはその金を、正月用の餅代にした、ということで上記の川柳が詠まれた。

 閑話休題。

究極の「再利用」「エコ」でしょう。幕末江戸を訪れた外人(アーネストサトー?}が人糞利用を称賛している。そしてかの地、ヨーロッパでは利用することなく処分していることを述べ、我が国の合理性を称賛していた。

それから150年余りだろうか。昭和40年代に下水道が普及し始め公共事業のメインとなった。また郊外は宅地化が進み、農地山林が浸食され、戸建て住宅と鉄筋の公営住宅・工場が曾ての美しい農村風景を殺風景なものへと変えた。この原動力は「工業生産」であった。
 河川海t地あらゆるものが汚染され公害問題が発生をきっかけに、下種処理技術の発達がみられた。「宇井純さん」という時代の寵児も生まれた。

そのような時代から半世紀過ぎた現在、我が国のあらゆる分野であまりに悲惨な状況となってしまったことを、だれが当時考えたであろうか。

逆転の発想、すべてを肯定的にとらえようとするとき、全く新しい天才的発想が必要だろう。

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