平成うきよの覚え書き

日々の出来事などを老化防止の為 書いてゆきます。

春近し2 

2009年02月09日 | Weblog
 昨日書いた「神中坂」の急勾配の坂を上りきると、高台に出ます。ここには今は営業をやめた和風の茶店があります。看板には「峠の茶屋」と書かれていますので、此処はかなり高いところという風に(皆が)考えていたのでしょう。ランドマークの遠景が上部が少し見えるだけなので、MM地区との標高差が想像できます。このような高いところに神奈川県で初めての(旧制)中学を作ったのは偶然でしょうか。偶然とは思えません。高いところからは遠いところも良く見え、気分も爽快で清浄な空気があり、登校下校時に十分筋肉を鍛えられる、というようなことが考慮されたのかもしれません。明治大正昭和初期、あの坂道は舗装されていたのでしょうか。

 帰途相鉄線に沿って、西横辺りから和田町まで歩く途中周囲の風景に50年から20年位前の、風景を思った。私が知る範囲で、横浜には、桜木町の三菱重工造船所、古川電工の電線工場、天王町の保土ヶ谷ガラスのガラス工場、電車用モーター製造工場の東洋電機やそれらに関係すると思われる工場等がひしめきあうように連なって居た。夕方など近くを走る電車の窓から、金属を溶接したり切断したりする火花が見え、高い金属音なども聞くことが出来た。今は綺麗なオフイスビルが並ぶ天王町から星川まではガラス工場がありウズ高く山のように積まれたガラスの破片が見えた。もともとこの辺りにはガラスの原料となる「圭砂」が取れたためガラス工場が作られたようだ。又この辺りは「紡績業」もかって盛んで大工場が有ったらしい。(私は知らない)小学校の頃「京浜工業地帯」という言葉を社会科の授業で教わったが、この辺りは、その西の外れに位置していたのでしょうか。この辺りでかって隆盛を極めた製造業は、ほとんど跡形も無く消え去り、ただ人が住み消費するだけの町へと変わってしまいました。そして住居も木造のものは少なくなりコンクリートのものが増えてきました。ものつくりの現場の汗、表情、熱や音、風景が失われるに従い町は一見快適さ清潔さを得たと思いますが失ったものは余りに大きいのではないでしょうか。天王町の「サイエンスパーク」ではどのような(知的)生産物が出来上がっているのでしょう。素晴らしいアイデアも斬新な技術的革新も、単に脳細胞とデスク、書物の化合物とはとても思えません。これらを生むのはやはり現場の汗と苦労と、手足と頭を使った仕事であると思います。
 戦後このように風景を変え当地の社会的構造を変えた原動力は一体何であったのでしょうか。この問いの解答は私にはありませんがこれだけは断言できます。決して歓迎すべき変化ではなく、地域の力さらには(国民の)幸福、福祉の向上に役立たなかったばかりか、正反対の結果をもたらしたと。

 この冬も終わりに近づいていますが、このまま雪を見ることなく終わってしまうのでしょうか。木枯らし、雪解け、春泥などという言葉も死語になりつつあるようで、とてもさびしい気がします。なんだか春の有り難味も大幅に薄れてきたようです。

 写真:Top of The Yokohama 神中坂 頂上付近 西区西戸部

 

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