村上明夫の政治,文化情報

村上明夫の政治と文化の情報と解説をお送りします

何故「緑の党」は出来なかったら?

2007-06-29 21:34:58 | Weblog
 先に、党を作るなら、社会編成について原理的対抗軸が無ければ、と書いた。日本の場合、既成政党の左右(当時の自民・社会党)アメリカか昔のソ連か、の対立はあっても、経済の成長、経済の高度成長が実現する「豊かな社会」では対立がなく、こうした、既成の政党を超えようとする青年や学生なども(ドイツでも日本でも新左翼と呼ばれた)日本の場合、原理的対立軸は作れなかったと述べた。
 日本の場合、多くの青年や学生が、ドイツの緑の党等をまね、各地で例えば、環境問題に取り組んだが、多くの場合、この環境問題は、「保守勢力」が取り込む事になった。具体的に要求を実現しようとするなら、保守勢力の方が、有効だったのである。

何故、「緑の党」が出来なかったのか(その4)

2007-06-25 22:31:59 | Weblog
 「党を作る」とは何を意味するか。それは、社会の仕組みをどう作るか?についての原理的対立がなければ出来ない。日本で、自民党がアメリカとの同盟、既成の革新政党(社会党や共産党)が大まかに言えば、社会主義国(当時のソ連や中国等)との連合であった。これに対し、「緑の党」的なものを、を形成しようとすれば、社会編成のあり方に対し、原理的に対立軸が、形成されねばならない。
 自民も革新も、「アメリカか、社会主義国か」の違いは、あっても、「生産力を上げ、豊かな社会」を作るという点では、共通していた。米・ソの違いはあっても、より生産力を上げ、豊かな社会を実現すると言う路線に対し、原理的に対抗する事が、当時の日本で、現実的だったか。という事がまず問われねばならない。ただ、既成の左翼(社会党や共産党)を批判していた、新しい運動をめざしていた青年や学生が、こうした路線に統一して立てなかった事は、事実である。この事をもう少し考えてみよう。
 

何故、「緑の党」は出来なかったか?(その3)

2007-06-21 17:39:19 | Weblog
 前回、「マルクス主義」の問題と書いた。ドイツでは、マルクス主義の問題は、単にイデオロギーの問題ではなく、東ドイツの現実の問題であり、レーニン流マルクス主義との論戦、対立の歴史もあった。所が、日本では、マルクス主義は、イデオロギーの問題であり、社会主義の忌まわしい現実に直面すると「本来の社会主義」と言う、ユートピアに行けた。
 レーニン的社会主義の力は圧倒的であり、ドチュケのように議会制民主主義を公然と評価する声は無かったに等しい。現実には選挙をやりながら、これを明確に位置づけられなかったのである。「新しい社会運動」は「新しい政治的表現」を持たなかったのである。ここには、「新しい社会運動」に対する、保守勢力のスタンスもあるが、これは次回。

何故、「緑の党」は出来なかったか?(その2)

2007-06-18 23:32:17 | Weblog
 前回の続きである。1960年代末期の世界的激動(アメリカ公民権運動、中国文化大革命、フランス5月革命、世界的ベトナム反戦運動等・・・・)の中で、既成政党に対する、学生や、青年の「新しい社会運動」が生まれた。この運動が、既成政党の議会主義に対し、実力闘争を重視していたのは、日本もドイツなども同じだった。所が、1970年の激動が去った後、ドイツ等では、「緑の党」を作り、議会制民主主義を重視し、選挙を通じ大きな力を形成していった。
 所が、日本では、内ゲバや、「連合赤軍事件」テロ事件等が大きな力を持つに至った。掲げるテーマは、ドイツの緑の党などでは、既成の政党が重視しない環境問題や、差別問題、地域問題などが掲げられた。所が日本では、既成政党に対して掲げるテーマの新しさはあまり大きな問題とならず、掘り下げられなかった。
 ここには二つの問題がある。一つは、「何故、新しい政治のテーマが取り上げられなかったか」もうひとつは「何故、議会制民主主義を掲げられなかったか?」である。ここで出てくるのは、やはり、マルクス主義の問題だろう。

何故、私たちは「緑の党」を作れなかったか?

2007-06-14 17:52:32 | Weblog
 先日、長年の友人のH教授が「何故、緑の党は出来なかったか?」と言った。核心の問題だ。自分も「環境保護の市民政治学2」(幹書房)5章)以降、ずっと考えて来た。確か、1983年の議員当選以来「緑の党」を作ろうと思って来たが、スタートラインに立っ事もできなかった。自分なりの考えは、前の本にも書いたが、「論座」4月号の「左翼と議会制民主主義」(朝日新聞)は面白かった。ドチュケは「もう一度、市民革命が必要」と述べたと言う、ドイツでは、議会制民主主義に回帰する道筋として「緑の党」があったと言うのだ。日本では内ゲバが盛んだった。日本とドイツでは随分違いがあったのではないか。日本では、既成の政党への、政治のテーマの批判は弱く、目標達成の手段、選挙や議会制民主主義の評価の点では極めて反議会主義で実力闘争主義だった。環境問題などの新しいテーマを掲げる議会主義政党は、日本では生まれなかったのだ。何故?「環境問題」の扱われ方は次のテーマだ。(頑張って、週2回、月と木更新予定です)

一人の人間の出来る事(議員引退声明に寄せて)

2007-06-12 10:25:54 | Weblog
 前回のブログの中の「議員引退声明」の中で「若い時、思ったより一人の人間の出来る事はずっと少ないと言う印象を持ちます」と書いた。60有余年生きて来て、率直に思う感想である。自分も若いときは、もっと大きな事、もっと色々な事が出来ると思っていた。でもやりだすと、色々な障害、特に、自分の見とうしがまったく的はずれだったり、自分の能力不足のため失敗が多く、自分の出来る事は本当に少ないと思うようになった。そんな少しの力しかない自分だから、残された時間、「見沼の保全」に注意深く自分の力を傾けたいと思い活動している。
 若い時から、何をやろうとし、何が出来なかったか。何故出来なかったか。少しづつ考えて見る。こんな思いは2003年に出した「環境保護の市民政治学2」(幹書房)にかなり書いたつもりだが、あまりはっきりしない所もあり、もう少し具体的に書いて行きたい。ひとつのテーマは、「何故、私たちは(緑の党)を作れなかったか?」である。次回はこのテーマ。(更新は週1回月曜日予定です)

議員の引退声明です。

2007-06-07 15:09:33 | Weblog
 この前のブログでお知らせしたとおり、議員引退しました。旧浦和市議、さいたま市議、県議会議員、計24年、6回の選挙お世話になりました。以下は2月の引退時に発表したものです。全文を引用させて頂きます。色々お世話にになりました。本当にありがとうございました。

『 各 位
  御報告します。色々考え、長年の友人とも議論した結果、「議員は引退、今後、見沼等の保全に専念する」事としました。
 長いもので、浦和、さいたま市議20年、県議4年と計24年、地方議員をつとめ、計6回の選挙を行いました。自民党や民主党などの政党や、労働組合などの団体とも関係なく、特別家柄が良かったり財力がある訳でもなく無所属、市民運動出身の私が、長年議員を続けられた事にいささかの感慨を禁じ得ません。
 これはひとえに、スタッフや支持者の皆さんのおかげと感謝しています。
 これからの事ですが、キザなようですが「見沼の生き物や大地、水など、私のささやかな努力を求めている」ように思えます。今後「見沼保全市民連絡会」代表、「NPO法人見沼保全じゃぶじゃぶラボ」理事として活動を続けていくつもりです。また新たに、新都心東側地区、合併記念公園予定地の保全をめざす市民運動と、さいたま市の水問題を考える市民運動組織をたちあげたいと考えています。
 議員として、見沼の保全を始め、緑の党や地域政党づくりなど色々な事に取り組んできました。うまく行った事もあるし、そうでなかった事もあります。しかし、見沼保全は行政を含めた大きな流れとなりました。NPO法もない時代に、議員として歳費で生活し、事務所や専従者、コピー機や印刷機を確保し、運動を進めることができた事は幸いだったと思っています。
 今思うと、一人の人間が出来る事は若い時に思ったより、ずっと少ないという感想を持ちます。
 「月うつる 水流れいる 春隣り」(塚原麦生)
 ありがとうございました。
                            村上 明  夫 』

大変、長い間、更新せずごめんなさい

2007-06-06 17:59:34 | Weblog
大変、長い間、更新せずごめんなさい。この数ヶ月、一身上に大きな変化がありました。この4月で県議会議員を引退しました。
今、「見沼田んぼの環境資産を創造する会」の代表理事、NPO法人「見沼保全じゃぶじゃぶラボ」理事、「見沼保全市民連絡会」代表など、見沼田んぼの保全をめざす市民運動組織の仕事をしています。議員時代とあまり変わらず忙しくしています。
 追々報告してゆくつもりです。とりあえずお詫びです。またブログの名前「村上明夫も政治、文化情報」と変えました。よろしく