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無教会全国集会2017

2017年度 無教会全国集会ブログ

私にとっての無教会

2018年04月05日 |  第三

共通テーマ 「私にとっての無教会」

司会・報告者:荒井克浩

参加者:赤塚牧、荒井克浩、飯田順朗、石原艶子、伊藤裕次郎、小田弘平、大塚正子、鎌田厚志、菊池 誠

 豊かな聖霊の導きにあって、標記の件に関して話し合いがもたれたことを感謝している。以下の各発言は録音を元にしたものではある。わかりにくい言葉づかいのところもあったが、あえて報告者の主観による修正などをせずに、なるべく発言者の語ったそのままの言葉づかいを尊重して記した。むしろその方が発言者のその時の心を表しているものと思い至ったがゆえである。また標記の課題からはずれているように思われる発言もあるが、そのようなものも含めて課題を巡る重要な発言と覚え記録した。(報告者)

開会祈祷:菊池 誠

●イエス様が「2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)とあるが、(無教会は)それ以外には無いと思う。見える教会か見えない教会かという事。人間は見えないものに弱いから、見えるものを求める。見えない教会が本当の教会だと思っている。

●内村鑑三の本を本屋で手をした時、本当に心を揺さぶられた。愛真高校の教師の時、聖書の授業をしたが、教えるというよりも私が教わるような感じであった。自分が感動しているところしか、生徒には伝わらない。清水聖書集会はお年寄りが多いので、聖書にはこう書いてある、ということをいかにわかりやすく簡潔に伝えるかを心掛けている。ただ日本語の聖書は翻訳なので、元(原典)の言葉がわからないのでまどろっこしいところがある。

●(上記「元(原典)の言葉がわからないので~」の話を受けて)われわらは学者ではないので、具体的に実践することがだいじと思う。いかに救われるか、という事よりも社会的な事、原子力発電所の問題などに心が向く。

●私にとっての無教会は生きること、自分がそこに存在して人間になるということ。もし私が無教会の信仰に導かれていなければ、たぶん人間になれなかったと思う。神様が私を愛してくださったということは、人間になれたということ。自由が与えられ、人権が与えられた。自由を、自分の人格・尊厳を含めて、すごく実感している。愛されている自分としてこの地上に生きて行くこと。死ぬまでキリストに従っていくこと。神の憐みがなければ救われないとつくづく思う。憐れんでください、信なき私を憐れんでください、という祈りに立つ時に聖霊が与えられて、自分の思いを越えて導かれてきた、というのが今日までの人生。イエス様に従って行くこと、「隣人を自分のように愛しなさい」、「殺してはならない」―戦いではあるが、その御言葉を生きて行く時に、その中から、戦争、平和に対すること、これからの世の中に対する預言者的な思いなどが出てくる。無教会は常に新しい命があって、命が躍動していること、聖霊が豊かに与えられて、生かされている、ということの実感である。内村の言葉も70歳代になってから、昔わからなかった事、『一日一生』に書かれている事などが、すっと入ってくる。感謝の一言。今日の小田弘平さんの証「生きることとと学ぶこと」が一番よかったと私は感じた。教育の世界にいる人は人間を相手にしているから、そこから出てくる言葉は実践と事実に基づいているので、深い。

●主人が病気をして(下記注参照)立ち上がった後にも、不自由なままで2人でこの全国集会にも透析を抱えながらでも出席するなど、一生懸命信仰を持って生きて行くことが私たちの証し。ただ集会へ来て話を聞くのみでなく、主人が講話をする時にレジメを私が作ったりすることでよい学びを与えられている。与えられる信仰ではなくて、自分が関わりながらする。だんだん年齢的にも難しくなって来ており、どこまで出来るがわからないが、信仰を持って行きて行く生き方を証しして行きたい。このような歩みの中でいろいろな方々との感謝すべき交わりが与えられて来ている。

 ※報告者注:この方のご主人は、退職直後の病により、視覚を失い、15年余り透析を続けておられる。そのような苦難の中でもご主人は集会で聖書講話をされ、奥様がその準備などを助けておられる。

●資本主義経済はもうダメでしょう。

●社会主義経済の方がうまくいかないであろう。社会主義経済にはどうしても独裁者が出てくる。

●人間の社会は変えられないね。神様がいなければね。

●これからは人口知能が仕事をする時代に入る。資本主義も限界が来ていて。私たちはどうなっていくのかな。神様を人間はどこまで信じて行くのでしょうね。

●人口知能には反対である。人間以上にはならないと思う。かじ取りを教育で押さえて行かないと。

●AIの時代は進むと思う。人工知能は便利であり、人間が安易に頼ることになる時代になって来ている。食べ物のせいかわからないが、発達障害のこどもたちが増えている。発達障害のこどもが全部悪いというわけでなく、民放でやっていたが、発達障害の人たちのほうが、特定の分野にはすごい能力を発揮することがあるという。小学校の時代にはいじめられるかもしれないが、その力を使って行って、ノーベル賞クラスのものを発明すれば、嫌でも会社の方からうちに来て手伝ってくれという時代になると思う。しかし神様のことを抜きにして文化的なことを進めることは間違っている。そのようなことが創世記に書いてあったと思う。神抜きにして知的なものだけを進めるということは止めたほうがよい。

●(私にとっての無教会とは)私をタコツボから広い世界に引き出してくれた、ということ。(店舗の仕事で)レジでも忙しい時にはお客さんに対応するのによくない言葉を使う時があるが、「すみません、赦して下さい」と祈る。神様が助けてくれるから仕事が出来ているし。主日礼拝を守ることがよい生活リズムになっている。

●無教会の集会がどこにあるかわからない、と先ほど意見があったが、今日関根義夫先生が話しておられたことで、〇〇さんがホームページを作り、いろいろな無教会集会を紹介している。インターネットでもっとそのようなことがされるとよいと思う。その点を今井館教友会に期待する。

●技術・文明の発達と、心がいかに満たされるかは別の問題と思う。私もいろいろな宗教に首を突っ込んだ。しかし聖書以外には私の心は充足しなかった。そういう人は一杯いると思うので、いくらAIや科学技術が発達しても、聖書を読むというエクレシアがあるということが何よりもかけがえのないことではあるし、そういう必要性はますますこれから出て来るであろうと思う。

●内村鑑三の思想にもっと寄り添って、そのうえで神様を信じることが必要であろうと思う。創造主がいるということを皆が知って、いつも神様が共に歩んでくださることを信じられることが、AIが発達しても変な方向に行かない鍵になると思う。それに気付ける人が門を叩いてくれると思うが。そこに気付けるか否かがポイントであろう。

●残りの者、ですね。人間的に見たらいと貧しく力なき者に見えても残りの者として存在させられるということが、すごく大きな祝福なのである。

●機械に聖霊が降るかというとあり得ない。信仰は、その意味でもAIなどが追いつくことができない内容を持っている。無教会は、信仰は、受動態である、神様から与えられるものだけで生きるということがだいじなことと思っている。教会、無教会、ということを言う時に、無教会は徹底的に受動態である、と思っている。生まれた所も、それぞれの馳せ場も、受動態として神様より受けているもの。徹底的に受動態になることが極めて大切である。

閉会祈祷:石原艶子