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無教会全国集会2017

2017年度 無教会全国集会ブログ

無教会と教育

2018年04月05日 |  3.無教会と教育

発題 「無教会と現在の大学教育について思うこと」

野々瀬真司

プロフィル 
1962年生55歳。横浜市立大学准教授。専門は物理化学。妻は産業技術総合研究所主任研究官。長女は大学3年。次女は高校2年。母方の親族は塚本集会、関屋集会に所属。父方の親族は無宗教。両親は結婚後7年間、3世代同居するも嫁姑の宗教戦争が勃発。子供は挟み撃ちに遭う。大学入学後、関根集会に(さぼりさぼり)出席。現在まで20年以上も単身赴任を継続。神戸での7年間、御影集会に(さぼりさぼり)出席。ついに妻子への宗教教育の機会を逸した。

1. 鬱の蔓延
 最近、鬱状態にある学生が増加している。彼らは自室に引き籠もり大学に出てこない。自宅に電話をかけても、メイルを送っても応答がない。重度の鬱の学生に限って保健管理センター・診療内科等を受診することがない。多くの学生はグレーゾーンにあり、怠慢と鬱病との間の境界が明確ではない。学生の鬱の発症の原因は明確ではない。誰にでも鬱になる可能性がある。つい先日まで快活だった学生が、ある日突然に鬱になることがある。発症する前兆が希薄である。大学教員は前兆を発見できない。前兆が現れてから発症するまでの期間が非常に短い。すでに鬱を発症していても平静を装っている。普段の快活さの仮面を被っている。ところが、いったん重度の鬱になり自室に引き籠もるようになると、隔絶感が鬱を促進させる。個人の心の中で鬱が鬱を増殖させる。一種の雪崩現象が起こる。

 鬱は、細菌性の伝染病ではないが、確実に人から人へ伝染する。例えば、林檎箱の中の一個の腐った林檎は、やがては箱全体を腐らせる。よって、腐った林檎を見つけたらすぐに箱の外へ捨てるべきである。それと同様に大学教員は鬱の学生を忌み嫌い、自分の研究室から排除するべく努める。教員から排除された学生は疎外感を増長させる。研究室の中で、鬱の学生の人数が多くなると、健全な学生に過重な負担がのしかかる。鬱の学生の分まで責務を果たす必要に迫られる。学生を鬱に追い込んだ責任を問われた大学教員が鬱を発症することがある。このようにして、組織の中で鬱の者が鬱の者を増殖させる。

 わたしはキリスト者として、どのように振る舞うべきか?健全な学生も鬱の学生も人間としての尊厳には変わりがない。大学教員にとって全ての学生は等しく社会からお預かりしている存在である。教官にとって全ての学生は等しく指導する対象である。聖書には「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」(マタイ伝9:12)「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 」(マタイ伝11:28)「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ伝25:40)とある。しかし、積極的に鬱の学生を受けいれるならば研究室が崩壊する。鬱の学生を治癒させ、鬱の感染拡大を予防するのは難しい。鬱の学生に対して「もっと元気を出しなさい。もっと頑張りなさい。」と励ますのは禁物である。教員が善意から発した激励の言葉は、鬱の学生を深い淵へ追い落とすことになる。

2. 人間関係の断裂
 鬱の学生は隣人について興味がない。隣人の人柄について理解できない。隣人への配慮・気配りは皆無である。隣人の視線を過剰に意識する。ただ「隣人が自分をどう見ているのか」のみに強い関心がある。しばしば、「自分は嫌われている、陰で悪口を言われている」などと極度の被害妄想に駆られている。こうして鬱の学生の存在のため、組織の構成員が互いに意思疎通できなくなり、組織全体がばらばらになる。組織全体として統率のとれた活動が成立しなくなる。すなわち、大学教員と学生との関係がばらばらになる。同じ研究室に所属する学生どうしがばらばらになる。

 最近の多くの学生には親しい友人がいない。いずれの部活動・サークル活動にも所属していない学生が少なくない。スマホが巷に蔓延する。彼らはスマホを片時も手放さない。彼らにライン・ツィッターなどSNS上での知人はいる。しかし、知人とはごく浅い表面的な関係にある。互いに本音・悩みを打ち明け、腹を割って語り合うことがない。他人の視線が気になって、生協食堂で昼飯をひとりで食べることができない。昼食をトイレに持ち込んで食べることもある。
 最近の学生と家庭の話をして気づくことには、彼らは満足に自分の家族の話ができない。家族に関する知識がない。家族に対する興味がない。家庭には一家団欒の時間がない。学生が両親・兄弟と会話する機会がない。数十年前、テレビは一家に一台だった。夕食後、茶の間にあるテレビを家族全員で囲み、同一のテレビ番組を見ていた。ところが今は家族の人数分だけテレビが各個室にある。家族がばらばらに各個室に籠もり、別々のテレビ番組を見る。ばらばらにパソコンやスマホのゲーム・SNSに耽る。
 自室に引き籠もった鬱の学生は、昼夜を問わず延々とゲームに没頭する。ゲームの中で旗色が悪い時には、リセットボタンを押せば再び最初からやり直すことができる。しかしながら、人生にはリセットボタンはない。一度失った人生の時間は二度と戻ってこない。長い年月も自宅に引き籠もってゲームに浸り、自らの青年時代の貴重な時間を無為に費やすことに心が痛む。

3. 個人の心の中の分裂
 理系であれ、文系であれ、論理的な思考には、長時間の精神集中に耐えることが必要である。しかし、最近の多くの学生は長時間の精神集中に耐えられない。長い時間をかけて、ゆっくりと思考を進めることに耐えられない。論理的な文章を書くことができない。特に物理学を理解できない。スマホではボタンを押し画面をスクロールするだけで瞬時に結果が出る。学生にはスマホのように瞬時に結果が出る作業しかできない。その場凌ぎの、パブロフの犬の条件反射のような作業しかできない。心の中が多数の断片に分裂している。

 多くの学生には興味の持てる対象、人生の目的が明確でない。生き甲斐がない。興味の持てる対象がない。主体的に何かをやりたい、という意欲が湧かない。講義であれ、実験であれ、他人から強制され、しかたなく義務としてやっているという意識にある。さらに、潜在的な漠然とした自殺願望を抱くこともたまにある。彼らはできる限り少ない勉強量で単位をもらえる講義科目を好む。できる限り少ない拘束時間で実験を終了し帰宅できる研究室を好む。一種の、省エネ・エコの精神と言えようか。

 このようにして、学生の心の中で過去・未来の自分と現在の自分とが分裂している。自分の過去・未来に対する関心がなく、現在に対してのみに関心がある。将来を見据えた長期的な視点がない。学習を積み重ねていく、という気概に乏しい。一度過去に勉強したはずのことを、数年後には全て忘れている。ただ「翌日に迫った試験をクリアすればよい」と思うだけである。

4. 現代文明はバベルの塔である。
 上記の問題は、大学生などの若い世代に典型的に現れているだけにすぎない。我々年輩の世代もまた、同様の問題を抱えている。もはや個人一人の抱える問題ではない。社会全体の問題である。現代社会は物質的には豊かになったが、人間の心が病んでいる点で精神的には豊かになっていない。現代人は絶えず時間に追われている。短時間で結果が出ることを要求される。ゆっくり思考を進めること、熟慮することが許されない。例えば、大学教員は短時間で研究業績をあげること、すなわち投稿論文数を毎年要求されている。高校教員は偏差値の高い大学への生徒の進学実績を毎年要求されている。

 森有正の著作には、キーワードとして「経験」がある。例えば「セーヌ川をゆっくりと遡上する伝馬船は、一見止まっているように見えても、いつかは視界から消えてゆく。」あるいは「中世ヨーロッパの人々は石をひとつひとつ手作業で積み上げ、数百年間をかけて石造りの大聖堂を建設した。」ところが、現代に生きる我々には「経験」がない。隣人や自分自身と向き合い語り合う「経験」のためには、ゆっくりと流れる長い時間が必要である。矢のように時間が飛び去る現代では、隣人とも自分自身とも対話することが難しい。

 創世記11章にバベルの塔に関する記述がある。「彼らは言った、『さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう』。主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て言われた、『民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう』。 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。」(創世記11:4-8)古代メソポタミアのバベルの人々と同様に、現代文明世界に生きる我々もまた、互いに言葉が通じない、意思疎通ができない状況にあるのではないか。神に頼らず自らの力を頼んだバベルの人々と同様に、天まで届くような現代文明を築いた我々の心は、神から遠く離れている。よって、人間の心の中がいくつもの断片に分裂し、隣人とも断裂していることの根源的な原因は、神と人間との断裂にあるのではないか。

 人間の断裂を憂う前に、まず初めに「神と和解するべきである。」(第二コリント5:20)神と和解する唯一の道は「イエス・キリストの十字架・贖罪」にある。確かに、現代病である「鬱」や「断裂」は、聖書で語られている「罪」とは異なる。しかしながら、「周囲との隔絶感、深い絶望感に苛まれている」という点において「鬱」と「罪」とは類似点が全く無いわけではない。神の一人子、キリスト・イエスは、民衆に捨てられ、弟子たちに逃げられ、十字架に架けられ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)(マタイ伝27:46)と叫ばれた。父なる神からも見捨てられた十字架上のイエスは、究極の隔絶感・絶対的な絶望感のうちにあったのである。だからこそ、罪による絶望の淵にある人間は十字架上のイエスを仰ぎ見る。イエスは、罪にある人間を救って下さる。罪による苦しみの深い者であればあるほど、イエスに近いのである。自室に引き籠もる鬱の学生の心に、親兄弟も友人も教師も近づくことはできない。彼らを救うことはできない。周囲から隔絶された彼らの傍らにイエスが現れ、救済の手を差し伸べて下さることを、わたしは願ってやまない。