~「私にとっての無教会信仰」として~
坂内宗男
主義に非ず、性格(品性)なり。教理に非ず、生命なり。基督教に非ず、キリストなり。
主義は如何に高きも、教理は如何に深きも、儀文(形にはまったこと)にして束縛なり。
我らは直(ただち)に活けるキリストに到り、其生命を受けて真の自由に入るべきなり。( )は坂内注。
「基督教とキリスト」内村鑑三。1906(m39)年10月、『聖書之研究』80号。
*1年半の入院結核療養を経て1960年5月登戸学寮に入寮して秋頃、先輩が寮生手造りのガリ版刷り『方舟』創刊号(前年6月刊,年刊誌)を見せてくれ、とっさに目に入ったのがこの言葉で、以降私の座右の銘となった。
1)無教会の生成と展開
主題が「無教会とは」であることから、特別講演として準備委員の意向に従って(小生は準備委員会の議長として)お話いただく方を折衝したのですが、結果として私がお話するはめに至りました。
今年の開催要領のご案内にも書きましたように、百年以上の歴史性を持った無教会の歩みが今その真理性が問われていると自戒するのでありますが、それに応えるものとして、無教会の歩みを客観的に述べることについては、既に『無教会史』Ⅰ~Ⅳ(新教出版社)が公刊されていることでもあり、また抽象論では致し方ないので、むしろ無教会信仰に立って各人が信じる歩みを語ることに生きた証として意味があるかと考え直し、「私にとっての無教会信仰」として語らせていただくことにしました。
なぜなら、無教会とは「ただ聖書のみ、信仰=イエス・キリストのみ」を単純にわれ信ず、でありまして、目に見えた集団としての教会(建物)や組織・教派(セクト)的信条がある訳ではなく、結果的に各人が自ずとエクレシアに連なり、かつそれが全体として使徒信条に収斂された恩恵を感謝するものであるからです。
そして、無教会のエクレシアとは、「二人または三人(一人でなく)がわたし〈イエス〉の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)を旨とし、その本質とはあのパウロがいう「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰(のみ〈M・ルター〉)によるのである」(ロマ3:28)に尽きるのであります。
今年はM・ルタ-宗教改革五百年に当りますが、ルタ-が当時のキリスト教会(=カトリック)典礼(サクラメント)7つのうち洗礼・聖餐以外全てを廃止した大胆さによるプロテスタント教会の誕生は、以降の西欧文明の精神的支柱となったのでありました。しかし、他方残された洗礼・聖餐によって、皮肉にもその本質の実体化よりも形式化し、かってのカトリックの典礼体質に戻った感が致し、意義よりもむしろ弊害が大きいのが今日在る教会の実態ではないでしょうか。洗礼を教会員の絶対条件とし(従って未受洗者はあくまでも求道者扱いとして差別〈区別でなく〉、無教会者は蚊帳の外として論外扱い)、また聖餐を受ける者の前提は受洗者に限るとする(近時、日本基督教団では、これを守らない牧師を罷免、裁判訴訟まで及んだ)人間的傲慢とも言うべき教会の現況を見る時、ここにルタ-の負の遺産を見、従って、これを打破し、洗礼・聖餐は信仰の第一義としない(受けるもよし、受けざるもよし〈軽視ではない〉)とした内村鑑三の信仰把握は、第二の宗教改革といわれるほど徹底した革命的なものなのである、と申すことができましょう。換言すれば、イエス・キリストを信じるとは、単純に聖書に立った徹底的信仰把握にほかならないからでありました。しかし、悲しいかな、かかる考えを異端視するのも教会の現実であることをも直視すべきなのであります。
そもそも、内村の無教会とは、彼が理念的に体系づけた訳ではなく、内村のこの世との闘い(宣教師との衝突、不敬事件を始めとして)から、世に捨てられ、教会にも身を置くところなく、気付いてみたら「無」教会となっていたというのが真相なのではないでしょうか。でありますから、のちに無教会者の中から、無教会を「主義」として思想史的に受止めたり、「無」に神学・哲学的に重みをおく思考も出たのではありますが、これは内村の本旨ではなく、わたしもそれに賛意を表するものであります。
事実彼は「無教会論」(1901)の中でこういっているのであります。
「『無教会』は教会のない者の教会であります。……「無教会」の無の字は「ナイ」と読むべきでありまして、「無にする」とか「無視」するとかいう意味ではありません。……ほんとうの教会は実は無教会であります。天国には実は教会なるものはないのであります。……無教会これ有教会であります。教会をもたない者のみが実は一番善い教会を持つ者であります。」
ただ彼の無教会的傾向の萌芽は、既に札幌農学校学生時に学友八人で形成した自主的教会(チャーチ〈建物)なき集会、聖書研究会)に現れているのでありました。
更にいいます。「無教会は進んで有教会となるべきである。しかし在来の教会に還るべきではない。教会(チャーチ〈建物〉)ならざる教会(エクレシア〈注:坂内〉)となるべきである。すなわち教会を要せざる者の霊的団体となるべきである。」と。
(「無教会主義の前進」1907)。
内村の生涯を見ますと、前半においては不敬事件・絶対的非戦論を始めとして「萬朝報」や彼の発行する『聖書之研究』誌等でこの世に対して冷徹な論陣を張り、また足尾銅山鉱毒事件等社会悪に対して積極的に行動したのでありましたが、再臨運動を契機に伝道(『聖書之研究』誌の発行ー紙上の教会の形成、日曜含めた講演、教友会・青年団の育成等々)に専心(家永三郎はこれを内村の限界と批判しましたが)、その弟子から多くの伝道者・キリスト者が各地に輩出致し、内村の精神を体し、地の塩として主のため世のために献身したことは特記されてしかるべきでありましょう。頭の教会(*)といわれる日本キリスト教会の中でもとりわけ無教会には知識人が多いとかいわれますが、例えば野武士的車座で喜びの福音を伝えた海保竹松(名望家)、井口喜源治(教育家)、長谷川周治(実業家)、諏訪熊太郎(農村伝道者)、藤沢武義{伝道者}、浅見仙作(農民・伝道者)、鈴木武直(理髪師)、杣友豊市(大工・伝道者)等……、また樫葉史美子(結核療養)、吉田あやの(主婦)、白井きく(伝道者)、松井義子(韓国被爆者救援・「忘れな草」主筆)等……といった地道な存在、そして片山 徹・岩島 公家庭集会(家族伝道スタイル)こそが無教会精神を体しその底辺を支えた強みだったのではないか、ともいえるのであります。
*祈る教会―韓国、踊る教会―台湾、といわれる。
そして、特に満州事変を基点とする15年戦争において、強まる神権天皇制軍事国家・ファシズム化に対して、世の常同様キリスト教会でもバール(大元帥かつ現人神たる偶像神「天皇」)に屈し、二刀流的この世と信仰を分離して皇民化政策に相次いで順応→敗北した中で、概して毅然としてこの世ー国家権力に対峙(逮捕・迫害の中で)したのも彼ら無教会者であったことは歴史の示す事実なのであります。
また、世界的にも、移民として米国・南米(ブラジル)、日本への留学生が祖国に持ち返った台湾・朝鮮人による無教会信仰が独自に花開いたことにありました。特に韓国では内村に愛された我ら六人-金教臣・咸鍚憲・宋斗用……-による『聖書朝鮮』誌の発行、韓国無教会の伝道が日帝による朝鮮植民地への厳しい統制・強圧(獄に繋がる者も出た)の中で展開、今日でもキリスト教国韓国では異端視状況の中で福音の純化の証しを続けていることをも主の恩恵として知るべきなのであります。あの金教臣が、朝鮮人魂をもって朝鮮語でキリストの福音を民衆に刻印したい、との信念は、まさに単なる民族主義を吹き抜けた世界の福音としてのキリスト魂であり、それは内村から学んだというのでした。朝鮮解放後ある教会人のいった「寺内(正毅、初代朝鮮総督)総督は死んだけれども、内村総督は文書を通し、韓国内村党を通して韓国教会に君臨していることを忘れてはならない」との批判に対して、内村の弟子たることを公言してはばからなかった金教臣の精神は息づいて来たのでありました。(『無教会史』Ⅱ、241頁)
2)戦争責任(謝罪)~無教会者の天皇制・平和論の視点で
ドイツとの対比で、わが国が今日でも、いや益々被侵略国との間でこじれている案件は戦後補償問題にあります。その根底には戦争責任(戦責)問題、即ち天皇の名で侵略し侵略されたのに肝心の天皇が戦責免除され、その流れに立って為政者も戦責に鈍感であり、わが国民もあの敗戦時での謝罪は驚く勿れ被侵略国に対してではなく宮城に向ってお詫び?したという奇怪な精神構造の底流に、天皇制下の「和」の社会(「個」の自覚の欠如)が依然として底流にあることを知るのであります。そして、革命的平和憲法下にあってもその心性は変わらず、それが今日の急速な右傾化の要因だと視ます。しかも、聖書に立つ筈のキリスト者→無教会者達も同様であったことから、平和論は日本人にとっては天皇制と密接に関連しており、臣民・赤子として天皇の名で侵略戦争に加担した事実を直視し、侵略戦争を批判した無教会二代目以下も他の明治人キリスト者同様に天皇制には概して親和的であったことを述べ、十戎の第一項をどう受け止めたのか、真理の継承において反省の糧と致したく思うのです。
そもそも内村も署名したあの札幌農学校における『イエスを信じる者の契約』の第7項「なんじの父母と有司(=支配者〈注:坂内〉)とに従い、かつこれを敬うべし」とは十戒の5項「あなたの父母を敬え。……」(出エ20:12)とロマ書13章1節「人は皆上に立つ権威に従うべきです。……」の日本的改変ともいうべきもので、天皇に忠誠を尽くす思想的基盤となり得て、更にその淵源は実に始めてプロテスタントが日本に上陸して設立された1872(明5)年「横浜公会(日本基督公会)」における教会規則の中核ともいうべき次の三つの条文を「論一定せず」といって除外したことに顕著なのであります。
第一条 曰ク皇祖土神の廟前ニ拝跪スへカラサル事(以下略)。
第二条 曰ク王命ト雖モ道ノ為ニハ屈従スへカラサル事(以下略)。
第三条 曰くク父母血肉ノ恩ニ愛着スへカラサル事(以下略)。
事実内村は89年の「天長節並びに立体子式祝会」での「菊花演説」では、「日本に於て世界に卓絶した最も大なる不思議は実に我皇室なり。天壌と共に窮りなき我皇室は実に日本人民が唯一の誇りとすべきものなりと」(山路弥吉〈愛山〉著『基督教評論』ー小澤三郎著『内村鑑三不敬事件』、31頁)というのです。91年の不敬事件も御親筆(教育勅語)に対して拝礼となったこと(偶像崇拝)に疑念を持ち、とっさに「軽く頭を下げた」ことが問題となったもので、天皇への崇敬の念は変らなかったのであり,二代目弟子達も同様で、戦後政池仁が「行く行くは廃すべきもの」(無教会史Ⅲ、23頁)といったに過ぎませんでした。
無教会者達の絶対非戦論の根底には、勿論あの内村が聖書に基づき日清戦争時の義戦論を反省致し、直裁な「戦争廃止論」に転じた点にあります。
「余は日露非開戦論者であるばかりでない。戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。」(1903〈明36〉年6月萬朝報)
しかし、実際に戦争に対峙した原点は、あの同年12月、花巻・斎藤宗次郎青年が内村の教えに従い銃殺覚悟で徴兵拒否しようとした花巻非戦論事件にあります。内村は急遽花巻に赴き「召集には応じ、税金を納めるのが聖書の正解である、……しかし拒否が正しいと思うなら良心の命ずるままをやり給え」といい、結局拒否を断念した点にある、のです。 (政池仁著『内村鑑三伝』、409頁~)
矢内原忠雄もロマ書13章の係りの中で「この問題は……第二次世界大戦、太平洋戦争の時に現実にわれわれ皆ぶっつかった問題です……。国法に従うことが信仰上の要求であると同時に戦争に反対することも信仰上の要求だ。……その矛盾を解くものは、戦争にあって死ぬること以外にはない、と。(東京独立新聞1961年4月)。従って愛弟子秋山宗三(ガタルカナル)、二宮健作(広島)の戦死に対し、「国民の罪を負ひ、我らの集り(日曜家庭集会〈注:坂内〉)の罪を負ひ、然り我が罪を負うて、この二人の若者の生命は、天に召された」、というのであります。(『矢内原全集』25卷、209頁)
従って、ここからは、ヤマト武士の名誉ある切腹死、戦時の玉砕死と同一に論じることは勿論出来ないとしても、個よりも全体を重んじる日本的思考を見る思いで、ここからは、西欧に生まれ、制度化した良心的兵役拒否者(CO〈注〉)は生まれようがなく、わが国平和論の限界を覚える、と私は考えるのであります。
徹底した十戒・福音に生きるとは、イエスの十字架の炎で和のしがらみを断ち切る信仰的決断を要し、事実植民地『朝鮮』の教会・基督者は、神社参拝や天皇たる偶像崇拝を拒否したため、神学校は閉鎖され、二百余の教会が門を閉じ、二千余人の信徒が投獄され、五〇余人の教職者が殉教したことをわが国教会・キリスト者は肝に銘じるべきなのであります。
特記すべきは、敗戦処理においての最大核心は、一重に日本民衆の生命保護ではなく国体=天皇制護持にあったことで、その故に終戦の決断を遅らせ、その結果広島・長崎の原爆投下、また悲参な沖縄戦に至っての無条件降伏なのであったことです。しかも、敗戦後戦勝国が天皇制の廃止・戦犯として訴追する空気の中でも、日本の世論は依然として圧倒的に天皇敬愛ー天皇制護持の念強く変わらず、キリスト教界(無教会含めて)も同様であったことでした。
従って、46年5月極東軍事裁判が開始されたころ、公的には天皇の戦責退位論を問う者はなく、道義的責任からのみ退位が論じられ(しかも学者等少数の異見)、堂々と所見を述べた南原繁もその範囲での論であったことです。(「退位の問題」貴族院質問『南原著作集』9卷、98頁以下)
そして、天皇制延命のキーマンたるGHQマッカーサー(聖公会クリスチャン)に影響を与え、かつ天皇制を支えたのはわが国クリスチャン達であり、その役割は蓋し大きかったのでありました。例えば同じ聖公会の関屋貞三郎(元宮内庁次官)、関屋の仲介で天皇・皇族に聖書の進講を講和条約発効直前まで続けた植村 環を中心とするキリスト者グループには、無教会者の侍従長・侍従・著名な無教会伝道者達も関与していたのでありました。
無教会者の天皇観は、神観(絶対的超越神)にしっかと立ち、天皇の神格化には強い抵抗と批判を示しつつ天皇制を尊重した矢内原に代表されると思います。彼は専制政治の体系としての天皇制は否定しつつも、「日本民族の社会的構成の中心」に天皇が位置するという政治形態の理想としての天皇制を擁護し、皇室が「基督の福音を受け容れ」ることを願ったのでありました。(『無教会史』Ⅲ、22頁)
3)無教会のエートスとは
無教会のエートス(特性)とは何も特別な意識で立つ訳ではなく、既述のように「キリストのみ、信仰のみ」を単純に信じて生きることを第一義とし、それ以外は外皮として第二~第三義とする(あえて言いば、どう受止めようと自由に委ねる)極めてイエス・キリストを中心とする原始共同体(使徒4:32~37)への立ち返りを追い求める運動グループといっても過言ではないと思います。集団である以上最低の組織としての代表とか会計担当といった体裁をとることはこの世の世俗的常識としての役割があるのは当然としても、教義とか教会といった建物(宗教法人としての)がある訳ではなく、教会側では無意識に無教会「派」という方がおりますが、教派・セクト集団に立っている訳でもないのであります。いわば「この指止まれ」式に「われ信じる」に従い個の人格者としてエクレシアに連なるのでありまして、入るも自由、去るも自由、即ち自由・独立を最大限尊重するグループなのであります。それが内村のいう「無」とは「ナイ」と読むべきというおおらかさこそ特徴とし、ただ一方「教会(建物)ならざる教会(エクレシア)」を追求するのは無教会の原点に立ち返る(復帰)営みとして最重要事であり、この世において、益々文明・科学といった衣を分厚く着ざるをいない現代にとっては、不可能事を可能と信じ追求し続ける哲学・神学的には永遠の課題ともいえる弛(たゆ)むことなき追求にあることです。目の前の見えるものに益々目を奪われる(洗礼・聖餐も同様)現代にあっては、全く興味のない不人気の因といえるかもしれないのでありますが、無教会者にとっては、聖書の指し示す真理として絶えず追い求める課題と申すことができましょう。
キリスト者の生き方は、イエスの十字架刑は人間の罪の為せるもの、にもかかわらず復活を通して神の義と愛のみ手が罪ある私達にも無限に注がれていることを単純に信じ、かつイエスがこの世に来たのは平和ではなく剣(霊の)をもたらすためだ(マタイ10:34)の気迫で、地の塩としてこの地が神の国として潔められることを念じて立ち働く一元的な生き方にあると思います。それはまた無教会全国集会の原点でもあり、無教会のエートスに通じるものと私は考えます。
私はプロテスタントのエキュメニカルな信仰共同体日本キリスト教協議会(NCC〈*〉)→靖国神社問題委員会に所属、そこには福音派・カトリックも加わる)に参加して40年近くになりますが、痛感したことは神以外何ものにもとらわれない独立・自由の無教会信仰の恵みを改めて感謝するとともに、牧会においては説教にのみ専念する(平和・天皇といった現世の問題に触れることは忌避される風潮、事実解雇された牧師もいる)二元的生き方を求められて苦慮する牧師の現実に身を寄せ、共に苦闘することを学んだことでした。それは、あのイザヤ・ベンダサンのいう日本教(天皇教)キリスト派の問題であり、キリスト教は日本教(天皇教)の枝に過ぎないのか、が問われる私たち日本人の精神構造―内なる天皇制の問題なのでもあり、現在の急速な右傾化の一因は、私たちキリスト者の責任も蓋し大きいと思うのであります。*世界的にはWCC傘下の教会(・・)協議会ではないため客員扱いにある。
特に私たち無教会者が戦後70余年後の今問われていることは、戦前回帰の急速な右傾化の波の中で、いかに無教会キリスト者として、キリストの証しをし、生きるか、既述のようにその真理性が鋭く問われているのではないでしょうか。具体的には、あの無教会の先人達が15年戦争下で闘った精神を真理と受止め闘って来、行くのか、現実は、集会・個人の中にタコツボ化して埋没、むしろ教会の方がそれを担っているのではないのか、との感すら覚える実体を直視しての思いなのであります。
また、21世紀の無教会はもう消滅してしまうのではないか、という声すら聞こえる現在、まず言及する当人自ら無教会者として顧み、特にキリストの恵みを分かち合う努力ー伝道を怠ってはいまいか、自省が肝要と思います。むしろ、高名な伝道者なき今こそ、イエスにのみに立ち返って、神から与えられたかけがえのない己のタラント(賜物)を十分に生かす絶好の機会の場を神は与え給うたのだ、という発想の転換をいたし、あの原始共同体に立ち返る原点復帰の好機と捉えるべきなのではないのか、と私は思うのであります。
矢内原がいう「われらは時勢の如何に煩わされることなく、それを気にしない。時を得ても、得ないでも、真直ぐにまじり気なきキリストの福音だけを宣べ伝える。このような態度を堅持するかぎり、無教会に行き詰まりはないであろう。(嘉信241号、1958年1月号)」を「しか、あれ」と受止めたく思います。そして、まさに無教会の先人達が、「あすのことを思いわずらうな」(マタイ6;34)の気迫で、十字架の福音に立って、「ただ信仰=イエス・キリストのみ」で生涯を貫いた真理の遺産を身に受け、与えられた生を全うしたいものです。
無教会の歩みも約二千年のキリスト教の歴史の厚みの中の枝に連なるものです。無教会のこれまたエートスともいえる「『信仰と真実いずれを選ぶか』と問われるなら、躊躇なく真実を選ぶ」の心を大事にしたく思います。
そして、神と人との「義」にある縦の関係と、人と人との神にある隣人「愛」という横の関係とのイエスを中核とした十字のきしりの中で、地の塩として与えられた大地にしっかり立ち、上を向き真実に生涯を全うできるか、が問われていると思うであります。
混沌とした一見希望なき虚無的(ニヒル)時代の中で、無教会の真理性→イエス・キリストの信仰に立って、キリストの父なるヤハウェ神こそ万人全ての創造主であり、そのご経綸を信じて絶望ではない満腔の希望をもって生きたいものであります。
注:Conscientious Objector。この7月刊行の森永 玲著『反戦主義者なる事通告申上げます~反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事~』(花伝社)の末永は、内村日記・特高資料に名・所業が記される以外全く不明な人物に在りましたが、内村の弟子として離婚迄して身辺を整理、公然と戦争に反対して殉教したわが国COの第1号である、といえましょう。