無教会全国集会2017

2017年度 無教会全国集会ブログ

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表紙

2018年04月05日 | 表紙

無教会全国集会2017
「無教会とは」

記録集

2017年10月28日(土)~29日(日)
千葉県市川市 山崎製パン企業年金基金会館サンシティ


ご参考

 無教会全国集会2015     については こちら
 無教会全国集会2014     については こちら

 無教会全国集会2013     については こちら
 無教会全国集会2012・沖縄  については こちら
 無教会全国集会2011     については こちら


 

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第31回無教会全国集会2017プログラム

2018年04月05日 | プログラム

主題「無教会とは」

コリントの信徒への手紙一

6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

第一日 10月28日(土)                      奏楽:西原偕子

12:30 受付

 

 

13:30 開会式

 

讃美:讃美歌第二編157番「この世のなみかぜさわぎ」

聖書朗読:コリントの信徒への手紙一 6:19

祈祷

開会挨拶

讃美:讃美歌85番「主のまことは ありその岩」

司会:小舘美彦

一同

司会

司会

坂内宗男

13:50 主題講演

講演者紹介

主題講演「無教会、その反省と使命」

祈祷

讃美:讃美歌527番「わがよろこび、わがのぞみ」

司会:小舘美彦

関根義夫

関根義夫

一同

14:50 休憩

 

 

15:00 特別講演

講演者紹介

特別講演「無教会の歩み」

祈祷

讃美:讃美歌298番「やすかれ、わがこころよ」

司会:小舘美彦

坂内宗男

坂内宗男

一同

15:50 休憩

 

 

16:00 証

「私にとっての無教会」

休憩

祈祷

讃美:讃美歌316番「主よ、こころみ うくるおり」

司会:小舘知子

鎌田厚志

香西 信

 

永井信子

小田弘平

司会

17:50 移動と準備

 

 

18:10 夕食

 

 

18:50 分科会

共通テーマ「私にとっての無教会」
 第一分科会
 第二分科会

 

20:00 散会

 

 

 

第二日 10月29日(日)                       奏楽:坂内義子

9:00  受付

 

 

10:00 聖日礼拝

 

讃美:讃美歌511番「みゆるしあらずば」

聖書朗読:ヨハネによる福音書 4:21-24, 6:28-29

祈祷

講話者紹介

聖書講話「三位一体の神を霊と真理をもって礼拝する」

祈祷

讃美:讃美歌521番「イエスよ、こころに宿りて」

司会:坂内宗男

一同

司会

司会

司会

 

直木葉造

一同

11:10 休憩

 

 

11:20 発題

 

「無教会と平和主義」

「無教会と高齢者のあり方」

「無教会と教育」

「無教会と若者」

祈祷

司会:大西宏

水戸 潔

西沢正文

野々瀬真司

倉井香矛哉

司会

12:50 移動と準備

 

 

13:10 昼食・分科会

第1分科会「無教会と平和主義」

第2分科会「無教会と高齢者のあり方」

第3分科会「無教会と教育」

第4分科会「無教会と若者」

第5分科会 主題講演

第6分科会 特別講演

 

14:50移動と準備

 

 

15:20 報告

 

沖縄

福島

祈祷

讃美:讃美歌154番「地よ、声たかく告げ知らせよ」

司会:荒井克浩

小舘美彦

村上真平

司会

一同

16:20 休憩

 

 

16:30 閉会式

讃美:讃美歌267番「神はわがやぐら、わがつよき盾」

参加者感想

閉会挨拶

祈祷

讃美:讃美歌405番「かみともにいまして」

司会:荒井克浩

 

 

 

司会

17:00 散会

 

 

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開会挨拶

2018年04月05日 | 開会式

           無教会全国集会準備委員会 議長 坂内宗男


皆さん、こんにちは!
 昨年の5月には、当全国集会を開催して第30回という大きな節目の時に、四国・徳島で開催が許され、「神の言葉-希望に生きる」の主題で、主に在る兄弟姉妹と共に、聖書の学びと讃美を中心に、実りある時を持つことが出来ましたことは幸いでした。
このように、各地域で開催出来ますことは、無教会の活性化に於いても、大変有意義と思うのであります。
どうか、地元の有志2~3人が手を挙げて下されば、準備の為の実務は、ある程度は私ども会でお手伝い出来ますので、積極的に担って下されば幸甚に存じます。

さて、今年も、この千葉・市川のなじみの会場で、第31回の新たな集いをスタ-ト出来ましたことは、感謝余りあることであります。
主題は、思い切って、「無教会とは」にさせていただきました。
ある教会人は、内村鑑三がこの世を去れば消えるもの、と言われたとお聞きしておりますが、「どっこい」今も生きていて、このように100年の歴史と伝統の中で、息づいて来たことは、無教会信仰が主のみ旨に添った真理として、主が嘉し給う結実であることと思われ、事実が証明していると確信するものであります。
従って、無教会の歩みにあって、何が変わり、何が不変なのか、日常の歩みにあって、常に原点に立ち返り、絶えず検証し、前進することにこそ無教会の精神-命が息づき、神の国の完成の為に、大いに寄与していくのだと思うのであります。
このような意味で、「無教会とは」の主題に添った真剣な祈りと話合いが出来、思いを共有して、喜びをもって散会いたし、日々の歩みの支えとなればうれしく思います。

 また、一昨年の当地での全国集会には、韓国から10数名の方々お迎え出来た感謝に加えて、この度も2名の方がご参加下さいましたことを喜びを持ってお迎えし、聖書の学びと共に証しをいただし、そして、キリスト者として、具体的現実の中でいかに地の塩として生きていくか、主のみ名を称える集いともなれば幸いに存じます。

最後に、私たちも、次第に高齢化の波の中で、かくも100名を越える方々がお集まりくださった訳で、始めて参加下さった方もそうでない方も、同じく主に在る愛の交わりの中で、その恵みを分かち合う会として、執り行われますことを祈って止みません。


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主題講演 「無教会、その反省と使命」

2018年04月05日 | 主題講演

浦和キリスト集会  関 根 義 夫

プロフィール
1940年群馬県前橋生まれ。
3歳の時父を結核で失い、2歳上の兄と共に、教員の母に育てられる。
5歳の時近所の教会の日曜学校に導かれ、小学校卒業まで通う。
学生時代に「60年安保」の混乱に遭遇、精神的彷徨の中で
矢内原忠雄の書物に出会い内村鑑三、無教会を知る。
1964年3月から政池仁主宰の聖書集会に出席、そこで堤道雄にも出会い、
以後両先生のご指導を頂く。
1985年政池仁召された後、友人たちと礼拝を守る。
1991年4月独立し、浦和キリスト集会を自分の責任で始めて現在に至る。
月刊福音伝道誌「パラクレートス」を発行、この10月で319号となる。

聖書:コリントの信徒への手紙一

6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

1;無教会は、洗礼(バプテスマ)、聖餐をどのように考えるのか。

わたしが敬愛してやまない信仰の先輩のお一人に、元・キリスト同信会伝道者、現・白鷺えくれ舎の伝道者藤尾正人先生がおられますが、お電話の際、あるいはお会いした時に、「無教会は、信仰告白をどう考えますか」あるいは「洗礼も一つの信仰告白ですよ」と、おっしゃられました。

以前にも、ある会でたまたま同席した教会の牧師の方が、わたしが無教会の者だと知ってか、突然、「聖書に記されているのに、無教会ではどうして洗礼も聖餐もしないのですか?」と問いかけられ、あまり唐突だったので、答えに詰まってしまったことがありました。

こういうこともあってか、無教会の中で育てられたわたしも、「洗礼」や「聖餐」について、どう考えるのか、いつかは自分なりに納得の行く答えを出さなくてはならないと思っていました。

この度、全国集会準備委員会より、無教会の今後の展望について語るように、とのお話しを頂いた時に、すぐにこの問題を考えて見ようと思ったのです。
よくよく考えて見ると、わたしたち「無教会」に連なる者が、教会で行われている「洗礼」、「聖餐」を日常的に行わないのは、内村鑑三の言葉に深く共鳴し、そこに聖書的な確かな根拠がある、と考えるからです。

内村は、礼典に関していくつかの文章を書いていますが、
今日わたしは、1912(大正元)年の「聖書之研究」第146号に掲載された「バプテスマと聖餐」という文章に則って、内村の考えを確認してみたいと思います。この論文は、彼が52歳の時のものです。なお、彼は、ある理由から「洗礼」という言葉は用いず、「バプテスマ」という言葉を使っています。その理由はすぐに明らかになります。

彼はこう言います。
「余は教会の儀式としてのバプテスマと聖餐を信じない。儀式は、それがどんなに気高く厳かであるとしても、人の霊魂を救う力を持たない。(儀式としての)バプテスマの水はどこまでも水である。これに罪を洗う(能)力はない、神の恵みは儀式によって降るものではない。

しかしながら、余はキリスト者の信仰の表現としてのバプテスマと聖餐を信ずる。・・・。バプテスマはキリストの死と復活とに関わる、信者の信仰の表現である、と。
『彼は死んで葬られ、第三日目に復活なさった』との信仰は、バプテスマをもって表現されるのである、と。
故にバプテスマは『洗礼』ではない、もしこれを礼式として見るならばこれは『潜礼』と称せられるべきものである。バプテスマは『沈めること』である。しかして『潜』は『死』を表わす。墓に下ることである。古き我に死ぬことである。

しかして水より上がることは復活の表現である。墓より出ることである。新しい我に生きることである。
かくのごとくして簡単なるバプテスマの形式をもって深遠なるキリスト者の信仰(「古きわれの死」と「新しいわれの誕生」)が表現されるのである。キリストの復活を信じない者のバプテスマは無意味である。バプテスマは罪の洗浄式ではない、また世に対する信者の信仰発表式ではない、・・・

バプテスマは信者の心に臨んだ深遠なる、革命的大信仰の表現である、彼はこれによって、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマの信徒への手紙4;25、新共同訳、以下同様)との、キリスト者だけがもっている信仰を言い表すのである。

そういうわけで、余は水のバプテスマを受けても受けなくても、霊の事実たるバプテスマを信ぜざるを得ない、バプテスマは、キリスト並びにクリスチャンの死と復活とに関する信仰の表現である。」

バプテスマについてこのように述べた内村は、続いて聖餐について次のように表明します。

「聖餐は・・・イエスの死を覚えんが(忘れない)ために、パンを食らい、葡萄酒を飲むことである。パンはキリストの肉を代表し、葡萄酒は彼の血を代表する、パンを食らい、葡萄酒を飲みて信者はキリストの死を記憶するのである。・・・かくのごとくして聖餐はキリストの受難の記念会である。すなわち、ユダヤ人の過ぎ越しの節(祝い)に代わるべきものである。・・・しかし、それだけではない、同時に感謝会である、・・・。主の肉を食らい、その血を飲みて、わが霊魂を養うことである。

イエスは言い給うた、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければあなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの地はまことの飲み物だからである。」(ヨハネによる福音書6;53-55)。

しかして、イエスの肉を食らいその血を飲むとは、イエスを我が有(自分のもの)となすの意である、獣の血を飲み、その肉を食らいて、わが肉体を養うごとくに、イエスの肉を摂取して、信者は、その日ごとに霊的生命をつなぐのである。しかして、この霊的生命の摂取、これを表現するものが聖餐である、・・・

勿論、パンとぶどう酒に霊的生命の在り様筈がない、パンはどこまでもパンであって、葡萄酒はどこまでも葡萄酒である、そればかりか、キリストご自体の血を飲み、その肉を食べたからと言って、それが我らの霊魂を養うということにはならない。・・・筋と脂肪と靭帯とよりなる肉は、たとえキリストの肉といえども、霊魂を養うには益なしである。いわんやパンをや、葡萄酒をや。信者が聖餐のパンと葡萄酒より、彼の霊魂の生命を求めて、彼は失望せざるを得ない。信者の霊的生命は聖餐の儀式をもって繋ぎうるものではない。・・・。

しかしながら、キリストに在りて充愛する(愛の満ちている)霊の生命の摂取の表現として、聖餐は実に麗しき、かつ意味深き形式である。しかして我らはこの簡単なる形式を以って現わされたる霊の事実を日ごとに実行すべきである。」

そして彼はこう付け加えます。

「神の生命の真の表現は、キリストの肉と血にあらずして、彼が語り給いし言葉である。

『生命を与えるのは霊である、肉は何の役にも立たない、わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。』(ヨハネによる福音書6;63)とある通りである。
そしてこの言葉を伝えるものは聖書である。

故にイエスの生命に与ろうとして、その肉を食らい、その血を飲むということは、とりもなおさず、聖書を霊読することである。敬虔な心を以てする聖書の研究、これが真の聖餐である。

このような理由から、教会に属さず、その儀式に与らざる余にも、またバプテスマと聖餐とはあるのである。余はこれを監督、牧師、伝道師など教会の役員の手より受けずと言えども、余の霊魂に於いて、神より直ちにこれを受けずしては、余もまたキリストの僕たることができないのである。・・・。」

以上のようなことから、内村にとって、バプテスマは、わたしたちが、キリストと共に、古き自分に死に、キリストと共に、新しい命に生きる者として造り変えられることであり、また聖餐は、キリストにあって新しい命に生きる者とされた者が、聖書を通してキリストの御言葉をわが血、わが命としていただき、霊魂を深く養い、終わりの日に備えつつ、生きる、ということであり、儀式としての水によるバプテスマ(洗礼)及び、聖餐式に与らなくとも、それらの持つ、我らにとっての信仰的な意味は実に深く、決して無視することはできない、とまとめることができます。           

では、内村の言う、キリスト者としての霊的な信仰体験(実験)としてのバプテスマと聖餐を、儀式ではない形として、わたしたちはどのように、現実のこととして受け留めて行ったらよいか、ということになります。

2:浦和キリスト集会での10分間の沈黙、黙想の時

先ず、バプテスマについてのわたしの経験をお話しします。

わたし共の浦和キリスト集会は、1991年に発足して以来26年間、主日礼拝を続けてまいりました。礼拝は午前十時に始まりますが、その当初から、礼拝の最初の10分間を、沈黙と黙想の時に当てています。それは単に、これから大事な礼拝が始まるから、静かに心を落ち着けて準備する、ということもないわけではないのですが、この沈黙と黙想の時がすでに祈りであり、礼拝そのものなのだ、ということを、この26年間の中で、ますます深く思うようになりました。

今回の講演を準備する中で、また今日お読みした内村の言葉に耳を傾ける中で、もしかしたら、礼拝の初めのこの10分間は、内村の言う、形式によらない、霊のバプテスマを、知らずして実験しているのではないか、そしてそれは、洗礼者ヨハネが預言していた聖霊のバプテスマ(マルコによる福音書1;8)を受けているのではないか、と思うに至り驚いております。

この沈黙と黙想の時、わたしたちは、目に見えない、主なる神様の前に、一人ひとりが立つことになるのではないでしょうか。ここで、古いわたしが十字架の主イエスに結び合わされ、主と共に死に、復活なさった主イエスと共に、新しい命に生きる者に変えられるのです。 

そして、このような霊的な意味を持つ、主日の礼拝に出席すること自体が、その人の信仰告白なのではないか、と思うに至りました。

そんなわけでわたしは、この沈黙と黙想の時こそ、主日礼拝に与る一人ひとりにとって、最も深い祈りの時でもあり、主にある自分を確認する大切な時ではないか、と思っています。

3:聖餐、それは「聖書に聴く」、ということ

それでは内村の言う聖餐についてはどう受け止めたらよいのでしょうか。

内村は、聖餐とは「イエスの命に与らんと欲して、その肉を食らい、その血を飲むことであり、これはとりもなおさず聖書を霊読することであり、敬虔の心を以てする聖書の研究である、これが真の聖餐である」と言いました。

それでは彼の言う「聖書の霊読、敬虔を以てする聖書の研究」とはいかなることを指しているのか、ということになります。

再び、わたし自身の経験を語らせていただきます。

わたしは、20代の半ばから政池聖書研究会で導かれて参りましたが、1985年4月、先生が召された後、政池聖書研究会は三つの集会となりました。わたしはその一つ、埼玉県南部と東京の北区に住む仲間たちとで聖日礼拝を守ることになり、わたしもまた2週間に一度ずつ、礼拝講話の責任を持つことになりました。

先生の遺された足跡を継ぐべく、勇んでスタートしましたが、半年経ち、一年経つうちに、最初の意気込みが徐々に薄れ、講話の責任の荷が重くなってしまいました。

聖書の基礎的な訓練もろくに受けたことのないわたしは、確実に行き詰ってしまいました。担当を前にした土曜日は、仕事から戻ってから準備を始めるというわけで、もう大変で、机の上は参考書だの、注解書だので一杯になり、時には、夜中の12時になっても、それを過ぎても明日何を話したらよいのか、まとまらないような日もあったのです。

丁度そんな時に、堤道雄先生と高橋三郎先生が中心となって、1987年1月にお茶の水の東京YWCA講堂で「これからの無教会はどうあるべきか」というテーマのシンポジウムが開かれたのです。

この中で、高橋先生が、榎本保郎牧師の主導されている「アシュラム運動」について、「わたし自身は直接これに参加したことがないので、体験に基づいて語ることはできないが」と前置きされて、次のように話されました。

「榎本牧師によれば、『アシュラム』とはインドの言葉で、『日常生活から退いて修める』と言う意味で、その集会は、御言葉に沈潜することに集中して、特定の講師の講義を聞くと言うよりは、各人が直接聖書の言葉に取り組み、そこで受けた恵みを互いに分かち合うことによって、より深く真理の輝きに接し、魂が満たされることを目指す、という特質をもっています。その必然的要請として、祈りを極めて重視していることを特筆しておかなければなりません。祈りと言えば、勿論無教会でも重視していますが、このアシュラムでは、集会が行われている全期間にわたって、交代で、絶えることなく、昼も夜も祈り続ける(連鎖祈祷)のです」と言われ、最後に、次のようにまとめられました。

「わたしが今日この運動に言及した理由は御言葉そのものを深く味わい学ぼうとすることに強く集中している点を重視するからです。そして単なる瞑想でもなく、単なる神学研究でもなく、いわば総力を挙げて、祈りの中に沈潜しようとする運動、とでも評することができようかと思います。」

わたしは、先生のこのお話しを聴いて、強い衝撃を受け、もしかしたらここに、自分の行き詰まりを突破する鍵があるのではないか、と思ったのです。

そして、この運動の中心を担っているという、滋賀県近江八幡にあるアシュラムセンターに問い合わせたところ、毎年一月に「年頭アシュラム」という集いが開かれ、これには、誰でも参加することができる、とのことでした。

わたしは、このシンポジウムに参加していた、今は亡き一条 仁(ひとし)兄と意気投合して、その次の年1988年1月に、二人で近江八幡に出かけて行ったのです。
会場は琵琶湖畔の国民宿舎で、その全館を借り切って、全国各地から約300名の方々が集い、しかもそのほとんどは教会のみなさんでした。

そして、この時をきっかけにしたわたしに、全く新しい世界が開かれることになりました。それは、わたしが聖書とどのように向き合えばよいか、ということについての根本的な解決が与えられたこと、さらに、それと並んで、わたしは初めて、教会に所属する皆さんと出会い、二泊三日の間寝食を共にし、親しく交わる、という経験を持ったのです。そして、あの時から30年経過した今でも、そのうちの何人かの方々とは、主にある親しい友人としての交わりが続くことになったのです。

ところで、初めてのアシュラムでわたしが経験したことはこう言うことでした。
先ず、アシュラムに参加されているみなさんの話から、わたしの耳に響いてきたのは、「聖書は読むものではなく、聴くものだ」という言葉でした。

それまでのわたしは、聖日の礼拝講話の準備として、伝えるべき聖書の真理を読み取るために、一生懸命聖書を読みました。それはまさに各駅停車的な読み方で、分からないことがあると、注解書を開き、先人の聖書講義を読み、聖書辞典を引いて、言葉の意味を調べたり、でした。そのようにしてあらゆる努力をして、明日のために聖書を調べて、理解しようとしたのです。それがどのような結果に行き着いたかは先ほどお話しいたしました。

そのわたしが「聖書は読むのではなく、聴くものだ」という、それまでまったく耳にしたことのないことを聞かされたのです。それは直感的に、これまでわたしがやって来たことと反対のことではないか、と思ったのです。わたしの聖書の読み方は、まさに自分中心で、自分勝手に聖書を取り扱っていたのです。まさに聖書は二の次で、自分第一だったことに思い至ったのでした。

そして、今からよくよく考えて見ると、わたしがアシュラムで体験したことは、30年前の、あの無教会シンポジウムで高橋先生がおっしゃっていた「御言葉そのものに沈潜し、御言葉そのものを深く味わい学ぼうとすることに集中する」ということでもあり、これこそ内村が言っていた、聖書の霊読、聖書を敬虔な心を以って研究する、と言うことの意味であることが理解できました。

わたしの敬愛するある牧師先生はこの事を、「聖書とわたしの関係におけるコペルニクス的転回」と呼んでおられます。

このことがあって以来、わたしは毎朝、聖書を通して主が語られる御言葉に、まさにこころの耳を澄ます思いで、聴かせていただくようになりました。そして、その時に聴かせていただいたことを語るようになりました。今でも、聖日の責任はなかなか重いものがありますが、それでもわたしは、聖書に向かうことが実に喜びの時となっていまに至っています。

そういうわけで、無教会には、バプテスマも聖餐もあるのです。

主日ごとの礼拝こそ、わたしたちにとっての真のバプテスマの時であり、真の聖餐の時であること、そしてこの礼拝の時こそ、主を信じて生きる者にとって掛け替えのない大切な時であることを納得したのです。

さらに、この主日礼拝の営みは、唯一週間に一度特別なこととして行うのではなく、平日の日々の生活の中にも一定の時間を設け、祈りと聖書に親しむ習慣を養い育てていくことにつながるのです。この習慣としての日々の聖書と祈りの時を守ることこそ、基督者として生きる基本となると思っています。

4:無教会は「エリート的な聖書学習集団」なのか。

ところで、最近ある集いで、無教会は「エリート的な聖書学習集団」となったのではないか、との発言を耳にしました。ここで「エリート」とは、恐らくは「知的エリート」の意味だと思います。しかし本当に無教会は「エリートの聖書学習集団」なのでしょうか。

考えて見れば、確かに内村のもとには、黒崎幸吉を始め藤井武、畔上賢三、塚本虎二、三谷隆正、江原万里、矢内原忠雄、南原繁その他多くの、実にきら星のような、人間的に見ても、まさにエリート中のエリートと呼ばれるにふさわしい方々が輩出しました。

しかし、その方々の、ほとんどとは言わないまでも、その多くの方々が、「知的エリート」であることが約束するはずの、この世の栄達を捨てて、独立の伝道者として、敢えて苦難の道を歩まれたことは、わたしたちがはっきりと確認できることです。

それに、無教会が、決してこの世的な「知的エリ-ト」の集団ではないことを明らかにする事実はこのほかにも事欠きません。

よくよく、振り返って見るならば、藤沢音吉がおりました。彼は内村を尊敬し、その車夫、(今で言えば、自家用車の運転手)を申し出た方です。しかも彼は後に日本で最初の「内村鑑三伝」を出版しました。また、東北の地・岩手の花巻には、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のモデルとなったと言われる、新聞販売をその業とした熱血漢斎藤宗次郎がいます。

さらに、基督信仰に固く立ち、非戦平和の旗印の下に、札幌の冬を獄中で過ごして屈しなかった「小十字架」の浅見仙作、徳島の地で「はこ舟」誌を発行、102歳で召されるまで、固く、来世復活の信仰を語り続け、庶民伝道に力を注いだ大工杣友豊市、内村が信頼し、その地を何度も訪れて宿とした、千葉県九十九里、鳴浜の海保竹松

15歳で結核を発病、再発を繰り返すも、聖書に出会い、回心を体験、貴重な体験記「十字架のめどを通して」を残した樫葉史美子、同じく結核で浜松の聖霊保養院で療養、回復が見込めず、二人の幼子を夫に託して離婚、「ベテスダの池のほとりで」を記し、「アウフビーダーゼーエン!」と言いつつ召された中川恒子

若き日に内村と出会い、妻の発病や、多くの苦難に遭いながらも東北の農村伝道に尽くし、その著「信仰独り旅」を残した諏訪熊太郎、その諏訪に導かれて、「農夫の語るキリスト教」を現わし、生涯一農夫として生きた、鶴岡聖書研究会の久保伊作

さらには、若くして信仰を得、重症結核を患うも奇跡的に回復、29歳で全生涯を主イエスに捧げるべく、結核を病む者のために信愛園を開設、「愛の数学―生涯をイエスに―」を著わした村松藤江

山形基督教独立学園の創始者、鈴木弼美は有名ですが、そのもとで信仰を養い、戦時中鈴木と共に、その信仰による反戦平和的な言辞のために山形拘置所に拘留された渡辺弥一郎、などの先人の名をあげることができます。勿論これはほんの一部、わたしが思いついたごく少数の方々に過ぎません。

そして、もしこれらの、無教会に連なる人々の特徴をあげるとするなら、それは、決して「エリートの聖書学習集団」ではなく、目に見えない神と救い主イエスを信じ、神の前に、どこまでも真実に生きたいと心から願う人たちの群れ、と言ってよいと思います。その様な内村の福音把握が、超一流のエリートと言われる人たちであろうが、また、名もない市井の、普通の人であろうが、その魂を一様に深く捉えて離さないのだ、と言ってよいかと思います。

しかし、よくよく考えて見るならば、これはなにも無教会だけの特色では決してなく、プロテスタント、あるいはカトリックその他の教会に集う、神の子主イエスを真実に礼拝している、多くの人々にも共通する特徴ではないでしょうか。

無教会だからではなく、主イエス・キリストの十字架の福音そのものがそのような力だからではないでしょうか。聖書そのものがわたしたちに語り続けている、この福音こそ、人の霊魂の一番深い所に訴えて、その人を変え、社会を変える真の原動力となる神の力なのです。この事をわたしたちは決して忘れてはなりません。

さらに大切なことは、聖書を通して語られる、いのちの御言葉、パウロがあれほどに、力を込めて語った「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマの信徒への手紙1:16)である、神の子イエス・キリストの十字架の福音を、知識として、頭で学習することではなく、魂の一番深いところで受け留めることです。信仰は、知識ではなく、今活きて働いておられ、聖霊として臨んでくださる、主イエスを信じ仰ぐことなのですから。この点無教会は、もう一度自らを深く省みる必要はないでしょうか。

5:無教会に連なる者の使命

ところで、内村すでに召され、その教えを受けて、わたしたちに熱い思いを以て福音を語ってくださった二代目、三代目の先生方も召されました。そしていまわたしたちは、その先生方から伝えていただいた福音を次の代に継承する、という重い責任を担いつつ、何をすべきかを問われています。

先ず第一に、無教会の仲間たちの高齢化があります。ということは、体力の低下も加わり、毎聖日の礼拝にもなかなか自由に集うことが難しくなるということでもあります。

勿論、仲間が、可能な限り、それをサポートするわけですが、それも難しくなることもあります。その結果として、礼拝への参加が途切れてしまうことにもなります。

一般に無教会の仲間は、比較的遠路から礼拝に通っている方が多い傾向にあります。その点、教会に通う信徒の方たちに地域性があるのと微妙に違ったところがあるのではないでしょうか。そんなわけで、かつてお元気な頃は、電車で郊外から都心の集会に通っていたが、これが難しくなっておられる方も多いのではないかと思います。

そして、無教会の集会の礼拝には出席できないけど、近くに教会があるのでそちらに行って礼拝を守っている、という例を耳にすることも増えて来たように思います。

わたしは、最初この事を聞いた時、何か寂しい思いがしましたが、少し考えて見て、同じ十字架の主神の子イエスを信じているなら、それもよいのではないか、と思うようになりました。

ある友人は、本当なら無教会の集会に出たいけれども、どうしても距離的に無理なので、割合便利に行ける日基の教会に行くことにした、と言って来られました。その方によると、今度の教会の牧師先生はとても親身になって受け入れてくださった、とのことです。

しかし、大きな中心都市ではこのようなことも可能かもしれませんが、地方の方では、なかなか難しい場合もあるのではないでしょうか。

でも事実は逆で、案外地方在住の方のほうが自由で、教会・無教会の隔てなく、礼拝に参加なさって充分満足なさっている場合も多いのではないかと思います。なぜなら、「教会か、無教会か」などとこだわっていたら、結局はひとり孤立してしまうことになりかねませんから。わたしたちにとって何よりも大切なことは、神の子キリストの十字架による福音の信仰を第一とすることであり、その他のことは二の次三の次だ、ということではないでしょうか。

しかし、もっと深刻なことは、これまで続いていた、集会が、一つ一つ、高齢化の故にその活動を停止せざるを得なくなってしまうということです。

そこで思います。わたしたちは、誰かが福音を語ってくれるのを待っているのではなく、老いたりと言えども、先人たちから、いのちの福音を聴かされて今がある者たちばかりです。だから、その福音に生かされてきたわたしたちこそが、その場その時に応じてでも、自分の生かされてきた証を語るべき責任があるのではないでしょうか。勿論これは、義務とか務めとかではなく、全く自由に、聖霊の導きに従うより外にはありませんが。

そういうことを考えるとき、信仰を持った若い人たちが是非大いに育ってほしい、と真剣に願わずにはおれません。わたし共の浦和集会では、10年ほど前、基督教独立学園高校の卒業生の方が3人ほど、一緒に礼拝を守っていましたが、結婚や就職などによって遠方に去られ、いまはさびしくなりました。

今年の浦和でのクリスマス講演会では、基督教独立学園に長く奉職された、助川光子先生お迎えすることになっていますが、このような機会を通して、学園の生徒さんや卒業生の方が、近くの無教会の集会に関心を持ってくれる機会になれば、とひそかに願っております。

勿論独立学園ばかりではなく、三重の愛農学園農業高校、あるいは島根のキリスト教愛真高校の卒業生の皆さんが、多くの先輩に続いて、最寄りの無教会の聖日の礼拝に参加してもらえるならとてもうれしいことです。

しかしその時大切なのは、わたしたちが決して急がないことです。と言いますのは、これらの学校の卒業生の皆さんには、福音の種がすでに播かれているという確かな事実があるからです。そして、というべきか、しかしと言うべきか、その種が実を結ぶにはやはり、20年30年が必要なのではないでしょうか。というのも、5歳の時初めて教会の日曜学校に触れ、小学校の6年間通ったこのわたしが、本当に信仰に生きる者とされたのは、それから20年も経ってからでした。このようなわけですので、福音の種を播かれた若い皆さんの上に、主の限りない慈しみと祝福を心から祈らずにはおれません。そしてその中から、この国の無教会の信仰を次世代の人々に継承してくださる方々が現れんことを心から願わずにはおれません。

でもわたしは思います。その前提には、やはり、何と言っても、いま各地、各所の無教会の集会での、主日の礼拝がしっかりと守られることではないでしょうか。

集う者の数によらず、それこそ、「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18;20)とおっしゃった主イエスの言葉に励まされて、内村がわたしたちに指し示してくれた、十字架のキリストの福音がしっかりと語られ続けられていることがなによりも大切なのだと思います。

そこにこそ無教会の基盤があるのではないでしょうか。わたしたち無教会に連なる者一人ひとりに課された使命はそこにあるのではないでしょうか。

わたしたちの現実は、時に先が見えないこともあるのです。しかし、たとえその様な時ですら、わたしたちは主日の礼拝をしっかりと守り、聖霊の助けにより、老いたる者は老いたる者として、主婦は主婦として、母親は母親として、働き人は働き人として、そして青年は青年として、主にあって生きる者として、自分の目の前の,為すべきことをしっかりと果たして行くことこそ大事です。

そのようにして主は、ご自分につながっているすべての教会のエクレシアと共に、無教会のエクレシアの成長をも導いてくださる、と確信します。この事を考える時、わたし達には、大きな安心と慰めと、そして希望があるのです。

 

 

 

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特別講演 「無教会の歩み」

2018年04月05日 | 特別講演

   ~「私にとっての無教会信仰」として~

                              坂内宗男

  主義に非ず、性格(品性)なり。教理に非ず、生命なり。基督教に非ず、キリストなり。
  主義は如何に高きも、教理は如何に深きも、儀文(形にはまったこと)にして束縛なり。

  我らは直(ただち)に活けるキリストに到り、其生命を受けて真の自由に入るべきなり。(  )は坂内注。
「基督教とキリスト」内村鑑三。1906(m39)年10月、『聖書之研究』80号。

*1年半の入院結核療養を経て1960年5月登戸学寮に入寮して秋頃、先輩が寮生手造りのガリ版刷り『方舟』創刊号(前年6月刊,年刊誌)を見せてくれ、とっさに目に入ったのがこの言葉で、以降私の座右の銘となった。

1)無教会の生成と展開
主題が「無教会とは」であることから、特別講演として準備委員の意向に従って(小生は準備委員会の議長として)お話いただく方を折衝したのですが、結果として私がお話するはめに至りました。

  今年の開催要領のご案内にも書きましたように、百年以上の歴史性を持った無教会の歩みが今その真理性が問われていると自戒するのでありますが、それに応えるものとして、無教会の歩みを客観的に述べることについては、既に『無教会史』Ⅰ~Ⅳ(新教出版社)が公刊されていることでもあり、また抽象論では致し方ないので、むしろ無教会信仰に立って各人が信じる歩みを語ることに生きた証として意味があるかと考え直し、「私にとっての無教会信仰」として語らせていただくことにしました。

なぜなら、無教会とは「ただ聖書のみ、信仰=イエス・キリストのみ」を単純にわれ信ず、でありまして、目に見えた集団としての教会(建物)や組織・教派(セクト)的信条がある訳ではなく、結果的に各人が自ずとエクレシアに連なり、かつそれが全体として使徒信条に収斂された恩恵を感謝するものであるからです。

 そして、無教会のエクレシアとは、「二人または三人(一人でなく)がわたし〈イエス〉の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)を旨とし、その本質とはあのパウロがいう「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰(のみ〈M・ルター〉)によるのである」(ロマ3:28)に尽きるのであります。

 今年はM・ルタ-宗教改革五百年に当りますが、ルタ-が当時のキリスト教会(=カトリック)典礼(サクラメント)7つのうち洗礼・聖餐以外全てを廃止した大胆さによるプロテスタント教会の誕生は、以降の西欧文明の精神的支柱となったのでありました。しかし、他方残された洗礼・聖餐によって、皮肉にもその本質の実体化よりも形式化し、かってのカトリックの典礼体質に戻った感が致し、意義よりもむしろ弊害が大きいのが今日在る教会の実態ではないでしょうか。洗礼を教会員の絶対条件とし(従って未受洗者はあくまでも求道者扱いとして差別〈区別でなく〉、無教会者は蚊帳の外として論外扱い)、また聖餐を受ける者の前提は受洗者に限るとする(近時、日本基督教団では、これを守らない牧師を罷免、裁判訴訟まで及んだ)人間的傲慢とも言うべき教会の現況を見る時、ここにルタ-の負の遺産を見、従って、これを打破し、洗礼・聖餐は信仰の第一義としない(受けるもよし、受けざるもよし〈軽視ではない〉)とした内村鑑三の信仰把握は、第二の宗教改革といわれるほど徹底した革命的なものなのである、と申すことができましょう。換言すれば、イエス・キリストを信じるとは、単純に聖書に立った徹底的信仰把握にほかならないからでありました。しかし、悲しいかな、かかる考えを異端視するのも教会の現実であることをも直視すべきなのであります。

 そもそも、内村の無教会とは、彼が理念的に体系づけた訳ではなく、内村のこの世との闘い(宣教師との衝突、不敬事件を始めとして)から、世に捨てられ、教会にも身を置くところなく、気付いてみたら「無」教会となっていたというのが真相なのではないでしょうか。でありますから、のちに無教会者の中から、無教会を「主義」として思想史的に受止めたり、「無」に神学・哲学的に重みをおく思考も出たのではありますが、これは内村の本旨ではなく、わたしもそれに賛意を表するものであります。

事実彼は「無教会論」(1901)の中でこういっているのであります。

 「『無教会』は教会のない者の教会であります。……「無教会」の無の字は「ナイ」と読むべきでありまして、「無にする」とか「無視」するとかいう意味ではありません。……ほんとうの教会は実は無教会であります。天国には実は教会なるものはないのであります。……無教会これ有教会であります。教会をもたない者のみが実は一番善い教会を持つ者であります。」

 ただ彼の無教会的傾向の萌芽は、既に札幌農学校学生時に学友八人で形成した自主的教会(チャーチ〈建物)なき集会、聖書研究会)に現れているのでありました。

 更にいいます。「無教会は進んで有教会となるべきである。しかし在来の教会に還るべきではない。教会(チャーチ〈建物〉)ならざる教会(エクレシア〈注:坂内〉)となるべきである。すなわち教会を要せざる者の霊的団体となるべきである。」と。

(「無教会主義の前進」1907)。

 内村の生涯を見ますと、前半においては不敬事件・絶対的非戦論を始めとして「萬朝報」や彼の発行する『聖書之研究』誌等でこの世に対して冷徹な論陣を張り、また足尾銅山鉱毒事件等社会悪に対して積極的に行動したのでありましたが、再臨運動を契機に伝道(『聖書之研究』誌の発行ー紙上の教会の形成、日曜含めた講演、教友会・青年団の育成等々)に専心(家永三郎はこれを内村の限界と批判しましたが)、その弟子から多くの伝道者・キリスト者が各地に輩出致し、内村の精神を体し、地の塩として主のため世のために献身したことは特記されてしかるべきでありましょう。頭の教会(*)といわれる日本キリスト教会の中でもとりわけ無教会には知識人が多いとかいわれますが、例えば野武士的車座で喜びの福音を伝えた海保竹松(名望家)、井口喜源治(教育家)、長谷川周治(実業家)、諏訪熊太郎(農村伝道者)、藤沢武義{伝道者}、浅見仙作(農民・伝道者)、鈴木武直(理髪師)、杣友豊市(大工・伝道者)等……、また樫葉史美子(結核療養)、吉田あやの(主婦)、白井きく(伝道者)、松井義子(韓国被爆者救援・「忘れな草」主筆)等……といった地道な存在、そして片山 徹・岩島 公家庭集会(家族伝道スタイル)こそが無教会精神を体しその底辺を支えた強みだったのではないか、ともいえるのであります。

*祈る教会―韓国、踊る教会―台湾、といわれる。

 そして、特に満州事変を基点とする15年戦争において、強まる神権天皇制軍事国家・ファシズム化に対して、世の常同様キリスト教会でもバール(大元帥かつ現人神たる偶像神「天皇」)に屈し、二刀流的この世と信仰を分離して皇民化政策に相次いで順応→敗北した中で、概して毅然としてこの世ー国家権力に対峙(逮捕・迫害の中で)したのも彼ら無教会者であったことは歴史の示す事実なのであります。

 また、世界的にも、移民として米国・南米(ブラジル)、日本への留学生が祖国に持ち返った台湾・朝鮮人による無教会信仰が独自に花開いたことにありました。特に韓国では内村に愛された我ら六人-金教臣・咸鍚憲・宋斗用……-による『聖書朝鮮』誌の発行、韓国無教会の伝道が日帝による朝鮮植民地への厳しい統制・強圧(獄に繋がる者も出た)の中で展開、今日でもキリスト教国韓国では異端視状況の中で福音の純化の証しを続けていることをも主の恩恵として知るべきなのであります。あの金教臣が、朝鮮人魂をもって朝鮮語でキリストの福音を民衆に刻印したい、との信念は、まさに単なる民族主義を吹き抜けた世界の福音としてのキリスト魂であり、それは内村から学んだというのでした。朝鮮解放後ある教会人のいった「寺内(正毅、初代朝鮮総督)総督は死んだけれども、内村総督は文書を通し、韓国内村党を通して韓国教会に君臨していることを忘れてはならない」との批判に対して、内村の弟子たることを公言してはばからなかった金教臣の精神は息づいて来たのでありました。(『無教会史』Ⅱ、241頁)

2)戦争責任(謝罪)~無教会者の天皇制・平和論の視点で
 ドイツとの対比で、わが国が今日でも、いや益々被侵略国との間でこじれている案件は戦後補償問題にあります。その根底には戦争責任(戦責)問題、即ち天皇の名で侵略し侵略されたのに肝心の天皇が戦責免除され、その流れに立って為政者も戦責に鈍感であり、わが国民もあの敗戦時での謝罪は驚く勿れ被侵略国に対してではなく宮城に向ってお詫び?したという奇怪な精神構造の底流に、天皇制下の「和」の社会(「個」の自覚の欠如)が依然として底流にあることを知るのであります。そして、革命的平和憲法下にあってもその心性は変わらず、それが今日の急速な右傾化の要因だと視ます。しかも、聖書に立つ筈のキリスト者→無教会者達も同様であったことから、平和論は日本人にとっては天皇制と密接に関連しており、臣民・赤子として天皇の名で侵略戦争に加担した事実を直視し、侵略戦争を批判した無教会二代目以下も他の明治人キリスト者同様に天皇制には概して親和的であったことを述べ、十戎の第一項をどう受け止めたのか、真理の継承において反省の糧と致したく思うのです。

 そもそも内村も署名したあの札幌農学校における『イエスを信じる者の契約』の第7項「なんじの父母と有司(=支配者〈注:坂内〉)とに従い、かつこれを敬うべし」とは十戒の5項「あなたの父母を敬え。……」(出エ20:12)とロマ書13章1節「人は皆上に立つ権威に従うべきです。……」の日本的改変ともいうべきもので、天皇に忠誠を尽くす思想的基盤となり得て、更にその淵源は実に始めてプロテスタントが日本に上陸して設立された1872(明5)年「横浜公会(日本基督公会)」における教会規則の中核ともいうべき次の三つの条文を「論一定せず」といって除外したことに顕著なのであります。

第一条  曰ク皇祖土神の廟前ニ拝跪スへカラサル事(以下略)。
第二条  曰ク王命ト雖モ道ノ為ニハ屈従スへカラサル事(以下略)。
第三条    曰くク父母血肉ノ恩ニ愛着スへカラサル事(以下略)。

事実内村は89年の「天長節並びに立体子式祝会」での「菊花演説」では、「日本に於て世界に卓絶した最も大なる不思議は実に我皇室なり。天壌と共に窮りなき我皇室は実に日本人民が唯一の誇りとすべきものなりと」(山路弥吉〈愛山〉著『基督教評論』ー小澤三郎著『内村鑑三不敬事件』、31頁)というのです。91年の不敬事件も御親筆(教育勅語)に対して拝礼となったこと(偶像崇拝)に疑念を持ち、とっさに「軽く頭を下げた」ことが問題となったもので、天皇への崇敬の念は変らなかったのであり,二代目弟子達も同様で、戦後政池仁が「行く行くは廃すべきもの」(無教会史Ⅲ、23頁)といったに過ぎませんでした。

無教会者達の絶対非戦論の根底には、勿論あの内村が聖書に基づき日清戦争時の義戦論を反省致し、直裁な「戦争廃止論」に転じた点にあります。

「余は日露非開戦論者であるばかりでない。戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。」(1903〈明36〉年6月萬朝報)

しかし、実際に戦争に対峙した原点は、あの同年12月、花巻・斎藤宗次郎青年が内村の教えに従い銃殺覚悟で徴兵拒否しようとした花巻非戦論事件にあります。内村は急遽花巻に赴き「召集には応じ、税金を納めるのが聖書の正解である、……しかし拒否が正しいと思うなら良心の命ずるままをやり給え」といい、結局拒否を断念した点にある、のです。                      (政池仁著『内村鑑三伝』、409頁~)

矢内原忠雄もロマ書13章の係りの中で「この問題は……第二次世界大戦、太平洋戦争の時に現実にわれわれ皆ぶっつかった問題です……。国法に従うことが信仰上の要求であると同時に戦争に反対することも信仰上の要求だ。……その矛盾を解くものは、戦争にあって死ぬること以外にはない、と。(東京独立新聞1961年4月)。従って愛弟子秋山宗三(ガタルカナル)、二宮健作(広島)の戦死に対し、「国民の罪を負ひ、我らの集り(日曜家庭集会〈注:坂内〉)の罪を負ひ、然り我が罪を負うて、この二人の若者の生命は、天に召された」、というのであります。(『矢内原全集』25卷、209頁)

従って、ここからは、ヤマト武士の名誉ある切腹死、戦時の玉砕死と同一に論じることは勿論出来ないとしても、個よりも全体を重んじる日本的思考を見る思いで、ここからは、西欧に生まれ、制度化した良心的兵役拒否者(CO〈〉)は生まれようがなく、わが国平和論の限界を覚える、と私は考えるのであります。

徹底した十戒・福音に生きるとは、イエスの十字架の炎で和のしがらみを断ち切る信仰的決断を要し、事実植民地『朝鮮』の教会・基督者は、神社参拝や天皇たる偶像崇拝を拒否したため、神学校は閉鎖され、二百余の教会が門を閉じ、二千余人の信徒が投獄され、五〇余人の教職者が殉教したことをわが国教会・キリスト者は肝に銘じるべきなのであります。

特記すべきは、敗戦処理においての最大核心は、一重に日本民衆の生命保護ではなく国体=天皇制護持にあったことで、その故に終戦の決断を遅らせ、その結果広島・長崎の原爆投下、また悲参な沖縄戦に至っての無条件降伏なのであったことです。しかも、敗戦後戦勝国が天皇制の廃止・戦犯として訴追する空気の中でも、日本の世論は依然として圧倒的に天皇敬愛ー天皇制護持の念強く変わらず、キリスト教界(無教会含めて)も同様であったことでした。

従って、46年5月極東軍事裁判が開始されたころ、公的には天皇の戦責退位論を問う者はなく、道義的責任からのみ退位が論じられ(しかも学者等少数の異見)、堂々と所見を述べた南原繁もその範囲での論であったことです。(「退位の問題」貴族院質問『南原著作集』9卷、98頁以下)

そして、天皇制延命のキーマンたるGHQマッカーサー(聖公会クリスチャン)に影響を与え、かつ天皇制を支えたのはわが国クリスチャン達であり、その役割は蓋し大きかったのでありました。例えば同じ聖公会の関屋貞三郎(元宮内庁次官)、関屋の仲介で天皇・皇族に聖書の進講を講和条約発効直前まで続けた植村 環を中心とするキリスト者グループには、無教会者の侍従長・侍従・著名な無教会伝道者達も関与していたのでありました。

無教会者の天皇観は、神観(絶対的超越神)にしっかと立ち、天皇の神格化には強い抵抗と批判を示しつつ天皇制を尊重した矢内原に代表されると思います。彼は専制政治の体系としての天皇制は否定しつつも、「日本民族の社会的構成の中心」に天皇が位置するという政治形態の理想としての天皇制を擁護し、皇室が「基督の福音を受け容れ」ることを願ったのでありました。(『無教会史』Ⅲ、22頁)

3)無教会のエートスとは
 無教会のエートス(特性)とは何も特別な意識で立つ訳ではなく、既述のように「キリストのみ、信仰のみ」を単純に信じて生きることを第一義とし、それ以外は外皮として第二~第三義とする(あえて言いば、どう受止めようと自由に委ねる)極めてイエス・キリストを中心とする原始共同体(使徒4:32~37)への立ち返りを追い求める運動グループといっても過言ではないと思います。集団である以上最低の組織としての代表とか会計担当といった体裁をとることはこの世の世俗的常識としての役割があるのは当然としても、教義とか教会といった建物(宗教法人としての)がある訳ではなく、教会側では無意識に無教会「派」という方がおりますが、教派・セクト集団に立っている訳でもないのであります。いわば「この指止まれ」式に「われ信じる」に従い個の人格者としてエクレシアに連なるのでありまして、入るも自由、去るも自由、即ち自由・独立を最大限尊重するグループなのであります。それが内村のいう「無」とは「ナイ」と読むべきというおおらかさこそ特徴とし、ただ一方「教会(建物)ならざる教会(エクレシア)」を追求するのは無教会の原点に立ち返る(復帰)営みとして最重要事であり、この世において、益々文明・科学といった衣を分厚く着ざるをいない現代にとっては、不可能事を可能と信じ追求し続ける哲学・神学的には永遠の課題ともいえる弛(たゆ)むことなき追求にあることです。目の前の見えるものに益々目を奪われる(洗礼・聖餐も同様)現代にあっては、全く興味のない不人気の因といえるかもしれないのでありますが、無教会者にとっては、聖書の指し示す真理として絶えず追い求める課題と申すことができましょう。 

 キリスト者の生き方は、イエスの十字架刑は人間の罪の為せるもの、にもかかわらず復活を通して神の義と愛のみ手が罪ある私達にも無限に注がれていることを単純に信じ、かつイエスがこの世に来たのは平和ではなく剣(霊の)をもたらすためだ(マタイ10:34)の気迫で、地の塩としてこの地が神の国として潔められることを念じて立ち働く一元的な生き方にあると思います。それはまた無教会全国集会の原点でもあり、無教会のエートスに通じるものと私は考えます。

 私はプロテスタントのエキュメニカルな信仰共同体日本キリスト教協議会(NCC〈*〉)→靖国神社問題委員会に所属、そこには福音派・カトリックも加わる)に参加して40年近くになりますが、痛感したことは神以外何ものにもとらわれない独立・自由の無教会信仰の恵みを改めて感謝するとともに、牧会においては説教にのみ専念する(平和・天皇といった現世の問題に触れることは忌避される風潮、事実解雇された牧師もいる)二元的生き方を求められて苦慮する牧師の現実に身を寄せ、共に苦闘することを学んだことでした。それは、あのイザヤ・ベンダサンのいう日本教(天皇教)キリスト派の問題であり、キリスト教は日本教(天皇教)の枝に過ぎないのか、が問われる私たち日本人の精神構造―内なる天皇制の問題なのでもあり、現在の急速な右傾化の一因は、私たちキリスト者の責任も蓋し大きいと思うのであります。*世界的にはWCC傘下の教会(・・)協議会ではないため客員扱いにある。

 特に私たち無教会者が戦後70余年後の今問われていることは、戦前回帰の急速な右傾化の波の中で、いかに無教会キリスト者として、キリストの証しをし、生きるか、既述のようにその真理性が鋭く問われているのではないでしょうか。具体的には、あの無教会の先人達が15年戦争下で闘った精神を真理と受止め闘って来、行くのか、現実は、集会・個人の中にタコツボ化して埋没、むしろ教会の方がそれを担っているのではないのか、との感すら覚える実体を直視しての思いなのであります。

 また、21世紀の無教会はもう消滅してしまうのではないか、という声すら聞こえる現在、まず言及する当人自ら無教会者として顧み、特にキリストの恵みを分かち合う努力ー伝道を怠ってはいまいか、自省が肝要と思います。むしろ、高名な伝道者なき今こそ、イエスにのみに立ち返って、神から与えられたかけがえのない己のタラント(賜物)を十分に生かす絶好の機会の場を神は与え給うたのだ、という発想の転換をいたし、あの原始共同体に立ち返る原点復帰の好機と捉えるべきなのではないのか、と私は思うのであります。

矢内原がいう「われらは時勢の如何に煩わされることなく、それを気にしない。時を得ても、得ないでも、真直ぐにまじり気なきキリストの福音だけを宣べ伝える。このような態度を堅持するかぎり、無教会に行き詰まりはないであろう。(嘉信241号、1958年1月号)」を「しか、あれ」と受止めたく思います。そして、まさに無教会の先人達が、「あすのことを思いわずらうな」(マタイ6;34)の気迫で、十字架の福音に立って、「ただ信仰=イエス・キリストのみ」で生涯を貫いた真理の遺産を身に受け、与えられた生を全うしたいものです。

 無教会の歩みも約二千年のキリスト教の歴史の厚みの中の枝に連なるものです。無教会のこれまたエートスともいえる「『信仰と真実いずれを選ぶか』と問われるなら、躊躇なく真実を選ぶ」の心を大事にしたく思います。

そして、神と人との「義」にある縦の関係と、人と人との神にある隣人「愛」という横の関係とのイエスを中核とした十字のきしりの中で、地の塩として与えられた大地にしっかり立ち、上を向き真実に生涯を全うできるか、が問われていると思うであります。

 混沌とした一見希望なき虚無的(ニヒル)時代の中で、無教会の真理性→イエス・キリストの信仰に立って、キリストの父なるヤハウェ神こそ万人全ての創造主であり、そのご経綸を信じて絶望ではない満腔の希望をもって生きたいものであります。

:Conscientious Objector。この7月刊行の森永 玲著『反戦主義者なる事通告申上げます~反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事~』(花伝社)の末永は、内村日記・特高資料に名・所業が記される以外全く不明な人物に在りましたが、内村の弟子として離婚迄して身辺を整理、公然と戦争に反対して殉教したわが国COの第1号である、といえましょう。

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