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無教会全国集会2017

2017年度 無教会全国集会ブログ

無教会と平和主義

2018年04月05日 |  1.無教会と平和主義

発題 「無教会と平和主義」

水戸 潔

プロフィール
1942年、サハリン生。高橋集会テープ、浜松聖書集会で聖書を学ぶ。現在、浜松聖書集会所属。浜松市憲法を守る会共同代表、日本友和会事務局長、愛真高等学校理事。

 私に与えられました標題は「無教会と平和主義」でありますが、実はこの標題をいただいたとき、ちょっとした戸惑いを覚えました。と言いますのは、無教会と平和主義と言うと、平和主義が何か無教会独特のものであり、何かすぐれたものを持っているという響きを与えられたからであります。
 ご存知のように、平和主義というものは、無教会独特のものではなく、地理的にみても、歴史的にみても普遍的に存在する平和にかかわる主義、立ち位置を示すものです。
 一例として、浜松市にあって平和行進608回、53年の歴史を持つ「浜松市憲法を守る会」について見てみたいと思います。

 いま日本は、三年後の東京オリンピックを控え、これを利用してナショナリズムを高揚しようという動きが見られますが、いまから53年前、1964年、東京でオリンピックが行われたあの時もナショナリズムが高揚した時代でありました。あの大会が終わった11月5日、浜松市に於いて、市内目抜き通りを封鎖して、あろうことか戦車100台、空には戦闘機45機が舞うという、大軍事パレードが行われました。

 この時、この行進の最後尾をたった一人で「戦争準備絶対反対」のプラカードを掲げて反戦デモを行った人がいました。遠州教会の牧師・松本美実氏であります。この方は、戦時中日本キリスト教団がこの戦争に協力して、国に戦闘機を献納したりしていた時、これに協力しなかったばかりか、「この戦争は間違っている。この戦争はやめるべきである」との書簡を全国の教会に送った人であります。それが為に、当時の教団統理・富田満に呼ばれて「この時局に於いて、戦争反対など言ってもらったら困るじゃないか」と叱責されたこともありました。しかし、彼はその叱責に屈せず非戦平和主義を貫き、戦後は平和憲法を守る運動に転じ、この一人デモとなったのであります。その時、浜松市憲法を守る会の共同設立者となった溝口正氏とのうるわしい友情物語があるのですが、今日は時間の関係で割愛いたします。

 私、いま何を言いたいのかというと、この例に見られるように平和主義は、何も無教会だけのものではない、少数ながら教会の中にもこのように平和主義は息づいていたということを申しあげたかったのであります。 

  このことを踏まえた上で、無教会と平和主義について考えるとき、私たちは反射的に内村鑑三の非戦平和主義に突き当たります。そして、内村の非戦平和主義が無謬の平和主義であり、そこに限界はないと思われているのではないだろうかと思うのであります。

 よく知られているように、内村鑑三は日清戦争(1894.8~1895.3)の時には、「日清戦争の義」(1894年)という一文を発表して主戦論を展開するのでありますが、その戦争の正体を見て失望し、以後非戦平和主義に転じます。そのことは「余が非戦論者となりし由来」(1904年9月22日)に書いていますが、その根拠として、

1.聖書、2.生涯の実験、3.世界歴史、4.米国の健全なジャーナリズム(ザ・スプリングフィールド・リパブリカンという新聞)の四つをあげています。

 今、それを逐一説明している時間がありませんので、割愛いたしますがその論理は総論に於いて、極めて精緻な理論であり、崩しようがないように見えます。

 しかし彼はその一ヶ月後に、「非戦主義者の戦死」という一文で一旦戦争が起こったならば、非戦主義者といえども召集に応じるべきであると言い、その結果としての非戦主義者の死は、戦争の罪を贖う犠牲の死となると言ったのであります。

 この犠牲の死という考えが、戦争を美化する靖国思想の承認につながりかねないとして哲学者高橋哲也氏の批判となったことは記憶に新しいところです。

 これは、内村鑑三生誕150周年に当たる2011年、ときあたかも、あの3.11東日本大震災の8日後、2011年3月19日、20日の二日にわたって、今井館で行われた「内村鑑三生誕150周年記念講演会、シンポジューム」において、高橋哲也氏が「内村鑑三と犠牲」という題で語られたものであります。私は、この講演会に参加できなかったのでありますが、後にこれを読んで、極めて鋭い正当な指摘であると思いました。

 もう一つ、考えさせられたことは、このときは指摘されなかったのですが、内村は「戦争廃止論」(1903年)の中で、「戦争は人を殺すことである」と言いながら、召集に応じる事を勧めるのは、人を殺す蓋然性があることを見落としているように、思われるのです。蓋然性というのは、起こりうる可能性、確率のことを言うのですが、非戦主義者といえども、銃を肩に戦場に出たならば、人を殺す可能性があることを、内村は想像できなかったのであろうか。たぶん、想像できたのであろうと思うのです。ですから、私はレジメに於いて見落としていると断定はせず、ように見えると書きました。これについては、この後の分科会で、参加者の皆さんから、活発なご意見、ご批判をいただきたいと思います。

 さていま、日本の政治情勢を見ますと、既に戦争への準備として、教育基本法が改定され、秘密保護法も共謀罪も施行されました。新安保法によって自衛隊は武装して海外に出て行き武力を行使する、すなわち戦争のできる国となってしまいました。これは明らかに憲法違反なのでありますが、これを正当化するため、9条そのものを変えて堂々と戦争のできる国にするもくろみが着々と進んでおります。

  この度の衆議院選挙において、改憲発議のできる政権与党の議席数が3分の2をこえ、新聞報道によると当選者の82%が憲法を改正しても良いと答えている事から見て、憲法9条が戦争の出来る条項に変えられる事が現実味を帯びてまいりました。 日本はまた戦前に回帰しているように思われてなりません。

 そこで、あまり想像したくないのでありますが、そうなった場合、我々は、どこに踏みとどまるべきか。今日はその事を考えて見たいと思います。

 選択肢としては、①反戦の論陣を張る、②召集があった時良心的兵役拒否をする、③召集に応じて戦闘に参加する、④召集に応じるが武器は取らない、などのことが考えられるのでありますが、これらについて、歴史上の人物を通して考えてみたいと思います。

 まず挙げるのは、内村(1861~1930)と同時代の柏木義円(1860~1939)です。
彼は、内村鑑三より一年前に新潟県に生まれ、現在の同志社大学の前身同志社普通学校卒業後、新島襄が建てた群馬県安中市の安中教会牧師に就任します。彼は、内村と同じく、日清戦争の時は主戦論を主張するのですが、その後日露戦争から一貫して非戦平和主義を唱えました。

 しかし、彼の、内村と異なるところは、戦争が起こった場合の召集命令に対する対応のしかたの違いであります。彼の弟子の一人に、須田清基という弟子がいまして、彼は、召集命令に対して、徴兵忌避のため陸軍大臣宛に「刑を覚悟して、軍籍離脱の届け」を出すのです(1921年)。それに対し、柏木義円は、須田を全面的に支持し彼の決意を高崎教会、と安中教会で披露し、「余にも大なる責任あり、君のために祈らん、君と共に苦を分かたん」と日記に書いているのです。

 ところが、不思議なことに陸軍大臣に懲役忌避を申し出た須田清基はさしたるとがめを受けていないのであります。後に述べる、イシガ・オサム渡部良三、末永敏事らが過酷な弾圧を受けたにも関わらず、なぜなのだろうか。これについても、私たちが覚悟しておくべき重大な問題を含んでいると思われるので、後の分科会で活発な議論を期待したいと思います。

 さらに驚くべきことに、須田清基はさしたるとがめを受けなかったにも関わらず、何があったのか、一年半ほどして、転向し主戦論者に代わってしまいます。それに対して、柏木は須田の無事を喜びつつも「君がもっと深く理性の地盤に掘り込んで金剛不壊滅の処に基盤を置かるるでなければここに帰って来らるるは落ちだ」と須田を厳しく批判します。要するに、しっかり考えていないから、こういうことになるのだ、と言うのであります。ここも内村と異なるところであります。そして、須田はその後、1925年、一人台湾へ伝道に旅立つのであります。しかし、彼と柏木義円との子弟愛は途切れず、その10年後、1935年柏木が牧師を引退したとき、須田は「人を殺す勿れ」と言う一文を台湾から寄せているのである。

 次はイシガ・オサムの場合ですが、彼は召集令が来る前に、岡山の憲兵に兵役拒否を申し出て収監され、過酷な弾圧を受けて転向するのですが、東京に送られ、そこで釈放された後に敗戦間際の1945年8月に衛生兵として召集に応じますが、戦地に送られる前に敗戦を迎えます。

 次は内村鑑三の弟子であった末永敏事の場合ですが、最近、長崎新聞の編集局長森永玲と言う人の書いた「反戦主義者なる事を通告申しあげます」と言う優れた著書に、詳しくそのいきさつが書いてあります。家族・親戚に累が及ぶ事を避けるために、あらかじめ妻と離縁した上、召集を拒否した方でありますが、その後の彼の人生は暗澹たるもので、その行方、亡くなった場所なども依然不明であります。 今日的に見て、共謀罪が成立し、その運用次第では今後極めて考えさせられる出来事であり、是非この書を読んでいただきたいと思います。

 次は、渡部良三の場合でありますが、この人は学徒出陣で中国に派兵され、そこで中国人捕虜虐殺命令を拒んで、凄惨なリンチを受けながらも人を殺す命令を拒否して戦地で生きのび、帰還した方であります。歌集「小さな抵抗」が有名であります。

 最後に、太平洋戦争、沖縄戦に従軍したアメリカ人兵士デズモンド・ドスと言う人を紹介します。この夏、「ハクソー・リッジ」と言う映画が公開されました。アメリカ映画でアカデミー映画賞の2部門で賞を取った極めて優れた映画であります。

ハクソー・リッジというのはのこぎりの歯の崖という意味ですが、沖縄・浦添市の前田高地にある絶壁を舞台にした沖縄戦の映画です。この戦闘の中で、武器をいっさい持たず、戦場で負傷兵75名を救出した実在の人物がいました。彼の名はデズモンド・ドスといい、セブンスデー・アドベンチスト教会の信徒ですが、彼はこの戦争を義戦と受け止め軍隊に志願するのです。これは特定の戦争といえども戦争を義とする彼の一つの限界でありますが、一方、彼は十戒にある第六戒「殺す勿れ」という神の命令を厳格に守るため、自衛の為のピストルさえも持たず、衛生兵として文字どおり丸腰で、戦場に赴き、負傷した兵士を75名も救ったうえ、日本兵さえ負傷の手当を行ったのです。

 彼には、良心的兵役拒否という選択肢もあった筈ですが、彼はこの道を選ばずむしろ積極的に志願するのです。内村が、見落としていたと思われる従軍すると言う事は人を殺すと言う蓋然性があることを十分理解したうえで、それを乗り越えた人物であります。

 今日は、「無教会と平和主義」という主題を与えられましたが、実は平和主義は無教会独自のものではなく、一般的なものであり、無教会の平和主義の源流に当たる内村の平和主義で見落とされているとおもわれるものと、それに先人たちはどう対峙したかを、数人の人々の生き様の例を提示し、問題を提起しました。以上で私の発題を終わります。

〔補足〕
 分科会では、発題では時間的制約で紹介できなかった、内村鑑三と同時代、ロシアコーカサス山中に存在したキリスト教の一派で完全に武器を捨て兵役を拒否したドゥホボール教徒のことを紹介した。一般に兵役拒否は、良心に基づき個人的な行為として行われるが、この教徒の場合、2~3千人が一箇所に集まって武器を一斉に焼却し、召集令状を返納した。これが為に、国家から過酷な弾圧、迫害を受け、亡命を余儀なくされた。文豪トルストイは、金儲けのために小説を書くことを止めていたが、再びペンを取り「復活」を書き、その印税で彼らの亡命を助けた。