司会:森山浩二
発題者:倉井香矛哉
書記:荒井克浩
参加者:浅井慎也、荒井克浩、小山宥一、倉井香矛哉、直木葉造、本間勝、森山浩二
●今の若者が置かれている状況は、2世代前の私たちから見ると正反対である。変える必要を感じている。
●今の高校生や大学生は、生まれたときから携帯電話やスマートフォンがあった。これは上の世代には想像がつかないほどの環境の変化である。若者のことをわかっているつもりで、わかっていないことが絶対にある。「若者が集会に来ない」というが、若者という枠で考えてはだめで、名前を持った一人ひとりの個人に対してどう寄り添うかが大事である。
●(登戸学寮での団体生活に関して)私は父親が船員。母と姉がおり、女性的な感覚を持っていて、登戸学寮の男子寮での男性のみの空間は初めてであった。対人交流を好まず、寮生活ではほとんど個室から出なかったが、その後、自分は女性/男性という性別二元論よりももっと広がりのある多様性を生きているのだと思うと、自由に生きられるようになった。
●イクトゥス・プロジェクトという芸術伝道の集まりを主催していた。そのメンバーの中には、高校を中退し、通信制高校に編入した経験を持っている人もいて、再出発のための表現の場を与えることも活動目標の一つだった。2011年12月、登戸学寮のクリスマス会で歌と朗読の発表会を予定していたが、当日、仲間の一人が体調を崩し、来ることができなかった。しかし、翌年のクリスマス会には出席し、無事に朗読の発表を行うことができた。端から見ると、「一年越しでようやく、というのはどうなのか?」と訝しがられるかもしれない。しかし、時間はかかっても立派に人前に立てたのだから、それでよいと思う。たとえ小さな場であっても、一人ひとりの個人が内的な充実感を持つことのできるような場を創ることが大切だと思う。
●一括りにしてはいけないとは言うが、ある程度の若者特有の傾向はあると思う。いじめ、引きこもり、不登校など。日本では、学生は時間的にほとんど学校に支配されている。居場所がなくなり、自死に至ったり、引きこもったりするようにもなる。そこには社会環境の問題もある。
●若者の右傾化・保守化に関心がある。長野県の私立高校で、先日の衆議院総選挙の際に模擬投票を行った。実際の投票では希望の党が圧倒的な勝利をしたのだが、その模擬投票で勝利したのは自民党であった。その理由として、私立高校であるがゆえに、「教育の無償化」などの目先の利益の問題が反映されたようであり、憲法、とくに9条の問題などは票にならないようである。香山リカさんの『<私>の愛国心』(筑摩書房、2004年)などを読むと、若い人に限らず、自分たちの関心事が身近で刹那的な損得主義、実用主義、内面的なものに限定される傾向にあるようだ。しかし、心の中には非常な不安を感じている。そのため、自分の外側に対しては過剰なまでに排除する姿勢となる。それは、現在の北朝鮮や左翼を排除する姿勢へとつながる。そのようにして安定を得たい。「決められる政治」のような世界に安住したいという傾向。それも一定の保守主義であろう。
●私は保守主義者を自称している。2000年来、日本は朝鮮半島や中国大陸から文化を学んできたのであり、保守思想を日本で実践するならば、本来的には排外主義にはならないと考えている。むしろ、保守思想から考える非戦論は可能であろう。それは、私がオールドリベラルとしての内村鑑三に出会うきっかけにもなった。若者に現象面において右傾化・保守化の傾向があるとするならば、まずはエドマンド・バーク以降の保守思想を真面目に考え直すことからはじめるのがよいと思っている。
●今回の選挙結果からは、既得権益的なものに丸め込まれていく現実を感じている。また、信仰的な側面でも、信仰は既得権益であってはいけないということが私の中にはある。信仰的側面として見る場合、若者が「これが信仰だよ」と言ってフラフラと既得権益的なものになびいていくことがあるならば、怖さを感じる。罪の問題などはなかなか理解しにくい深い問題だが、罪の問題の解決を通して信仰を見つめていくときに、いわゆる既得権益的なものを超えてゆかねばならぬ難しさがある。そのあたりに、政治と信仰の問題の重なりを見る。
●ただし、既得権益が問題と言っても、奨学金返済を数百万円抱えている若者にとっては、いたずらに「現状を変えろ」といっても厳しいものがある。守旧的になることはやむを得ないと思う。アメリカ大統領選挙ではバーニー・サンダース候補が若年層に人気で、イギリス下院総選挙ではコービン労働党が躍進し、世界的に社会主義ブームとのことだが、日本の場合は事情が異なる。今回の選挙で立憲民主党が躍進したとされるが、支持政党の傾向をみると、若年層は自民党の支持率が高く、高齢層ほど立憲民主党の支持率が高かった。これは、サンダースやコービンの現象とは逆である。ともかく、奨学金や非正規雇用の問題を抱えている若者たちが自民党政権の方向性で幸福になるかどうかはわからない。その点は、もう少し若者たちに考えてもらいたい。
●選挙の前日、電車のつり広告も、「アベノミクスは成功だった」、「景気は回復する」、「(森友学園問題、加計学園問題に関して)安倍は真っ白だ」と出ていた。無教会の集会に出ると本当のことを知らされるが、そういう正しい情報に一般の若者は接することができない。
●『アは「愛国」のア』(潮出版社、2014年)という対談集を出した森達也さんは、「今の若者の保守化は集団化だ。集団の大きな中に安住している」と言っている。若者は不安定で、何らかのかたちで安定を求めている。大きな集団化に安定を求めている。そのような中でキリスト教がどう応えていくか。
●愛農高校の学生に関しては、中学校までの教育、ご家庭のあり方によっていろいろな状況がある。彼ら自身も生きづらさを感じている。彼らの共通点は、生き物と出会いたい、土と関係のある生き方を学びたい、安心で良い食べものに関心をもって勉強したい、親元を離れて寮生活をして自分のすべきことをしながら、でも人の中に入って自分自身を変化させたい、という子どもたちが来ている。彼らはキリスト教とは関係ない子が多いが、愛農の場合は聖書の伝え方に形式はない。彼らの救いは、農場で生き物たちと接して学ぶ環境があるということ、好き嫌いの人間関係はあっても生身の人間として寮で思春期の一番激しい時期を過ごせるということであり、この時期は、最も原理的な、原型的な、重要な時期となる。寮生活をつづけながら、農場で学び働き、自分たちが作った本物の良いものを7割食堂で食べているので、彼らは1年もすると相当まともになる。いちばん土台とつながった生活をしているからだ。農場の生き物は絶対に裏切らない。農場へ行けば平安になる。本来の若者の思春期を過ごせるようになる。我々は形式ばらずに聖書の御言葉を分かち合おうとしているので、聖職者はいない。皆、平職員である。そのような中で聖書と出会う。その点、春風学寮や登戸学寮は大学生が対象であり難しい。大学生は半分ずるい人間になっているからだ。愛農は歴史的に礼拝をしていない。授業で聖書を学び、毎朝20分礼拝をしている。
愛農の生活は、創世記の1~2章を丸ごとやっているようなもの。だから、彼らに自己矛盾はない。しかし、楽ではない。
●無教会は、内村をはじめとするカリスマの先生を中心にして共に聖書を学んでいくという、縦の関係、人格的媒介というものがあった。それが今ではほぼなくなり、集団指導的体制になりつつある。ただし、その中にも「上から目線」的なものは残っているようだ。先ほど言われたように、素直に生まれ育った若者に対して今までのやり方でよいのか。若者を集めて、というやり方はどうであろうか。内村先生が聖書集会を持ち、『聖書之研究』を刊行した。そのような無教会の伝統に対してそれでいいのかという異論はあると思うが、どうであろう。
●日本の礼拝の形式は、無教会でもどこでも古典的だといえる。ノルウェーの平信徒伝道ではエレキギターでも何でも取り入れて、しかも霊的にきちんと(真正性を)維持できるスタイルで、若者が重要な役割を担っている(一方、ノルウェー国教会の礼拝は日本の無教会や教会の礼拝と似ていて、いわば化石的な礼拝形式であり、若者が寄りつかない)。向こうでは何度も脱皮を繰り返していて、讃美歌にも素晴らしいものがある。すべての楽器がよい方向に取り入れられている。日本は島国であるために遅れている。受け身の礼拝にしないように心がけなければ、若者は集まり難い。愛農高校でも、これからは新しい礼拝を創造しようとしている。生徒が半分参加型の礼拝を創り出せないかと提案をしているところである。
●アジア学院(アジア農村指導者養成専門学校)を訪問した際、カトリックのミサに誘われた。出席者は120人だった。60人が日本人、30人がフィリピン人、30人は南米から。日本語はまったく通じない。しかし、それでもミサにあずかることはできる。カトリックの場合、典礼の形式が初めから終わりまで決まっているからである。現在、日本には外国人滞在者が300万人おり、そのうちの約5割がキリスト教文化圏で育った人々である。この人たちが無教会の集会やプロテスタントの教会に来ることはできない。しかし、カトリック教会なら典礼の形式がわかるからだいじょうぶ。
●それは盲点。無教会は形や敷居がないからよいかと思うと、実際には言葉という敷居がある。
●私の同期で、村岡洋一という早稲田大学の副総長になった方がいて、30年前に「55年体制の崩壊」という講演をした。(1955年の日本政治の話ではない。)1455年にグーテンベルクが活版印刷技術を用いて聖書を印刷し、その後、ルターがラテン語聖書をドイツ語に訳した。実はルターの功績よりも印刷機の功績のほうが大きい。無教会は文書伝道だが、そのような時代は終わったと村岡は語った。マルチメディアの時代ということは、文字伝道の時代は終わったということである(今や子どもたちが漫画本を読みはじめたが、私の兄に言わせれば、これは新しい文学ジャンルだという)。カトリックはもっぱら口頭伝道が中心である。文字を読むことが中心ではない。カトリックは55年体制を飛び越えて、今、生きだしている。一方、ほとんどの無教会、文字伝道で育ってきた人たちは書斎人であり、その人たちが自分たちの常識を押し付けるのは無理であろう。時代が変わっているのだから。
●その点で愛農がいいのは、大人も、子どもも、農作業をする。そこに公平に自然界から語りかけてくる。そこにちょっと聖書の言葉を「鍵の言葉」として出すと、いかに真実かということがわかる。
●「ほんとうに真剣に伝道をする」ということは、きわめて大切なこと。自然に伝道者が出てくるし、責任を持つ牧会者が出てくる。今の無教会の問題は、自ずと集団指導体制になってしまい、集会に新来者が来ても、その人に対して誰も責任を持たなくなるということである。構ってもらえる人がおらず、失望感を持ってやめていく。一人でも多くの真剣に伝道する人たちが出て、それぞれのエクレシアで責任を持つことが望ましい。
●無教会は平信徒伝道である。内村が言ったのは平信徒伝道だった。ルターの万人祭司をさらに進めようとしたもの。
●ノルウェーの歴史は、平信徒伝道で国が救われた歴史である。ノルウェー人は、それを最も誇りにしている。国教会ではない。あえてEUに加盟しない。それは農村を守るためだ。農林漁業を守るためには、周辺諸国に振り回されないように自分の国でよく考え、つねに平和主義で生きていく。その土台が信仰であり、平信徒伝道なのである。無教会と同じだ。
以上