発題 「無教会と高齢者のあり方」
西澤 正文
プロフィール
一九五一年生。大学四年の秋、虫垂炎を風邪と診断され、体を温め腹膜炎発症し一カ月余入院。その間、二次面接実施の教員を断念し、旧清水市役所就職。挫折感を満たしたく朝日ジャーナル定期購読。同紙上で長男伊作氏連載の「矢内原忠雄伝」に出会う。矢内原忠雄、無教会、キリスト教を知る。同紙上で浜松市在住溝口正氏に出会い、清水聖書集会を紹介され、一九七六年礼拝に参加。二〇〇〇年頃より同集会代表。一九九八年発足の「キリスト教独立伝道会」会員。
はじめに
現在の日本の高齢化率(総人口に占める六十五歳以上の割合)は、二十七.三%。今、私がこの講壇から眺める景色は、倍以上の方々が集まっているように見えます。それほど無教会に連なる方々の高齢化が進んでいると言っていいでしょう。
「高齢者のあり方」をお話しするには、私が所属する清水聖書集会の実情をお話しすることが、最もリアルで分かり易いと思い、紹介させていただきます。
清水聖書集会の紹介
二〇一〇年四月、集会代表であり「石原新聞店」社長であられた石原正一様が召されて後、会場は、新聞店から、拙宅、市立勤労者福祉センター、そして四年前から現在の清水 駅から五十mの高層マンション、と転々とした。長年、駅近くの「石原新聞店」で礼拝を守ってきたため、清水集会は「駅の近く」の強いイメージもあり、交通の利便性を最優先し礼拝所確保を考えた。駅前に完成したばかりのマンションの入居者募集の広告を見るや、事の前後を考えず購入した。地上七十五mの会場から清水港、日本平、市内全域を見渡せ、この景色により世の煩わしさから解放される場所を与えられた。
会場確保まで、紆余曲折があった。ある時期、週末になると駅近くに「売地」の看板が立っていないか、と自動車で探し回った。また、新聞折り込み広告に目を通したり、不動産の店を出入りしたりした。しかし、駅周辺地域は、古くからの住民が多い上、密集している。土地を購入し家屋を建て、毎週日曜日だけ集会に使用することを考えた時、讃美歌の声が騒々しい、駐車場から自動車がはみ出ていて困る、等の苦情が出ないだろうか。その様な問題が起きれば、礼拝が出来なくなってしまうだろう。そう思うと、余りにもリスクが高く、足踏みをした。
マンションを購入する人は、日を追うごとに増え、早く手を打たないと売約済が多くなり買えなくなってしまう、そんな不安に駆られ、後先を考えず申し込んだ。私の所属する清水聖書集会のみならず、他市からJR利用する人たちのことも考え、利便性の良い駅近くで集会をしたい、この考えが購入の決定的な理由であった。
静岡県は、東西に長い県であり、また東京と名古屋・大阪の中間に位置し、昔から多くの無教会の先生方が立ち寄られた。県東部(三島市、沼津市)は、石原兵永、岩島公、中部(静岡市、旧清水市、焼津市)は政池仁、堤道雄、西部(浜松市)は矢内原忠雄、高橋三郎、が立ち寄られ、いろいろな講演会の講壇に立たれた。地理的に大変恵まれ、私たちは、多大な恩恵に浴することが出来た。これら沢山の先生方が、県内各地に来られるため、自然と各地集会間の交流も盛んとなり、「静岡県無教会信徒の集い」は今年五十一回目を迎えた。また中部三市も数年前まで、多い年は年三回も開催された。
そのような集会間の交流も見越し、清水駅近の会場にこだわったのであった。しかし、予想以上に各集会の高齢化の押し寄せる波は早く、県下の集いの浜松市からの参加者を除けば、JRを利用するのは、皆無に等しい。駅近くにこだわった礼拝所確保も、今ひとつ成果が小さいように思う。悲しいかな、これが現状です。
礼拝参加状況・方法
地域社会の高齢化が進み、路線バス利用者も減少し運行本数も減ったこと、また、礼拝参加者の自宅からバス停までの歩行が困難となったこと、等により、数年前からマイカーによる送迎とした。毎週約十名の参加者を迎え、毎週礼拝を開催している。内、六名が送迎を利寄している。参加者の内、婦人二名は週二~四日デイサービス利用者で、礼拝も自宅まで送迎し、毎週、元気に参加し兄弟姉妹と週一度の交流、再会を楽しんでいる。
地方の暮らしで最大の課題の一つに、高齢者の移動手段確保がある。これは、清水聖書集会だけの問題でなく、地方の集会は大なり小なり、マイカーのない人の集会参加をどうするか、これは今日的な大きな課題であろう。
マイカーによる所要時間は、礼拝前の迎えは一時間半、礼拝後の送りはゆっくり歓談したい女性達のため二回となり、二時間半である。送迎に要する時間は、計四時間である。礼拝時間の2倍であり、聖書の講話時間よりも送迎にエネルギーを使い、帰宅すれば決まって毎回「やたー」の気分に浸り、しばらく畳の上で大の字になる。これがまた何とも言えない充実感に包まれるひと時である。
礼拝前・後の雰囲気
マンションに向かう車内は、会話が少なく静かであるが、帰りの車内は、一転し、会話が弾む。ある姉妹曰く、「礼拝に参加できるよう聖日に体調のピークを合わせます。礼拝が唯一、最高の目標です。」 この話をお聞きし、兄弟姉妹が一堂に会し礼拝することの大切さを痛感する。
帰りの車内は、礼拝に参加できた喜びに満ちている。送り迎えは、高齢者が参加する交通手段としては最高と思う。身体が楽であり、また、安心安全が確保される。人によっては唯一の参加手段である。礼拝は、半日デイサービスのようである。お祈り、賛美、聖書講話、茶菓・軽食、歓談、等々のサービスが並ぶ。お祈りは司会者の挨拶、賛美は全員によるカラオケ(失礼!)、聖書講話は施設長の話し、茶菓・軽食はランチタイム、歓談は日々の生活上の出来事や健康状態などの情報交換、交流タイムのようです。
将来の超高齢化社会、地方の公共交通政策の貧困化を思えば、地方都市の礼拝維持は、自動車による送迎手段を抜きに考えられないであろう。
時代の流れの中で
現代の高齢社会政策の主流は、「施設から在宅へ」である。高齢になっても、訪問医療、訪問看護、訪問介護など、在宅での各種サービスを受けながら、人生の最期まで住み慣れた家で生活することを目指している。キリスト者の理想は、さらに在宅から御国への旅立ちである。信者の一生涯を思うと、この時代の流れの中で、送迎という方法で1回でも長く兄弟姉妹と共に礼拝を、と切に願うことは、心からの願いであり、理想の姿であるように思う。
生活の場が施設に移行することは、同時に礼拝参加が終わることを意味する。あくまでも「在宅生活」にこだわるのは、礼拝参加の持続可能性が残されていることであり、集会内の力を結集して探っていかねばならないと思う。
課題
清水聖書集会の実情を考えると、せめてもう一人自動車の運転できる人がいれば、参加者が増える可能性が見込まれる。また今後ますます高齢化が進むことを考えれば、送迎による参加者が増えることが予想される。送迎のできる人の集会参加者を切望している。もっともこの現状は、私の力不足 日頃の伝道意識の弱さの現れである。
むすびに代えて
高齢者が多い無教会の現状は、若者が少ない現状を表しているともいえる。高齢化が目立つことは、若者参加が少ないことの裏返しであり、高齢化問題は若者減少化問題でもあり、セットとして考えなければならないと思います。
若者の少ない無教会の現状を思うと、日頃の福音伝道が如何に不足していたのか、また同時に、無教会に連なる私たち一人ひとりの伝道に対し如何に不熱心であったのか…と思わざるを得ません。
さらにもっと言えば、私たち無教会に連なる信徒の信仰そのものが問われていないだろうか。先生の聖書の話に熱心な態度、これは聖書の知識、御言葉理解、真理のエキスを自分自身の体内に貯め込むことばかりに心が向いてしまい、福音の喜びが、集会の兄弟姉妹、あるいは日頃交わる隣人など、外に向かい伝道する意識の乏しさを表していないでしょうか? パウロは語ります、「人は心で信じて義とせられ、口で公に言い表して救われるのです。」と。(ロマ十:10)
各自所属する集会の実情を踏まえ、伝道の在り方について、今一度、じっくり「全国集会」で取り上げなければならない、そんな時代を迎えているように思えてなりません。