無教会全国集会2017

2017年度 無教会全国集会ブログ

主題講演 「無教会、その反省と使命」

2018年04月05日 | 主題講演

浦和キリスト集会  関 根 義 夫

プロフィール
1940年群馬県前橋生まれ。
3歳の時父を結核で失い、2歳上の兄と共に、教員の母に育てられる。
5歳の時近所の教会の日曜学校に導かれ、小学校卒業まで通う。
学生時代に「60年安保」の混乱に遭遇、精神的彷徨の中で
矢内原忠雄の書物に出会い内村鑑三、無教会を知る。
1964年3月から政池仁主宰の聖書集会に出席、そこで堤道雄にも出会い、
以後両先生のご指導を頂く。
1985年政池仁召された後、友人たちと礼拝を守る。
1991年4月独立し、浦和キリスト集会を自分の責任で始めて現在に至る。
月刊福音伝道誌「パラクレートス」を発行、この10月で319号となる。

聖書:コリントの信徒への手紙一

6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

1;無教会は、洗礼(バプテスマ)、聖餐をどのように考えるのか。

わたしが敬愛してやまない信仰の先輩のお一人に、元・キリスト同信会伝道者、現・白鷺えくれ舎の伝道者藤尾正人先生がおられますが、お電話の際、あるいはお会いした時に、「無教会は、信仰告白をどう考えますか」あるいは「洗礼も一つの信仰告白ですよ」と、おっしゃられました。

以前にも、ある会でたまたま同席した教会の牧師の方が、わたしが無教会の者だと知ってか、突然、「聖書に記されているのに、無教会ではどうして洗礼も聖餐もしないのですか?」と問いかけられ、あまり唐突だったので、答えに詰まってしまったことがありました。

こういうこともあってか、無教会の中で育てられたわたしも、「洗礼」や「聖餐」について、どう考えるのか、いつかは自分なりに納得の行く答えを出さなくてはならないと思っていました。

この度、全国集会準備委員会より、無教会の今後の展望について語るように、とのお話しを頂いた時に、すぐにこの問題を考えて見ようと思ったのです。
よくよく考えて見ると、わたしたち「無教会」に連なる者が、教会で行われている「洗礼」、「聖餐」を日常的に行わないのは、内村鑑三の言葉に深く共鳴し、そこに聖書的な確かな根拠がある、と考えるからです。

内村は、礼典に関していくつかの文章を書いていますが、
今日わたしは、1912(大正元)年の「聖書之研究」第146号に掲載された「バプテスマと聖餐」という文章に則って、内村の考えを確認してみたいと思います。この論文は、彼が52歳の時のものです。なお、彼は、ある理由から「洗礼」という言葉は用いず、「バプテスマ」という言葉を使っています。その理由はすぐに明らかになります。

彼はこう言います。
「余は教会の儀式としてのバプテスマと聖餐を信じない。儀式は、それがどんなに気高く厳かであるとしても、人の霊魂を救う力を持たない。(儀式としての)バプテスマの水はどこまでも水である。これに罪を洗う(能)力はない、神の恵みは儀式によって降るものではない。

しかしながら、余はキリスト者の信仰の表現としてのバプテスマと聖餐を信ずる。・・・。バプテスマはキリストの死と復活とに関わる、信者の信仰の表現である、と。
『彼は死んで葬られ、第三日目に復活なさった』との信仰は、バプテスマをもって表現されるのである、と。
故にバプテスマは『洗礼』ではない、もしこれを礼式として見るならばこれは『潜礼』と称せられるべきものである。バプテスマは『沈めること』である。しかして『潜』は『死』を表わす。墓に下ることである。古き我に死ぬことである。

しかして水より上がることは復活の表現である。墓より出ることである。新しい我に生きることである。
かくのごとくして簡単なるバプテスマの形式をもって深遠なるキリスト者の信仰(「古きわれの死」と「新しいわれの誕生」)が表現されるのである。キリストの復活を信じない者のバプテスマは無意味である。バプテスマは罪の洗浄式ではない、また世に対する信者の信仰発表式ではない、・・・

バプテスマは信者の心に臨んだ深遠なる、革命的大信仰の表現である、彼はこれによって、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマの信徒への手紙4;25、新共同訳、以下同様)との、キリスト者だけがもっている信仰を言い表すのである。

そういうわけで、余は水のバプテスマを受けても受けなくても、霊の事実たるバプテスマを信ぜざるを得ない、バプテスマは、キリスト並びにクリスチャンの死と復活とに関する信仰の表現である。」

バプテスマについてこのように述べた内村は、続いて聖餐について次のように表明します。

「聖餐は・・・イエスの死を覚えんが(忘れない)ために、パンを食らい、葡萄酒を飲むことである。パンはキリストの肉を代表し、葡萄酒は彼の血を代表する、パンを食らい、葡萄酒を飲みて信者はキリストの死を記憶するのである。・・・かくのごとくして聖餐はキリストの受難の記念会である。すなわち、ユダヤ人の過ぎ越しの節(祝い)に代わるべきものである。・・・しかし、それだけではない、同時に感謝会である、・・・。主の肉を食らい、その血を飲みて、わが霊魂を養うことである。

イエスは言い給うた、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければあなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの地はまことの飲み物だからである。」(ヨハネによる福音書6;53-55)。

しかして、イエスの肉を食らいその血を飲むとは、イエスを我が有(自分のもの)となすの意である、獣の血を飲み、その肉を食らいて、わが肉体を養うごとくに、イエスの肉を摂取して、信者は、その日ごとに霊的生命をつなぐのである。しかして、この霊的生命の摂取、これを表現するものが聖餐である、・・・

勿論、パンとぶどう酒に霊的生命の在り様筈がない、パンはどこまでもパンであって、葡萄酒はどこまでも葡萄酒である、そればかりか、キリストご自体の血を飲み、その肉を食べたからと言って、それが我らの霊魂を養うということにはならない。・・・筋と脂肪と靭帯とよりなる肉は、たとえキリストの肉といえども、霊魂を養うには益なしである。いわんやパンをや、葡萄酒をや。信者が聖餐のパンと葡萄酒より、彼の霊魂の生命を求めて、彼は失望せざるを得ない。信者の霊的生命は聖餐の儀式をもって繋ぎうるものではない。・・・。

しかしながら、キリストに在りて充愛する(愛の満ちている)霊の生命の摂取の表現として、聖餐は実に麗しき、かつ意味深き形式である。しかして我らはこの簡単なる形式を以って現わされたる霊の事実を日ごとに実行すべきである。」

そして彼はこう付け加えます。

「神の生命の真の表現は、キリストの肉と血にあらずして、彼が語り給いし言葉である。

『生命を与えるのは霊である、肉は何の役にも立たない、わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。』(ヨハネによる福音書6;63)とある通りである。
そしてこの言葉を伝えるものは聖書である。

故にイエスの生命に与ろうとして、その肉を食らい、その血を飲むということは、とりもなおさず、聖書を霊読することである。敬虔な心を以てする聖書の研究、これが真の聖餐である。

このような理由から、教会に属さず、その儀式に与らざる余にも、またバプテスマと聖餐とはあるのである。余はこれを監督、牧師、伝道師など教会の役員の手より受けずと言えども、余の霊魂に於いて、神より直ちにこれを受けずしては、余もまたキリストの僕たることができないのである。・・・。」

以上のようなことから、内村にとって、バプテスマは、わたしたちが、キリストと共に、古き自分に死に、キリストと共に、新しい命に生きる者として造り変えられることであり、また聖餐は、キリストにあって新しい命に生きる者とされた者が、聖書を通してキリストの御言葉をわが血、わが命としていただき、霊魂を深く養い、終わりの日に備えつつ、生きる、ということであり、儀式としての水によるバプテスマ(洗礼)及び、聖餐式に与らなくとも、それらの持つ、我らにとっての信仰的な意味は実に深く、決して無視することはできない、とまとめることができます。           

では、内村の言う、キリスト者としての霊的な信仰体験(実験)としてのバプテスマと聖餐を、儀式ではない形として、わたしたちはどのように、現実のこととして受け留めて行ったらよいか、ということになります。

2:浦和キリスト集会での10分間の沈黙、黙想の時

先ず、バプテスマについてのわたしの経験をお話しします。

わたし共の浦和キリスト集会は、1991年に発足して以来26年間、主日礼拝を続けてまいりました。礼拝は午前十時に始まりますが、その当初から、礼拝の最初の10分間を、沈黙と黙想の時に当てています。それは単に、これから大事な礼拝が始まるから、静かに心を落ち着けて準備する、ということもないわけではないのですが、この沈黙と黙想の時がすでに祈りであり、礼拝そのものなのだ、ということを、この26年間の中で、ますます深く思うようになりました。

今回の講演を準備する中で、また今日お読みした内村の言葉に耳を傾ける中で、もしかしたら、礼拝の初めのこの10分間は、内村の言う、形式によらない、霊のバプテスマを、知らずして実験しているのではないか、そしてそれは、洗礼者ヨハネが預言していた聖霊のバプテスマ(マルコによる福音書1;8)を受けているのではないか、と思うに至り驚いております。

この沈黙と黙想の時、わたしたちは、目に見えない、主なる神様の前に、一人ひとりが立つことになるのではないでしょうか。ここで、古いわたしが十字架の主イエスに結び合わされ、主と共に死に、復活なさった主イエスと共に、新しい命に生きる者に変えられるのです。 

そして、このような霊的な意味を持つ、主日の礼拝に出席すること自体が、その人の信仰告白なのではないか、と思うに至りました。

そんなわけでわたしは、この沈黙と黙想の時こそ、主日礼拝に与る一人ひとりにとって、最も深い祈りの時でもあり、主にある自分を確認する大切な時ではないか、と思っています。

3:聖餐、それは「聖書に聴く」、ということ

それでは内村の言う聖餐についてはどう受け止めたらよいのでしょうか。

内村は、聖餐とは「イエスの命に与らんと欲して、その肉を食らい、その血を飲むことであり、これはとりもなおさず聖書を霊読することであり、敬虔の心を以てする聖書の研究である、これが真の聖餐である」と言いました。

それでは彼の言う「聖書の霊読、敬虔を以てする聖書の研究」とはいかなることを指しているのか、ということになります。

再び、わたし自身の経験を語らせていただきます。

わたしは、20代の半ばから政池聖書研究会で導かれて参りましたが、1985年4月、先生が召された後、政池聖書研究会は三つの集会となりました。わたしはその一つ、埼玉県南部と東京の北区に住む仲間たちとで聖日礼拝を守ることになり、わたしもまた2週間に一度ずつ、礼拝講話の責任を持つことになりました。

先生の遺された足跡を継ぐべく、勇んでスタートしましたが、半年経ち、一年経つうちに、最初の意気込みが徐々に薄れ、講話の責任の荷が重くなってしまいました。

聖書の基礎的な訓練もろくに受けたことのないわたしは、確実に行き詰ってしまいました。担当を前にした土曜日は、仕事から戻ってから準備を始めるというわけで、もう大変で、机の上は参考書だの、注解書だので一杯になり、時には、夜中の12時になっても、それを過ぎても明日何を話したらよいのか、まとまらないような日もあったのです。

丁度そんな時に、堤道雄先生と高橋三郎先生が中心となって、1987年1月にお茶の水の東京YWCA講堂で「これからの無教会はどうあるべきか」というテーマのシンポジウムが開かれたのです。

この中で、高橋先生が、榎本保郎牧師の主導されている「アシュラム運動」について、「わたし自身は直接これに参加したことがないので、体験に基づいて語ることはできないが」と前置きされて、次のように話されました。

「榎本牧師によれば、『アシュラム』とはインドの言葉で、『日常生活から退いて修める』と言う意味で、その集会は、御言葉に沈潜することに集中して、特定の講師の講義を聞くと言うよりは、各人が直接聖書の言葉に取り組み、そこで受けた恵みを互いに分かち合うことによって、より深く真理の輝きに接し、魂が満たされることを目指す、という特質をもっています。その必然的要請として、祈りを極めて重視していることを特筆しておかなければなりません。祈りと言えば、勿論無教会でも重視していますが、このアシュラムでは、集会が行われている全期間にわたって、交代で、絶えることなく、昼も夜も祈り続ける(連鎖祈祷)のです」と言われ、最後に、次のようにまとめられました。

「わたしが今日この運動に言及した理由は御言葉そのものを深く味わい学ぼうとすることに強く集中している点を重視するからです。そして単なる瞑想でもなく、単なる神学研究でもなく、いわば総力を挙げて、祈りの中に沈潜しようとする運動、とでも評することができようかと思います。」

わたしは、先生のこのお話しを聴いて、強い衝撃を受け、もしかしたらここに、自分の行き詰まりを突破する鍵があるのではないか、と思ったのです。

そして、この運動の中心を担っているという、滋賀県近江八幡にあるアシュラムセンターに問い合わせたところ、毎年一月に「年頭アシュラム」という集いが開かれ、これには、誰でも参加することができる、とのことでした。

わたしは、このシンポジウムに参加していた、今は亡き一条 仁(ひとし)兄と意気投合して、その次の年1988年1月に、二人で近江八幡に出かけて行ったのです。
会場は琵琶湖畔の国民宿舎で、その全館を借り切って、全国各地から約300名の方々が集い、しかもそのほとんどは教会のみなさんでした。

そして、この時をきっかけにしたわたしに、全く新しい世界が開かれることになりました。それは、わたしが聖書とどのように向き合えばよいか、ということについての根本的な解決が与えられたこと、さらに、それと並んで、わたしは初めて、教会に所属する皆さんと出会い、二泊三日の間寝食を共にし、親しく交わる、という経験を持ったのです。そして、あの時から30年経過した今でも、そのうちの何人かの方々とは、主にある親しい友人としての交わりが続くことになったのです。

ところで、初めてのアシュラムでわたしが経験したことはこう言うことでした。
先ず、アシュラムに参加されているみなさんの話から、わたしの耳に響いてきたのは、「聖書は読むものではなく、聴くものだ」という言葉でした。

それまでのわたしは、聖日の礼拝講話の準備として、伝えるべき聖書の真理を読み取るために、一生懸命聖書を読みました。それはまさに各駅停車的な読み方で、分からないことがあると、注解書を開き、先人の聖書講義を読み、聖書辞典を引いて、言葉の意味を調べたり、でした。そのようにしてあらゆる努力をして、明日のために聖書を調べて、理解しようとしたのです。それがどのような結果に行き着いたかは先ほどお話しいたしました。

そのわたしが「聖書は読むのではなく、聴くものだ」という、それまでまったく耳にしたことのないことを聞かされたのです。それは直感的に、これまでわたしがやって来たことと反対のことではないか、と思ったのです。わたしの聖書の読み方は、まさに自分中心で、自分勝手に聖書を取り扱っていたのです。まさに聖書は二の次で、自分第一だったことに思い至ったのでした。

そして、今からよくよく考えて見ると、わたしがアシュラムで体験したことは、30年前の、あの無教会シンポジウムで高橋先生がおっしゃっていた「御言葉そのものに沈潜し、御言葉そのものを深く味わい学ぼうとすることに集中する」ということでもあり、これこそ内村が言っていた、聖書の霊読、聖書を敬虔な心を以って研究する、と言うことの意味であることが理解できました。

わたしの敬愛するある牧師先生はこの事を、「聖書とわたしの関係におけるコペルニクス的転回」と呼んでおられます。

このことがあって以来、わたしは毎朝、聖書を通して主が語られる御言葉に、まさにこころの耳を澄ます思いで、聴かせていただくようになりました。そして、その時に聴かせていただいたことを語るようになりました。今でも、聖日の責任はなかなか重いものがありますが、それでもわたしは、聖書に向かうことが実に喜びの時となっていまに至っています。

そういうわけで、無教会には、バプテスマも聖餐もあるのです。

主日ごとの礼拝こそ、わたしたちにとっての真のバプテスマの時であり、真の聖餐の時であること、そしてこの礼拝の時こそ、主を信じて生きる者にとって掛け替えのない大切な時であることを納得したのです。

さらに、この主日礼拝の営みは、唯一週間に一度特別なこととして行うのではなく、平日の日々の生活の中にも一定の時間を設け、祈りと聖書に親しむ習慣を養い育てていくことにつながるのです。この習慣としての日々の聖書と祈りの時を守ることこそ、基督者として生きる基本となると思っています。

4:無教会は「エリート的な聖書学習集団」なのか。

ところで、最近ある集いで、無教会は「エリート的な聖書学習集団」となったのではないか、との発言を耳にしました。ここで「エリート」とは、恐らくは「知的エリート」の意味だと思います。しかし本当に無教会は「エリートの聖書学習集団」なのでしょうか。

考えて見れば、確かに内村のもとには、黒崎幸吉を始め藤井武、畔上賢三、塚本虎二、三谷隆正、江原万里、矢内原忠雄、南原繁その他多くの、実にきら星のような、人間的に見ても、まさにエリート中のエリートと呼ばれるにふさわしい方々が輩出しました。

しかし、その方々の、ほとんどとは言わないまでも、その多くの方々が、「知的エリート」であることが約束するはずの、この世の栄達を捨てて、独立の伝道者として、敢えて苦難の道を歩まれたことは、わたしたちがはっきりと確認できることです。

それに、無教会が、決してこの世的な「知的エリ-ト」の集団ではないことを明らかにする事実はこのほかにも事欠きません。

よくよく、振り返って見るならば、藤沢音吉がおりました。彼は内村を尊敬し、その車夫、(今で言えば、自家用車の運転手)を申し出た方です。しかも彼は後に日本で最初の「内村鑑三伝」を出版しました。また、東北の地・岩手の花巻には、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のモデルとなったと言われる、新聞販売をその業とした熱血漢斎藤宗次郎がいます。

さらに、基督信仰に固く立ち、非戦平和の旗印の下に、札幌の冬を獄中で過ごして屈しなかった「小十字架」の浅見仙作、徳島の地で「はこ舟」誌を発行、102歳で召されるまで、固く、来世復活の信仰を語り続け、庶民伝道に力を注いだ大工杣友豊市、内村が信頼し、その地を何度も訪れて宿とした、千葉県九十九里、鳴浜の海保竹松

15歳で結核を発病、再発を繰り返すも、聖書に出会い、回心を体験、貴重な体験記「十字架のめどを通して」を残した樫葉史美子、同じく結核で浜松の聖霊保養院で療養、回復が見込めず、二人の幼子を夫に託して離婚、「ベテスダの池のほとりで」を記し、「アウフビーダーゼーエン!」と言いつつ召された中川恒子

若き日に内村と出会い、妻の発病や、多くの苦難に遭いながらも東北の農村伝道に尽くし、その著「信仰独り旅」を残した諏訪熊太郎、その諏訪に導かれて、「農夫の語るキリスト教」を現わし、生涯一農夫として生きた、鶴岡聖書研究会の久保伊作

さらには、若くして信仰を得、重症結核を患うも奇跡的に回復、29歳で全生涯を主イエスに捧げるべく、結核を病む者のために信愛園を開設、「愛の数学―生涯をイエスに―」を著わした村松藤江

山形基督教独立学園の創始者、鈴木弼美は有名ですが、そのもとで信仰を養い、戦時中鈴木と共に、その信仰による反戦平和的な言辞のために山形拘置所に拘留された渡辺弥一郎、などの先人の名をあげることができます。勿論これはほんの一部、わたしが思いついたごく少数の方々に過ぎません。

そして、もしこれらの、無教会に連なる人々の特徴をあげるとするなら、それは、決して「エリートの聖書学習集団」ではなく、目に見えない神と救い主イエスを信じ、神の前に、どこまでも真実に生きたいと心から願う人たちの群れ、と言ってよいと思います。その様な内村の福音把握が、超一流のエリートと言われる人たちであろうが、また、名もない市井の、普通の人であろうが、その魂を一様に深く捉えて離さないのだ、と言ってよいかと思います。

しかし、よくよく考えて見るならば、これはなにも無教会だけの特色では決してなく、プロテスタント、あるいはカトリックその他の教会に集う、神の子主イエスを真実に礼拝している、多くの人々にも共通する特徴ではないでしょうか。

無教会だからではなく、主イエス・キリストの十字架の福音そのものがそのような力だからではないでしょうか。聖書そのものがわたしたちに語り続けている、この福音こそ、人の霊魂の一番深い所に訴えて、その人を変え、社会を変える真の原動力となる神の力なのです。この事をわたしたちは決して忘れてはなりません。

さらに大切なことは、聖書を通して語られる、いのちの御言葉、パウロがあれほどに、力を込めて語った「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマの信徒への手紙1:16)である、神の子イエス・キリストの十字架の福音を、知識として、頭で学習することではなく、魂の一番深いところで受け留めることです。信仰は、知識ではなく、今活きて働いておられ、聖霊として臨んでくださる、主イエスを信じ仰ぐことなのですから。この点無教会は、もう一度自らを深く省みる必要はないでしょうか。

5:無教会に連なる者の使命

ところで、内村すでに召され、その教えを受けて、わたしたちに熱い思いを以て福音を語ってくださった二代目、三代目の先生方も召されました。そしていまわたしたちは、その先生方から伝えていただいた福音を次の代に継承する、という重い責任を担いつつ、何をすべきかを問われています。

先ず第一に、無教会の仲間たちの高齢化があります。ということは、体力の低下も加わり、毎聖日の礼拝にもなかなか自由に集うことが難しくなるということでもあります。

勿論、仲間が、可能な限り、それをサポートするわけですが、それも難しくなることもあります。その結果として、礼拝への参加が途切れてしまうことにもなります。

一般に無教会の仲間は、比較的遠路から礼拝に通っている方が多い傾向にあります。その点、教会に通う信徒の方たちに地域性があるのと微妙に違ったところがあるのではないでしょうか。そんなわけで、かつてお元気な頃は、電車で郊外から都心の集会に通っていたが、これが難しくなっておられる方も多いのではないかと思います。

そして、無教会の集会の礼拝には出席できないけど、近くに教会があるのでそちらに行って礼拝を守っている、という例を耳にすることも増えて来たように思います。

わたしは、最初この事を聞いた時、何か寂しい思いがしましたが、少し考えて見て、同じ十字架の主神の子イエスを信じているなら、それもよいのではないか、と思うようになりました。

ある友人は、本当なら無教会の集会に出たいけれども、どうしても距離的に無理なので、割合便利に行ける日基の教会に行くことにした、と言って来られました。その方によると、今度の教会の牧師先生はとても親身になって受け入れてくださった、とのことです。

しかし、大きな中心都市ではこのようなことも可能かもしれませんが、地方の方では、なかなか難しい場合もあるのではないでしょうか。

でも事実は逆で、案外地方在住の方のほうが自由で、教会・無教会の隔てなく、礼拝に参加なさって充分満足なさっている場合も多いのではないかと思います。なぜなら、「教会か、無教会か」などとこだわっていたら、結局はひとり孤立してしまうことになりかねませんから。わたしたちにとって何よりも大切なことは、神の子キリストの十字架による福音の信仰を第一とすることであり、その他のことは二の次三の次だ、ということではないでしょうか。

しかし、もっと深刻なことは、これまで続いていた、集会が、一つ一つ、高齢化の故にその活動を停止せざるを得なくなってしまうということです。

そこで思います。わたしたちは、誰かが福音を語ってくれるのを待っているのではなく、老いたりと言えども、先人たちから、いのちの福音を聴かされて今がある者たちばかりです。だから、その福音に生かされてきたわたしたちこそが、その場その時に応じてでも、自分の生かされてきた証を語るべき責任があるのではないでしょうか。勿論これは、義務とか務めとかではなく、全く自由に、聖霊の導きに従うより外にはありませんが。

そういうことを考えるとき、信仰を持った若い人たちが是非大いに育ってほしい、と真剣に願わずにはおれません。わたし共の浦和集会では、10年ほど前、基督教独立学園高校の卒業生の方が3人ほど、一緒に礼拝を守っていましたが、結婚や就職などによって遠方に去られ、いまはさびしくなりました。

今年の浦和でのクリスマス講演会では、基督教独立学園に長く奉職された、助川光子先生お迎えすることになっていますが、このような機会を通して、学園の生徒さんや卒業生の方が、近くの無教会の集会に関心を持ってくれる機会になれば、とひそかに願っております。

勿論独立学園ばかりではなく、三重の愛農学園農業高校、あるいは島根のキリスト教愛真高校の卒業生の皆さんが、多くの先輩に続いて、最寄りの無教会の聖日の礼拝に参加してもらえるならとてもうれしいことです。

しかしその時大切なのは、わたしたちが決して急がないことです。と言いますのは、これらの学校の卒業生の皆さんには、福音の種がすでに播かれているという確かな事実があるからです。そして、というべきか、しかしと言うべきか、その種が実を結ぶにはやはり、20年30年が必要なのではないでしょうか。というのも、5歳の時初めて教会の日曜学校に触れ、小学校の6年間通ったこのわたしが、本当に信仰に生きる者とされたのは、それから20年も経ってからでした。このようなわけですので、福音の種を播かれた若い皆さんの上に、主の限りない慈しみと祝福を心から祈らずにはおれません。そしてその中から、この国の無教会の信仰を次世代の人々に継承してくださる方々が現れんことを心から願わずにはおれません。

でもわたしは思います。その前提には、やはり、何と言っても、いま各地、各所の無教会の集会での、主日の礼拝がしっかりと守られることではないでしょうか。

集う者の数によらず、それこそ、「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18;20)とおっしゃった主イエスの言葉に励まされて、内村がわたしたちに指し示してくれた、十字架のキリストの福音がしっかりと語られ続けられていることがなによりも大切なのだと思います。

そこにこそ無教会の基盤があるのではないでしょうか。わたしたち無教会に連なる者一人ひとりに課された使命はそこにあるのではないでしょうか。

わたしたちの現実は、時に先が見えないこともあるのです。しかし、たとえその様な時ですら、わたしたちは主日の礼拝をしっかりと守り、聖霊の助けにより、老いたる者は老いたる者として、主婦は主婦として、母親は母親として、働き人は働き人として、そして青年は青年として、主にあって生きる者として、自分の目の前の,為すべきことをしっかりと果たして行くことこそ大事です。

そのようにして主は、ご自分につながっているすべての教会のエクレシアと共に、無教会のエクレシアの成長をも導いてくださる、と確信します。この事を考える時、わたし達には、大きな安心と慰めと、そして希望があるのです。