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イランのゾロアスター教徒

2005-12-16 21:14:13 | 読書/中東史
 イラン(ペルシア)はゾロアスター教の発祥の国だが、確かな信徒数は不明にせよ2万人程度とされるのに対し、インドの同教徒は8万以上と言われる。この表面だけの数値を見ても、いかにイスラム国で彼らが生きにくかったか分かるだろう。

 16世紀から18世紀にかけてイランを訪れた西洋人による記録にゾロアスター教徒についての記載も見える。17世紀にサファヴィー朝ペルシアを訪問したフランス商人シャルダンの著書『ペルシア旅行記』にも記述がある。17世紀初め、シャー・アッバースが大勢のゾロアスター教徒をヤズトやケルマンから首都イスファハーンに強制連行して、首都の内外で労働者として働かせたそうだ。彼らは郊外に居を定めたが、そこで彼らは苦労して縮絨工、職工、カーペット製作者として働き、町では(ムスリムと争わないよう気をつけながら)馬丁や庭師となり、また近くの農家やぶどう園に雇われた、とシャルダンは書いている。
 ただ、強制連行は中東では古代アッシリアから行われており、シャー・アッバースだけの暴挙ではない。彼の時代、アルメニア人も多数イランに連行されており、現代イランでジョルファーと呼ばれるアルメニア系キリスト教徒はその子孫である。

 シャルダンは続けて、「これら昔からのペルシア人たちは穏やかで素朴に暮らし、たいそう平和に長老の指導に従って生活している。その首長は長老の中から選ばれ、ペルシア政府によってその職に認可される。彼らはワインを飲み、肉は種類を問わずに食べる。が、それ以外の点では彼らは非常に特異で、他の人々、特にマホメット教徒とは決して混じり合う事はない」。
 「その女たちは、他のペルシア婦人のように我々を避けるどころか、大変喜んで我々に会い、話をした」と他の旅行者は述べている。彼女らはヴェールで顔を覆っていないので、ムスリムの女とは区別できる。しかし彼女らの衣服は大変慎ましやかで、かかとまで届く長いズボンをはき、長袖の上着を着、修道女の被り物のようにすっかり髪を覆う頭巾を被っている。彼女らの衣服はきれいな色がついていて、その多くは赤や緑である。男たちは他の労働者のようにズボンと上着を着ていたが(手織りのウールか木綿の)衣服は染めてはいけないことになっていたので、何処に行っても彼らは目立ったという。
 ゾロアスター教徒は友好的であったが、宗教的事柄については無口で、シャルダンより前にイランを訪問したフランス商人タヴェルニエもこう述べている。
この世にガウル(不信仰者、ゾロアスター教徒はこの蔑称で呼ばれていた)たちほど、自分たちの宗教の秘密を発言するのに小心翼翼たる者はいない」。
 シャー・アッバース以降ペルシアは衰退に陥り、王朝も様々代わり、この混乱の時代に教徒は十万人以上殺害されたという。

 対照的にインドの同教徒パールシーは繁栄を享受したが、彼らはイランの同胞を救うため協会を19世紀に設立する。この協会はイランに代理人を送るが、その代表に選ばれたのがマネークジー・リムジー・ハタリアであった。彼は商人だったが、機略と交渉力、忍耐に富み、あらゆる種類の圧迫と勇敢に戦った。30年ちかい奮闘の結果、1882年ついにジズヤ(人頭税)廃止に成功する。彼は他にもゾロアスター教徒の村の多くに教育と医療の改善を果たした。かくして 20世紀に入ると、ゾロアスター教徒は起業を始め金融、教育、技術、専門職において活躍するようになる。
 イラン・イスラム革命前は優遇されていたが、ホメイニ支配下になると彼らは多数イランを離れ、米国、英国、オーストラリアに移住した。祖国に留まった教徒は特に迫害はなかったものの、居心地の悪さは否めなかっただろう。欧米に移住したゾロアスター教徒は、適応力で問題視される他のムスリムイラン人と異なり、教育水準や収入も高く移住先でも活躍するという。

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2 コメント

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ゾロアスター教徒の人口 (cosmorama)
2007-02-12 11:09:52
ゾロアスター教について、よく調べておられると思います。ゾロアスター教徒の人口もほぼ正しいと思います。
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コメント、ありがとうございます (mugi)
2007-02-12 20:25:56
初めまして、cosmoramaさん。
拙ブログを読まれていただき、ありがとうございました。
ゾロアスター教に関心のある者同士、今後ともよろしくお願い致します。
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