メディアに登場する識者たちが、昨今の日本語の乱れを訴えるようになって久しい。戦前生まれだけでなく団塊の世代にも、若者の言葉遣いを一々あげつらい、小言幸兵衛となっているおじさんがいる。そんな人物によるコラムが、2月21日付の河北新報に載った。「ふつう」というタイトルで、投稿者は飛島圭介氏。以下はコラムの全文。
―聞くたびにいらだたしい思いをする言葉がある。「ふつうにおいしい」という言葉だ。
たとえば、ガイドブックに載っている食べ物屋に行ったという女性に感想を求めたところ、「ふつうにおいしい」という返事だった。おじさんは瞬時に頭の血管が切れそうになった。
「ふつうに、とはどういうことだ。ふつうだったらおいしいとはいえないだろう。ふつう、というのはうまくもまずくもないからふつうなのだろうが」
「だから、ふつうにおいしかったんですよ」
「だったからこうか。特別においしいとはいえないけど、まあ口にしてまずいとまではいえない。それでふつうにおいしい、というわけなのか」
「だいたいそうです」
まずい→ふつう→ふつうにおいしい→結構おいしい→大変においしい、という段階があるのだろうか、と聞くと、「いえ、その上があるんです」と。内心聞くまでもないと思ったが、念のため聞いてみたら、「めちゃくちゃうまい」だ。おじさんが想像したとおりの答えだった。「めちゃくちゃ」という言葉は、ふつうに嫌いだ。
この回に限らず飛島氏は自身のコラム「おじさん図鑑」で、ТVや店などでよく使われる言葉遣いや流行語のおかしさを何度も取り上げていた。言葉遣いや文法にやたら拘るところから、専攻は日本文学で、学位でも取った方?と想像していた。そのため言葉遣いに殊更うるさい傾向があるのやら……と解釈していた。
しかし、飛島氏の「おじさん図鑑」が書籍化された時(2007年10月)に掲載されたプロフィールにはこうあった。
「1948年静岡市生まれ。静岡商高を経て法政大学社会学部社会学科卒。コラムニスト。日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員、日本山岳会会員」
日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員のコラムニストなので、多少言葉遣いに喧しくなるのは仕方ないが、法政大学での専攻は社会学部社会学科、文学部ではなかった。だがコラムでは国語学者以上に学者風をふかし、日本語の乱れを叱責しているのが飛島氏なのだ。
もちろん私だって国文科で学位をとってはいない。そんな私でも「ふつうにおいしい」という言葉遣いはおかしいと感じる。不味くはないが美味しくもない時、私や家族、友人は「まあまあだね」というのが「ふつう」だ。少なくとも私の周囲で、「ふつうにおいしい」という人はこれまでいなかった。
コラムに登場する女性と飛島氏の関係は不明だが、女性は敬語を使っているのに対し、後者の問いかけは完全に詰問調。たとえ職場の若い部下であっても、尊大と言ってよい。
さらに「めちゃくちゃうまい」を問いただすのは、あからさまな誘導尋問だろう。念のため聞いたのではなく、予め女性の回答を予想していて問い、想像したとおりの答えを引き出す。実に陰湿かつ狡猾にしか見えない。
件の女性の年齢や職業は不明だが、少なくとも飛島氏よりはずっと若い世代と思える。女性の言葉遣いからも、失礼ながら国語教養があるとは感じられないし、業界用語をフルに使っているように思える。まずい→ふつう→ふつうにおいしい→結構おいしい→大変においしい→めちゃくちゃうまい…等の食品評価は私には初耳だし、一般的にはなっていないのではないか?
「ふつうにおいしい」という言葉も女性自身の造語ではなく、他人が流行らせたのだろう。バラエティー番組はまず見ないため、ひょっとするとこの種の番組ではよく使われている流行語だろうか?
責めるべきはおかしな言葉遣いをした女性ではなく、文法的に誤ったフレーズを作り、流行らせるメディア側なのだ。その程度のことは飛島氏も分からないはずがなく、自分より年齢や社会的地位が低い者を責めるのはおかしい。尤も日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員に所属する下っ端コラムニストでは、上層部を正すことは不可能事だろう。
上にはこびへつらい、下には威張り散らすおじさんは少なくないないが、これぞパワハラそのもの。2020年4月のコラム「国民の敵」だけをぱっと読み、「文脈から見ても男女同権派っぽいですし」と断言していた者もいたが、今回のコラムこそ飛島氏の気質がよく表れている。
また2016年9月18日付のコラムでは、「公正無私で、一部の人々に仏の圭介と称されるおじさん」を自称していたが、少なくとも部下には仏ではなく、パワハラの圭介と影口を叩かれているかもしれない。パワハラおじさんはふつうに嫌われる。
「ガイドブックに載っている食べ物屋」での発言でしょ。ガイドブックという権威には「おいしい」と言わせるバイアスがあります。それ抜きで、本心から「おいしい」と言いたかったのです。 中立の立場で評価したことを(無意識に)使えたいのです。
TV番組はほとんど見ませんが、子供が見ている番組で「ふつうにすごいな!」というのは良く耳にします。番組のために「すごい」と言わされているのではなく、本心から「すごいな!」と思ったということです。
TV業界などはお世辞や誇張ばかりなので、こういう言い方が発明されたのでしょう。
言葉はコミュニケーションのツールなのだから、コンテキストを無視して言葉を語ってはいけないと思います。日本語は高コンテクストな言語なので特にそう思います。
ガイドブックはまず見ませんが、件の女性はガイドブックに載っている食べ物屋に行っていましたね。そのためガイドブックに載っている言葉のことは全く頭に浮かびませんでした(汗)。女性はガイドブックの言葉をそのまま使っていたと思います。
TVの子供向け番組も見ていないので、「ふつうにすごいな!」という言葉がよく使われていたことは知りませんでした。いかにお世辞や誇張ばかりのTV業界にせよ、こういう言い方には違和感を覚えます。飛島氏も同じ思いだったはず。ただ、言葉遣いを注意するにせよ、他にも言い方はあったでしょうに。
mottonさんには簡単なことでも、私には見抜くのは簡単ではありませんでした。
「ふつうにおいしい」はコンテキストありきの言葉なので全く違う意味を含むのですが、女性は無意識に使っているので、おじさんの発言に引きずられて、上記の「おいしさ」の単なる評価にされてしまっているのです。
そのコンテキストになじみがあると簡単なのですが、おじさんはそうではなかった(悪くいうと他の世界への興味を失っている)ので変な会話になってしまって、言葉に意味がない(「ふつう」か「おいしい」でよい)と思うから違和感を覚えて当然なのです。
一方で、あるコンテキストで意味がある(必要だから新たに生み出された)言葉を否定するのは間違いです。(言語とはそうやって発展していくものだから。)
# 英語の very や really に相当する言葉だと、「めちゃくちゃ」より上があって、今だと「やばっ」だと思います。私もおじさんなので古いかも。古くは「ちょー(超)」とか「ギガ」とか、いくらでもありますよ。陳腐化したら終わりですから、どんどん生み出されます。
# 土佐弁も「げに(現に)」「まっこと(真に)」「しょう」「こじゃんと」など豊富です。2つ重ねる場合も。(土佐の人は大げさにいうのが好きだから。)
コンテキストになじみがないと飛島氏と同じくヘンな日本語に聞こえてしまい、会話自体もおかしくなってしまったということでしたか。おばさんの私は古さでは飛島氏と同レベルかも。
メディアに登場する識者が日本語の乱れを叱るのは、言葉を否定することにも繋がるのでしょうか。新語を使うのも難しいですよね。
# 土佐弁の「まっこと(真に)」だけは知っていましたが、他は全て初めて知りました。一方東北では大げさな言い方は敬遠されます。宮城なら、「おだつな(ふざけるな)!」と一括されるでしょう。