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トーキング・マイノリティ

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獣に育てられた子供たち その二

2011-05-18 21:14:18 | 歴史諸随想

その一の続き
 狼に育てられたというローマ建国の祖ロムルスとその双子の兄弟レムスの伝説は日本人にも知られている。上の画像はその伝説に基づいたブロンズ像「カピトリーノの雌狼」で、ローマのカピトリーノ美術館の有名な収蔵物となっている。
 幼少時に獣に育てられた英雄が登場するのはギリシア・ローマ神話に限らない。イランの叙事詩シャー・ナーメ(王書の意)にも、霊鳥シームルグに育てられる英雄ザールがいる。ザールは生まれながら白髪だったので、それを恥じた父により山に捨てられるも、鳳凰を思わせる霊鳥シームルグが赤子を憐れみ、養育する。並みの人間顔負けに賢明なシームルグは立派にザールを育てた。ザールの息子ロスタムこそ、ペルシア神話最大の英雄である。

 捨てられ、禽獣に養育される物語は貴種流離譚に当たり、洋の東西ともに似た伝説が生まれるのは興味深い。ファンタジーとしては実に面白いが、古代の人々は獣に育てられる子供の伝説を信じていたのだろうか?古代ローマでは雌狼とは娼婦を指す俗語だったという説もあり、建国者が娼婦に育てられたのでは恰好がつかない。狼や猛禽類をトーテムとする部族が、他の部族の捨て子を育てたということも考えられないだろうか。

 英雄が獣に育てられる神話を引き合いに、マキアヴェッリが代表作『君主論』で狐と獅子のたとえ話を展開していたのは、日本の高校世界史でも教えられるほど有名。以下はその一部抜粋。

昔の作家はアキレスをはじめとする多くの古(いにしえ)の君主たちが、半人半獣のケイロンに預けられ、教育を受けたことを書いている。人の上に立つ者は、人間的な性質と野獣の性質を、共に学ぶ必要があるということを暗示しているのだ。この二つの性質のうち、どちらか一方が欠けても、地位を長く維持することは出来ないのである。

 君主たる者、野獣の性質を持ち合わせていなければならないというその野獣についてだが、私は野獣の中でも狐とライオンに注目すべきであると思う。ライオンだけならば、罠から身を守ることはできず、狐だけならば狼から身を守ることはできないにしても、狐であることによって罠から逃れられ、ライオンであることによって、狼を追い散らすことが出来るからである。
 罠を見抜くには狐でなくてはならず、狼を追い散らすにはライオンでなければならないということだ。それゆえに、ライオンであるだけで満足している君主は、この点がよく分かっていないのである。もちろん、狐であることで満足しているリーダーについても、同じことが言える。

 ただし狐的な性質は、巧みに使われねばならない。非常に巧妙に内に隠され、しらっぱくれて、とぼけて行使される必要がある。なに、人間というものは単純な動物だから、現に目に見えることに引きずられ易いのだ。これが現実では騙そうとする者は、騙す相手に不足することはないのである…

 上記の狼とは野心家を指し、君主は今ならさしずめ指導者となろう。君主政治が一般的だったマキアヴェッリの時代と異なり、一部を除いて民主制が世界の潮流を占める21世紀だが、いつの時代も指導者のいない人間社会は存在しなかった。統治体制が君主制、民主制または共産体制問わず愚かな指導者によって一番困るのは民衆であり、指導者なき民衆は烏合の衆に過ぎない。狼のような野心家には無知な烏合の衆ほど美味しい存在もないのだ。

 ライオンハートと呼ばれるリチャード1世は、現代でも歴代英国王の中で最も人気のあるひとりだし、英国の女性シンガー、ケイト・ブッシュはそれにちなんだアルバム「ライオンハート」を出している。とかく政治の世界を汚いと蔑み、異様に綺麗ごとを好む極東の島国とは何という違いか、嘆息させられる。政治の話題を避けることが文化人の証となっているのが日本の風潮だし、左右共に人間社会では永遠に実現不可能な理想論を並べ立てる知識人。獣は人間社会の役に立つが、不可能ごとを弄ぶ閑人は、何の役にも立たない。

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