その一、その二、その三、その四、その五、その六の続き
著者は「ロシア人貴族も一皮むけばモンゴル人」として、“タタールのくびき”の実態を暴いている。ロシア人が“タタールのくびき”を言い出したのは18世紀からで、「モンゴル支配のせいで、私たちの近代化がこんなに遅れた」と17世紀までの歴史を否定した。
それまでのロシア地方の有力者は我先にとモンゴルに媚を売り、モンゴルの有力者と縁組し、いかにチンギス・ハーンの血を濃く引いていたかを自慢していた。それがピョートル大帝の頃から、「アジア的な悪弊はぬぐい取り、西欧化する」と「近代化」を推し進め、モンゴルについては否定的な歴史ばかりを書く。そんなピョートル大帝の時代にも、貴族たちの中には遊牧民の血を引く者が大勢いたという。
これを以って著者は辛辣に一括する。実のところモンゴル以前のロシアに見るべきものはなかった。モンゴルが支配して初めて、世界の一員になれたというのがロシア史の実情、と。
あえて名は伏せるが、モンゴル支配時代には有力者が我先にとモンゴルに媚を売りまくり、モンゴルの有力者と縁組していた国は他にもある。但しこちらはモンゴルが去った後でも世界の一員にさえなれなかったが。
第三章で一番驚いたのが、「本当にモンゴル人は残忍だったか?―プロパガンダに騙されないために」の箇所。モンゴル軍は極めて残忍、方々で屠城をやりまくり、彼らの通った後は草一本生えない大量殺人集団のイメージがある。
著者によると、この種の記録が残っているのは西方のイスラム・キリスト教世界で、漢文による皆殺しの記録はないという。実際にモンゴル部隊は殺戮を行っているが、当初、シナ式の普通の戦争をしただけだったのでしょう、だから漢文では同じことをしても記録にも残らなかったと考えられます、と述べている。漢文による皆殺しの記録はないと言われても、にわかには信じられないが。
だが、キリスト教やイスラムの国々を攻めた時、現地の人間は衝撃を受けた。それまでのイスラム世界の戦争では、人間は捕えて取引材料に使うものだった。王侯貴族や金持であれば人質にして、高い身代金と交換する。そうでなければ奴隷として売る。「……しないと殺すぞ!」と脅すものの、それは交渉・駆け引きであり、皆殺しのような勿体ないことはしなかったようだ。
しかしモンゴルは、「降伏すれば助ける。抵抗したら殺すぞ」という原則を貫き、「逆らう者は死」を地で行く。イスラム教徒は交渉のつもりでグタグタしていたら、「問答無用!」と殺戮の嵐が吹き荒れ、見せしめに殺されてしまう。これを見た(知った)イスラム教徒は、「本当に殺した~。なんと野蛮な!」と驚愕するが、それでモンゴルの殺戮に関して表現過剰な文章が残るワケだ、と著者はいう。
一例として著者はヘラート(現アフガン)での殺戮を挙げている。ヘラートでは160万人が虐殺されたと伝えられているが、モンゴル人が総勢で十万人程度しかいないのに、その十倍以上もの人を殺せるでしょうか?と著者は疑問を呈している。しかも、ヘラート他中央アジアの町を「全滅させた」はずなのに、その数年後に町を訪ねた人が「大繁盛していた」などと書いているので、本当に大虐殺があったかどうかも疑問だ、と。
モンゴルは言い訳を書き残さなかった。負けた側はその時は頭を下げるが、モンゴルが去った後に「本当は嫌々従ったのだ」とか「モンゴルは残虐だった」などと主張し、自分たちを正当化した。自ら進んでモンゴルと繋がり利権をむさぼっていた者にしても、或いはその手合いこそ言い訳する。
モンゴル人自身が虐殺を吹聴したという説もある。恐怖感を煽り次の町を落としやすくするためだ。噂を聞いた人々が怖がり、すぐに頭を下げてくる。モンゴル側は「よし、よし。税金を払えば許してやる」と簡単に領域を広げることが出来、わざわざ戦争をする手間が省ける。これまでイスラム側の記録をまるで疑わなかった私には、著者のこの意見は目からウロコだった。
「ですから歴史史料は、書いてあるからといって、そのまま信じてはいけません。誰が、いつ、何のためにこれを書いたのか。それを踏まえた上で読まないと、真実はつかめません。やたらと殺していたら、東西貿易が発展するわけがないのです。諸事実を突き合わせて考えれば、モンゴルに関する記述には、かなりの嘘が入っていることがわかります」
その八に続く
◆関連記事:「チンギス・ハーンとイスラム世界」
南北戦争は白人のキリスト教徒同士の内乱ですが、敗れた南軍大統領は国家反逆罪にも問われず、保釈後から晩年まで自由な政治活動をしています。これが欧州の大陸諸国であれば、確実に処刑されたはず。別宮暖朗氏の名は初耳ですが、軍事評論家でもある方でしたか。
アメリカは日独の戦後処理結果に満足して中東でも同じことをしましたが、中東通の人であれば失敗するのは目に見えていたはずです。結局はアメリカのお花畑感性が裏目に出ました。
アメリカの戦後処理の原型は南北戦争です。
日本に対する無条件降伏の勧告もそうです。
(皆殺しや奴隷化が基本的にない)内戦におけるそれと、(皆殺しや奴隷化がむしろ基本の)対外戦争や民族紛争におけるそれは意味が違うことが分かっていませんでした。
# 教えてもらったのは別宮暖朗さんの著作だったかと思います。
最終的に、日本が(特に昭和天皇が)、アメリカが「文明人」であることを信じて、それに乗ったので、(日本にとっては)良かったのですが、アメリカは勘違いして中東などでまたやらかしました。
# でも、長い目で見ると、お花畑のような日米の感性が正しいと思います。
平和ボケの日本人は「戦略的な虐殺を行う必然性」と聞いただけで、何と残忍な~と思うでしょう。しかし中世にはそれが当たり前だったし、20世紀の世界大戦でもあまり変わっていない。仰る通り「恐れられることで自らの力を誇示して安全を保障する」が普通なのは、モンゴルの虐殺を責め続けているイスラム世界も同じでした。その意味では残忍ではなく冷酷となりますね。
名は忘れましたが、日本史上では「組織的な虐殺」がなく、例外は信長と言った人がいます。しかし、信長程度の「戦略的な虐殺」は世界史ではザラです。信長に敵対した宗教勢力も当時は最大最強の武装集団だったし、宗派の違う寺院には焼き討ちさえ躊躇わなかった。むしろ宗教勢力の起こした宗派対立の方が犠牲者が多いのです。
会津での維新軍も他国に比べれば温い方ですよね。シナならば籠城していた女子供も皆殺しです。ふとアメリカの南北戦争の戦後処理を思い出しましたが、やはりこちらも支配ではなく統治をするのが目標でした。
これです。
戦略的な虐殺ゆえに虐殺を吹聴します。
シナや朝鮮もやりますが、シナ式ではなく遊牧民のものです。(真似しただけのシナや朝鮮の方が単なる残忍な虐殺を行う。遊牧民と対決するための仲間を減らすだけのアホな行為。)
少数の遊牧民が多数の定住民を支配するにはこうするしかありません。安全保障上の要請なのです。
(男は殺し女は犯す、というのも数の差を埋めようとするものです。どちらも、生物的本能なので、野蛮といえば野蛮ですが、日本人の「和」だって別の生物的本能でしかないし。)
日中戦争で日本が南京と落とした時、戦略的な虐殺を行う必然性があまりにも揃い過ぎていました。
日本軍は中国軍に対して少数、上海で仕掛けたのは中国、南京で降伏せず戦った後で司令官が逃げた、日本人への残虐な殺傷が北支で起こっていた、など。
しかし、日本軍は少なくとも「戦略的な虐殺」はしませんでした。虐殺を吹聴していないので間違いありません。(吹聴したのは「百人斬り」程度ですもの。可愛いものです。)
だから、舐めらました。モンゴルや中華軍閥なら、蒋介石の首を寝返った中国人が持ってくるまで一都市ずつ皆殺しにし続けたでしょう。中国を支配したいなら、それしかないのだから。
「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」は「やってない」と言うから舐められるのです。モンゴルは当然としてシナも欧米もそういうのをやることで「恐れられることで自らの力を誇示して安全を保障する」のが普通なのですから。
日本は、支配(奴隷にする)ではなく統治(仲間にする)をしたいので「やらない」のです。仲間を増やすという社会性動物の本能で、長い目ではそちらが正しいのですが、野蛮人(欧米を含む)には分かりません。
(信長の対宗教や会津での維新軍など日本でも無いわけではありませんが。)
# 岡田・宮脇夫妻の著書を読んで上記のようなことが明確になりました。