その一、その二、その三の続き
朝貢の実態を様々挙げ、「朝貢に行ったからといって家来だったと卑屈になる必要はなく、朝貢を受けたからといって、威張る話ではない」と著者は述べる。現代の中国は、「朝貢をしていたから属国だ」などと主張しているが、朝貢は商売上の関係があったというだけ、と著者は一蹴する。それを以って属国認定をするのこそ、シナ人特有の自己中心的拡大解釈の見本なのだ。
中国人がやたら周辺を属国のように思い込む理由の一つに、著者は司馬遷の『史記』の編集の仕方があるという。『史記』の中の「列伝」には外国の話も入っているが、「外国伝」という別のジャンルを設けず、朝貢国の話も書きこんだ。『史記』は後代の史書のモデルとなり、後の正史もまた『史記』と同様に外国の事項を家来の話であるかのように書いた。そして大国までもが知らぬ間に属国とされていたのだ。
不可解なのは日本の知識人。朝貢していた国は沢山あるのに、これを以って中国への恩恵を強調していること。東南アジア諸国さえもっと“愛国的”のはず。尤も儒教圏に忖度しないと、日本の学界では肩身が狭くなるのだろう。
「一帯一路」政策にも触れており、今は「昔、シルクロードがありましたね」と友好を装っているが、そのうちに「だから中国だ」と言い出しかねないという。根本的な発想は変わらず、まるで詐欺です、とも断言している。そして著者はこう記す。
―「朝貢」はお中元やお歳暮みたいなものだということを覚えておいてください。
本書で初めて知った漢の武帝のエピソードがある。寵愛を失った衛皇后が巫蠱の禍(ふこのか)で罪に問われ、自殺を強いられたのは知っていたが、他にも自殺を強いられた側室がいたのだ。鉤弋(こうよく)夫人がそうで、彼女の産んだ男児は第8代皇帝・昭帝になる。
せっかく息子が皇太子に立てられたのに、武帝は鉤弋夫人を呼びつけ、何も悪いことをしていないのに罵り、投獄する。夫人は獄中で自害させられた。「なぜ皇太子になる人の母を殺すのですか」という臣下の問いに対し、武帝の答えはこうだった。
「オレが死んだ時に、君主が小さいと、まだ若い母親が権力を握って、何をするかわからない。だから、先に殺しておくのだ」
このエピソードを紹介した後、「いや~、中国人に生まれたくないですよね。ぞっとします」と著者は述べているが、私もこれには禿同!と言いたい。本書には書かれていなかったが、wikiには鉤弋夫人の生母も武帝の命令により殺害されたことが載っている。
それより唖然とさせられたのは、武帝の時代に漢は最大版図となるが、武帝の死んだ頃には人口は半分に減っていたこと。最大版図を得るため無理に無理を重ねたにせよ、国力は消耗したのだった。国が発展して大きくなった訳ではなく、最大版図時代の古代ローマ皇帝は「五賢帝」のひとりトラヤヌス、実に対照的だ。「国境が定まらないのは大陸国家の常ですが、シナではその拡大縮小が頻繁に起こります」と著者。
領土のみならず、「ハンパでない人口激減を繰り返すシナの歴史」には言葉もない。武帝の時代に人口が半減するが、後の皇帝が無理をしなかったため、西暦2年には約6千万弱に増加する。それが王莽の新が滅ぶ西暦23年には、また半分に減ったそうだ。
なぜ人口が半減したことが分かるのか?という質問に、著者は戸籍があるからという。『漢書』や『後漢書』には各州の人口統計が端数まで載っている。漢人になるということは、税金を払う、徴兵される(または一定の金額を納めて免除してもらう)という政府との契約なので細かく調査されているそうだ。
国の中には州という政府の統治単位が出来、それぞれの州の人口が、はっきりと数値で上がっている。最近の中華人民共和国より古い時代の数字の方が信頼できるかもしれません、というのは著者の皮肉も込められているだろうが。
新が滅亡しても混乱がすぐに収まるはずがなく、その後さらに人口が減る。光武帝が後漢を起こした時点で1,500万人ほどしか残っていない始末。著者の言葉を借りれば、「ジェットコースターのような人口増減」。
光武帝以降は人口は回復し、2世紀半ばにはまた5千万人弱に達する。歴史は繰り返すというが、後漢末から三国時代にかけ再び大幅に人口減となる。その人口減がハンパでなく、日本人には想像もつかない。
後漢の156年に5千万人弱であった人口が、三国に分裂した230年代には魏が約250万人、呉が約150万人、蜀は約90万人。三国を合計しても500万人足らずになってしまい、一世紀も経ずに何と十分の一になってしまったのだ。
それにしても地大物博を豪語する中国で、なぜこうも急激に人口が減るのか?シナ大陸はいったん飢餓状態になると、その規模が全然違うと著者はいう。灌漑地が一様に広がり、旱魃が来ると何処も旱魃。作物が実らない時は、何処まで行っても何もない。大平原では飢饉は広範囲に及ぶようだ。
旱魃とセットになってるのがイナゴで、作物を食い荒らし、餓死者が大量に生まれる。流民が発生し、何処までも歩いて行っても何もなく、食人が普通となった。
その五に続く
◆関連記事:「日本人と中国人」
京大名誉教授の宮崎市定は中国歴史の泰斗ですが、この人は中国歴史に愛着は持っていても、妙な思い入れはありませんでした。これは中近東の文化に触れた面もあるからだろうと思います。文革でも自分が歴史を研究して知った中国の権力構造と、当時の中国が主張していた話と食い違うのを訝しんでいました。
中国の極端な人口減少原因は飢餓もありますが、政府の統制が効かなくなって戸籍で実際の人口を捕捉できなくなった、と言うのもあります。しかし、文革辺りでの食人の話は理解不能です。
一部にせよ宋代で人間を生贄にして神を祀る儀式もあったのですが、あの時代世界最高峰の文化を持っていた国がそのような風習を残していたのも訳が分かりません。アステカ帝国なら形態が古代国家ですから分かるのですがね。
宮崎市定の著書は未読ですが、日本の教授には専門の国に過度な思い入れをする類が多いですよね。文化人でも同じ傾向が見られるし、特にТVに出てくるのはそんなタイプばかり。思い入れをしている国の問題点は絶対言わない。
文革の時は絶賛した日本の知識人が多かったそうです。そのくせ実態が分かるようになっても総括しない姑息さ。連中ほど言論に責任を取らない人種もいない。
いかに大飢饉でも中国の極端な人口減少は理解できません。ふとインドはどうだった?と思いました。英領時代は飢饉が頻発、この間5千万人が餓死したという説もありますが、中国に比べるとマシに思えてきます。独立後は飢饉は起きていませんが、現代でも絶対貧困層が多いのです。
一部にせよ、宋代になっても人身御供が行われていたことは知りませんでした。とうにこの因習は消滅した思っていましたが、生贄が盛んだった殷の時代の青銅器の質も高い。文化水準と人間尊重意識は別なのやら。
中国の王朝は、都市を支配して、そこでの商取引(農民が農作物を売って銀を得て税を収めたり塩や農工具を買う)を大きな財源にしていたので、日本のような面での支配(土地・人の完全な把握)には拘りませんし。
あと、皇太子の生母を殺すのは他国でもあったような(北魏の子貴母死など)。皇帝や王の崩御の時の后妃殉死もそうかも。
後継者の生母(や実家)が権力を持つ問題は確かにあるので、徳川将軍家などは将軍の生母が御台所(皇后に相当)にならないようにしていたとされます(例外はお江与の方)。
実際、三国時代でも大豪族は万単位の動員兵力、広大な荘園を持っておりその実力は日本で言えば前田家、伊達家、島津家レベルかそれ以上だったと思います。
当然荘園の部民は政府の課税対象外でしたから、かなりの数がそこに吸収された結果だと私は見ています。
もちろん戦乱である程度の人口は減ったと思いますが、本当にそこまで減ったら民族絶滅ですよ。数十年前、ある東洋史学者が指摘しており目からウロコだった記憶があります。
先にスポンジ頭さんもコメントされていますが、政府の統制が効かなくなって戸籍で実際の人口を捕捉できなくなったのが大きな原因だったようですね。日本と違い国土が広すぎるため、面の支配は難しいこともあるのでしょうか。
仰る通り、武帝の他にも皇太子の生母を殺すケースはあってもおかしくありませんね。古代は皇帝や王の崩御の時、后妃殉死が強制されましたが、外戚の影響力をそぐ目的もあったのやら。
徳川将軍の生母では桂昌院も有名ですが、彼女は側室であって御台所ではなかった。後継者の生母を殺さずとも、日本でも外戚が力を持たないようにしていたのですね。
三国時代でも大豪族は万単位の動員兵力、広大な荘園を持っているばかりか、荘園の部民は政府の課税対象外とは知りませんでした。大変勉強になります。
民族絶滅とまではいかずとも、華北ではかなり異民族の血が入ったことでしょう。大陸国家では住民が入れ替わるのは珍しくないですし。