その①の続き
デムーラン夫妻の新家庭は、疲れた革命家たちのしばしの憩いの場にもなった。やがて2人には男児が誕生、オラースと名づけられたが、その名付け親はロベスピエールである。上の画像はデムーラン一家を描いた画で、いかにも幸福そうな家族の肖像画だ。池田理代子氏はリュシルをこう評している。
「だいたいが、リュシルという女性は、《やさしくけなげな妻》として生きるのが一番ふさわしい、したがってそれ以外の能力を何も持ち合わせてはいない、いわゆる典型的な良妻賢母型女性でした。おそらくは、カミーユと結婚することがなかったら、彼女の名は大革命の史的記録の中に見つけ出すことがなかったかもしれません。
彼女が反革命の罪状で夫につづいてギロチンで処刑されたのも、決して彼女が何か確固たる自分自身の政治的思想を抱いていたことの結果ではありませんでした。リュシルは、夫のすることならどんなことにでも盲目的な賛美を示し、それゆえに、カミーユが革命家であったため、彼女も共和主義者となったのでした」(94頁)
そんなリュシルも、さすがにテュイルリー宮殿襲撃時には、愛する夫がどんな危険な職業に携わっているのかを悟り、こんな危ないことには関わりあわないでほしい、と泣いて懇願したこともある。
それでも結果的にデムーランやダントンらの企てが成功、後者が法務大臣の地位に就きて夫が出世すると、嬉々として激越な調子で日記の中でマリー・アントワネットを罵倒する言葉を連ね、国王処刑に賛成の立場を夫の受け入りで取っている。西洋でも似た者夫婦になってくるようだ。夫が十歳年長という年の差の影響も大だろう。良妻賢母型女性には辛口気味の池田氏による評価を再び引用したい。
「彼女にとっては、カミーユの信じていること考えていること言うことが絶対なのであって、それに対して批判を行ったり、あるいは自分自身の視点に立って世の中のことを理解し、ときには夫と考え方の違いから論争もする、などということは思いもよらないことであり、また彼女にはそうするための能力の持ち合わせもありませんでした。それ故に、彼女が後世の男性たちから高い評価を与えられ、ほめそやされているのも解るような気がするではありませんか」(95-96頁)
ジャコバン派内の党派抗争で、ダントンやデムーランはロベスピエールと激しく対立、かつての親友は政敵となった。ダントン派はロベスピエール等により“革命に対する裏切り”の罪状で逮捕され、死刑宣告を受ける。死刑執行は1794年4月5日、同時にリュシルも逮捕されてしまう。
夫の逮捕後、リュシルは身を飾ることも忘れ、半狂乱になって様々な役所に足を運んだり、路上で革命政府を大声で罵ったりした振舞いは、反革命容疑に十分だ。リュシルはロベスピエールに手紙を書き、夫の助命嘆願もするが、総て無駄に終わった。
意志と信念の男だったダントンに対し、デムーランはかつてマラーが評価したように、意志薄弱で浅はかな所があった。そのため、ダントンを支持して闘いを進めていくうちに幾度か恐怖に駆られ、有名になったことを悔やみ、何とか平和の中に逃げ込む道はないものかとオロオロしたりする。処刑時には死を恐れ、取り乱し、震えっぱなしだった有様。
『小説フランス革命』の著者・佐藤賢一氏は、「佐藤賢一が答える!読者からの質問状」というサイトで、一番好きなキャラクターはカミーユ・デムーランと答えている。革命家には珍しく等身大のキャラクター、とも言っており、佐藤氏の小説ではバスティーユ襲撃時にデムーランが勇気を出して闘ったのも、全てはリュシルと結婚したいがためとなっている。
リュシルは反革命の陰謀を企てているとして死刑宣告され、夫の死から僅か8日後に処刑される。但し、処刑時の姿勢は夫とは正反対だった。死刑宣告後、彼女は「幸せだわ、もうすぐ再び夫に会える」と言ったと伝えられている。
処刑時には逢引にでも出掛けるように着飾り、喜び勇んで処刑台へ運ぶ馬車に乗り込み、自ら進んでステップも軽く断頭台に駆け上ったという。彼女の生年は月日は不明でも1770年生まれなので、誕生日を迎えていれば享年24歳のはず。
以前『フランス革命の女たち』を読んだ時は、あくの強い女たちに比べて影が薄かったが、今回は見方が変わった。良妻賢母型の優しい女性でも革命家の妻となれば命の保証はなかった時代だったし、夫ともども処刑された革命家の妻は他にもいる。それにしても、デムーラン夫妻の遺児オラースはその後、どのような人生を歩んだのだろう?
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>それにしても、デムーラン夫妻の遺児オラースはその後、どのような人生を歩んだのだろう?
英語及びフランス語のウィキをグーグル翻訳で見ると、リュシルの母や姉妹に育てられ、ナポレオン時代に奨学金をもらって軍の学校に通い(ここの辺りはよく読み取れませんでした)?、王政復古後の1817年にハイチに渡り、当地で熱病のため33歳で没していました。王政復古後は国にいるのが難しかったのでしょうか。
墓もハイチにあるそうです。
しかし、カミーユ・デムーランが取り乱していたとは知りませんでした。あの手の人は毅然とした態度を示すと思っていたので。
ついでに。ウィキを見るとエベールの妻と一緒にギロチンに掛かったそうですが、エベールにも娘がいて、1930年に37歳で亡くなったそうです。両方とも物心ついた時分には両親が刑死していたのですが、世の中の有為転変をどう見ていたのでしょうか。
教えて頂き、有難うございました!日本語wikiには記載されていませんでしたが、英語及びフランス語版には載っていたのですね。リュシルには姉妹がいたし、処刑前に母に手紙を書いているので、たぶん母方の実家でオラースは育てられたと思ってましたが当っていた。
それにしても、軍の学校に通い、最後はハイチで33歳の若さで病死したとは痛ましい。父親も34歳で刑死していますが。
私もデムーランが取り乱していたことは、池田氏の本で初めて知りました。ダントンは毅然とした態度を示したことで知られますが、ツヴァイクは情けないエベールの最後に触れてました。
記事の「夫ともども処刑された革命家の妻は他にもいる…」は、実はエベールの妻のことが頭にありました。こちらは夫を失った心痛よりも死を恐れていて、リュシルが慰めていたことがwikiにあります。
そしてエベールにも娘がいたのですか?1930年に37歳とは、1830年の誤りですよね?ならば1793年生まれで、両親処刑時には1歳足らずのはず。物心ついた時分には両親が刑死していた人々の心情は、想像できません。
すいません。100年ほどずれてしまいました。
エベールの娘の名は「Scipion-Virginie Hébert」と言うそうです。エベールの妻のウィキ(フランス語版)で見つけました。オラースの場合は家が資産家ですが、エベールの娘はどのように育ったのかいささか気になりました。
革命家の子孫については考えても見ませんでしたが、当時の激しい政治状況を考えると、これに似た運命を辿ったものは他にもいたでしょう。エベールに関しては同情しませんが、子供は気の毒です。
ツヴァイクはデムーランの最期も知っていたと思うので、あえて触れないのはエベールの情けなさを強調するためなのでしょうね。
エベールの娘も母親の実家で育てられたことも考えられますが、資産家の家とは思えないので暮しは楽ではなかったでしょう。当時の孤児院も環境は良くなかったはずです。
革命家は総じて若かったし、幼少期に親が刑死したケースは多かったと思います。革命後は王政復古という激動の時代に翻弄される人生をおくった革命家の子孫は少なくなかったかも。
エベールやデムーランのようにギロチンに怯えていた革命家は情けないですが、ある意味人間的だし、佐藤賢一氏はそのような欠点を含めて「等身大のキャラクター」と評したのかもしれません。