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イスラム世界はなぜ没落したか? その一

2015-10-03 20:39:11 | 読書/中東史

『イスラム世界はなぜ没落したか?』(バーナード・ルイス著、日本評論社)を、先日面白く拝読した。原題は「What Went Wrong? : Western Impact and Middle Eastern Response」、“没落”の言葉は入っていない。本の裏表紙のコピーにはこうあった。
軍事・経済・科学・芸術――かつてイスラムは世界の中心だった。キリスト教ヨーロッパなど恐れるにおよばない野蛮な存在のはずだった。……しかし、すべてが一転した。あらゆる面で西洋に屈することになったイスラム世界。何がうまくいかなかったのか?イスラム世界没落の原因と苦悩を、中東史研究の権威が描く。
 
 ルイスの書は『イスラーム世界の二千年―文明の十字路中東全史』(草思社)以来2冊目だが、今度読んだ『イスラム世界はなぜ没落したか?』も考えさせられる内容だった。中東史に多少でも関心を持つ方ならば、かつてイスラム世界が世界の最先端をいっていたことを知らないはずがない。
 中東史に無関心でも世界史好きの人はアラビア語起源の欧州言語が数多くあることを、世界史の教会書で憶えているだろう。全盛期のイスラム世界と現代の状況を比較すれば、そのギャップに驚かない人はいない。この本の序章は「イスラム世界の問い」という見出しで、こう始まる。

何がうまくいかなかったのか?長い間イスラム世界の人々、特に中東――中東に限らないが――の人々は、この問いを発してきた。主に西洋との出会いによって生まれたこの問いの内容と形式は状況――出会いの程度・期間、そして自分たちの社会では全てがうまくいっていないことを西洋との比較によって初めてイスラム世界の人々に意識させた諸事件――に応じて大変多様である…」

 著者の言うとおり何世紀もの間、イスラム世界は人類の文明と発展の最先端にあったのだ。ムスリム自身、イスラムが文明の発展そのものであり、その境界を越えた先には野蛮人と無信仰者しかいない、と信じて疑わなかったのは、功績と実績から来た揺るぎない自己認識なのだ。
 イスラムが頂点にあった時代、その成功の水準・質・多様性の点で比較しうる唯ひとつの文明は中国文明しかなかった、と著者は述べている。同時代のインドはムスリムによる征服とイスラム化の過程にあり、遠い中国はイスラムからの征服を免れた。だが中国文明は東アジアという一地域・一人種の集団に限られた本質的にローカルなものであり続けた。ある程度輸出されはしたが、近隣の同族の人々に対してのみであり、対照的にイスラムは多人種・多民族・国際的或いは間大陸的とさえいえる世界文明を創造した、とルイスはいう。

 中世の殆どのムスリムにとって、キリスト教世界とは第一にビザンツ帝国を意味した。そしてビザンツより遠隔の地の欧州は、さらに遠いアフリカとほぼ同様に見られていた有様。学ぶべきものはなく、奴隷と原材料以外に輸入されるべきものすら殆どない、野蛮と不信仰の暗黒地帯と見なされていた。アフリカからは奴隷と金を、欧州から奴隷と羊毛を輸入する一方、アジアの文明国とは様々な食料品、資源、手工芸品を交易する。

 イスラム興隆から数世紀に亘る繁栄を謳歌したイスラム世界が、長く後進地域だった西欧を蔑視したのは無理もない。しかし、ルネサンス以前にも西欧人は文明技術において意義ある進歩を遂げ始めていたのだ。
 実は十字軍の時代でも、鉄鋼製品は欧州製が優れているとムスリムも認めており、西欧の武具や武器はイスラム世界で需要が増していた。戦の絶えないのが中世の西欧だったがゆえに、武具や武器の製造技術も進化したのだ。

 これに対しムスリムは長らく西欧の進化に気付かずにいた。ギリシア語、ペルシア語、シリア語などの著作をアラビア語に訳した大翻訳運動は、何世紀も前に完了しており、欧州の科学的な文献は彼らに全くと言ってよいほど知られていなかった。
 18世紀後半まで、中東の言語に翻訳された欧州の科学的文献はたった1冊に過ぎず、しかも梅毒に関する医学書だったという。1655年にトルコ語でメフメト4世に献呈されたものがそれで、日本と同じくイスラム世界にも欧州から入ってきた病だった。それ以外のルネサンス、宗教改革、技術革新はイスラムの地では事実上看過された。
その二に続く

◆関連記事:「暗黒の医療-十字軍時代の西欧人
 「世界史の中のアラビアンナイト

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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Re:作品のコンセプト (mugi)
2015-10-15 21:53:10
>トオニさん、

 仰る通り、銀英伝は二人の英雄の対決を描いたスペースオペラ物だし、娯楽作品でもあるので人種問題を入れるとストーリーがややこしくなります。そしてヤマトも、世界各地からヤマト建造に必要なエネルギーや資材を送られたことを私も憶えております。何故か人材は無しでした。

>>人種・民族問題は日本人には馴染みがないので、下手に入れて売れなくなったらそれこそ作者や製作会社の死活問題になってしまいますよ。

 全くの正論です。ただし、様々な人種がいるにも関わらずトラブルが発生しない世界は、やはりリアリティに欠ける印象を受けました。制作側は売れるのが第一だし、結局は日本人向けのフィクションなんですよね。
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作品のコンセプト (トオニ)
2015-10-14 21:10:52
銀英伝は二人の英雄の対決を描いたスペースオペラ物なので、人種問題とかは合わないかと。
ヤマトの方は世界各地からヤマト建造に必要なエネルギーや資材を送られたような覚えがあります。
人材が送られてないのは説明ができませんけど…。

どちらの作品も娯楽作品ですし、人種・民族問題は日本人には馴染みがないので、下手に入れて売れなくなったらそれこそ作者や製作会社の死活問題になってしまいますよ。
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Re:難民に対する欧州の感想 その2 (mugi)
2015-10-11 21:24:18
>こんばんは、スポンジ頭さん。

 我が国の中韓系入国者と同じく、イスラム系移民も政治活動はもちろん宗教活動を積極的に行っていますからね。信仰の自由に付け入り、イスラム原理主義団体が西欧の移住先で我が物顔をしています。

 湾岸諸国では労働者を受け入れても、移民の受け入れ条件は極めて厳格なのです。特にサウジではワッハーブ派でなければ国籍を取れません。ましてシーア派となれば、入国も容易ではない。ムスリム労働者でも常にパスポート携帯が義務付けられており、犯罪を犯せば早々に国外追放処分と厳しい。欧米諸国と違って人権に配慮をしないことを、ムスリム移民らは熟知しているのです。
 池内恵氏の『アラブ世界の今を読む』には、アラブ諸国での興味深い調査結果が紹介されていました。10代後半の若者にアンケートを取った処、過半数が海外移住を希望していたとか。しかもアラブ諸国の多くは経済的には「中進国」で、基本的な衣食はほぼ足りているのです。

 銀英伝で黒人のシトレ元帥もいましたか。すっかり忘れていました。連邦側でも黒人キャラは意外に少ないように感じるし、白人に主要キャラが多いと思うのは私だけではないかも。

>>人種・宗教・民族でトラブルが発生せず、異なった文化・習慣が存在しない銀英伝世界は、大勢の人種がいるにも関わらず、結局日本が舞台だと思いました。

 宇宙戦艦ヤマトも艦内は日本人だけの世界でしたね。あの状況下では人種問わず人類は団結しそうなのに、人種・宗教・民族のトラブルを描くのが面倒だったから?

 確かに宇宙人が聖書の創作の事実を突き付けても、イスラム教は残るかもしれませんね。尤も事実を挙げた時点で、相手が宇宙人でもテロをやりかねませんが。イスラム圏でもネットが普及した結果、過激思想にハマる者と同時に教義に懐疑的になる信者もいるそうです。
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難民に対する欧州の感想 その2 (スポンジ頭)
2015-10-10 19:25:43
 こんばんは。

>377. 無味無臭なアノニマスさん 2015年09月08日 13:24 ID:abtNlJLI0 このコメントへ返信
なんだ、まだ36万人か。半島から60万受け入れた我が国にはまだ遠く及ばないじゃん。もっと頑張れ。

 このコメントに似たような書き込みは結構ありますから、みんな考えることは同じなのだと。しかも、政治活動までやりますし。

 私も湾岸諸国に難民たちが行かないのは不思議でした。同じ民族と宗教ですから馴染みやすいはずなのに。彼らも欧米の方が異教徒でも変な拘束をされず、生活が安定すると思っているのでしょうね。

 銀英伝で帝国側に有色人種がいないのは(話の設定ならいるはず)話の展開がややこしくなるため描かなかったのだと思っていました。しかし、多民族・多人種がいる連邦で有色人種の女性がいないなどあり得ません。大体ヤンの妻も白人、友人女性も白人、日本人の作者にしては人種構成が不自然です。
 黒人ならシトレ元帥がいますが、あとマシュンゴという准尉がいたと思います。でも彼の地位は他の人間に比べて低すぎ、若年のユリアンよりも低かったような。考えすぎですかね。
 人種・宗教・民族でトラブルが発生せず、異なった文化・習慣が存在しない銀英伝世界は、大勢の人種がいるにも関わらず、結局日本が舞台だと思いました。

>宇宙人によって聖書の創世記が創作であった事実を突き付けられ、宗教心が崩壊していくことが描かれていたと思います。

 こちらの方が一神教崩壊としては説得力がありますね。でも、イスラム教は残りそうな気もします。
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Re:難民に対する欧州の感想 (mugi)
2015-10-09 21:36:20
>スポンジ頭さん、

 紹介されたサイトですが、閲覧者のコメの数だけでなく内容も考えさせられましたね。300ちかくになり、さっとスクロールして目に入った↓のコメは笑えました。
377. 無味無臭なアノニマスさん 2015年09月08日 13:24 ID:abtNlJLI0 このコメントへ返信
なんだ、まだ36万人か。半島から60万受け入れた我が国にはまだ遠く及ばないじゃん。もっと頑張れ。

 自称難民たちが金満の湾岸諸国に向かわないのは興味深いと思いませんか?サウジの難民受け入れなど、聞いたことがない。元々中東からの移民は欧米を目指し、湾岸諸国に向かう人が至って少ないことは池内恵氏の著書にもありました。

 銀英伝への貴方の指摘は鋭いですね。私が見たのはアニメ版ですが、仰る通り有色人種の女性が一切、会話の中でさえ登場しない!有色人種の男性キャラさえ至って少なく、連邦側にも黒人はまず見かけないような。
 アーサー・C・クラークのSF小説「幼年期の終り」には、宇宙人によって聖書の創世記が創作であった事実を突き付けられ、宗教心が崩壊していくことが描かれていたと思います。創世記が創作であることを薄々は感じていた信者でも、事実は決定打になりました。
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難民に対する欧州の感想 (スポンジ頭)
2015-10-08 21:56:05
 難民に対する欧州の感想です。それに対するサイト閲覧者のコメも500を超えています。私は200を超えた時点まで読みましたが、難民受け入れはどこかで限界点が来るようにしか思えません。
ttp://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/8132119.html

 ところで、銀英伝の原作は私も通して読んだ事はないのですが、知っている範囲内では有色人種の女性が一切、会話の中でさえ登場しない(ヤンの母親でさえフランス人設定だったはず)、と言う点が不思議でした。
  
 また、作者は宗教の威力を軽く見すぎているのではないかとも思いました。たとえ最後の審判が来なくても、都合のいい解釈をして宗教は生き延びて行ったでしょう。まして、そんなもののないヒンズー教、仏教、道教、神道なら尚更影響されるとは思いません。
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Re:没落 (mugi)
2015-10-07 21:47:01
>クルト氏、

 私は銀河英雄伝説原作版を未だに未読ですが、核戦争後の世界の記述は考えさせられますね。尤も“アブラハムの宗教”なら、最後の審判が来なかったことで致命的なダメージとなりますが、そうでない宗教ではあまり影響を受けないような…アーサー・C・クラークのSF小説「海底牧場」では、仏教が世界宗教となっている設定でした。しかし、これは有り得ないと思います。

 この先もイスラム世界、殊に中東の混乱は収まる気配はありません。ムスリムによる欧州への移住は、かつてのローマ帝国への蛮族移動と重なります。蛮族を労働力と見ていたローマ支配層と同じく、多国籍企業は賃金の安い移民労働者を歓迎しているため、移住の流れは止まらないでしょう。この出来事を紹介したニュースサイトがありますが、寄せられたコメントが面白かったですね。
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52201104.html
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没落 (クルト)
2015-10-06 16:59:13
スポンジ頭氏がアメリカが野蛮地帯になった後今のアメリカを見たら・・・と言っておられましたが、mugi氏もアニメを視聴された銀河英雄伝説原作版にそういうのと類似した記述がありました
13日戦争と呼ばれる銀河帝国や同盟が生まれる前にあった核戦争と復興の記述なんですが、核戦争後アメリカ大陸を初めとする地域に宗教国家が勃興し、悲惨な残虐行為を繰り広げ、崩壊し、核戦争の際に最後の審判が来なかったことと相まって劇中世界で宗教がことごとく没落した理由に挙げられていました。

このイスラムはなぜ没落したのか、や以前このブログで紹介されていた「アメリカのタリバン」を見ると非現実だと笑えなくなります。
しかしシリア問題もそうですが、今後イスラム世界特に中東の混乱とそれに振り回される欧州等世界はどのようになるんでしょうね
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スポンジ頭さんへ (mugi)
2015-10-05 21:20:21
こんばんは。

 仰る通り、全盛期のイスラム世界は錚々たる科学者を輩出していましたよね。他にも「光学の父」と呼ばれたアル=バスリーことイブン・ハイサム、万能の天才アル=ジャザリーもいます。ちなみにフワーリズミーはアラブ人ではなく、ペルシア人だったそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%BC

 ムハンマドそのものが「最後にして最大の預言者」であり、宗教改革も出来ない始末なのです。社会改革しようとする人がいても、没落の原因を「イスラムの教えから遠ざかった」ことに求める原理主義者が力はあり、本当に中世キリスト教徒と同レベルですよね。
 イスラム世界の没落の原因を一言でいえば、「唯我独尊状態に陥り、他文明から学ぶことをしなかった」と著者は結論付けています。しかし、これは簡単なことではありません。同時に著者は現代世界をリードする西洋文明についても、こう語っていました。
「そんな西洋文明自体、今後やって来る他の諸文化に西洋の文化遺産を伝えることになるだろう」
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Unknown (スポンジ頭)
2015-10-04 20:45:16
 こんばんは。

 チョーサーのカンタベリー物語でもイスラム系の医学書がヨーロッパ医学のお手本になっている場面がありますし、プログラムを組む際の「アルゴリズム」と言う言葉が9世紀前半の数学者、アル=フワーリズミーから来ているとは知りませんでした。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%9F%E3%83%BC

 本当に今のイスラム教国を見ると、中世のレベルから明らかに退化し、ISなど文化を破壊した中世キリスト教徒と同じレベルになっているのでゾッとします。元朝でもイスラム官僚は非常に優秀だったとか。何故こうも没落したのかと思います。この本は、今のアメリカが野蛮地帯となった時代から、今のアメリカを紹介しているようなものでしょうか。
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