トーキング・マイノリティ

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イスラム世界はなぜ没落したか? その二

2015-10-04 20:39:56 | 読書/中東史

その一の続き
 オスマン帝国における印刷術導入についての事情は興味深い。トルコでは印刷術は既に15世紀から知られており、グーテンベルグの仕事はトルコの編年史に記録されていた。そして印刷機がスルタンの許可を受け、早い時期からオスマン帝国領内に導入される。
 だが、印刷機を使用したのは非ムスリムのマイノリティ集団に過ぎず、始めはユダヤ教徒、後にギリシア人とアルメニア人が続いた。彼らは自分たちの言語と文字で印刷することを許可されたが、アラビア文字による印刷は厳しく禁じられていた。その根拠はアラビア文字はコーランが書かれている文字ゆえに神聖であり、従ってそれを印刷するのは一種の冒涜行為に当たるというのだ。他にも筆耕(ひっこう)ギルドの利権による抵抗もあったらしい。

 中にはイブラヒム・ミュテフェッリカ(1674-1745)のように、オスマン朝の元駐仏大使の息子の援助を受けつつ、トルコ語とアラビア語の書籍をアラビア文字で印刷するための印刷所を設立する許可を当局から取り付けた者もいた。トルコ人による初めてのこの印刷所の設立は1729年だが、閉鎖されたのは1742年であり、たった13年間の活動だった。その間に刊行された書籍は17点、殆どが歴史、地理、言語に関するものだった。
 この印刷所が印刷を再開したのは1784年であり、この時の印刷所オーナーはオスマン政庁に勤める2人の書記官だった。しかし1796年、新たな所有者の死により、印刷所はまたも閉鎖されてしまう。ここで刊行されたのはオスマン朝史、文法書、軍事関連書籍の3点のみだった。
 一方、印刷事業そのものは工学・砲兵学校にある印刷局で1795年に再開され、以降オスマン帝国領には数多くの印刷所が設立され、トルコ語とアラビア語の両方で印刷を行うようになる。

 ペルシア語の印刷事情も似たようなものであり、ペルシア語による最初の刊本は1594年にイスタンブルで印刷された、ヘブライ文字を使ってユダヤ・ペルシア語で書かれたモーセ五書と考えられている。つまり、ペルシア語を話すユダヤ教徒が使用するための刊本だったのだ。イラン領内に設立された最も初期の印刷所はキリスト教徒によって造られたらしいが、これまた長続きしなかった。
 そしてイランで印刷された最初の書籍の出版年は、何と1817年とされている!トルコと同じく異教的な道具への抵抗もいくらかはあったようだが、江戸時代の日本と比較しても、その後進ぶりが伺えるエピソードではないか。

 1925年11月5日、トルコ初代大統領ムスタファ・ケマルは、新たにアンカラに設立された法律学校の開校式で行った演説の中で、印刷業についてこう語っていた。
1453年のトルコの勝利、すなわちコンスタンチノープルの征服と、その世界史における位置づけについて考えてほしい。ひとつの世界を丸ごと敵にまわし、イスタンブルを永久にトルコ民族のものとした、まさにあの力・能力でさえ、法学者(※イスラム法学者を指す)たちの不吉な抵抗に打ち勝って、ほぼ同時期に発明されていた印刷機をトルコに受け入れるには弱すぎたのだ。
 時代遅れの法とそれを擁護する者たちが、わが国に印刷業が入ってくるのを認めるまでに、実に3世紀もの観察とためらいが必要だったし、その間、賛成や反対のために労力とエネルギーが浪費されたのである…

 印刷業を導入、確立する上でユダヤ教徒やキリスト教徒が担った役割は、ムスリム国家における非ムスリム・マイノリティという新手の仲介者が持つ重要性がますます増大しつつあったことの例証、と著者はいう。この役割を担ったのは、オスマン帝国では主にユダヤ教徒やギリシア人、アルメニア人であり、イランでは殆どの場合アルメニア人だった。
 全盛期のイスラム世界でもユダヤ教徒はギリシア語、ペルシア語、シリア語などの著作をアラビア語に訳す活動を担っていたが、中心はやはりムスリムだった。当時のムスリムは異教徒の書物を読んだり訳したりすることに抵抗を感じなかったし、インドのような文明国であっても、偶像崇拝の多神教徒の国に留学することもあった。翻訳という知的作業ひとつとっても、イスラムの“没落”が知れよう。
その三に続く

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