ウォーク更家の散歩 (東海道を歩く、中山道を歩く)

「東海道五十三次を歩く・完全踏破の一人旅」
(http://www.minedayo.com/)

バスで行く「奥の細道」(その26) ( 「村上 2/2 」: 新潟県)

2018-12-09 11:08:08 | Weblog

(写真は、乙宝寺の三重塔)  

前回の「村上の町中散策」に続き、今回は「村上の寺社巡り」です。


村上の町中にある「浄念寺」へ向かいます。

「浄念寺」は、1667年に藩主となった「榊原氏」の菩提寺でした。


1689年、「曽良」が長島藩(三重県)時代の主君だった、村上藩の筆頭家老・榊原氏の墓参のために「浄念寺」を参拝しています。

榊原氏の後には、1716年に「間部詮房」(まなべ あきふさ)が藩主となりますが、4年後の1720年に病死しました。

「間部詮房」は、6代将軍家宣のときに側用人(そばようにん)となり、7代将軍家継のときは家継を補佐して政治の実権を握り権勢を欲しいままにしましたが、8代将軍吉宗になり失脚、ここ村上へ左遷されました。

間部家では、浄念寺を菩提寺として詮房を葬りました。


1818年、間部詮房の百回忌に合わせて、土蔵造りとしては日本で一番大きい上の写真の「本堂」が再建されました。(国の重要文化財)


村上の町中にある「浄念寺」を出て、郊外の「石船(いわふね)神社」へ向かいます。

石船神社は、岩船港を望む高台にあり、1,300年以上の歴史がある村上地域の総鎮守です。

代々、村上藩主の保護が厚く、港町岩船の産土神として、土地の人々の信仰を集めてきました。


境内には、2基の芭蕉句碑があります。

”文月や 六日も常の 夜には似ず”

 (七夕というものは、その前日の六日の夜でさえ、なんとなくワクワクして特別な夜に感じるよ。)


”花咲きて 七日鶴見る 麓(ふもと)かな”

 (桜の花が咲いて散るまでは七日だという。また鶴も降りた場所に七日間留まるという。この江戸の鈴木清風(芭蕉の門人)の屋敷に来てみると花と鶴とが見られてなんと素晴らしいことか。)



村上市の「石船神社」を出て、隣の胎内市(たいないし)の「乙宝寺」(おっぽうじ)へ向かいます。


聖武天皇は、仏教による鎮護国家の理念で、全国に国分寺・国分尼寺を建立しましたが、同じく、北陸一帯の安穏を願って建立されたのが「乙宝寺」(おっぽうじ)です。









1620年、村上城主により建立された上の写真の「三重塔」は、美しい純和様の建築で、国の重要文化財です。

また、乙宝寺の宝物殿には、何と!、お釈迦様の左目が納められているそうです。

後白河天皇から、この左目を納める金塔を賜ったので、これまでの「乙寺」という名称から「乙宝寺」に改称したそうです。
ちなみに、お釈迦様の右の目は、何と!、唐土(中国)の寺に納められているとのこと。

乙宝寺は、別名を「猿供養寺」といいますが、平安時代後期の「今昔物語集」には、”乙宝寺の猿の伝説”が出て来ます。

それによると、その昔、乙宝寺の裏山に住み着き、お経を聴きに寺の本堂にやって来る夫婦の猿がいました。

あるとき、2匹の猿は、木の皮を持ってきて、身ぶり手ぶりで写経をせがんだので、住職はそれに応じます。

その後、猿の夫婦は、冬になると姿を見せなくなりました。

心配した住職が、裏山に探しに行くと、2匹の猿は、雪の中で抱き合う様に死んでいました。

そして、その手には、木の皮の写経が握りしめられていました・・・

住職は、「猿塚」(猿の墓)を築き、その写経を寺宝としました。

上の写真が、乙宝寺の「猿塚」です。

この伝説には続きがあります。

2匹の猿が死んでから数十年後のある日、写経をしたいという夫婦が乙宝寺を訪ねて来ました。

ところが、写経は途中で進まなくなり、夫婦は住職に、「私達は、お経を聴きに来た猿の生まれ変わりです」と打ち明けました。

猿の夫婦が写経の途中で死んでしまったために、木の皮に写経されなかった残りのお経を住職が唱えると、人間となった猿は、全ての写経を無事に終えたそうです。

乙宝寺には、このときの木皮に書かれた写経が残されているそうです。

乙宝寺には、参道の両脇をはじめ、境内のあちこちに桜の木があります。

”うらやまし 浮世の北の 山桜”(芭蕉) 

(あなたの住んでいる金沢は静かな場所でうらやましい。私は今江戸にあってよろず浮世の問題に悩まされています。金沢の門人の句空に贈った句で、「浮世の北」は北国金沢の意。)






我々の奥の細道・バス旅行は、「村上」を出て、「新発田城」に立ち寄ってから、新潟駅から新幹線で東京に戻りました。

(新発田城については、(2018/7 新発田城)を見てね。)
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 バスで行く「奥の細道」(その25) ( 「村上 1/2 」: 新潟県)

2018-12-09 05:50:38 | Weblog

(写真は、「千年鮭 きっかわ」の天井から吊るされた「塩引き鮭」)  

前回の「念珠ケ関」に続き、今回は「村上」の町中散策です。


我々の「奥の細道」バス旅行は、山形県の念珠ケ関を出た後、更に、日本海の海岸沿いに、バスで1時間半の新潟県の村上市を目指します。

新潟県の最北部に位置する人口6万の「村上市」は、日本海に面し、江戸時代には村上藩の城下町として栄え、雰囲気のある武家屋敷などが残っています。

早速、バスを下りて、村上市内を散策します。












写真の「黒塀小路」(くろべいこうじ)は、村上の町人町の象徴でもあった黒塀です。







上の写真は、村上市内のメインストリートにある「千年鮭 きっかわ」です。

村上は、千年を越える鮭の街で、古くから独自の鮭食文化が発展しました。

村上の市街地の端を流れる三面川(みおもてがわ)は、今でも、鮭が遡上しています。

鮭は、江戸時代には、藩の重要な財源にもなっていたそうです。

「千年鮭 きっかわ」のお店の人の説明によると、粗塩を引き、1週間、塩蔵した塩引き鮭を、1年間の時間をかけて、天井から吊るしながら発酵させ、味を成熟させて造り上げます。
写真は、その「きっかわ」の中の天井から吊るされた「塩引き鮭」です。

塩引き鮭が、写真の奥の部屋まで、約1,000本も下がっている光景には、ホントに驚きました!


塩引き鮭のお土産・「鮭の酒びたし」(1,188円)を買いました。

塩引き鮭は、思ったより塩っぽくありませんでした。

帰宅してから、「鮭の酒びたし」を肴に日本酒を飲みましたが、酒の肴にピッタリです!

村上に行ったら必ず寄りたいスポットです。

先日、BS日テレ「三宅裕司のふるさと探訪・村上市の旅」で、三宅が「千年鮭 きっかわ」を訪れるシーンがありました。

その番組の中で、「きっかわ」のご主人が、塩引き鮭を食べられる近所の料理店「井筒屋」について、

「芭蕉は、旅籠「井筒屋」で2泊もしたのに、奥の細道には、村上の記述が1行も無く、おまけに芭蕉は夏バテで、一句も詠まなかった。」と怒っていました。

図説 地図とあらすじでわかる!おくのほそ道 (青春新書INTELLIGENCE 399)
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我々は、「千年鮭 きっかわ」の近くの「井筒屋」へ向かいます。


写真は、旅籠・久佐衛門跡に建つ「井筒屋」で、芭蕉と曾良が2泊しました。




現在、井筒屋は、各種の鮭料理が食べられる料理店兼宿屋になっています。

鮭の心臓、頬なども食べられる下の写真の鮭料理のフルコースが人気らしいです。
   
(井筒屋のチラシから)

当時、村上は、榊原氏の城下町で、曾良が、村上藩の筆頭家老である榊原帯刀(さかきばら たてわき)の父に仕えていたという特別の縁があり、帯刀の家老屋敷(現在の市役所)に挨拶に行っています。

曾良は、旅の当初から、村上藩の筆頭家老の榊原氏の墓参を目的の一つにしていたと推測されます。

それは、村上到着の翌日が、2年前に亡くなった曾良の主君の三男の榊原良兼の月命日で、どうも、月命日に会わせて村上を訪れたらしいからです。

この様に、村上に2泊したのは、曾良のためで、芭蕉は村上では出る幕がなかった様です。
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バスで行く「奥の細道」(その24) ( 「念珠ケ関」: 山形県)

2018-12-08 22:45:34 | Weblog

(写真は、念珠ケ関の関所跡)  

前回の「酒田」に続き、今回は「念珠ケ関(ねずがせき)」です。

我々の「奥の細道」バス旅行は、山形県の酒田市を出た後、バスで40分で、同じ県内の鶴岡市に着きました。

「藤沢周平」が愛した故郷の「鶴岡」の風景は、しばしば小説の舞台の「海坂藩」として登場します。


車窓から上の写真の鶴ヶ岡城跡を見物したあと、鶴岡の市街地を少しだけ散策します。

鶴岡の街は、写真の様に、少し寂れていますが、でもレトロな感じで雰囲気があります。


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上の写真は、荒れ果てていますが、鶴岡城下の庄内藩士「長山重行宅」跡で、芭蕉はここで3日間を過ごしました。

下の写真は、「内川乗船地」跡です。

鶴岡城下の長山重行宅を出た芭蕉は、近くの内川の船着場から、船で酒田に向かいました。

我々のバス旅行は、鶴岡市の郊外の温海(あつみ)町で、下の写真の塩俵岩(しおたわらいわ)の「芭蕉句碑」を見るために下車します。


 ”あつみ山や 吹浦(ふくうら)かけて 夕涼み”

 (折からの暑さに縁のある名の「あつみ山」が彼方に見え、暑気を吹き払うという名の「吹浦」も見渡され、この眺望を見渡しながらの夕涼みは気持ちのよいことよ。)


 (塩俵岩)




次に、我々のバス旅行は、同じ温海町の鼠ヶ関(ねずがせき)で下車して、上の写真の「念珠ヶ関(ねずがせき)」跡を見学します。

実は、ここ鶴岡市の温海(あつみ)町の鼠ヶ関には、関所跡が二ヶ所あります。

古代の関所址である「古代・鼠ヶ関(ねずがせき)」と、江戸時代に設置されていた上の写真の「近世・念珠ヶ関(ねずがせき)」です。

同じ「ねずがせき」と読みますが、古代と近世で字が異なり、また場所も少し離れていて違う場所です。

「古代・鼠ヶ関」は、平安時代には、白河関、勿来関(なこそのせき)と共に「奥羽三大関所」と呼ばれました。

もともとは、蝦夷(えみし)の侵入を防ぐための関でしたが、出羽国(山形県)と越後国(新潟県)との国境に位置していたので、東北地方への玄関口となりました。

1186年、兄の源頼朝に追われた源義経の一行は、奥州・平泉を目指して、京から琵琶湖を渡り、越前、越後と日本海を北上、ここ念珠ヶ関に着きました。

歌舞伎の名場面「勧進帳」の舞台となったのは、一般には、現在の石川県の安宅関(あたかのせき)とされています。

しかし、石川県の海岸線に安宅という地名はあるものの、平安~鎌倉期に、この安宅関が実際に在ったかどうかは疑わしいとされています。

逆に、ここ鼠ヶ関には、義経から伝えられた矢立て、扇、般若心経が残っているらしいです。

更に、ここには、関守の富樫左衛門と同じ富樫姓が多いことなどから、「勧進帳」の関所は、実はここ「念珠関」だと、地元の温海(あつみ)観光協会は主張しています。


上の写真は、ここ「念珠ケ関」跡が、「勧進帳」の「本家」だと主張する看板です・・・ 

「勧進帳」とは、寺院建立の資金集めの趣意を記した巻物で、山伏などが、民衆から寄付を集めるときに読み聞かせます。

義経の一行が、山伏姿で「安宅の関」にさしかかり、関を越えようとしたその時に、関守の富樫に見とめがられ、詮議が始まります。

弁慶は、白紙の巻き物を広げ、あたかも勧進帳であるかのように朗々と読み上げます。

しかし、顔が義経に似ていると食い下がる関守の富樫の前で、弁慶は、「義経に似ているお前が憎い!」と、主である義経を打ちすえます。

その弁慶の忠義の心に感じた富樫は、その嘘を見破りながらも、義経一行を通してやります。

現在の「念珠ヶ関番所跡」は、弁慶の勧進帳の時代のものではなく、江戸時代のもので、「近世・念珠ヶ関」と呼ばれ、明治5年に廃止されました。

そして、大正13年に、内務省が「史蹟・念珠関址」として指定史蹟に認定しました。

上の写真は、その内務省が認定した際の石碑で、正面には「史蹟念珠関址」、右側面には「内務省」、左側面には「昭和二年三月建設」と刻まれています。




我々は、次に、念珠ヶ関の近くの温海町の弁天島へ向かいます。

源義経は、舟で念珠ヶ関に着き、海に突き出したこの弁天島に上陸しました。



写真は、「源義経碑」(源義経の上陸記念碑)で、昭和41年のNHK大河「源義経」放映の際に、「源義経」の作者で直木賞作家の「村上元三」の揮毫により建てられたものです。








我々のバス旅行は、念珠ケ関跡・弁天島を出た後、日本海の海岸沿いに南下します。


やがて、山形県から、新潟県の村上市に入り、村上市の笹川集落の「笹川流れ」の絶景の海岸線に沿って進みます。





見事な景観を誇る延長11キロメートルの「笹川流れ」は、海水が日本屈指の透明度を誇る国の名勝天然記念物です。

海水浴、釣り、キャンプ、遊歩道散策はもちろん、遊覧船から、海岸にそびえ立つ雄大な造形美の岩を眺めることも出来ます。
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バスで行く「奥の細道」(その23) ( 「酒田」: 山形県酒田市)

2018-12-07 23:51:03 | Weblog

(写真は、酒田・山居倉庫の吉永小百合)  

前回の「象潟」に続き、今回は「酒田」です。


我々の「奥の細道」バス旅行は、秋田県の象潟町を出た後、バスで2時間余りで山形県の酒田市に入り、明治26年に建てられた「山居(さんきょ)倉庫」に向かいます。

酒田市は、かつて北前船による交易で栄え、また、米の積出港として賑わいました。

冒頭の写真は、JR東日本「大人の休日倶楽部」CM の「酒田・山居倉庫の吉永小百合」です。



「山居(さんきょ)倉庫」は、1983年に放送されたNHKドラマ「おしん」、2013年の映画「おしん」のロケ地として一躍有名になりました。


山居倉庫は、 美しい外観を兼ね備え、18万俵もの膨大な米を収納したという12棟の米保管倉庫で、米どころ「酒田」の繁栄を今に伝えています。

また、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した低温倉庫として、現在も現役の農業倉庫です。

更に、夏の高温防止と、冬の風雪から倉庫を守るために、背後に樹齢150年のケヤキ並木を配しています。

我々も、日本海からの強風と、夏の暑い日差しから倉庫を守るために植えられたというケヤキ並木の下を散策します。


上の写真は、建設当時から敷地内に鎮座しているという「三居稲荷神社」です。

倉庫の敷地内には、大量の米の輸送に活躍したといわれる「小鵜飼船(こうがいふね)」が復元して展示されています。

川幅の狭い場所や急流が多い最上川の水運に対応できるよう、スリムなボディをしています。


そして、倉庫群のすぐ前が、小鵜飼船が乗り入れる石畳の造りの船着き場になっています。






上の写真は、倉庫の1号棟を使って作られた「庄内米歴史資料館」で、館内では、「おしん」の人形が出迎えてくれます。



我々のバス旅行は、山居倉庫を出て、酒田市内を散策します。








上4枚の写真は、「本間家旧本邸」で、幕府の巡見使一行を迎える宿舎として、「本間家」が1768年に新築し、そのまま「庄内藩」に献上しました。
「庄内藩」と言えば、意外と知られていませんが、戊辰戦争では、新政府軍を相手に連戦連勝、負けなしの戦いを続けました。

しかし、”会津藩討伐の赦免”を目的に戦っていた「庄内藩」は、会津藩が先に降伏してしまったために、戦う意味がなくなり、負け知らずのまま降伏します。

新政府軍が出した降伏の条件は、城の明け渡し、家老の切腹、更に、福島・磐城平への転封(国替え)でした。
このとき、庄内藩に同情的だった西郷隆盛は、何と!、既に戊辰戦争で戦死していた家老への切腹を命じます!
う~ん、西郷の人柄を表す奇策ですね~。

更に、西郷の裏からの努力により、明治政府への70万両(現在の数百億円)の献金を条件に、新政府軍は転封を中止することを決定します。

しかし、庄内藩は、70万両のうち30万両しか工面出来ませんでした・・・
このとき、「本間家」が中心になって残りの40万両を工面、庄内藩は転封を免れました!

江戸時代には、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と言われましたが、上記は、正に、本間家と庄内藩藩主の力関係を表している逸話なのでしょうね。


本間家旧本邸を出て、酒田市内の散策を続けます。


上の写真は、酒田を代表する廻船問屋の「鐙屋(あぶみや)」で、井原西鶴の「日本永代蔵」にも紹介されました。(国の史跡)

屋敷は、石置杉皮葺屋根の典型的な町家造りとなっており、内部は通り庭(土間)に面して、十間余りの座敷、板の間が並んでいます。

また、鐙屋は酒田三十六人衆の筆頭格として町年寄役を勤め、町政に重要な役割を果たしました。

ん?、鐙屋の入口にも、おしんが立っています!


上の写真は、「不玉(ふぎょく)宅跡で、芭蕉が、酒田滞在中に9泊もした邸宅の跡です。

象潟から戻った芭蕉は、不玉宅で、不玉と句を詠み、芭蕉は、

”温海(あつみ)山や 吹浦(ふくうら)かけて 夕涼み”と発句を詠み、不玉は、

”みるかる礒(いそ)に たたむ帆莚(ほむしろ)”と、返句しています。

(折からの暑さに縁のある名の「あつみ山」が彼方に見え、暑気を吹き払うという名の「吹浦」も見渡され、この眺望を見渡しながらの夕涼みは気持ちのよいことよ。 芭蕉)

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我々のバス旅行は、酒田市内を抜けて、市の外れの「日和山公園」へ向かいます。



写真の「日和山公園」は、酒田港や最上川河口を一望できる小高い丘にある歴史公園です。

六角灯台や常夜灯等の文化遺産が点在し、酒田を訪れた文人の句碑が並ぶ文学の散歩道があります。


上の写真は、「河村瑞賢庫跡」で、酒田港より幕府直轄地(天領)の御城米を江戸に直送することを河村瑞賢に命じました。

庫跡は、上部から見ると”米”の字になってます。


上の銅像の瑞賢は、1672年、この日和山に堀や土壘を築いて御城米置場を完成させました。


上の写真は、「常夜灯」で、1813年、酒田に寄港する北国廻船の航海安全を祈願して建てられました。


上の写真は、「千石船(北前船)」で、庄内米を酒田港から江戸に回漕するために活躍した千石船を実物の二分の一に縮尺して再現したものです。


上の写真は、明治28年建てられた、木造灯台として残っている最古の「木造六角灯台」です。


写真は、「芭蕉像」と「芭蕉句碑」ですが、ここには、芭蕉などの多くの文人墨客が訪れており、その作品を29基の文学碑にして「文学の散歩道」として設置しています。

(温海山や 吹うらかけて ゆふ涼み 芭蕉)



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バスで行く「奥の細道」(その22) ( 「象潟(きさがた)」: 秋田県にかほ市)

2018-12-06 10:41:41 | Weblog

(写真は、象潟の田園風景の中に点在する、かつて湖の中の島だった小山)  

前回の「羽黒山」に続き、今回は「象潟(きさがた)」です。

我々の「奥の細道」バス旅行は、山形県の「羽黒山」を見学したあと、酒田市内のホテルに1泊、翌朝、秋田県の象潟町に到着しました。




JR象潟駅の駅前広場に、上の写真の「芭蕉文学碑」があり、芭蕉が象潟を訪れた際の様子が記載されていました。

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芭蕉と曾良は、「象潟(きさがた)」に到着すると、旅籠「能登屋」を訪ね、ここに宿泊しようとしました。

しかし、翌日が、象潟の「熊野神社」の例祭だったため、例祭見物の客で能登屋は満室でした。

そのため、近くの「向屋」(佐々木左衛門治郎邸)を宿所としました。


上の写真が、芭蕉が宿泊した「向屋」跡です。

翌朝、芭蕉と曾良は、象潟の「 蚶満寺(かんまんじ)」に参拝し、帰りに「熊野神社」の例祭を見学したのち、前日満室で宿泊出来なかった「能登屋」に宿泊します。


上の写真は、2泊目の 「能登屋(佐々木孫左衛門邸)」跡です。


写真は、芭蕉が例祭を見物したという、象潟町の外れにある「熊野神社」です。



上の写真は、芭蕉が、蚶満寺(かんまんじ)に参拝に向った際に、熊野神社の前の欄干橋の脇から舟に乗ったときの「船つなぎ石」です。


欄干橋の周辺は、江戸時代、象潟の九十九島を巡る舟が発着していた場所でした。


我々のバス旅行は、象潟の街中から、名勝「象潟(きさがた)」の風景を一望できる下の写真の「道の駅・ねむの丘」に向かいます。



道の駅の展望フロアの目の前には、日本海が広がり、その反対側には、鳥海山の裾野が広がります。

展望フロアの足元が、国指定天然記念物の「象潟」です。


芭蕉が、象潟を訪れた当時は、未だ、ここが、現在の様な陸地になる前でした。

当時は、潟湖の中に、九十九島と呼ばれる小島が点在し、仙台の松島と並び称される景勝地でした。


しかし、1804年、「象潟地震」による隆起で、ここ象潟は陸地となりました!
その後、かつて海だった部分は水田地帯となり、現在の様に、田んぼの中に、かつての島々が、小山として点在している風景になりました。

展望フロアのガラス越しですが、上から眺めると、田んぼの中に、島が点在するのが良くわかります。

芭蕉が訪れた頃は、田んぼの部分がかつては海で、景勝地を巡る舟が行き交っていたのでしょうね。


我々の「奥の細道」バス旅行は、「道の駅・ねむの丘」の前の羽越線の踏切を越えて、「蚶満寺(かんまんじ)」の参道を歩いて行きます。



参道の突き当たりに、 古色蒼然とした佇まいの蚶満寺の山門がありました。


芭蕉は、舟に乗って象潟の島々を見物したあと、舟を下り、舟着き場の前にあった「蚶満寺(かんまんじ)」を訪ねました。

853年創建の 蚶満寺は、芭蕉が訪れた当時は、象潟風景の鑑賞の地でもありました。


参道の脇には、上の写真の芭蕉像と句碑と、下の写真の真新しい「西施(せいし)の像」がありました。


”(象潟(きさがた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花”

 (雨にけぶる象潟は、雨に濡れるねむの花のような沈んだ哀感があり、ちょうど美女の西施が、憂いに眼を閉じているような風情だなあ。)

 西施は、中国の春秋時代、越王の勾践(こうせん)が、呉王の夫差(ふさ)に、復讐のための策謀として献上した美女で、胸を病み苦しげに眉をひそめる姿の美しさで有名です。

 「ねぶの花」は、ねむの葉が、夜や雨のときに閉じるところから、「ねぶの花」に「ねぶる(眠る)」をかけています。

「奥の細道」では、「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」(松島は、笑顔をたたえた様であるが、 象潟は、憂いに沈む美人の風情である。) とあり、

雨中のねむの花に西施のイメージを重ね、それが更に、雨に煙る象潟の全体風景になっています。


蚶満寺(かんまんじ)の左手には、一面の稲穂の中に象潟の島々が見えます。



蚶満寺の鐘楼の手前に上の写真の芭蕉の木があります。

   
上の写真は、蚶満寺の七不思議の一つの「木のぼり地蔵」で、地蔵を地上に降ろすと、翌朝にはまた木の上に登っているそうです。


上の写真の本堂の脇を潜り抜けて裏庭に出ると、下の写真の西行が詠んだ桜の木がありました。


芭蕉は、西行が詠んだ桜の老木を見て、蚶満寺(かんまんじ)の方丈に座り、簾を上げて風景を眺めています。

”きさかたの 桜は波に うずもれて  花の上漕ぐ 海士(あま)のつり舟” (西行)  


西行の歌碑の近くに、芭蕉が、蚶満寺に参拝のために舟から下りた「舟つなぎ石」と「芭蕉句碑」がありました。




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バスで行く「奥の細道」(その21) ( 「羽黒山」: 山形県 )

2018-12-05 10:44:46 | Weblog

(写真は、羽黒山の木立の中の「五重塔」)  


実家の熊本に10日間ほど法事のため帰省していましたので、この間、ブログをお休みしていました。

前回の「湯殿山」に続き、今回は「羽黒山」です。

江戸時代には、「過去=月山、現在=羽黒山、未来=湯殿山」の出羽三山を訪ねることが、過去、現在、未来を巡る「生まれ変わりの旅」になる、と信じられていました。



前回の「湯殿山」から1時間20分、我々の「奥の細道」バス旅行は、「羽黒山」バスターミナルに到着しました。


鳥居をくぐると、下の写真の「随神門」があります。
 

この随神門から、「羽黒山」(出羽三山神社)の神域に入ります。


随神門の石段を下りると、道の両側に小さい社が立ち並び、すぐに前方に、「祓川」(はらいがわ)に架かる「神橋」が見えてきます。






この祓川の清流は、月山に源流を発しており、昔、参拝者は、この清流で身を清めてから、羽黒山の山頂を目指しました。


神橋の上からは、小さな祓川神社と、その後ろに「須賀の滝」が見えます。

滝の水音が爽やかで、清々しい気持ちになります。

祓川を渡ると、500本以上あると言われる杉の古木の中に、ひときわ巨大な老杉の「爺杉」があります。

何と!、樹齢1千年!、胴囲が8メートルもある、羽黒山で最も古い天然記念物です。

以前は「婆(ばば)杉」もあったそうですが、暴風で失われたそうです・・・


爺杉の近くの木立の中に、写真の国宝「五重塔」が姿を現します。

東北地方で最古の塔といわれ、「平将門」の創建と伝えられています。
この五重塔は、高さが29メートルもあり、圧倒されるほどの五層の「柿葺(こけらぶき)」で、その大きさは日本最大です。
また、「素木造り」(しらきづくり)で、何も塗らず、釘も使っていません。

現在の塔は、 約600年前に再建されたものだそうです。


五重塔の塔の左手に、山頂まで徒歩50分もかかる全長1.7キロ、2,446段の長い~石段が続きます。
我々のバス旅行は、高齢者が多いので、2,446段の石段をパスして、バスで、いきなり山頂の「三神合祭殿」(国重文)へ向かいます。
山頂の「三神合祭殿」(さんじん ごうさいでん)は、”日本一の茅葺屋根”で、月山・羽黒山・湯殿山の三神を合祭した「三神合祭殿」があります。





写真の様に、厚さ2メートルという、日本最大級の茅葺屋根を持つ社殿の存在感に圧倒されます!



本殿は度重なる火災にあい、現在の社殿は1818年に再建したものです。


社殿の前の上の写真の「鏡池」は、羽黒神が姿を現す池として、池そのものがご神体と考えられ、古来より多くの信仰を集め、御手洗池(みたらしのいけ)とも呼ばれました。
古代から、人々は銅鏡に願いを託し、池に納めたそうです。
池の中からは、平安・鎌倉・江戸期に埋納された多くの銅鏡が出土しました。

従って、ここが羽黒信仰の中心だったと考えられ、「池の御霊(みたま)」とも呼ばれています。


三神合祭殿の石段を少し下りると、下の写真の「蜂子皇子(はちこのおうじ)」の墓がありました。

墓の黒扉には、菊の紋章がついていました。

出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)は、1,400年以上前に、蜂子皇子によって開かれました。


途中で、山伏姿の外国人の集団に遭遇しました!

サングラス姿の若い女性も混じっており、こんなに若いのに、異国の山奥で修行しているなんて偉いなあ~、と感心しました。

でも、あとで考えてみると、外国人観光客向けに山伏が案内する”1日修業ツアー”だったのかも知れません?




鏡池の前の道を、蜂子皇子の墓と反対の方向へ進むと、上の写真の末社が並んでおり、その先に下の写真の「芭蕉像」がありました。


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久富 哲雄
三省堂

芭蕉と曾良は、出羽三山の宿坊街である手向宿へ到着したのち、すっかり暗くなってから、羽黒山に登り、羽黒山の最高指導者である「会覚阿闍梨」と会いました。

そして、宿泊のため、更に、暗い夜道を、月明かりだけで参道を登り、羽黒山の中腹にある南谷別院(高陽院紫苑寺)へ向かいます。

その暗い夜道の参道で詠んだのが、

”涼しさや ほの三か月の 羽黒山”

( 出羽三山の羽黒山にかかる三日月の月明かりは、神聖で霊気が漂い、身が引き締まる思いだ。)






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バスで行く「奥の細道」(その20) ( 「湯殿山」: 山形県 )

2018-12-04 11:09:08 | Weblog

(写真は、湯殿山の参籠所と大鳥居)   

暫くお休みしていましたが、バスで行く「奥の細道」を再開します。

前回の宮城県の「登米(とめ)」に続き、今回は山形県の「湯殿山」(ゆどのさん)です。

前回ご説明しました様に、芭蕉は、前回の登米から、奥の細道のハイライトである平泉を目指しました。

しかし、我々のツアーは、平泉や立石寺などについては、メンバーの皆さんが複数回行ったことがあるということで、これらを飛ばして、新幹線で山形へ向かいました。






新幹線の山形駅で下りると、山形の市街地は、8月5~7日の山笠祭りの飾り付けの準備一色でした。







やたら漬本舗が経営する明治18年創業「香味庵まるはち」で昼食です。



趣のある蔵座敷で、漬物の寿司などの山形の郷土料理の会席膳を食べます。

土産に、写真の青唐辛子の香りと辛味、甘味噌の風味を加え漬けあげたピリ辛味の「山形やたら漬」を買いました。 

ごはん・お粥・雑炊やチャーハンにもぴったりです。

昼食を済ませた我々のバス旅行は、山形の市街地を抜け、健脚の芭蕉も苦労して歩いたという湯殿山、羽黒山、月山へ向かいます。


江戸時代には、”西の伊勢参り、東の奥参り”と、並び称され、庶民の信仰の中心でした。

”奥参り”とは、出羽三山の「生まれ変わりの旅」のことです。

「生まれ変わりの旅」とは、「過去=月山、現在=羽黒山、未来=湯殿山」の三山を訪ねることで、過去、現在、未来を巡ることになります。



山形の市街地から貸切バスで約1時間、「湯殿山」の湯殿山神社の参籠所駐車場に着きました。

写真の左は、食事および宿泊が可能な湯殿山の参籠所です。



上の写真の石碑には、「湯殿山本宮の東にある仙人沢は、即身仏となるための修行地である」旨が記されています。

「湯殿山(ゆどのさん)神社」は、山形県の庄内地方に広がる出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)のうちの、湯殿山の中腹にあります。

湯殿山神社は、月山の頂上から尾根づたいに西へ8キロ下りた地点にあり、また、月山から流れる梵字川(ぼんじがわ)の川沿いにあります。

出羽三山の総奥の院である「湯殿山」の神の世界に、人工の建造物を造ることは許されませんでした。
従って、湯殿山神社には、本殿も社殿もありません!




湯殿山神社へは、自家用車乗り入れ禁止のため、参籠所駐車場から、参詣用シャトルバスで湯殿山神社へ向かいます。





上の写真は、参拝バスの終点にある「湯殿山本宮」への上り口の石段で、石段の先にの巨石は「湯殿山本宮」の碑です。









この石段の途中の撮影禁止の立て看板から先は、神聖な場所なので、一切の撮影が禁止です。

古来、湯殿山については、「語る無かれ、聞く無かれ」との戒律が守られ、霊地を見た人は、絶対にその姿を他人に言ってはいけない。

見てない人は、絶対に他人から聞いてはいけない、と決められていました。

この様に、”聖地・湯殿山本宮”については、ブログへの本宮の写真や風景描写も不可ということで、最もブログ向きでない場所です・・・

湯殿山神社の本宮は、俗世と隔離された神域であるために、参拝の際には裸足になり、祓を受けなければなりません。

我々も、禊場(札所)で、靴を脱いで素足になり、身代わりの紙人形に禊をしてもらい、ようやく、湯殿山の御神体の脇を上って行きます・・・

実際に足を運べば、真近かでご神体を目にすることが出来ますが・・・

・・・・・・・(これ以降に見聞きしたことを、他人に話したり、ブログに書いてはならない・・・)

と言う訳で、実際に見たご神体について描写したいのですが・・・、無事に湯殿山本宮の参拝を終わり、参籠所駐車場へ戻って来ました。


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「奥の細道」によると、月山の頂上から尾根づたいに8キロも下りてきて、湯殿山を訪れた芭蕉は、

”語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな”の句を残しています。

(語ることを禁じられた神域のありがたさに涙がこぼれる。)

芭蕉も、他人に語る事が出来ない程の、有難い聖地を見る事が出来て、涙が出る位の感動を覚えた、と率直な感想を表現していると思われます。


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バスで行く「奥の細道」(その19) ( 「登米」: 宮城県 )

2018-12-03 08:46:39 | Weblog

(写真は、登米の町中の武家屋敷跡)   

前回の「日和山」に続き、今回は「登米(とめ)」です。

芭蕉は、ここ登米で1泊してかから、奥の細道のハイライトである平泉を目指しました。


写真は、登米の中心部の入口にある北上川の堤防に建つ「芭蕉 一宿(いっしゅく)」の跡の碑です。





我々のバス旅行も、登米市の中心部に入ります。


登米は、武家屋敷が残る雰囲気のある鄙びた小さな町並みです。







写真は、「教育資料館」(国重文)で、明治21年に建てられた洋風建築の校舎です。(旧 登米高等尋常小学校)



ギリシャ風の柱頭飾りの技法や、吹き抜け式の玄関、正面2階にバルコニーを配するなど、ヨーロッパの様々な様式を取り入れています。





上の写真は、和洋折衷建築の「水沢県庁記念館」で、明治5年に水沢県庁舎(注)として建てられ、その後小学校や裁判所として使われました。

特に玄関の切妻は量感溢れる重厚な構えです。

 (注)水沢県庁舎:明治2年に、現在の宮城県の北東部に「登米県」が設置され、ここ登米がその県庁所在地でした。

    その後、「登米県」は、明治5年に「水沢県」となり、水沢県の県庁所在地が、明治8年に登米から一関に移るまでの間、ここが水沢県庁舎として使用されました。

ちなみに、ここ「登米」は、正しくは、「登米(とめ)市」の「登米(とよま)町」です。
う~ん、ややこしい・・・

古来、「登米」の地名の読み方は「とよま」でした。
しかし、明治にここが「登米県」の県庁所在地になったときに、全国の人々が「登米県」を「とよまけん」と読めず大混乱となったため、仕方なく「とめけん」に変更したそうです。
そのため、当時からある小学校の読み方は、現在も「とよま町」の「とよま小学校」のままですが、官庁関連施設である警察署などは、「登米(とめ)警察署」などに変更されたそうです。



写真は、和洋折衷建築の「警察資料館」で、明治22年に建てられた旧登米警察署の庁舎です。

吹き抜けの玄関や2階のバルコニーなどがモダンな印象です。




写真は、上層武士の武家屋敷を整備した休憩所の「春蘭亭」で、落ち着いた庭園があり、囲炉裏端の喫茶コーナーでは抹茶も味わえます。













芭蕉は、ここ登米で1泊してかから、奥の細道のハイライトである平泉を目指しました。

しかし、この「バスで行く・奥の細道」をご愛読頂いている皆様には大変申し訳ないのですが・・・

実は、我々のツアーの15名全員が、これから行く平泉と立石寺は、複数回行ったことがある、ということで、メンバ-の希望で、奥の細道のハイライトである平泉と立石寺は
スキップすることになりました。

(私の平泉旅行については、2012/8の「白神山地と平泉金色堂」を見てね。)

と言う訳で、次回の「バスで行く・奥の細道」シリーズは、東京から新幹線で山形へ向かい、山形から、健脚の芭蕉も苦労して歩いたという湯殿山、羽黒山、月山へ向かいます。
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バスで行く「奥の細道」(その18) ( 「日和山」: 宮城県・石巻市 )

2018-12-02 10:41:35 | Weblog

(写真は、日和山から見下ろす、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた石巻市の港周辺)   

前回の「青葉城」に続き、今回は「日和山(ひよりやま)」です。


日和山公園は、宮城県の石巻市の南の端にある標高60mの小高い丘です。

2011年3月の東日本大震災では、多くの市民が、津波から逃れるために、ここ日和山の階段を駆け上がり避難しました。
そして、この高台から、町並みが大津波に飲み込まれる様子を呆然と眺めていました。
当時、ここ日和山公園から撮影した津波の様子が、TVで何度も流されました。
大震災のあとも、節目毎に、日和山公園から、復興の度合の報告や、震災についてのトーク番組が流れ、東日本大震災の象徴的な場所になりました。



我々のバス旅行は、この日和山への非常に急な坂道を上って行きます。

日和山は、元来は、船乗り達が、天候を予測するために利用した美しい丘でした。

日和山の眼下の石巻の港は、古くは、江戸へ送る米などの船積港として大いに栄えていました。

日和山公園の敷地内には、ここからの景色の美しさに心奪われた多くの文学者たちが残した句碑や歌碑があります。

齋藤茂吉や折口信夫(釈超空)等がここで詠んだ句の他に、新田次郎や、修学旅行で来た石川啄木や宮沢賢治がここで詠んだ句などの
多くの句碑が建っています。


日和山公園からは、南に太平洋、北東に北上川と石巻の街の中心部を展望出来て、復興の様子も手に取る様にわかります。




近年は、石巻市は、漁業の衰退や市街地のシャッター化が進んでいるため、地域興しとして、漫画による活性化を図っています。

下の写真の川の中州には、かつては造船所が立ち並んでいましたが、時代の波には勝てず、現在は、造船所跡地に、ドーム型の建物
「石ノ森漫画館」が建っています。


JRも、石巻市の漫画による活性化に協力しています。

(JR石巻駅)





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久富 哲雄
三省堂

日和山には、平泉に行く途中に石巻に立ち寄ったとされる「おくのおそ道紀行 三百年記念」の芭蕉と曽良の銅像があります。

この銅像の芭蕉の眼差しは、これから目指す平泉の方向に向けられているそうです。

台座には、「元禄二年(1689年)六月二十六日 芭蕉が曽良を伴って千石町 四兵衛宅に泊まる。」とあります。

曽良日記には、「湾には多くの船が行き交い、家々からは竈(かまど)の煙が立ち上り・・・」とあり、曽良は、
”この様な田舎に、こんなに繁栄している港があるとは!”と、当時の石巻の繁栄ぶりに感嘆しています。


日和山公園の山頂には、写真の鹿島御児神社があり、その境内に、芭蕉句碑がありました。

”雲折々 人を休める つきみかな”
(時々、月が雲に入ってくれるから、月見をしている人も、その月が見えない時だけは、一休み出来るなあ。)

この句碑は、松の根元に隠れるようにして建っていたので、見落としそうになりましたが、かなり古い感じで、碑面が削れていて読み取れません・・・
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バスで行く「奥の細道」(その17) ( 「青葉城(仙台城)」: 宮城県 )

2018-12-01 09:52:28 | Weblog

(写真は、青葉城の傍にある伊達政宗の霊廟・瑞鳳殿)   



私達のバスツアーは、松島から、「青葉城」(仙台城)へ引き返し、上の写真のお城の石垣沿いの本丸への急な坂道を上って行きます。

そして、青葉城の本丸の脇にある下の写真の本丸会館で遅めの昼食をとります。


「青葉城」は、仙台の城下町を見下ろす青葉山(標高約200メートル)の丘陵に、伊達政宗が築いた大規模な平山城です。

1601年、伊達政宗は、家康の許可を得て、仙台城の築城を開始しました。

(本丸に建つ有名な観光スポットの伊達政宗の銅像)

青葉城は、北と東に広瀬川の本流を、南に支流の谷口渓谷の深い断崖を、そして西には道もない山林が続く天然の要塞です。
本丸だけで、東西243メートル、南北265メートルという壮大なスケールの城です。

政宗は、広瀬川一帯に重臣屋敷を配し、芭蕉の辻を中心とする奥州街道沿いに町人町を発展させました。

(重臣屋敷の配置面)


上の写真は、本丸跡です。

以前に来た時には、この様に綺麗に整備されていなかったような気がします。


写真は、本丸からの仙台市内の眺めです。


(「奥の細道」の仙台市内の記述については、「バスで行く奥の細道・その10:宮城野」を見てね。)

戦前には、青葉城には、大手門、脇櫓、巽門などが残っていましたが、仙台空襲の際にすべて焼失してしまいました。

現在は、”江戸切”と呼ばれる「高石垣」等が残るのみで、残念ながら、石垣以外には見るべきものがほとんどありません。

なお、東日本大震災では、その石垣も崩れるなど被害を受けましたが、現在は、すでに修復されています。


本丸会館の隣の青葉城資料館を覗いてみると、青葉城のジオラマ模型があり、城の復元CGの映像を流していました。(700円)



昼食の後、バスツアーは、青葉城の近くの「瑞鳳殿」(ずいほうでん)へ向かいます。

「瑞鳳殿」は、1637年に造営された伊達政宗の霊廟です。



静かな風情の石段の奥にある霊廟は、桃山文化の特色が色濃く反映されています。







霊廟は、空襲で一度焼失したものの、1979年に再建されました。


再建に先立って行われた発掘調査では、墓室から伊達政宗の遺骨や甲冑などが見つかりました。

正宗は、70歳で病没したにも拘わらず、彼の頭髪が黒々として残っていたので、当時大きな話題になりました。
驚き!


(9代藩主の墓)


(殉死した家臣・陪臣の宝篋印塔)



瑞鳳殿を出たバスツアーは、次に、仙台市の北部にある「仙台東照宮」へ向かいます。







仙台東照宮は、青葉城から離れた仙台市の北部にあります。



仙台東照宮は、1654年、2代藩主・伊達忠宗が創建した徳川家康を祀る神社です。




1591年、徳川家康が、この地方の一揆を鎮圧して江戸へ帰る途中、正宗の案内で泊まったのがこの地だったので、ここに「仙台東照宮」が建てられたのだそうです。

当時は、諸大名が競って、徳川家康を祀る東照宮を勧請しており、このときのものが全国に508社もあるそうです。

芭蕉は、俳人・三千風の弟子の加右衛門の案内で、仙台市内の薬師堂、榴岡天満宮などの歌枕の地を見物したあとで、ここ「仙台東照宮」を訪れています。
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バスで行く「奥の細道」(その16) ( 「松島:雄島」: 宮城県 )

2018-11-30 09:49:17 | Weblog

(写真は、雄島にある芭蕉句碑と曾良句碑)   

前回の松島の湾内クルーズに続き、今回は松島の中の「雄島」(おじま)です。

「雄島」は、松島湾の海に突き出た形の島で、短い橋で島へ渡ります。

”奥州の高野山”と呼ばれていた「雄島」は、瑞巌寺とゆかりが深く、当時は、島全体が霊場となっており、僧侶や巡礼者たちの修行の場でした。

従って、現在でも、島の岩窟の至る所に、当時の修行僧らが刻んだ石塔婆や仏像が残っています。

また、古くから歌枕の地でもあったため、島内には、多くの歌碑が見られます。


奥の細道の旅ハンドブック
久富 哲雄
三省堂

「雄島」に着いた芭蕉は、瑞巌寺の中興の祖である「雲居(うんご)和尚」の庵の跡を興味深く見学します。
落穂や松笠などを燃やす煙が立ち昇る草庵(見仏堂)があり、松の木陰には、俗世間を捨てて住む人たちの姿も見えます。

心引かれて雄島を見学しているうちに、月が昇って海に美しく映え、芭蕉は、月島と一体となった様な不思議な境地を味わいます。

その夜、芭蕉は、昼夜、絶景を見続けたため、ありあまる感動で興奮して眠れない状態でした。



我々も、短い橋を渡って「雄島」を見物します。





島全体が僧侶や巡礼者たちの修行の場だった「雄島」は、上下の写真の様に、島の至る所に、当時の僧らが修行した岩窟が残っています。





上の写真は、1104年に「見仏(けんぶつ)上人」が庵を結び、12年間、法華経を読誦して過ごしたという「妙覚庵」の跡です。

この「見仏上人」は、雄島に住んだ僧の中で最も高徳の僧であると言われていました。


更に、島の南端へ進むと、上の写真の六角形の鞘堂の中に収められている「頼賢(らいけん)の碑」があります。

この「頼賢の碑」は、1285年から22年間もここ雄島に住み、一度も島を出なかったという僧「頼賢」の徳行を伝えるために作られました。

この「頼賢」は、当時、「見仏上人」の再来と騒がれた僧だそうです。
そして、この「頼賢の碑」は、”中世日本三古碑”の一つで、国の重文です

しかし、残念ながら、中が真っ暗な六角形の鞘堂に納まっているため、下の写真の様に、お堂の中の碑の文字は殆ど読めません。


島の東側には、下の写真の芭蕉と曾良の句碑があります。

向かって左が芭蕉句碑で、右が曾良句碑ですが、この曾良句碑は、1809年の曾良の100回忌に建立されたものだそうです。

”松島や 鶴に身をかれ ほととぎす”(曾良)

(ホトトギスよ、ここでは鶴がふさわしい風情なのだから、鶴に身を変えておくれ。)

”朝よさを 誰まつしまぞ 片心”(芭蕉)

(朝も夜も、松島への思いが心に浮かんでならない。それは、私を待つ人が誰かその島にいて、私のことを思っているからであろうか。「待つ」と「松島」を掛けています。)

芭蕉句碑の側面には、「勢州桑名雲裡房門人 延享四年十月十一日建立」と刻まれています。


更に進むと、上の写真の瑞巌寺の中興の祖「雲居(うんご)禅師」の別室の跡である「座禅堂」があります。



「座禅堂」は、1638年に、雲居禅師の隠棲所として建てられたお堂で、ここからは松島湾に点在する島々を見晴らすことが出来ます。



我々のツアーバスは、次に、松島の海岸沿いの道を外れ、東北本線を超えて西へ向かい、「西行戻しの松」を目指します。




下の写真の「西行戻しの松」は、西行法師が諸国行脚の折り、松の大木の下で出会った童子と禅問答をして敗れ、松島行きを諦めたという伝説の地です。

う~ん、ここでも西行は、禅問答で子供に負けたの?。

「西行戻りの松」は高台にあるため松島の景観が望めます。

 

上の写真の陸続きに見える一番右の島が雄島です。



(三省堂:「奥の細道の旅ハンドブック」から)
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バスで行く「奥の細道」(その15) ( 「松島:湾内クルーズ」: 宮城県 )

2018-11-29 11:27:08 | Weblog

(写真は、松島湾内クルーズの船窓から)   

前回の「瑞巌寺」に続き、今回は「松島」です。


”松島や ああ松島や 松島や”

よく耳にするこの句は、実は、芭蕉の句ではありません!

この句は、芭蕉よりずっと後の江戸時代・後期の狂歌師・田原坊が詠んだものです。

一般的には、松島が言葉で表現できないほど美しかったので、芭蕉は、松島では句を詠まなかったと言われています。
ところが、実は、土芳(とほう)の「蕉翁文集」によると、”嶋々や 千々にくだけて 夏の海”という句を、芭蕉が松島で詠んでいるのです。

しかし、何故か、「奥の細道」には、この句は載せられていません。

芭蕉は、この句に満足できなかったのでしょうか?

なお、松島では、曾良が一句詠んでいます。

”松島や 鶴に身をかれ ほととぎす”

(ホトトギスよ、ここでは鶴がふさわしい風情なのだから、鶴に身を変えておくれ。)
   
芭蕉は、「奥の細道」の序章の「旅支度」で、”松島の月 先ず心にかかりて”と、何をおいても、真っ先に、松島が気にかかると書いている様に、
松島は、奥の細道の最大の目的地のひとつでした。

「奥の細道」によると、芭蕉は、塩釜から松島へ舟で渡ったとあります。

「松島は、扶桑(ふそう)第一の好風にして、凡(およそ)洞庭(どうてい)・西湖を恥ず。」(奥の細道)

(松島は、扶桑第一(=日本一)の風景であり、中国の名勝地の洞庭湖や西湖と比べても恥ずかしくない。)

松島を目の前にした芭蕉は、その美しさに、心を奪われて絶賛しています。



我々のバス旅行も、芭蕉と同じ様に、塩釜港から、瑞巌寺の近くの五大堂の脇の桟橋までの40分の松島湾内クルーズに乗船します。





芭蕉が海から見たのと同じであろう、松島の波や風に浸食された島々の景色を見ながら進みます。



松島湾には、大小様々な島が浮かび、小島に茂る松の緑、むき出しになった白い岩肌など、自然の作り上げた景勝が続きます。















左手に五大堂が見えてくると、40分の船旅は終わりです。


松島湾内クルーズを終えた我々は、桟橋の脇の「五大堂」に立ち寄ります。

松島のシンボル的な存在である「五大堂」は、海に突き出すように、朱色の橋でつながれた小さな島に建っています。

「五大堂」は、807年、坂上田村麻呂が東征の際に毘沙門天を建立し、その後、慈覚大師・円仁が五大明王を安置したことから「五大堂」と呼ばれる様になりました。

現在のお堂は、伊達政宗が、1604年に造営したもので、東北地方に現存する最古の桃山建築です。

なお、五大堂のお堂の中の秘仏・五大明王の御開帳は33年に一回で、前回の御開帳が平成18年だったので、次回は平成51年だそうです・・・

五大堂の4面には、方角に従って透かし彫りの十二支の彫刻が施されています。



五大堂からの松島の景観です。 





五大堂の入口付近に土産物屋があり、ここで下の写真の「奥の細道」のハンカチを買いました。

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バスで行く「奥の細道」(その14) ( 「松島:瑞巌寺」: 宮城県 )

2018-11-28 10:38:11 | Weblog

(写真は、瑞巌寺の庫裡)   

前回の「塩釜神社」に続き、今回は「瑞巌寺」です。

松島~の サァヨー~  瑞厳寺ほどの~ 寺もない とエー~

あれはエー~  エイトソーリャ~   大漁だエー~

(ここの村は 松島の瑞厳寺ほどの 立派な寺もない小さな村だけど 今日も魚がいっぱい獲れたよ。)

この歌は、松島湾一帯に伝わる民謡で、カツオ漁の大漁祝い唄として歌われた「斎太郎節(さいたらぶし)」です。


「瑞巖寺(ずいがんじ)」は、鎌倉時代に、法身(ほっしん:真壁平四郎)禅師が、臨済宗円福寺として開山しましたが、その後、
伊達政宗が、現在に残る大伽藍を完成させて、伊達家の菩提寺としました。



我々のバス旅行は、松島の五大堂の近くの観光桟橋の前でバスを下りて「瑞巖寺」へ向います。


瑞巖寺の総門をくくると、厳粛な雰囲気の杉の巨木がそびえる参道が続きます。





参道の奥には、上の写真の仏像の彫刻で埋められた洞窟遺跡群と西国三十三観音が並んでいます。




中門を通り、本堂(方丈)に入ると、下の写真の絢爛豪華な障壁画が見られます。(撮影禁止のため境内展示のパネル写真から)

この障壁画は、1622年、狩野派・長谷川派の有数の絵師によって、211面にわたって画かれたものです。

芭蕉は、この障壁画を60~70年後に見て、「奥の細道」の中で、”七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝し、佛土成就の大伽藍とはなれりける。"と、絶賛しています。

(七つの堂の建物が立派に改築され、金色の壁や仏前の飾りが光り輝き、仏の住む世界をこの世に実現する大寺院となったのである。)

当時の障壁画は、360年の歳月を経て劣化が著しくなったため、昭和60年から10年間にわたり、保存修理と模写作業が行われました。

そして、実物は宝物館に収蔵されたため、現在、我々が見学出来るのは、芭蕉が当時見たのと同じ色彩に復元模写された襖絵です。


(鷹の間:境内展示のパネル写真から)


本堂には、藩主が出入した上の写真中央の御成玄関(国宝)があります。

御成玄関には、左甚五郎の作といわれる欄間彫刻があります。(撮影禁止)


上下の写真は、「庫裡(くり)」と呼ばれる禅宗寺院の台所ですが、このため大屋根の上に更に煙り出しが乗っています。



(中門)

1609年に完成した下の写真の本堂は、熊野から運ばれた檜・杉・欅で、京都の大工衆が腕を競ったそうです。

(本堂:瑞巖寺のパンフレットから)


(上段の間:境内展示のパネル写真から)


(室中孔雀の間:境内展示のパネル写真から)



瑞巖寺の隣の下の写真の円通院は、19才の若さで亡くなった伊達政宗の孫の光宗を祀ったという寺です。



(赤丸印が瑞巖寺)
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バスで行く「奥の細道」(その13) ( 「塩釜神社」: 宮城県 )

2018-11-27 23:22:09 | Weblog

(写真は、最期まで義経を守って処刑された藤原忠衡が寄進した灯篭)   

前回の「末の松山」に続き、今回は「塩釜神社」です。


そもそも、芭蕉の「奥の細道」の目的には、本来の”末の松山”などの「枕詞」(まくらことば)の地をたどって行くこと以外に、
もう一つの目的がありました。

それは、兄・頼朝から追討された弟・義経の逃亡の足跡をたどることでした。

「奥の細道」の根底に流れるのは”無常観”で、義経の一生はまさに栄枯盛衰そのもの、それが芭蕉に世の無常を感じさせたためでした。

そして、ここ「塩釜神社」に芭蕉が立ち寄ったのは、最期まで義経を守って処刑された藤原忠衡を弔うためでした。


「塩釜(鹽竈)神社」は、塩釜市の北西部のこんもりとした森にあり、、古くから「陸奥国・一の宮」として、東北地方を鎮護してきました。

1607年、伊達政宗は、紀州の大工を招き、塩釜神社の大道営を行いました。

更に、現在の社殿は、四代藩主・綱村が、1695年に着工してから、9年の歳月をかけて造られたものです。

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芭蕉は、早朝、清々しい雰囲気の塩釜神社に参詣します。

神殿の前には、金属製の扉の表面に「文治三年 和泉三郎 寄進」と刻まれた古い鉄燈がありました。

刻まれている文治三年は、源義経が、兄頼朝から逃れて、平泉に下った年です。

刻まれている寄進者の「和泉三郎」(いずみのさぶろう)とは、平泉の藤原秀衡(ふじわら ひでひら)の三男の忠衡のことですが、
処刑される2年前に、この灯篭を寄進しています。

兄・頼朝から追討された弟・義経は、最後は藤原秀衡を頼って平泉に逃亡しました。

しかし、義経を庇護していた藤原秀衡が亡くなると、奥州藤原氏は、これを境に一気に勢いを失い、四代・泰衡は、頼朝の命に屈して、
義経を討つこととなります。

そんな中、忠衡の三男の忠衡(和泉三郎)は、父の遺言に従って、最後まで、義経を守って戦います。

そして、最後は、義経に味方したかどで、23歳の若さで処刑されました。


芭蕉が塩釜神社を訪れたときは、奥州藤原氏の時代からは五百年が経っていましたが、芭蕉は、泉三郎の生き様を称えて、奥の細道に
以下の様に書いています。

「神前に 古き宝燈有。

かねの戸びらの面に 文治三年 和泉三郎寄進 と有。

五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。」

奥の細道の全体の構成の中で、芭蕉のこの塩釜神社参詣は、既にみた「医王寺:義経を救った佐藤兄弟の妻たち」と共に、これから向う
「平泉」の章の伏線となっているのです。



我々のパック旅行のバスも、塩釜神社に到着しました。





急な石段を上って行くと、威厳のある二階造りの建物が見えてきます。

これが楼門で、桃山風の華麗な建築様式です。




楼門をくぐると、上の写真の唐門があり、その奥に、下の写真の別宮、左宮・右宮の拝殿があります。







境内には、前述の奥州・藤原三代・秀衡の三男の泉三郎が、文治3年(1187年)に寄進した上の写真の「文治の燈篭」があります。


また、写真の鉄製の灯篭には、かねの戸扉が装着され、「三日月」の形にくり貫いた右の扉に「奉寄進」の刻印が見られ、
「日」の形に貫かれた左の扉に「文治三年七月十日 和泉三郎忠衡 敬白」の文字が見られます。
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バスで行く「奥の細道」(その12) ( 「末の松山」: 宮城県 )

2018-11-26 05:44:18 | Weblog

(写真は、”連理”の形の松がそびえる「末の松山」)   

前回の「多賀城・壺の碑(つぼのいしぶみ)」に続き、今回は「末の松山」です。

”契りきな  かたみに袖を しぼりつつ 末の松山  波越さじとは” (百人一首: 清原元輔 )

(約束しましたよね。涙を流しながら。末の松山が、決して波を被ることが無い様に、二人の愛も変わらないと。)

男女の変わらぬ愛を誓う上の歌では、この「末の松山」がある場所には絶対に波が来ない、ことを前提に、絶対に心変わりしない「永遠の愛」を
「末の松山」に例えています。
そして、何と!、この歌の作者の清原元輔は、あの「枕草子」の清少納言の父です。

”末の松山 波越さじ”は、歌枕として、百人一首のみならず、西行法師や藤原定家らの多くの歌人に詠まれてきました。

そして面白いのは、この歌の”末の松山 波越さじ”は、869年の東北地方を襲った貞観地震の事実に基づいている事です!
つまり、あの千年に一度と言われる貞観地震の大津波のときですら、海岸線にあるここ末の松山には津波が来なかったのです。

(そして、今回の東日本大震災でも、驚いたことに、海岸線に近いにも拘わらず、現在の末の松山があるところには津波が来ていません。)


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多賀城跡で壺碑と対面した芭蕉は、その足で、末の松山を訪ねています。

芭蕉は「契り」の歌枕の地に足を踏み入れ、「末の松山」の松の間に、墓が点在する風景を見て、

「羽をかはし 枝をつらぬる 契(ちぎ)りの末も、終(つい)には かくのごときと、悲しさも増(まさ)りて」

(歌枕「末の松山」の変わらぬ男女の契りも、結局は、眼前に見る様な、墓の下に帰してしまう空しいものだ。)

と、末の松山で無常(むじょう)を感じた様子を、奥の細道に記載しています。

芭蕉は、上の文章で、男女間の深い契りの例えとして、伝説の鳥の「比翼の鳥」(”羽をかはし”)と、
「連理の枝」(”枝を連ぬる”)を引用しています。


そして、芭蕉は、末の松山のすぐ近くの「興井(おきのい)」を訪ねます。

「興井」は、末の松山の南に位置し、直径20メートルほどの池の中に岩(沖の石)が露出しています。

”わが袖は しほひ(潮干)に見えぬ おきの石の 人こそしらね かわくまぞなき” ( 千載和歌集: 二条院讃岐 )

上記の二条院讃岐の歌は、恋に涙するわが身を、乾くことがない海の中の石に例えています。

歌中の「おきの石」(沖の石)は、”しほひ(潮干)に見えぬ”からも分かるように、潮が引いても姿を見せない
(我々が見ることが出来ない)”海底の石”であって、目に見える特定の石を詠んだものではありません。

にも拘らず、江戸初期、領内の歌枕の名所の整備を行っていた仙台藩が、歌中の普通名詞である「沖の石」を、強引に、
ここ興井の石だとして、固有名詞にしてしまったのだそうです。

出た~!、またまた、仙台藩の強引な町興しが・・・

4代藩主・伊達綱村の時に、歌枕「沖の石」として当地に定着させてしまい、更に、ここに、代々「奥の井守」(おくのいもり)なる職を置いて、
この景観の保護のための手厚い体制をとったそうです。

う~ん!、伊達綱村の「歌枕の保護」への熱い想いは、半端ないって!、ですねえ~・・・!




我々のパック旅行のバスも、末の松山に到着しました。



「末の松山」(すえのまつやま)は、住宅街の中の「末松山・宝国寺(ほうこくじ)」の本堂の裏手の、墓地に隣接した小さな丘の入口にありました。



写真の様に、推定樹齢480年、樹高19メートルの連理の枝の形の大きな松がそびえていました。

そして、この松が、前述の様に、領内の名所整備を行っていた仙台藩が「末の松山」だと定めたものです。



「末の松山」から、住宅街の中の道路を渡り、南へ少し坂を下ると、そこに写真の「沖の石」が現われました。



民家の間に、突然、海の磯が出現した様な風景です。



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