ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

東武日光線「SL大樹」 と 鬼怒川温泉 (栃木県日光市) 2019.8.2

2019-08-17 06:07:20 | Weblog

(写真は、SL大樹)

 

前回ご紹介した東武ワールドスクエアの見物を終えて、一駅だけですが、SLで東武ワールドスクエア駅から、今晩の宿がある鬼怒川温泉駅へ向かいます。

東武ワールドスクエア駅(16:36)→ SL大樹5号 →  鬼怒川温泉駅(16:42)

「SL大樹」は、乗車券以外に座席指定750円 (乗車区間内一律料金)が必要です。

東武ワールドスクエア駅に「SL大樹」が入って来ました。

私は小学生の頃、将来なりたい職業は、蒸気機関車の運転手でした。

学校が終わると、毎日、近くの駅に蒸気機関車を見に行きました。

動力機関が丸出しになっており、躍動感に溢れています。

僅か8分の乗車で、鬼怒川温泉駅に着きました。

(鬼怒川温泉駅の連絡通路からSL大樹を見下ろす)

(鬼怒川温泉駅の外観)

上の写真の駅前の人だかりは、「日光さる軍団」の猿回しです。

SL大樹用の転車台は、鬼怒川温泉駅前の広場にありました。

なるほどね、「SL大樹」を下りたら、直ぐに駅前の広場で、方向転換する「SL大樹」を見物出来るという仕掛けです。

考えましたね~!

SL大樹Cは、ゆっくりと転車台へ近付き一旦停止し、それからゆっくりと転車台の中へ進みます。

それから、ぐるりと時計回りに半周回転すると転車終了です。

 

駅前の広場には、足湯があったので入ってみます。 

 

今晩の宿の「きぬ川ホテル三日月」は、駅前の広場から見えており、徒歩2~3分でホテルに到着です。(1泊2食付き13,000円) 

ホテル隣の建物が「全天候型ガーデンスパ三日月」のプールになっています。

チェックインすると、着替えて早速プールへ行きました。

プールは、結構広く、流れるプールやジャグジーが、上のホテルのパンフレットの様に1つにまとまっています。

久し振りに泳いだら、足がつってしまって・・・、早々に切り上げます・・・

(浴槽の入り口の温泉大回廊:ホテルのパンフレットから)

館内の温泉は、上のパンフレットの写真の様に、24メートルものもある細長い浴槽で、鬼怒川の渓谷美を一望出来ます。

他にも3つの露天風呂の他、様々なさまざまな種類の入浴が楽しめます。

また、館内の上の写真のパネルの様に、田中貴金属製作の1億円での「黄金風呂」もありますが、一人ずつしか入れません。

取り敢えず入ってみましたが、それがどうした、という感じでした・・・

部屋は渓谷側に面した和洋室で、V字型の渓谷を流れる清流の鬼怒川の絶景でした。

食事は、上のパンフレットの写真の様に、レストランでのバイキングでした。

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東武ワールドスクエア (栃木県日光市)  2019.8.2

2019-08-10 05:54:16 | Weblog

 

(写真はマンハッタンの高層ビル)

先週(8/2)、久し振りで「東武ワールドスクエア」を訪れました。

   

(浅草駅)

東武・浅草駅(9:00) →(特急・リバティ会津) → 東武ワールドスクエア駅(11:05)

   

(東武ワールドスクエア駅)

東武ワールドスクエアには、世界の102の建造物が、25分の1のサイズの縮尺で展示されており、手軽に世界一周旅行の気分が味わえるスポットです。

私は、ここを訪れるのは3回目ですが、何回来ても新たな発見があり楽しいです。

先ず、最初に来たときは、建造物のミニチュアの精巧なクオリティに驚きました。

また、建造物のみならず、その周辺の風景もミニチュアの中に作り込まれています。

従って、いつも正面からの写真しか見たことがない建物も、裏側の様子や、上からの構造など、どの様な雰囲気の中に建っているのか、よく理解出来ます。

そして、今回驚いたのは、建物の周辺のミニチュアの植木です。

本物そっくりに再現された建物もさることながら、それらの周りに植えられた約2万本の木々は本物なのです!

つまり、ここは、2万本の”ミニ盆栽”の展示場でもあるのです!

しかも、園内の本物の木々は、建造物によって、松、桜、梅、紅葉、銀杏、豆柿などの異なる”ミニ盆栽”です。

また、園内には、14万点もの個性豊かな身長7センチの人形が、至る所に配置されていています!

その14万点もの人形の中に隠れている色々なキャラクターを探すのも楽しみです。

(以下の写真では、赤丸印で表示した部分の拡大写真に写っている人形が隠れたキャラクターですのでお楽しみに!)

そして、今回、初めて、上の写真の「プレイカード」を使用してみました。(1,000円)

橋を開閉させる等、カードを使って幾つかの建築物が動かせます。

入口です。(2,600円)

猛暑の炎天下、半日かけて園内を一回りしました。

園内は各ゾーンに分かれており、それぞれの地域の有名建築物が集まって展示されています。

先ずは「現代日本ゾーン」です。

(国会議事堂)

      

(東京駅)

大勢の人も細かく作り込まれて、電車も動いており、ジオラマとしては最高の出来です。

(東京ドーム)

(迎賓館)

(東京スカイツリー)

多分、東武グループの威信をかけて製作したのでしょう、巨大なタワーが綿密に造り込まれています。

(東京タワー)

(成田空港)

(とある港)

続いて「アメリカゾーン」です。

    

(エンパイアステートビルとクライスラービル)

上の写真の赤丸印は、マンハッタンの銀行強盗かと思ったら、映画の撮影みたいでした。

私が実際にエンパイアステートを訪れたときは冬で、このビルの展望台では雪が降っていましたが、エレベーターで降りると下は雨でした。

  

マンハッタンのショーウインドウの中は、マリリン・モンローのマネキンです。

    

(ホワイトハウス)

トランプ大統領と家族です。

次は「エジプトゾーン」です。

   

(スフィンクスとピラミッド)

(アブ・シンベル大神殿)

次は「ヨーロッパゾーン」です。

(コロッセオ:イタリア)

(パルテノン神殿:ギリシャ)

ギリシャでは、アテネに3泊しましたが、パルテノン神殿が、アテネの街のど真ん中だったので驚いたのを思い出します。

(サン・ピエトロ大聖堂:バチカン)

ローマには5泊しましたが、バチカンでは、システィーナ礼拝堂の「最後の審判」を半日眺めていました。

(ノイシュバンシュタイン城:ドイツ)

フッセンという町にあるこのお城は、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったというだけあって、可愛いお城でした。

ドイツでは、ミュンヘンでレンタカーを借り、ここフッセンで1泊、更にローテンブルクで1泊してから、フランクフルト空港でレンタカーを返却、帰国しました。

(エッフェル塔:フランス)

(ヴェルサイユ宮殿:フランス)

この建物の中の豪華さに気を取られて、宮殿の庭がこんなに広かった記憶がありません。

    

(モンマルトの丘:フランス)

(凱旋門:フランス)

   

(英国国会議事堂:イギリス)

(タワーブリッジ:イギリス)

この橋の袂のパブで飲んだ常温のエールビールの美味さが忘れられません。

   

(ウエストミンスター寺院:イギリス)

(サグラダ・ファミリア:スペイン)

(アルハンブラ宮殿:スペイン)

続いては「アジアゾーン」です。

(アンコール・ワット:カンボジア)

(タージ・マハル:インド)

      

(故宮:中国)

映画「ラストエンペラー」の撮影シーンが再現されていました。

   

(万里の長城:中国)

(台北101)

私が訪れたときには、このビルは未だ建っていませんでした。

最後は「日本ゾーン」です。

(平等院鳳凰堂:京都)

(厳島神社)

   

(熊本城) 

(姫路城)

      

(日本の伝統的な田園風景)

   

「東武ワールドスクエア」ではこの他にもローマの休日のワンシーン、寅さんのバナナの叩き売り等も隠れていたようです。

皆さんも、東武ワールドスクウェアに行けば、世界一周旅行した気分になれると思いますよ。

 

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バスで行く「奥の細道」(その42) 丸岡城(福井県) 2019.6.11

2019-08-04 23:45:31 | Weblog

 ( 丸岡城の天守)

我々の「奥の細道」バス旅行は、宿泊地の山中温泉を出発して、芭蕉が宿泊した全昌寺などに立ち寄りながら、丸岡城へ向かいました。

芭蕉も、丸岡の城下町を抜けて福井へ向かいました。

 

上の写真の「日本一短い手紙の館」の駐車場でバスを下りて、駐車場の斜め前の「丸岡城」へ向かいます。

「日本一短い手紙の館」は、信長と家康の連合軍が武田を破った長篠の戦いの陣中から、家康の家臣の本多重次が妻にあてた手紙を題材に建てられた観光施設です。

”一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ” (日本一短い手紙)   

武士らしく余計な事には触れず、留守中には火事に気を付け、 「お仙」(仙千代という彼の子供)の面倒をよくみて、馬などの貴重品を大切にしろ、という意味です。

簡潔明瞭に用件を伝える短い文ですが、その中にも、家族を気遣う優しさが伺えます。 

ちなみに、「お仙」(仙千代)は、のちの丸岡藩・初代藩主の本多成重の幼名です。

 

「丸岡城」は、戦国時代の1576年、一向一揆への備えとして、織田信長の命により、柴田勝家が甥の柴田勝豊に築かせ、城下町を整備させました。

柴田勝豊の後、城主は、安井氏、青山氏を経て、1613年に本多成重(お仙)に代わりました。

しかし、4代目の本多重益は、酒に溺れ無能だったうえに、家臣団内部の内紛まで発生したため、幕命により領地没収(改易処分)となりました。

1695年、本多氏に代わり有馬氏が、越後の糸魚川から5万石で入城し、その後、幕末まで8代続きました。

 

丸岡城の天守は、姫路城や松本城などと共に「現存12の天守」のうちの一つですが、この現存天守の中では最古だそうです。(国重要文化財)

丸岡城の「天守閣」の外観は二層、内部は三層の「望楼型天守」です。(450円)

 

天守へと上る中の階段は、階段というよりも”縄梯子”と言った感じのほぼ垂直の階段で、必死で補助のロープを掴みながら、ようやく3階の天守まで上りました・・・

天守からは、丸岡の町が一望できます。

上の写真の赤丸印の小学校のグランドの辺りが「二の丸御殿」跡です。

天守の屋根は珍しい「石瓦」で葺かれており、石の瓦の天守は全国でここだけだそうです。

これは、北陸は雪が多くて寒いため、普通の土の瓦では割れてしまうからだそうです。

天守の石垣は、上の写真の様に、”野づら積み”という古い方式で、隙間が多く、粗雑な印象ながら、排水がよく大雨に崩れる心配がないといわれています。

福井震災で落下した「石製の鯱(しゃちほこ)」は、現在は、上の写真の様に、天守閣登り口の階段脇に展示されています。

 

丸岡城の周辺は、築城400年を記念して造られた公園で、園内の上の写真の「歴史民俗資料館」には、歴代城主ゆかりの品が展示されています。

 

 

 

丸岡城を出てから、名古屋駅から新幹線で東京へ帰りました。

名古屋(17:39) → のぞみ → (19:20)東京

 

ps. ご参考までに、これまでにご紹介した城を下記に書き出してみましたので、城に興味のある方はクリックしてみてださい。

なお下記の城名で、(100)とある城は「日本100名城」で、(200)とある城は「続日本100名城」です。

 2019/3の川越城(100)(埼玉県)、2018/11の小峰城(白河城)(100)(福島県)、2018/9の吉野ケ里(100)(佐賀県)
2018/12の韮山城(静岡県)、2018/9の熊本城(100)(西南戦争)、2018/9の佐賀城(100)
2018/10の八代城(200)(熊本県)、2018/7の新発田城(新潟県)、2018/3の船岡城(宮城県)
2017/11の白石城(100)(宮城県)、2017/11の二本松城(100)(福島県)、2018/8の松代城(100)(長野県)
2018/8の上田城(100)(長野県)、2018/3の仙台城、2018/3の多賀城(100)(宮城県)
2018/3の佐敷城(熊本県)、2018/10の一夜城(小田原市)、2018/5の小田原城
2018/5の小田原城・北条五代祭り、2017/11の大田原城(栃木県)、2017/12の箕輪城(群馬県)
2017/10の喜連川城(栃木県)、2017/10の勝山城 (栃木県)、2017/9忍城(200)(埼玉県)
2017/8の沼田城(200)(群馬県)、2017/8の名胡桃城(200)(群馬県)、2017/8の小机城(200)(横浜市)
2017/4の熊本城(100)(被災後)、2017/4の館山城(千葉県)、2017/1の宇都宮城
2017/1の徳次郎城(栃木県)、2016/12の金山城(100)(群馬県)、2016/11の小山城(栃木県)
2016/11の古河城(茨城県)、2016/9の今治城(100)(愛媛県)、2016/4の彦根城(100)
2016/4の福江城(200)、2016/4の熊本城(100)(被災前)、2015/10の岐阜城(100)
2015/10の犬山城(100)(岐阜県)、2014/7の小倉城(200)、2014/6の福岡城(100)
2015/5の苗木城(200)(岐阜県) 、2014/4の島原城(100)、2012/3の水口城(滋賀県)
2012/02の亀山城、2012/1の桑名城、2011/12の吉田城(200)(愛知県)
2011/11の 浜松城(200)、2011/11の掛川城(100)

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バスで行く「奥の細道」(その41)「山中温泉」(石川県) 2019.6.12 

2019-07-29 11:15:04 | Weblog

( 写真は、「鶴仙渓(かくせんけい)」)

今回は、前回の山中温泉の続きです。

昨晩は、「ロイヤルホテル山中温泉」に宿泊し、ゆったりと温泉に浸かり、早朝、もう一度浸かって温泉を満喫しました。

(露天風呂:ホテルのパンフレットから)

朝食を済ませ、徒歩で、ホテルの前にあるS字型のデザインの「あやとり橋」を渡り、渓谷沿いの「鶴仙溪」(かくせんけい)を散策します。

「鶴仙渓」は、大聖寺川の中流にあり、砂岩の浸食によって数多くの奇岩が見られる景勝地です。

この渓谷は、山中温泉の中心街に並行しており、渓谷沿いに約1キロの散策路があります。

芭蕉は、この鶴仙溪からの風景の美しさに、「行脚の楽しみここにあり」と喜んだそうです。

渓谷沿いには、写真の「鶴仙渓川床」が営業していますが、未だ準備中でした。

鶴仙渓川床は、川のせせらぎを聞きながら、風情ある川床セット(加賀棒茶とスイーツ:600円)を楽しめるそうです。

下の写真は「道明ケ淵」で、その昔、この深い淵に、龍が住み里人を困らせていましたが、道明という僧が、これを退治したそうです。   

上の写真は「芭蕉堂」で、明治43年、全国の芭蕉を慕う俳人によって建てられたそうです。

 

 

 

我々のバス旅行は、山中温泉を出て、石川県加賀市大聖寺町の「全昌寺」(ぜんしょうじ)へ向かいます。

全昌寺は、芭蕉が、山中温泉で宿泊した温泉宿「泉屋」の菩提寺です。

そして、芭蕉は、泉屋に宿泊中に、泉屋の若主人の久米之助(くめのすけ)に俳句の手ほどきをしましたが、ここの住職は、その久米之助の伯父でした。

 境内には、下の写真の様に、芭蕉塚と曽良の句碑が並んで建っています。

”終宵(よもすがら) 秋風聞くや うらの山” (曽良)

(別れた師を想い、寝ないで、一晩中、裏山に吹く秋風を聞いている。)

”庭掃きて 出ばや寺に 散る柳” (芭蕉)

(一夜の宿のお礼に、せめて、この柳の葉を掃き清めてから出立したい。)

境内にある上の写真の左側の柳が、その何代目かの柳です。

ここ全昌寺は、1867年に完成した写真の「五百羅漢」が有名です。

山中温泉で芭蕉と別れた曽良は、この寺に宿泊し、その翌日、一日違いで芭蕉が宿泊しました。

芭蕉が宿泊した部屋は、近年新しく修理されたものの、上の写真の様に、当時の姿そのままで残っていて見学出来ます。

 

我々のバス旅行は、全昌寺を出て、石川県と福井県の県境にある北潟湖(きたがたこ)の畔の「吉崎御坊」(よしざきごぼう)へ向かいます。

吉崎御坊は、1471年、比叡山延暦寺の迫害を受けて京から逃れた本願寺の「蓮如」が、浄土真宗の北陸における布教拠点として建立しました。

上の写真は、現在の吉崎御坊です。

上の写真は、かっては、北潟湖の畔の小高い丘の上にあったという「吉崎御坊跡」に建つ「蓮如上人」銅像です。

(吉崎御坊跡から北潟湖を見下ろす)

 

我々のバス旅行は、吉崎御坊を出て、福井県の北部に位置する坂井市の「天龍寺」へ向かいます。

芭蕉は、天龍寺の大夢和尚を訪ね、寺に宿泊しました。

金沢から芭蕉に随行して来た北枝(ほくし)は、いよいよここで別れます。

“物書きて 扇(おおぎ)引きさく 余波哉(なごりかな)”(芭蕉)

(秋になり、夏の間に使用した扇に、何か書き付けて引き裂いて捨てようと思ったが、名残惜しくて出来ない。⇒北枝との別れが名残惜しくて出来ないの意。)

 

 

 

 

 

 

 

天龍寺の庭には、別れを惜しむ北枝と芭蕉の姿を表した上の写真の「余波の碑」や、芭蕉の句が刻まれた下の写真の記念碑、芭蕉塚が建てられています。

天龍寺は、江戸時代初期に、松岡藩主松平昌勝が祖母の菩提寺として建立したお寺です。

歴代藩主、側室の墓所があるほか、松尾芭蕉が奥の細道の道中に立ち寄ったことでも有名です。

天龍寺を出てから、途中で丸岡城に立ち寄ってから、名古屋駅から新幹線で東京へ帰りました。

名古屋(17:39) → のぞみ → (19:20)東京

 

上の絵は、「加賀四湯」の全体図です。

(赤丸印=山中温泉、黒丸印=片山津温泉、緑丸印=山代温泉、青丸印=あわづ温泉)

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バスで行く「奥の細道」(その40) 「曽良との別れ」(山中温泉:石川県) 2019.6.11

2019-07-22 19:49:05 | Weblog

( 写真は、「芭蕉と曽良との別れ」)

加賀の国(石川県)では、「金沢」を発った「芭蕉」は、「山中温泉」へと向かい、何と!、この温泉に8日間の長きわたって滞在しました。

芭蕉は、奥の細道の中では、いくつかの温泉地に宿泊していますが、これほど長く滞在した温泉は「山中温泉」だけです。

そして、山中温泉は、長らく奥の細道を共に旅をしてきた「曾良との別れの地」でもあります。

実は、曾良は、越中(富山県)から金沢(石川県)に入るあたりから、体調不良で医者にかかっており、健康を害していました。

曾良は、几帳面で責任感の強い性格だったので、師である芭蕉の同行者として、何かと気を使い、そこから生じたストレスで腹痛となり苦しんでいた、と言われています。

ここ山中温泉に、8日間も浸かって静養するも、回復せず、このままでは、師匠である芭蕉の足手まといになると考えます。

幸いなことに、金沢からは、芭蕉の弟子の「北枝」(ほくし)が新たに随行していることもあって、曾良は、山中温泉で芭蕉と別れ、伊勢長島の親戚をたよって一人で旅立ちます。

 

我々のバス旅行は、山中温泉の守護寺である「医王寺」に到着しました。

山中温泉で、芭蕉と曾良が、最初に訪れたのが「医王寺」です。

医王寺は、下の写真の様に、温泉街を見下ろす高台に建っており、薬師如来が祀ってあります。

医王寺の宝物館には、松尾芭蕉が山中を訪れた際に忘れていった「芭蕉の忘れ杖」が収められているそうです。

境内には、下の写真の芭蕉句碑がありました。

”山中や 菊はたおらぬ 湯の匂” (芭蕉)

(山中温泉は、延命長寿の効果のある湯の香が満ち満ちている。あの謡曲「菊滋童」(注)の様に、菊を折ってその葉の露を飲む必要はない。)

(注)「菊滋童」(きくじどう):中国の周の王に仕えた童で、不老不死の薬である菊の葉の露を飲んで700歳まで生きた。

 

我々のバス旅行は、医王寺を出て、山中温泉の中心街を散策します。

「山中温泉」は、奈良時代に行基が発見したとされる名湯です。

芭蕉は、山中の湯を、有馬・草津と並ぶ「扶桑(ふそう:日本のこと)の三名湯」と称えました。

 

上の写真は、共同浴場「菊の湯(女湯)」(写真の左側の建物)に併設されている「山中座」で、山中節の唄や、芸妓の踊りなどの山中伝統の芸能演芸をやっているそうです。

上の写真は、共同浴場「菊の湯(男湯)」です。

山中温泉の総湯「菊の湯」の名称は、医王寺の芭蕉句碑でご紹介した”山中や 菊はたおらぬ 湯の匂” の句に由来しています。

芭蕉は、この「菊の湯」近くの老舗の温泉宿「泉屋」に宿泊しました。

写真は、「泉屋跡」の石碑です。

「泉屋」の主人の「久米之助」(くめのすけ)は、まだ14歳の若者でした。

芭蕉は、彼に俳句の手ほどきをして、更に、”桃の木の 其葉ちらすな 秋の風”(注)の1句を添えて、彼に「桃妖」(とうよう)の俳号を与えました。

  (注)句意:これから俳諧の道を歩もうとする若々しい桃妖よ、どうかその素晴らしい才能を伸ばしておくれ。桃の木は、久米之助(桃妖)を指しています。

この「泉屋跡」の近くに、上の写真の「芭蕉の館」があります。(200円)

入口には、芭蕉と曾良の別れの場面を再現した上の写真の石像と、そのときに詠んだ下の写真の二人の句碑がありました。

二人はこれまでの旅を振り返りながら、それぞれの思いを句に託しています。

”行行(ゆきゆき)て たふれ伏すとも 萩の原” (曾良)

 (病身のまま旅立ち、このまま行けるところまで行って倒れたとしても本望だ。出来ることなら萩の咲く野原で死にたいものだ。)

”今日よりや 書付消さん 笠の露”  (芭蕉)

(今日からは一人の心細い旅となる。笠の「同行二人」の文字を、笠に降りた露で消すことにしよう。)

ここ「芭蕉の館」には、芭蕉の奥の細道に関連する資料が展示されており、芭蕉が滞在した「泉屋」の隣の「扇屋」(泉屋の主人の桃妖の妻の実家)を修復した部屋もあります。

 

 

我々のバス旅行は、今晩の宿、ここ山中温泉の中心にある渓谷沿いの「ロイヤルホテル山中温泉」へ向かいます。 

 

 

 

 (「芭蕉の館」の展示資料から)

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バスで行く「奥の細道」(その39) 那谷寺(石川県) 2019.6.11 

2019-07-18 08:09:19 | Weblog

( 写真は、「那谷寺」の「奇岩遊仙境」)

加賀の国(石川県)では、「金沢」を発った「芭蕉」は、「小松」で「実盛の兜」を拝観して、「山中温泉」へと向かいます。

 芭蕉は、「山中温泉」に向かう途中で、ここ「那谷寺」(なたでら)に立ち寄りました。

平安時代、花山(かざん)天皇が、西国33ヶ所巡礼のあと、観世音菩薩をこの寺に安置されました。

花山天皇は、西国33ヶ所の観音霊場の全てがここにあると感じられました。

そこで、西国33ヶ所の1番・那智山の「那」と、33番・谷汲山(たにぐみさん)の「谷」を取って、この寺の名称を「那谷寺」(なたでら)と改名されたそうです。

 

我々のバス旅行も、今晩の宿泊地の「山中温泉」へ向かう途中で、ここ「那谷寺」に立ち寄りました。

境内には、本堂を始め、三重塔、鐘楼など、国重要文化財が点在します。

(御柱鳥居)

(金堂華王殿)

(大悲閣・本殿)

(三重塔)

(護摩堂)

       

(恋愛成就スポットの庚申(こうしん)さん)

(楓月橋(ふうげつきょう))

芭蕉句碑が建っています。

芭蕉は、寺の境内の”一枚岩の奇岩”を中心とした自然溢れる絶景に感嘆し、句を詠みました。

           

 ”石山の 石より白し 秋の風”

 (那谷寺の境内には、たくさんの白石があるが、それより白く感じる、白風とも呼ばれる秋の風が吹いているよ。)

 

 

写真は、芭蕉も句に詠んだ、奇岩に取り囲まれた那谷寺の境内の「奇岩遊仙境」です。

地上20メートルの写真の「展望台」からは、一枚岩の奇岩の「奇岩遊仙境」の那谷寺の境内の全体が見渡せます。

自然と一体になったような広い境内は、木々に囲まれ四季折々の風景を楽しめ、特に紅葉の時期は観光客で賑わうそうです。

 

 

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バスで行く「奥の細道」(その38) 「弁慶の勧進帳」(安宅の関:石川県) 2019.6.11

2019-07-11 19:30:30 | Weblog

( 写真は、「勧進帳」を読み上げる「弁慶像」)

前々回の「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」、前回の「実盛の兜」に続いて、今回は「安宅の関」(あたかのせき)です。

「源義経」は、平家討伐に大功績をあげたにも関わらず、兄の「源頼朝」に追われる身となります。

頼朝の追手から逃げるために、「武蔵坊弁慶」らと共に、山伏の一行に姿を変えて、奥州へ落ちのびて行きます。

その逃避行の道中の最大の難所が「安宅の関所」でした。

実は、「安宅の関所」は「箱根の関所」の様な”恒常的な関所”ではなくて、義経を捕らえるためだけに”臨時に設けられた関所”だったそうです。

えぇ~?、臨時の関所だったの!

知らなかったなあ~!

現代風に言えば、指名手配犯の義経を逮捕するために緊急手配をして、逃走したと思われる北陸方面に非常線を張り、臨時の検問所を各地に設けて、厳重な職務質問をした、ということなのでしょうね。

義経一行は、いきなり現れた想定外の関所に驚き、うろたえます!

安宅の関は、富樫泰家(とがし やすいえ)が関守を務めていました。

義経一行は、富樫に見とがめられ、詮議の問答が始まりました。

弁慶は、我々は、東大寺再建の寄付を募る山伏の一行だと説明します。

不審に思った富樫は、「東大寺の勧進の山伏の一行なら、勧進帳を持っているいるはず」と迫ります。

すると、弁慶は、白紙の巻物を、あたかも本物の「勧進帳」(注)であるかの様に、朗々と読み上げます!

 (注)勧進帳:寺院の建立などに要する資金の寄付募集の趣意を巻物などに記載したもので、民衆から寄付を集める際に、僧や山伏が読み聞かせます。

富樫は、弁慶のその朗々と読み上げる態度に、いったんは通行を許しますが、強力(ごうりき)に変装した義経を、顔が義経に似ている、と見とがめます。

弁慶は、とっさの機転で、「お前のために疑われた。義経に似ているお前が憎い!」と、金剛杖で義経を打ち据えます。

富樫は、義経の顔を見て本人だと確信しつつも、弁慶の忠義に心を打たれ、一行を通過させます。

 

我々のバス旅行は、先ず、安宅海岸の「安宅の関」の前にある「安宅住吉神社」へ向かいます。

この神社は、巫女さんの説明によると、全国唯一の「難関校突破」の神社として有名なのだそうです。

義経一行が最難関の安宅の関を無事に突破したからだそうです。

(安宅住吉神社の難関校突破の受験のお守り)

明治初期に神社に奉納された絵には、安宅海岸を訪れた弁慶が、遊んでいる子供達に「安宅の関」以外の抜け道を教えてもらおうとしている様子が描かれています。(撮影禁止)

巫女さんの説明によると、弁慶が持っていた扇を子供達にあげようとしたところ、子供達9人に対して、扇が8本しかなかったために、子供達に逃げられてしまったた、とあります。

仕方なく、義経一行は、「安宅の関」の強行突破を決意します。

社殿の前には、勧進帳を読み上げる「弁慶像」が建っています。

安宅の関を通過してから、義経一行は、お蔭で難関の関所を突破出来たと、「安宅住吉神社」に感謝の祈りを捧げたそうです。

(安宅住吉神社のパンフレットから)

安宅住吉神社の前が「安宅海岸」で、目の前には日本海が広がっています。

日本海側に広がる静かな松林の中に、「安宅の関跡公園」があります。

公園内には、写真の「富樫、弁慶、義経の像」が立っています。

(富樫)

(弁慶)

(義経)

 

 

我々のバス旅行は、「安宅の関」を出て、北陸鉄道の野々市工大前駅の駅前にある「富樫館跡」へ向かいます。

(金沢駅からだとバスで約20分)

富樫氏は、18代にわたって加賀国(石川県)の守護職を務めた名門です。

上の写真の「富樫館跡」の石碑の辺りが、かっては、加賀国(石川県)の中心地だったそうです。

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バスで行く「奥の細道」(その37) 「実盛の兜」(多太神社:石川県) 2019.6.11

2019-07-03 11:01:13 | Weblog

( 写真は、”むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす”の本物の「実盛の兜」)

 

既にご紹介した「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」に続いて、今回は、同じ「平家物語」で描かれた「実盛の兜」です。

火牛の計で有名な「倶利伽羅峠の戦い」で平家の大軍を破った「木曽義仲」は、そのまま敗走する平家軍を追撃して加賀国(石川県)に入ります。

そして、「篠原の戦い」(現在の石川県加賀市)で、再び平家軍と戦い、一気にこれを打ち破ります。

その時、敗れた平家軍の本隊を逃がすべく、ただ一騎だけ、義仲の軍勢の前に立ちはだかった平家の武将がいました。

義仲軍の「手塚光盛」が先ず名乗りを上げ、”名乗らせたまへ”と促しますが、その平家の武将は自らを名乗ろうとしませんでした。

二人は、一騎打ちとなり、その平家の武将は、「手塚光盛」に首を討たれてしまいます。

何と!、この首を討った「手塚光盛」は、マンガ「鉄腕アトム」の作者「手塚治虫」の先祖なのです!

驚き!!

「手塚治虫」の代表作「火の鳥」では、時を超え、「手塚治虫」自身が「手塚光盛」に生まれ変わり登場しています。

知らなかったなあ~!!

生前、手塚治虫は自分の祖先について語ることはほとんどありませんでしたが、心の中では、強く意識していたんですね~!

さて、話を戻して、「手塚光盛」は、「義仲」に、この不思議な武者を討ち取ったことを報告します。

「義仲」は、その首を見て、幼いころに自分の命を救ってくれた恩人の「斎藤実盛」ではなかろうか、と直感します。

しかし、もしこれがホントに実盛の首ならば、既に歳をとって白髪になっているはずだが、と半信半疑です。

そこで、「実盛」とは親友だった「樋口兼光」を呼んで首実検を行わせます。

「樋口兼光」は、黒く染められた白髪頭を一目見て実盛と分かり、「あな、むざんやな! 」と叫びます!

義仲が、その首を付近の池で洗わせたところ、みるみる白髪に変わりました。

戦場で老武者とあなどられるのを嫌った実盛は、髪を黒く染めて若々しく戦おうとしたのです。

かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせびました・・・

義仲は、近くの「多太神社」に、「実盛の兜」をそのまま奉納しました。

(漫画「火の鳥」の「乱世偏」から)

 

それから500年が経ち、芭蕉は、この「多太神社」を訪れ、「実盛の兜」を拝観します。

樋口兼光の「あな むざんやな」の故事を思い起こした芭蕉は、弔いの一句を詠みます。

”あなむざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす”

(この兜を見ていると、命を救った義仲を敵とすることになった実盛と、恩人を討たねばならなくなった義仲、二人の悲運をいたましく思わずにはいられない。兜の下でコオロギもむせび泣いていることよ。

この様に、芭蕉は、樋口兼光の「あな むざんやな」の故事を引用して句を詠んだのですが、後に、字余りの”あな”の二文字を削除しています。

従って、この多太神社の境内にある芭蕉句碑は、後に訂正された「むざんやな・・・」ではなくて、訂正前の「あなむざん・・・」で彫られています。

また、この芭蕉の句が、横溝正史の「獄門島」の3つの重要な俳句の一つとして用いられているのはご存知の通りです。

 

 

我々のバス旅行も、「実盛の兜」が奉納されている「多太(ただ)神社」へ向かいます。

(実盛の像)

案内の方に、多太神社の宝物館の鍵を開けていただき、「実盛の兜」についての丁寧な説明を聞きます。

説明のあとで、宝物館の奥の壁の遮光カーテンを開けて頂き、いよいよ本物の「実盛の兜」を拝観します。

(本物のみ撮影禁止)

ドキドキします!

冒頭の兜の写真は、多太神社のパンフレットの「実盛の兜」です。

一度修復作業が施されているので、それ程古びていない感じです。

上の写真は、芭蕉が見た修復前の古びた兜を写生した古文書です。

従って、厳密に言えば、我々が見ている修復後の兜は、芭蕉が見た兜とは少し異なる、ということになります。

上の写真は、展示されているレプリカの「実盛の兜」で、下の写真は、ここで購入した兜の絵ハガキですがブログ掲載OKだそうです。

中央には八幡大菩薩の文字が浮き彫りにされています。

その後、展示物のひとつひとつを丁寧に解説して頂きました。

 

 

我々のバス旅行は、多太神社を出て、「篠原古戦場跡」にある「実盛塚」へ向かいます。

「実盛塚」は、実盛を供養するために亡骸を葬ったところです。

「篠原古戦場跡」の「実盛塚」の近くに「首洗池」があります。

 「首洗池」は、「篠原の合戦」で討ち取られた「実盛」の首を洗った池です。

池の辺りに、写真の像がありました。

実盛の首を抱いて涙する「木曽義仲」、実盛を討ち取った手塚治虫の先祖の「手塚光盛」、そして「あな、むざんやな! 」と絶句する「樋口兼光」の3人の像です。

実盛は、当初、源義朝に仕えていましたが、平治の乱で義朝が失脚した後は、自らの所領の関係で、平宗盛に仕えています。

当初、義仲の父の源義賢が源義朝に殺された時、実盛は、主君の義朝から、2歳の義仲を殺すようにと命じられますが、命令に背いてこっそりと木曽の中原兼遠に預けました。

つまり、幼少の義仲が殺されずにすんだのは、実盛の温情によるものでした。

実盛と名乗りさえすれば命は助かったのでしょうが、かつて助けた義仲の情にすがることなく、名乗らずに武士としての誇りを全うしました。

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バスで行く「奥の細道」(その36) 金沢城 (日本100名城) 2019.6.11

2019-06-29 10:49:48 | Weblog

( 写真は、金沢城の五十間長屋)

 

もともと、この地には、加賀の「一向一揆」の拠点だった「御山御坊」(おやま ごぼう)という浄土真宗の寺院がありました。

1580年、この「御山御坊」は、「織田信長」によって攻め落とされ、信長から加賀一国を拝領した「佐久間盛政」によって築城されたのが「金沢城」のはじまりです。

その後、佐久間盛政は、「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で「豊臣秀吉」に破れ、金沢城は「前田利家」の所領となりました。

「前田利家」は、キリシタン大名として有名な「高山右近」に金沢城の縄張りをさせて、金沢城を大改築しています。

金沢城には天守閣が設けられていましたが、1602年、落雷によって焼失し、その後再建されることはありませんでした。

天守閣に代わって三階櫓が建てられました。

 

我々の「バスで行く・奥の細道」ツアーは、初日、金沢駅からバスで先ず「兼六園」へ向かい、園内の茶屋で昼食、その後は、兼六園内の1時間の自由散策時間になりました。

私は、一昨年に見学した兼六園の散策はパスして、兼六園の前にある金沢城を、集合時刻に間に合う様に、駆け足で散策して来ました。

(一昨年の「兼六園散策」については、左をクリックしてね。)

 

 

「石川門」

上の写真の様に、石川門の表門の部材に張った筋鉄が見所です。

石川門の石垣は、下の写真の様に、様式の異なる石垣が特徴です。

写真の左側が、表面を叩いて軽く整えて隙間に小石を詰めた「打込み接ぎ」で、右側が、積む前にキチンと整形してびっちりと積み上げた隙間の無い「切込み接ぎ」です。

石垣の上は、上の写真の白壁と「鉛の瓦」です。

「鉛の瓦」は、戦時には鉄砲の弾になるそうです。

石川郡の方向を向いていたので石川門という名称になったそうです。

 

上の写真は、右から「菱櫓」、「五十間長屋」、「橋爪門続櫓」です。

 

「菱櫓」(ひしやぐら)

2001年に木造で復元された「菱櫓」は、高さ11.7メートルの石垣の上に、3重3階の櫓が建っています。

床の一部がガラス張りになっており、建物内部の隠れた部分の構造が分かる様に工夫されています。

上の写真は、「石落とし」で、石垣を登ってくる敵を迎撃する為の設備です。

これを外側から見ると、下の写真の様に、「菱櫓」の銅板張の「唐破風出窓」になっています。

 

「三の丸広場」

上の写真の「三の丸広場」の奥に「五十間長屋」が見えます。

 

「五十間長屋」(ごじっけんながや)

五十間長屋は、右側の「菱櫓」と左側の「橋爪門続櫓」(はしづめもん つづき やぐら)を結んでいます。

2001年に木造で復元された建物で、武器などを保管する倉庫として使われていました。

中に入って見学することができます。

これだけたくさんの木で作られているのに、釘やボルトは1本も使われていないそうです!

 

「橋爪門続櫓」(はしづめもん つづき やぐら)

二の丸の正門である「橋爪門」と、その橋爪門を見下ろす位置にあるのが写真の「橋詰門続櫓」です。

橋詰門続櫓は、菱櫓と同様に、3重3階の構造です。

菱櫓、五十間長屋と同様、2001年に木造で復元されました。

橋爪門続櫓も中の見学が出来ます。

 

「三十間長屋」

極楽橋を渡って、三十間長屋へ向かいます。

三十間長屋は、幅3間、長さ26.5間の2階建ての櫓(やぐら)です。

石川門と同様に、海鼠壁(なまこかべ)です。

当時のまま現存する遺構は、石川門とこの三十間長屋です。

 

 

上の地図の様に、兼六園の前が金沢城の石川門です。

 

上の写真の赤丸印は、右から「菱櫓」、「五十間長屋」、「橋爪門続櫓」、その手前の広場が「三の丸跡」です。

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バスで行く「奥の細道」(その35-2) 金沢 (石川県) 2019.6.11

2019-06-25 09:03:40 | Weblog


( 写真は、夜の金沢の武家屋敷)


我々の「バスで行く・奥の細道」ツアーは、芭蕉関連の金沢市内の史跡を巡り、金沢市街地の中心を流れる浅野川沿いの主計町茶屋街の見学を終わりました。

次に、主計町茶屋街の脇の浅野川大橋を渡り、向こう岸の「ひがし茶屋街」へ向かいます。



私は、一昨年の金沢観光の際に「ひがし茶屋街」に立ち寄っているので今回で2度目です。

(一昨年のひがし茶屋街見物については、2017/9の(金沢・ひがし茶屋街)を見てね。)




この日は異常に暑かったので、前回に入った「箔一」(はくいち)に再びに入り、前回と同じ金沢名物「金箔ソフトクリーム」を食べました。(890円)

前回食べた「金箔ソフトクリーム」との違いは、令和のウェアハウスが付いているだけで、あとは同じものでした。

食べ終わると、同じ旅行のメンバーに、「口のまわりに金箔がたくさん付いていますよ。」と注意されました。

「ひがし茶屋街」での1時間程度の自由時間を終わり、いったん、今晩の宿の「ANAホリデイイン金沢」にチェッインします。


チェッインを終わると直ぐに、ホテルの前の”金沢市民の台所”と言われている「近江町市場」を見に出かけました。

未だ5時半くらいだったのですが、半分以上のお店が既にシャッターを下していました・・・

やはり、築地場外市場と同じ様に、朝が早いので店が閉まるのも早いのでしょうか。


夕食は、金沢の市街地の全景を、グルリと眺めることが出来る展望食堂です。

その金沢の市街地の小高い丘の上に、金沢城が手に取る様に見えます。

やがて、食事中に日没となりましたが、食堂から日本海に沈む夕日を眺めることが出来ました


写真は上手く撮れていませんが、日本海に直接沈む夕日に感動です!


夕食後に、タクシーで「長町 武家屋敷跡」へ向かいます。



土塀と石畳の路地があり、趣のある通りになっています。

金沢で最も藩政時代の面影を最もとどめている場所です。



ただ武家屋敷界隈は、現在も子孫の方がそのまま住まわれているので、見学の際はその配慮が必要です。


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バスで行く「奥の細道」(その35-1) 金沢 (石川県) 2019.6.11  

2019-06-20 11:35:52 | Weblog

( 写真は、「主計町茶屋街」)


芭蕉と曾良は、夏の終わりに金沢に入りました。

金沢には10日間滞在し、地元の俳人達と交流を重ねました。

また、金沢には、一笑(本名:小杉味頼)という俳人がおり、芭蕉と一笑は互いの対面を心待ちにしていましたが、金沢に到着する前に一笑は既に亡き人となっていました。

このために、芭蕉にとって金沢は悲しい思い出の地になりました。



我々の「バスで行く・奥の細道」ツアーは、前回のゴールの金沢駅からスタートします。


金沢駅からバスで、先ず「兼六園」へ向かい、園内の茶屋で昼食、そのちに自由時間で、兼六園内を散策します。

(兼六園については、2017/9の(金沢・兼六園)を見てね。)

我々のバスツアーは、兼六園を見学したのちに、芭蕉が地元の俳人達と交流を重ねたという金沢市内の史跡を巡ります。


「本龍寺」


境内には、芭蕉が連句指導のためにここに立ち寄った際に詠んだ句の句碑が建っています。

”小鯛(こだい)さす 柳すずしや 海士が軒(あまがいえ)”

(海の青さを背にした漁師の家では、漁師の妻が柳の小枝に小鯛をさしているが、その柳の青さがまことに涼しい感じだ。)


また、ここ本龍寺には、上の写真の「銭谷五兵衛の墓」があります。
「銭谷五兵衛」は、江戸時代末期、北前船の船主として本格的に海運業に乗り出し、やがて「海の百万石」と言われる豪商になり、アメリカやタスマニアまでも貿易相手として海外進出します。

加賀藩は、藩の財政立て直しのために、銭屋五兵衛を利用し、これらの海外貿易を黙認していました。

やがて、五兵衛は、加賀藩の御用を受ける様になり、赤字で苦しむ藩のため御用金の調達に奔走、藩の財政に尽くします。
更に、五兵衛は、河北潟の埋立に着手しますが、河北潟の魚が死に、それを食べた漁師が中毒死するという事件が起きてしまいます。

ところが、ここで、何と、潟に毒を投入した疑いで、銭屋一族は検挙され、五兵衛は獄中で80歳の生涯を閉じました・・・

その後、銭屋一族の家財は没収、家名は断絶となりました。

この事件の真相については、五兵衛の密貿易を黙認しているのが幕府に発覚するのを恐れた加賀藩が、五兵衛に濡れ衣を着せて口封じしたと言われています。

また、財政赤字に悩む藩が、五兵衛の莫大な財産をも狙ったとも言われています。

商売で成功して加賀藩と繋がりが深くなり、藩の重要な位置についた訳ですが、それが逆に仇になってしまったんですね、怖っ~!・・・



「成学寺」


境内には、ここ金沢から次の小松に至る途中で詠まれたという句の句碑が建っています。

句碑の正面は「芭蕉翁」と大きく刻まれ、句は背面にあります。

芭蕉追悼のため、俳人堀麦水が建てた句碑だそうです。

”あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風”   

(強い日射しが容赦なく照りつけ、残暑はなお厳しい中にも、寂しい秋風の気配が漂いはじめ、長旅の旅愁をいっそうつのらせる。)



「願念寺」


境内には、「一笑塚」が建っています。

金沢で門人の「一笑」に会うのを楽しみにしていた芭蕉は、一笑が既に死亡していたことを知り、ここ願念寺で行われた一笑の追善会で下記の句を手向けました。

”塚も動け 我泣く声は 秋の風”

(墓も動いてくれ。悲しみで泣く私の声は、今秋風となって吹き荒れていることよ。)



「長久寺」


長久寺は、加賀藩・初代藩主の前田利家の妹・津世の菩提寺です。

境内には、樹齢400年という銀木犀が2本あり、その根元に芭蕉句碑があります。

”秋涼し 手毎(てごと)にむけや 瓜茄子(うりなすび)”

(出していただいた新鮮なウリやナスを、各人で皮をむいてご馳走になりましょう。こうしていると残暑も忘れて秋の涼しさが感じられる。)



「久保市乙剣宮」

久保市さんの愛称で地元に親しまれている神社です。

この神社の脇の坂を下りると、「主計町(かずえまち)茶屋街」です。

金沢市街地の中心を流れる浅野川沿いの「主計町茶屋街」は、有名観光スポットとしてすっかりテーマパーク化してしまった「東茶屋街」に比べると、昔ながらの料理屋や茶屋が立ち並んでいて風情があります。



この辺りの茶屋は、夜になると、芸妓さんも出入りするらしいです。



ps.
ここまでの奥の細道・バスツアーについては、下記をクリックしてください。

1 千住~白河)、(2 那須・黒羽)、(3 黒羽・雲岩寺) 、(4 殺生石)、(5 遊行柳)、(6 白河の関)、(7 須賀川)、(8 安達ケ原の鬼婆)、(9 しのぶもじ摺り) 、(10 医王寺)、
11 実方中将の墓)、(12 宮城野)、(13 多賀城)、(14 末の松山)、(15 塩釜神社) 、(16 青葉城)、(17 松島・クルーズ)、(18 松島・雄島)、(19 松島・瑞巌寺)、(20 日和山)、
21 登米) 、(22 湯殿山)、(23 羽黒山)、(24 象潟)、(25 酒田)、(26 念珠ケ関)、(27 村上)、 (28 新潟)、(29 寺泊)、(30 出雲崎) 、(31 直江津)、(32 親不知)、
33 那呉の浦)、(34 倶利伽羅峠
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三陸鉄道リアス線(旧南リアス線区間)2019.4.30

2019-06-14 04:47:35 | Weblog
(写真は、奇跡の一本松 )

前々回の「旧北リアス線」(久慈~宮古区間)、前回の「旧JR山田線」(宮古~釜石区間)に続いて、今回は最終回の「旧南リアス線」(釜石~盛区間)です。

前回の「旧JR山田線」の終点の「釜石駅」で下車・乗り換えをしないで、今回は、そのまま前回と同じ列車に乗り続けます。

これは、今年3月に南北が1本につながったので、三陸鉄道リアス線として乗り換えなしで、北の端から南の端まで行ける様になったからです。

降り続く激しい雨風は、止みそうにありません・・・
むしろ、降り方が激しくなってきている様な気がします。

「釜石駅」
多分、花巻方面からJR釜石線でこの釜石駅にやって来た人達が、ここで三陸鉄道に乗り換えるからでしょう、駅のホームには大勢の人が並んでいます。

釜石は、製鉄の街で、ラグビーの強豪・新日鉄釜石でも有名です。

ここ「釜石駅」から、約150分の乗車で、三陸鉄道リアス線の終点の「盛(さかり)駅」に到着予定です。

先頭車両の最前列の運転手さんの右横の窓に張り付いて、一生懸命に写真を撮っているのですが、激しい風雨が窓に吹き付け、ほとんど撮影出来ません。

運転中の運転手さんが、一生懸命に写真を撮っている私に気づいて、私が写真を撮っていた運転席の横に位置する私の前の窓のワイパーを動かしてくれました!

感謝の気持ちを込めて目礼します。

これで、雨だれのない、綺麗な写真を撮れる様になりました!

「唐丹(とうに)駅」

唐丹駅近くの片岸川には、多くのサケが遡上してくるそうです。

車窓から吉浜湾が見渡せる景色の良いスポットを通過すると直ぐに「吉浜駅」です。
「吉浜駅」

吉浜駅の愛称は、”キッピンあわびの海”で、当地特産の「吉浜(=きっぴん)アワビ」に由来するそうです。

「三陸駅」

大きな堤防が完成しています。

「恋し浜駅」
5分くらいの停車時間があるので、乗客の半分くらいが、列車から出て、駅の待合室の中を覗いています。
待合室には、写真の様に、たくさんのホタテ絵馬が掛かっています。
貝殻に願い事を書くみたいです。

ここ小石浜(駅名は恋し浜)を中心に、三陸地方では、ホタテの養殖が盛んなのだそうです。

因みに、「恋し浜」駅の周辺の地名は「小石浜」です。

成程ね、宣伝上手です。

「綾里(りょうり)駅」

駅の愛称は”綾姫の里”で、この地に機織りを伝えた綾姫の伝説に由来するそうです。

「陸前赤崎駅」

この駅は地震により駅のホームが陥没、駅付近の堤防も大きく陥没しました。

このため、従来より釜石寄りに、上の写真の様に、駅舎を新築移転したそうです。

終点「盛(さかり)駅」
釜石駅から約150分で、三陸鉄道リアス線の終点のここ「盛駅」に到着しました。

写真のポスターの説明にある様に、この車両のデザインは、釜石東中学の生徒が書いたものだそうです。


上の写真の「盛駅」からバスで30分の「碁石(ごいし)海岸」へ向かいます。

昼食は、上の写真の「碁石海岸レストハウス」で、下の写真の海鮮丼でした。

昼食後、レストハウスの前の「碁石海岸」の展望台の周辺を散策します。



「碁石海岸」は、大船渡湾の南の海岸線の名勝で、「雷岩」(かみなりいわ)で有名なのだそうです?
「雷岩」は、”洞穴に打ち付ける波が空気を圧縮して出る音が、雷の音に似ている”ことからこの名が付いたそうです。
岩から雷の音が聞こえる、なんて大袈裟でいい加減な宣伝文句だな~、と思って行ってみると、成程、確かに、雷が鳴り響く様な迫力のある音がしています!
宣伝文句に偽りはありませんでした、驚き!

碁石海岸から、ツアーバスで約30分、今回のツアーの最後の目的地である陸前高田の「奇跡の一本松」へ向かいます。

奇跡の一本松に着くと、傘が差せないくらいの激しい風雨になりました・・・

激しく吹き荒ぶ雨風の中を、ずぶ濡れになりながら、駐車場から結構離れている「奇跡の一本松」まで歩いて行きます・・・

やはり、三陸海岸観光のメインスポットなのでしょう、大勢の観光客が、激しい風雨をものともせずに、列をつくって、黙々と歩いています。

この一本松と海との間に、上の写真のユースホステルが建っていたため、建物が防波堤となって津波の直撃を防いだ形となり残ったそうです。

しかし、その後、根が腐っており枯死と判断されました・・・

そこで、1億5千万円をかけて、写真の様な一本松のレプリカで復元されました。

現在、「奇跡の一本松」の枝に残されていた「松ぼっくり」から種を取り出し育てており、将来、育てた後継樹をここの松原の再生に活かすことを検討しているそうです。


土砂降りの「奇跡の一本松」を出た我々のツアーバスは、約1時間半かけて「一ノ関駅」に着き、新幹線で東京へ戻りました。
一ノ関駅(19:56) → 新幹線やまびこ号 → -東京駅(21:12)

三陸鉄道は、現在、赤字路線とのことですが、赤字路線をあえて復活させた地元の人々の熱い思いと、心から喜んでおられる様子を見ると、鉄道が復旧するということは、ホントに素晴らしいことなんだと思いました。

大勢の鉄道ファンや観光客が乗りに来てくれて、何とか収支トントンになって欲しいです。

その様な諸々の被災地支援の願いを込めて、今回の旅行では、写真の様に、地元産のお土産をたくさん買い込んで帰りました。


次は、個人旅行で再び三陸鉄道に乗りに来て、面白そうな駅で途中下車しながら駅周辺を散策したいと思います。

例えば、井上ひさしの小説の舞台「吉里吉里駅」の近くの「鳴き砂の海岸」を歩いたり、「鯨と海の科学館」へ行ったり、また下車した地元の食堂の海の幸を楽しみたいと思います。



(上の写真の赤枠内が、「三陸鉄道リアス線」のうち、今回の乗車区間の「釜石駅」から「盛駅」です。)

ps.
これまでの「鉄道の旅」については下記をクリックしてください。

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三陸鉄道リアス線 (旧JR山田線区間) 2019.4.30

2019-06-07 08:24:51 | Weblog

(写真は、浄土ヶ浜)

前回に続いて、今回は「三陸鉄道リアス線の旅」の2日目です。

本日は、全国的に激しい雨と風、という天気予報です。

このツアーは、三陸鉄道の車窓からの風景を楽しむのがメインなので、雨風が激しいと何も見えない恐れが・・・

ホテルの部屋から外を眺めると、未だ曇り空なので、何とかこのまま天候がもって欲しいのですが。

朝、宿泊先の田老「グリーンピア三陸みやこ」を出て、バスで約40分の三陸の絶景ポイント「浄土ヶ浜」へ向かいます。






曇り空でしたが、それでも、「浄土ヶ浜」の海の青と砂浜の白のコントラストがとても綺麗で、浄土ヶ浜のうたい文句である”極楽浄土のような景色”と言っても大袈裟ではない美しい風景です。








写真の「浄土ヶ浜レストハウス」の2階の上部には、津波の高さのを示す「津波浸水ライン」(写真の赤矢印)が青色で描かれていました。

え、えっ~、あんなに高くまで津波が押し寄せたんだ!
怖っ~!!


浄土ヶ浜の絶景を見学したのちに、「三陸鉄道リアス線の旅」の昨日のゴールの「宮古駅」に着きました。

宮古駅から釜石駅までの55キロの「旧JR山田線」は、震災時からずっと不通のままでした。

このため、JRは、山田線(宮古~釜石)を廃止して、「BRT」(注)に転換しようとしましたが、沿線の釜石市・大槌町・山田町・宮古市はこれを拒否しました。

(注)BRT:鉄道の軌道を舗装して、バス専用道にした定時運行バスの輸送システム。

そこで、JRは、鉄道を現状復旧をしたうえで、三陸鉄道に移管する提案をしました。

沿線の4市町と三陸鉄道がこの提案を承諾したため、JRは、2015年に復旧工事を開始し、今年3月23日に全線が復旧しました!

今回、旧JR山田線に乗った感想として、新型の車両を新たに作って無償で譲渡したり、立派な駅舎を建てたり、枕木なども全て新品に入れ替えたりと、同じ鉄道マンとしてのJRの誠意を感じました。

旧三陸鉄道の「宮古駅」の駅舎は廃止され、これまでのJRの「宮古駅」の駅舎が「三陸鉄道リアス線」の新「宮古駅」の駅舎になりました。


少し話が長くなりましたが、それでは、3月に開業したばかりの三陸鉄道の新区間(旧JR山田線区間)に乗ります。


(三陸鉄道リアス線の宮古駅の駅舎)




ここ「宮古駅」から約150分の乗車で、旧JR山田線の終点の「釜石駅」を目指します。






(車内のユニークな吊革)




宮古駅を出ると、列車は直ぐに、閉伊(へい)川に架かる鉄橋を渡ります。



雨風が非常に激しくなってきて、車窓からは、段々と、ほとんど何も見えない様な状況になってきました・・・

何とか少し小降りになって欲しいなあ~・・・


「八木沢・宮古短大駅」

リアス線の開業に伴い新しく出来た駅です。


「陸中山田駅」



ここ山田町は津波の被害が甚大でした。

この陸中山田駅は、津波とその後の火災で焼失してしまったとのことです。


「岩手船越駅」

この駅は津波被害を受けなかったせいでしょうか、駅の周りの民家も少し古い印象です。

近くに平成4年オープンの「鯨と海の科学館」があるそうです。  


この辺りは、電車は海の近くを走ります。


「浪板海岸駅」

 この駅自体は海から離れていましたが、近くに川が流れていたため津波が押し寄せたそうです。


「吉里吉里駅」

この駅の近くの海岸は、歩くと”キリキリ”(吉里吉里)と音がする「鳴き砂の海岸」で有名だそうです。

また、井上ひさしの小説「吉里吉里人」の舞台でもあるそうです。


「大槌駅」

ここ大槌町は津波の被害が甚大でした。

大槌駅の駅舎が津波により流出してしまったため、新しく駅舎を再建したそうです。  


強い雨風のため写真では見辛いですが、駅付近では新しい防波堤が工事中です。(写真の左手)


「鵜住居駅」(うのすまい)

この駅も津波で流失したそうです。

駅の近くに、ラグビーワールドカップの会場となる「釜石鵜住居復興スタジアム」があるそうです。

強い雨風の中、何とか車窓からの風景写真を撮ろうと、運転席の横の最前列に陣取ったのですが、前方の窓のワイパーが作動しないのでうまく写真が撮れません・・・


「旧JR山田線」(宮古駅~釜石駅)の終点の「釜石駅」に到しました。

今回の旅行のハイライトである、3月に開業したばかりの三陸鉄道の新区間(旧JR山田線区間)の150分の乗車でしたが、強い風雨のためにイマイチの旅行になってしまいました・・・




(上の写真の赤枠内が、「三陸鉄道リアス線」のうち、今回の乗車区間の「宮古駅」から「釜石駅」です。)
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三陸鉄道リアス線 (旧北リアス線区間) 2019.4.29

2019-06-02 10:19:45 | Weblog

(写真は、三陸鉄道の車両)


鉄道ファンの私は、今年のゴールデンウィークは、3月に全線が全通した「三陸鉄道」に乗りに行きました。

東日本大震災の津波で、三陸地方の鉄道は壊滅してしまいました・・・

でも、その後、沿岸北部の「北リアス線」(久慈~宮古区間)と、沿岸南部の「南リアス線」(釜石~盛区間)は、頑張って、順次、再開区間を伸ばしてきました。

しかし、肝心の沿岸の中央部分の「JR山田線」(宮古~釜石区間)が、ずっと不通のままでした・・・

でも、今年の3月、その「JR山田線」が8年ぶりに開通し、三陸沿岸の北部から南部の地域が、ようやく1本の鉄道で結ばれました!

この新「三陸鉄道」は全長163キロ、広い岩手県をほぼ縦断します!

1本につながった新たな「三陸鉄道」は、JR山田線も含めて「三陸鉄道リアス線」という名称になりました。

この全線開通に際し、「JR山田線」は、「JR」から第三セクターの「三陸鉄道」に移管されました。

この移管により、「三陸鉄道リアス線」は、「第三セクター鉄道」としては「最長距離の路線」になりました。


今回、私が参加した「三陸鉄道リアス線の旅」(クラブツーリズム)は、この「三陸鉄道リアス線」を1泊2日で全線走破します。

東京駅(7:00) → (新幹線はやぶさ)→ 盛岡駅(9:24)









JR盛岡駅に到着すると、貸切バスに乗り、市内で、上の写真の「あさ開酒造」や下の写真の「石割桜」(いしわりざくら)を見学します。


(巨大な花崗岩の割れ目から育った樹齢360年の石割桜)


盛岡市内見物の後、盛岡の市街地を抜け、岩手山を左手に見ながら、一路、三陸海岸の久慈駅へ向かいます。


盛岡市内からバスで約150分もかかって、ようやく、上の写真の「三陸鉄道リアス線」の始発駅の「久慈駅」に到着しました。

上の写真の「三陸鉄道リアス線」の久慈駅駅舎と、下の写真の「JR八戸線」の久慈駅駅舎が並んでいますが、両線とも当駅が始発駅です。 



「久慈駅」は、NHK朝ドラ「あまちゃん」で有名なのだそうです。

しかし、あまちゃんブームもすっかり下火で、駅前のあまちゃんで有名な上の写真のビルも近々取り壊すそうです・・・


写真は、三陸鉄道リアス線の久慈駅駅舎内です。



写真は、三陸鉄道リアス線の車両ですが、車両の色は、情熱の赤、海の青、誠実の白を表しているそうです。





「久慈駅」を出発した三陸鉄道リアス線は、約100分をかけて、本日のゴールの「宮古駅」へ向かいます。


「十府ケ浦(とふがうら)海岸駅」



写真は、十府ケ浦海岸の最近完成した前浜防潮堤です。



この14メートルの高さの防潮堤が完成したので、鉄道からの海の絶景は見られなくなりました・・・


「野田玉川駅」

野田玉川駅を過ぎると、高さ30メートルの「大沢橋梁(きょうりょう)」の上で列車が停車してくれるので、上下の写真の”三陸海岸の絶景ポイント”を車窓から堪能出来ます。



「摂待(せったい)駅」

摂待駅の案内板には、我々の今晩の宿泊予定のホテルが描かれています。(上の写真の赤丸印)












「宮古駅」

乗車してから約100分で、本日のゴールの宮古駅に到着しました。





宮古駅から、バスで約30分の今晩の宿の「グリーンピア三陸みやこ」へ向かいます。



途中、上下の写真の「道の駅・たろう」を通過します。


ここ宮古市の田老(たろう)地区は、津波で市街地は壊滅状態になり、200人近い死者・行方不明者が出ました。

道の駅側に建てられるのは、商業施設のみで、住宅は建てられないのだそうです。


我々の旅行バスは、写真の「グリーンピア三陸みやこ」に着きました。

このホテルは、高台で被害も少なかったため、震災直後は避難所として、多くの被災者を迎え入れました。

震災当日は、非常に寒かったのですが、ホテルの中ではお風呂もやっていたので、多くの被災者に喜ばれたそうです。

田老地区の全体では、避難所が10か所ほどありましたが、1か月後には、避難所をこのホテルの1か所に集約して、全ての避難所を閉鎖したそうです。


ホテルの敷地内には、約400棟の仮設住宅が建設され、隣接するホテルの駐車場には、上下の写真の22店舗が並ぶ仮設商店街が出来ました。



仮設住宅は、現在、既に取り壊され、上下の写真はその跡地です。



ホテルの部屋からは、太平洋が臨めます。


ホテルの部屋の軒下には、上下の写真の様に、たくさんのツバメの巣がありました。





夕食は、三陸産のアワビの陶板焼き、近海で獲れたホタテ等、海の幸をたっぷりと堪能出来て、大満足でした。

上の写真は、この地方の名物で、ホタテとウニが入った”イチゴ汁”です。

器に入れたときに、乳白色の汁の中に、黄金のウニの姿が”朝もやの野いちご”の様に見えるところからこの名前が付いたそうです。



(上の写真の赤枠内が、「三陸鉄道リアス線」のうち、本日の乗車区間の「久慈駅」から「宮古駅」です。)
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高岡城 (日本100名城) (富山県) 2019.4.11

2019-05-20 21:51:23 | Weblog

( 写真は、高岡城の水堀 )

我々のバス旅行は、歌枕の地「那呉の浦」を出て、木曽義仲が活躍した古戦場・倶利伽羅峠へ向かいますが、その途中で「高岡城」に立ち寄りました。


1605年、加賀藩2代目藩主の前田利長は、隠居して富山城に居ましたが、1609年の大火により城が焼失したため、新たな隠居城として、ここ「高岡」を選び、築城に着手しました。

「高岡城」は、キリシタン大名で、築城の名手として有名な「高山右近」が縄張(設計)したと伝承されています。

その5年後の1614年に利長は死去し、翌年の1615年に、高岡城は、一国一城令により廃城となりました。

しかし、加賀藩3代目藩主の前田利常は、高岡城の水堀を埋めないで、城の実質的な保全を図りました。

そして、明治3年、高岡城跡は民間に払い下げられましたが、市民の熱心な保存運動により、明治8年、城跡は「高岡公園」として残りました。



(高岡城の航空写真:高岡城のパンフレットから)
上の航空写真の様に、高岡市のど真ん中にある「高岡古城公園」は、21万平方メートルという、東京ドームの4.5倍もの広さを有しています。
城跡は、市民から「古御城(ふるおしろ)」と呼ばれ、現在でも、水濠は、ほとんど築城時のままに残されています。

高岡古城公園の特長は、以下の写真の様に、豊かな水をたたえた水濠で、本丸を囲む掘の幅は50メートル以上もあり、水掘りの面積は、公園全体の3分の1を占めます。











(朝陽橋)



(民部の井戸:三の丸)


写真は、本丸に鎮座する射水(いみず)神社です。





「本丸」跡は、上の写真の様に芝生広場となっており、その奥には下の写真の「前田利長の像」があります。









ps.
ご参考までに、これまでにご紹介した城を下記に書き出してみましたので、城に興味のある方はクリックしてみてださい。

なお下記の城名で、(100)とある城は「日本100名城」で、(200)とある城は「続日本100名城」です。

2019/4の(春日山城(100)(新潟県))、
2019/3の川越城(100)(埼玉県)、2018/11の小峰城(白河城)(100)(福島県)、2018/9の吉野ケ里(100)(佐賀県)
2018/12の韮山城(静岡県)、2018/9の熊本城(100)(西南戦争)、2018/9の佐賀城(100)
2018/10の八代城(200)(熊本県)、2018/7の新発田城(新潟県)、2018/3の船岡城(宮城県)
2017/11の白石城(100)(宮城県)、2017/11の二本松城(100)(福島県)、2018/8の松代城(100)(長野県)
2018/8の上田城(100)(長野県)、2018/3の仙台城、2018/3の多賀城(100)(宮城県)
2018/3の佐敷城(熊本県)、2018/10の一夜城(小田原市)、2018/5の小田原城
2018/5の小田原城・北条五代祭り、2017/11の大田原城(栃木県)、2017/12の箕輪城(群馬県)
2017/10の喜連川城(栃木県)、2017/10の勝山城 (栃木県)、2017/9忍城(200)(埼玉県)
2017/8の沼田城(200)(群馬県)、2017/8の名胡桃城(200)(群馬県)、2017/8の小机城(200)(横浜市)
2017/4の熊本城(100)(被災後)、2017/4の館山城(千葉県)、2017/1の宇都宮城
2017/1の徳次郎城(栃木県)、2016/12の金山城(100)(群馬県)、2016/11の小山城(栃木県)
2016/11の古河城(茨城県)、2016/9の今治城(100)(愛媛県)、2016/4の彦根城(100)
2016/4の福江城(200)、2016/4の熊本城(100)(被災前)、2015/10の岐阜城(100)
2015/10の犬山城(100)(岐阜県)、2014/7の小倉城(200)、2014/6の福岡城(100)
2015/5の苗木城(200)(岐阜県) 、2014/4の島原城(100)、2012/3の水口城(滋賀県)
2012/02の亀山城、2012/1の桑名城、2011/12の吉田城(200)(愛知県)
2011/11の 浜松城(200)、2011/11の掛川城(100)
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