ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

http://www7b.biglobe.ne.jp/~akamine/
中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

銀山温泉(2泊目) (山形県)  2020.11.15     

2021-04-10 11:26:45 | Weblog

(写真は、夜の銀山温泉の旅館街)


銀山温泉に1泊した翌早朝に、最上川下りの送迎バスに迎えに来てもらい、午後、予定より早く、泊まっている旅館に戻って来ました。

送迎バスのお陰で、効率よく最上川下りの往復が出来たので、午後は銀山温泉の奥の方を散策します。

銀山温泉街の奥には「白銀公園」という1時間ほどの散策コースがあります。

公園には、写真の高さ20メートルの「白銀の滝」があり、マイナスイオンを浴びて気持ちがいいです。

この白銀滝の目の前にあるのが上の写真の「瀧見館」で、「滝見亭」として、滝を見ながらの蕎麦屋として流行っているみたいです。

白銀の滝の横には、400年前に賑わった延沢銀山の面影が残る「銀坑洞(ぎんこうどう)」(国指定史跡)があります。

洞窟の中はライトアップされているみたいなので入り口から中に入ってみます。

入場無料ですが、管理人や案内人はいません。

江戸時代には既に閉山されたということですから、壁の掘った様な跡は、手掘りなんでしょう。

床に水が溜まっているせいか、直ぐに行き止まりになってしまいました!

 


温泉街の奥の方の散策を終わり、宿泊している上の写真の古勢起屋別館宿に戻ります。

宿の温泉に浸かり、一休みしてから、2階の会場で夕食です。

以下は、2泊目の夕食です。

昨晩に続き今晩も、利き酒セットを注文してしまいました。 

(金胡麻さんま、毬栗、ずいき胡麻和え、石狩漬け、青梅なると、いぶりがっこ、バイ貝)


 (鮪、海老、帆立、ズワイ蟹)


(海鮮陶板焼き)


(鰤(ぶり)のかま焼き)


(山形黒毛和牛しゃぶしゃぶ)

 

夕食後に散歩がてら外に出てみると、辺りの景色は、昼間とは一変、幻想的な別世界になっていました。

川沿いのガス灯に光が灯り、川のせせらぎが心地よく、大正時代にタイムスリップしたかの様な、ノスタルジックで美しい温泉街の夜景です。

 

 

 

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バスで行く「奥の細道」(その55) 最上川下り(山形県) 2020.11.15 

2021-04-04 07:44:46 | Weblog

   

(写真は、最上川下りの船からの紅葉)   


「新庄」の豪商であり俳人の「風流」の邸宅に泊まった芭蕉は、新庄の「本合海」(もとあいかい)から、最上川下りに乗船しました。

(新庄での芭蕉については、「新庄」を見てね。)                                                                                                                                                                                                      

本合海(もとあいかい)は、かつて、最上地方と庄内地方との間に陸路がなかった時代に、舟運の中継地として栄えていました。

芭蕉は、実際に舟に乗ってみて、最上川の風景に心を揺さぶられ、「奥の細道」に以下の様に記載しています。

「左右山覆い、茂みの中に舟を下す。   

 白糸の滝は、青葉の隙(ひま)々に落ちて、仙人堂、岸に臨んで建つ。

  水みなぎって、舟危うし。 

  ”五月雨を(さみだれを) 集めて早し 最上川”」

 

私は、銀山温泉に1泊した翌朝、宿泊している旅館に、最上川下りの送迎バスが迎えに来ました。

送迎バスの車窓から、芭蕉が乗船したという「本合海」(もとあいかい)の渡船場跡を見ます。

本合海の渡船場跡には、芭蕉と曽良の像と、芭蕉の句「五月雨を 集めて早し 最上川」の句碑が建っていますが、私は、送迎バスの車窓から、この像と句碑をチラリと遠目に眺めただけで通り過ぎました・・・

また、「本合海」の川向うにある、上の写真の鳥居のある山の中腹に「矢向(やむき)神社」があり、上陸した義経一行はこの神社に参拝しました。

 

 

送迎バスに揺られること約1時間で、最上川下りの乗船場である「船番所」に着きました。

写真は、「船番所(古口番所)」で、最上川の舟運のいわば関所跡で、関所番人の役宅が公開されています。 

ここから舟下りは、「草薙」(くさなぎ)までの約12キロ、所要時間1所間ほどです。

説明版によると、

「ここ古口(ふるくち)より下流は、最上峡と呼ばれる峡谷で、ここから先は陸路がなく、全て最上川の舟運に頼らねばならないため、新庄藩の船番所が置かれていました。

 古口の船番所の役人は、二本差しの帯刀を許されて200石を与えられ、川舟の荷物の出入りを監視していました。

 なお、1623年に新庄藩主に戸沢政盛が任ぜられて以降、明治の戊辰戦争で廃城となる迄の250年もの長きにわたり、1回の国替えもなく戸沢氏が統治しました。」

と、あります。

懐かしいNHKドラマの「おしん」もマスクをしています。

チケットを買い指定された時間まで、乗り場の土産屋で待ちます。

時間になると、船頭さんが迎えに来て、「最上川芭蕉ライン」の舟まで案内してくれました。

船内は、掘り炬燵の様になっていて、屋根も付いています。

船が出発すると、船頭さんが、山形弁で色々と説明をしてくれます。

出発地点に戻る舟とすれ違います。

上の写真は、岸辺に建てられた小屋で、本来は、土産物や食べ物を売っているそうですが、現在は、残念ながらコロナで閉鎖中です。

小さな滝が所々にあります。

  

この辺りは、NHKドラマ「おしん」で、舟に乗せられて売られて行く「おしん」を、父がこっそり見送る、というシーンが撮影された場所だそうです。 

川原で鳥の群れが戯れています。

急流らしさを感じるところを通過!

富士川、球磨川と共に、日本三大急流の一つに数えられる最上川ですが、季節によって異なるのでしょうか、その実感はほとんどありませんでした。

下船場が近くなり船頭さんの”最上川舟唄”が入ります。 

舟下りの最後の見どころ、上の写真の「白糸の滝」が見えます。

上の写真は、白糸の滝の近くの「仙人堂」で、源義経一行が、兄の頼朝に追われて、奥州平泉に落ちのびる途中に立ち寄ったといわれるお堂です。

義経の家来の一人の「常陸坊海尊」は、この仙人堂で、義経一行と別れ、義経の追手をここで防いだそうです。

義経一行は、下流の清川という所からから舟に乗り、舟に帆を張って、最上川を遡り、「本合海」(もとあいかい)で下船しました。

つまり、芭蕉は、逆に、義経が下船した所から舟に乗ったことになります。

源義経一行が最上川を遡ってから500年後、芭蕉は最上川を舟で下り、「仙人堂」に参拝するために舟から下りました。

そう、芭蕉の旅は、義経の足跡を訪ねる旅だったのです。

(芭蕉の義経の足跡を訪ねる旅については、有名な「平泉」以外にも、「塩釜神社」や「医王寺」等があります。)                                                                                                                                                                            

「白糸の滝」を過ぎると草薙の下船場はすぐです。

(下船場の出口の芭蕉像)

 

 

ps

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1 千住~白河)、(2 那須・黒羽)、(3 黒羽・雲岩寺) 、 (4 殺生石)、(5 遊行柳)、(6 白河の関)、 (7 須賀川)、(8 安達ケ原の鬼婆)、(9 しのぶもじ摺り) 、

10 医王寺)、 (11 実方中将の墓)、(12 宮城野)、 (13 多賀城)、

14 末の松山)、(15 塩釜神社) 、 (16 青葉城)、(17 松島・クルーズ)、(18 松島・雄島)、 (19 松島・瑞巌寺)、(20 日和山)、 (21 登米) 、 (22 湯殿山)、

23 羽黒山)、(24 象潟)、 (25 酒田)、(26 念珠ケ関)、(27 村上) 、 (28 新潟) 、

29 寺泊)、(30 出雲崎)、 (31 春日山城)、(32 親不知)、(33 那呉浦)、 (34 倶利伽羅峠) 、(35 金沢)、 (36 実盛の兜) 、 (37 安宅の関)、(38 那谷寺)、

39 山中温泉)、 (40 永平寺)、(41 福井)、(42 今庄宿)、 (43 敦賀

、(44 木之本)、(45 姉川の戦い)、 (46 大垣)、(47 芭蕉忍者説 )、(48 深川 )、(49 室の八島 )、(50 尿前の関 )、(51 封人の家 )、(52 尾花沢 )、

53 大石田)、(54 新庄

 

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銀山温泉(1泊目) (山形県)  2020.11.14 

2021-03-30 09:53:47 | Weblog

    

(写真は、銀山温泉の旅館街)


前回は、鳴子温泉に1泊して、尿前の関、封人の家、尾花沢、大石田、新庄と芭蕉の足跡をたどりました。

今回は、銀山温泉に2泊して、「最上川下り」と「山寺」の芭蕉の足跡をたどる予定です。 

東京 9:40 →(山形新幹線)→ 11:49 大石田  12:15 →(送迎バス)→ 13:01 銀山温泉     

 

(東京駅)


昼前に、山形新幹線のJR大石田駅で下車します。

大石田駅は、鳴子温泉、尾花沢などの訪問の際に乗降しましたので、何と!5回もこの駅で乗降したことになり、故郷に帰ってきた様な錯覚に陥ります・・・

大石田駅からは、宿の送迎バスで、運転手さんの観光案内を聞きながら銀山温泉に向かいます。


40分余りで、銀山温泉着くと、そこは、異次元にタイムスリップした様な別世界の温泉街でした。  

大正末期から昭和にかけて建てられた木造建築が川沿いに軒を連ね、送迎バスを降りた瞬間からテンションが上がります! 

 

「銀山温泉」は、山形県の尾花沢市にあり、日経新聞の「東の温泉情緒NO1」になった人気の温泉地です。

温泉の名前は、かつて江戸時代初期に大銀山として栄えた「延沢銀山」に由来しており、この温泉は、延沢銀山の炭鉱労働者によって発見されました。

銀山は幕府直轄で、最盛期には1万5千人もの関係者がここに住んでいたそうです。

銀山が衰退した後には、湯治場(とうじば)の温泉として賑わいをみせていましたが、大正から昭和初期にかけて、現在の様な木造の3層や4層の旅館の街並みが形成されました。

銀山川の両岸に沿って軒を並べるこの旅館街は、現在も、昔ながらの独特な景観を完全な姿で残しています。

春秋の季節はもちろん、雪の冬場でも宿泊予約を取るのは難しく、私が9月に予約したときも、来年の2月末まで全ての旅館が満室だということだったのですが、たまたまキャンセルがあり幸運にも予約出来ました。


私が宿泊したのは、木造4階建ての外観が素敵な写真の「古勢起屋(こせきや)別館」です。

古勢起屋は、元々は造り酒屋でしたが、天保年間(1830~1843年)に湯治宿を開業して「古勢起屋」の屋号を名乗ったそうで、現在は、14代目の小関吉左衛門さんが継いでいるそうです。

上の写真は、部屋から銀山川を挟んでの景色で、左向かいが能登屋旅館、その右が永澤平八旅館です。


古勢起屋別館を出て、温泉街を散策します。

温泉街の入口には、街並みを眺めながらゆっくりと休める上の写真の「足湯」もあります。

上の写真は、国有形文化財の「能登屋旅館」です。

4層望楼付きの入母屋造りで、屋号が描かれた「鏝(こて)絵」の大きな看板がひときわ目を引きます。

上の写真の老舗旅館「古山閣」の壁に描かれている色鮮やかな「鏝(こて)絵」は、職人の心意気を感じさせます。

以下はその鏝絵の拡大写真ですが、描かれているのは年中行事で、正月、雛祭り、端午の節句、田植え等の風景です。

(戸袋の「宝船」とその左脇の横壁に描かれた「紅花」)

温泉街の中央を流れる綺麗な銀山川は、写真の様に、ニジマスがたくさん泳いでいます。

温泉街の一番奥の「はいからさん通り」の店で、銀山温泉名物の「カリーパン」を売っているということだったので、ここでカリーパンを買って宿へ帰り、部屋で昼食代わりに食べました。


温泉街を散策を終わり宿に戻ります。

古勢起屋は、地下と1階に温泉があり、時間で男女が入れ変わります。

温泉から上がり、一休みして、2階の会場で夕食です。


(利き酒セット)


(胡桃豆腐、丸十煮、ふき煮、海老鮨)

(蔵王サーモンと地場野菜のカルパッチョ)


(本鮪、鰤、海老、蟹爪の吸い物)


(鰈(カレイ)の朴葉(ほおば)包み焼き)

(山形黒毛和牛ステーキ)

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バスで行く「奥の細道」(その54) 新庄(山形県) 2020.10.24  

2021-03-25 15:01:09 | Weblog

  

(写真は、新庄城跡)   

 

前回ご紹介した「大石田」を立った芭蕉は、陸路で、「新庄」に入り、ここで2泊しました。

「新庄」では、「渋谷甚兵衛」(俳号:「風流」)宅に泊まりました。

これは、「大石田」の「一栄」が、「風流」が新庄への来訪を熱望している旨を、芭蕉に伝えたからでした。

「風流」は、新庄の豪商であり俳人でした。

 

芭蕉は、「風流」の兄の「九郎兵衛」(俳号:「盛信」)宅で、新庄の城下の俳人達と句会を催し、訪問の挨拶として、下記の2句を読んでいます。

”水の奥 氷室尋る (ひむろ たずぬる) 柳哉(やなぎ かな)” 

(盛信宅は、柳の陰に小川が流れている。夏というのになんと冷たい水だ。氷室から流れ出してくるのであろう。)

(これは、新庄に到着した日が、暑気払いの「氷室の節句」に当たったので、「氷室」という言葉を入れて、「風流」の接待に感謝の気持ちを表しています。)

”風の香(か)も  南に近し  最上川”  

 (盛信宅は、最上川が南を流れ、川風は、折からの南風に乗って流れてくるから、よい香の風となり、まことに涼しく心地よい。)

 (白楽天の詩「薫風は南より至る」を引用した挨拶の句です。)

 

上記の新庄での俳諧興行の出来事は、新庄に立ち寄ったことも含めて、「奥の細道」では全て省略されています!?

つまり、「奥の細道」では、芭蕉は、「大石田」から「最上川」を舟で下り、直接、羽黒山に行ったように、事実と異なる事が書かれているのです・・・

何故、無常にも「新庄」は全面カットされたのか?・・・

その理由は、大石田で、舟下りの日和を待つうちに声をかけられて俳諧興行をした、という偶然の出会い(一期一会)を既に演出したので、更に、新庄で同じ様な一期一会をテーマにした俳諧興行を話題にする重複を避けたのだそうです。

う~ん、新庄の皆さん、お気の毒に・・・

当時の新庄藩主は、二代目の戸沢正誠(まさのぶ)で、この頃までに初代藩主・政盛から継承した藩政の諸策が整い、城下は、財政・文化両面に於いて全盛の時代を迎えていました。

 

 

私は、「鳴子温泉」に1泊して、「尿前の関」、「封人の家」、「尾花沢」、「大石田」と芭蕉の足跡をたどりましたが、今回は、この大石田からJR奥羽本線に乗り、4駅先のJR新庄駅で下車します。

(JR大石田駅) 

(JR新庄駅)

(JR新庄駅)

(JR新庄駅)

JR新庄駅の前のメインストリートを進み、中程で右折して、芭蕉が、新庄の俳人達と句会を催したという「盛信亭跡」へ向かいます。

(「盛信亭跡」の石碑:盛信亭は、下の写真の現在の山形銀行新庄支店の辺りにあったそうです。)

(「風流亭跡」の石碑:盛信亭跡の道路向かい)

山形銀行新庄支店の近くの上の写真の「新庄市民プラザ」の正面に、下の写真の「芭蕉句碑」が建っています。

  

”風の香も 南に近し 最上川  芭蕉”

 (句意は前述)

現在は、この句碑、それに盛信亭跡と風流亭跡の石碑以外には、当時の偲ぶものは何も残っていません・・・

 


山形銀行新庄支店からJR新庄駅の前のメインストリートに戻り、更に歩いて、近くの「新庄城跡」へ向かいます。

「新庄城跡」の入口の脇に、城下町新庄の歴史的変遷の資料が展示されている写真の「新庄ふるさと歴史センター」がありました。

新庄ふるさと歴史センターをチラッと覗いてから、「新庄城跡」を散策します。

新庄藩6万8千石の「新庄城」は、2重の堀と天然の川で囲われた「平城」で、主要部が石垣である以外は土塁が主流です。

本丸に3基の2重隅櫓があり、城門には、枡形の櫓門が設けられていました。

明治時代の戊辰戦争の際には、当初は奥羽列藩同盟に参加したものの、途中で新政府軍に転じたために、幕府側の庄内藩に襲撃され、新庄城は落城してしまいました・・・


(二の堀跡)

  


(城址跡)


(本丸土塁)

(本丸土塁)


(表御門跡石垣)

(表御門跡石垣)


(天守台跡)


(御物見跡)

(御役所跡)


( 裏御門跡)

(御玄関跡)

 

 

新庄城跡の散策を終わり、JR新庄駅に戻って、駅の隣の「もがみ物産館」で、今回の旅行の土産物を買います。


(ふきのとう味噌パック、さくらんぼゼリー、ポッキー佐藤錦、山形の芋煮、えごま葉茶など)

 

 

 


土産物を買って、JR新庄駅から奥の細道号に乗り、古川で東北新幹線に乗り換えて帰りました。

新庄 18:05 →(陸羽東線・奥の細道号)→ 19:53  古川  20:39 →(東北新幹線)→ 22:56  東京  

 

 

ps

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10 医王寺)、 (11 実方中将の墓)、(12 宮城野)、 (13 多賀城)、

14 末の松山)、(15 塩釜神社) 、 (16 青葉城)、(17 松島・クルーズ)、(18 松島・雄島)、 (19 松島・瑞巌寺)、(20 日和山)、 (21 登米) 、 (22 湯殿山)、

23 羽黒山)、(24 象潟)、 (25 酒田)、(26 念珠ケ関)、(27 村上) 、 (28 新潟) 、

29 寺泊)、(30 出雲崎)、 (31 春日山城)、(32 親不知)、(33 那呉浦)、 (34 倶利伽羅峠) 、(35 金沢)、 (36 実盛の兜) 、 (37 安宅の関)、(38 那谷寺)、

39 山中温泉)、 (40 永平寺)、(41 福井)、(42 今庄宿)、 (43 敦賀

、(44 木之本)、(45 姉川の戦い)、 (46 大垣)、(47 芭蕉忍者説 )、(48 深川 )、(49 室の八島 )、(50 尿前の関 )、(51 封人の家 )、(52 尾花沢 )、

53 大石田

 

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バスで行く「奥の細道」(その53) 大石田(山形県) 2020.10.24 

2021-03-20 15:06:37 | Weblog

   

(写真は、大石田の舟番屋跡)   


前回は、JR大石田駅前からタクシーに乗り、「尾花沢」の「芭蕉・清風歴史資料館」と「養泉寺」を見学しました。

今回は、この尾花沢からタクシーに乗り、JR大石田駅前に戻ります。 

(JR大石田駅) 

 

「大石田」は、江戸時代、最上川の舟運の最大の中継地で、大量の紅花が集荷され、日本海側の酒田へ下り、更に、海路を上方や江戸へ運ばれ大いに繁栄しました。

川船の発着所(河港)として栄えた「大石田」には、「川船役所」(船番所)が置かれました。

一方、上方や江戸からは、最先端の文化がもたらされていました。

しかし、 明治時代になると、蒸気機関車の発達により、最上川の舟運の歴史は幕を閉じました。

 

「芭蕉」は、「大石田」で「最上川下り」の乗船をしようとしますが、最上川の増水のため、大石田で水位が下がるのを待つことになりました。    

この間に、大石田の俳人達から、俳諧の指導を熱心に請われ、船問屋の「高野平右衛門」(俳号:「一栄」)宅に3泊します。

最上川の思わぬ増水により、「高野一栄」らに俳諧指導をすることとなり、一栄らと4人で、俳諧連句の会を催します。

そのとき、この4人で各々9句ずつで詠んだ合計36句を、「さみだれを」と題して自筆して彼らに与えています。

「さみだれを」の様に、芭蕉自身が、一つの作品として、直筆の歌集を門人に与えるというのは珍しいケースです。

芭蕉は、その「さみだれを」の中で、「五月雨を(さみだれを) 集めて涼し 最上川」と詠んでいます。

その後、この句は、実際に最上川を舟で下った後に、我々のよく知る「五月雨を 集めて早し 最上川」の名句に修正されました。

芭蕉は、最上川の凄い水量を実感して、「涼し」を「早し」に修正したのでしょうね。

 

JR大石田駅前でタクシーを降り、駅前のメインストリートを、最上川へ向かって、ぶらぶらと散策します。

駅から徒歩15分くらいで、写真の「川舟役所跡大門」(最上川船役所跡)に着きました。 

大石田の中心街を流れる最上川沿いには、江戸時代に使用された幕府の「船役所跡」が残されており、その石垣に、当時の栄華の面影が残されています。

  

現在は、当時の船役所の大門や塀蔵が再現されていました。

 

最上川に沿って少し歩くと、芭蕉が3泊した「高野一栄宅跡」がありました

  

現在は、別の方の住宅になっている庭に、「おくのほそ道」紀行300年記念で、平成元年に建てられたという芭蕉真蹟の歌仙「さみだれを」の石碑が建っています。

石碑の上段が表6句で、下段が裏6句だそうです。

 


「高野一栄宅跡」から、最上川沿いに、更にワンブロック歩くと、写真の「西光寺」があります。

   

 

境内にある写真の芭蕉句碑は、芭蕉が自筆したという芭蕉真蹟歌仙の「さみだれを」の発句を、地元の医者で俳人だった「暁花園 土屋只狂(ぎょうかえん つちやしきょう)」が、

明和年間(1764~1772年)に模刻、建立したものだそうです。

 ”さみ堂礼遠(さみだれを) あつめてすゝし もかミ川  芭蕉”

この句碑は、風化が進んでおり、保存のために、写真の様に、ガラス張りの覆い堂の中に安置されており、残念ながら、覆堂のガラス反射で、上手く写真が撮れませんでした・・・

上の写真の中央の芭蕉句碑の周りには、高野一栄、高浜虚子などの句碑もあります。


西光寺を出て、ぶらぶらと散策しながら、メインストリートを、JR大石田駅へ向かいます。

途中で、写真の「大石田町立歴史民俗資料館」に立ち寄ります。

(月曜休館  料金:200円)

最上川の舟運と、江戸時代に中継地として栄えた大石田河岸の資料が展示されています。

(大石田河岸絵図:資料館のパンフレットから)

資料館の隣には、斎藤茂吉が終戦後しばらく居住した住居が保存展示されています。

 

 

 

 

 

 

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23 羽黒山)、(24 象潟)、 (25 酒田)、(26 念珠ケ関)、(27 村上) 、 (28 新潟) 、

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バスで行く「奥の細道」(その52) 尾花沢(山形県) 2020.10.24 

2021-03-12 09:16:46 | Weblog

(写真は、尾花沢の「芭蕉・清風歴史資料館」)


前日に、強風と横殴りの雨の中を「尿前の関」と「封人の家」の見物して、鳴子温泉に1泊しました。

(ホテルの朝食) 

翌朝、鳴子温泉のホテルの送迎バスに乗り、芭蕉が10泊もしたという「尾花沢」へ向かいます。

昨日の激しい風雨が嘘の様に、今朝は、気持ちの良い秋晴れとなりました。

(JR大石田駅)

ホテルの送迎バスをJR大石田駅前で下りて、駅前からタクシーに乗り、「尾花沢」の「芭蕉・清風歴史資料館」で下ります。

(タクシー 1,380円)

(「尾花沢」の「芭蕉・清風歴史資料館」)

 

 

 

堺田の「封人の家」に2泊した芭蕉は、刀を差した屈強な若者の案内で、昼でも暗く、山賊が出るという「山刀伐(なたぎり)峠」を越え、無事に「尾花沢(おばなざわ)」の「鈴木清風」宅に着きました。

「奥の細道」:「尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。」

(全文訳 : 尾花沢では清風を訪ねた。清風は、金持ちだが、その心持ちの美しい男である。都にもしばしば行き、それゆえに旅の情をもよく心得ている。数日間泊めて長旅の疲れを労ってくれ、またさまざまにもてなしてくれた。)

「清風」とは俳号で、通称は島田屋八右衛門(やえもん)です。

 清風は、紅花の流通業で財を成した尾花沢の豪商で、芭蕉の門人の一人です。


尾花沢では、芭蕉は、清風と清風周辺の俳人から手厚くもてなされ、度々俳諧を催しています。

ここで詠んだ以下の芭蕉の3句は、何れも「鈴木清風」の手厚いもてなしに対する感謝の意を込めたものです。

①”涼しさを 我宿(わがやど)にして ねまる也(なり)”

 ・旅先にありながらも、涼しさを、自分の家の様に味わいながら気兼ねなくくつろいでいるよ。

 (もてなしてくれた清風の名に”涼しさ”を掛け、山形弁の「ねまる=座る」を使うことで、清風への感謝の意味合いを出しています。)

②”這ひ出よ(はいいでよ) 飼屋(かいや)が下の ひきの声” 

 ・飼屋(=養蚕小屋)の床下のヒキガエルよ、そんな所で鳴いていないで、這い出てきて私の相手をしておくれ、と尾花沢でのんびり出来た気持ちを表しています。

③”眉掃(まゆはき)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花”

  ・紅の花が、女性の眉履き(眉刷毛)の形を思い浮かべさせる様に咲いているよ。

 

 (女性の眉履きと尾花沢の紅花:NHK「新日本風土記・奥の細道」から)

 (尾花沢の紅の花の畑:NHK「新日本風土記・奥の細道」から) 

(紅の花:NHK「新日本風土記・奥の細道」から)

 (尾花沢の紅の花の畑:NHK「新日本風土記・奥の細道」から) 

 

 (「鈴木清風」:「芭蕉・清風歴史資料館」の小冊子)

以下は、「鈴木清風」にまつわる有名なエピソードです。

尾花沢の特産品に「紅花」があります。

この「紅花」を独占的に取り扱って、江戸で大々的に販売していた「清風」に対し、江戸の商人達は不買運動を起こします。

これに対抗して、清風は、何と!全ての紅花を、品川海岸で焼き捨ててしまいました!   

このために、紅花が品薄になって値段が高騰、江戸の商人たちは、慌てて高値の紅花を買い漁ります。

ところが、実は、何と!清風が燃やしたのはカンナ屑で、値上がりした紅花を売りさばいて、3万両の利益を得ました。

清風は、この利益の全てを使って、吉原の大門を閉鎖し、遊郭を3日3晩貸し切りにして、遊女たちに休養を与えました。      

この清風の心意気に感じた花魁の「高尾太夫」は、清風との別れに際して、「柿本人麻呂像」を贈りました。

その柿本人麻呂像は、現在、尾花沢の「芭蕉・清風歴史資料館」に展示されています。

(柿本人麻呂像:芭蕉・清風歴史資料館の展示品:資料館のパンフレットから)

 

 

「芭蕉・清風歴史資料館」の前でタクシーを降り入館します。

(入館料 200円、休館・水曜) (展示室の全体風景以外は撮影禁止)

この資料館は、商家であった「鈴木清風邸」跡の隣に、旧丸屋・鈴木弥兵衛家の店舗と母屋を移転復元したものです。

この旧丸屋の建物は、尾花沢地方の江戸時代末期の町家の姿を今に伝えています。

館内の展示は、芭蕉直筆の書簡や、芭蕉愛用の品の他、 鈴木清風の人柄を伝える展示物が並んでいます。


芭蕉・清風歴史資料館を出て、角の銀行を右に進むと、直ぐに写真の「清風邸跡地」がありました。

この清風邸跡地の道を真っ直ぐ進み、突き当りのT字路を右折して少し歩くと、芭蕉が7泊もした「養泉寺」が有ります。

  

「鈴木清風」が、主な宿所にと世話をしてくれたのがこの養泉寺で、当時、寺は修繕したばかりで真新しく、正面に鳥海山、西に月山が望める閑静な環境でした。

養泉寺は、その後の火災で焼失し建替えられたので、当時の面影はありませんが、上の写真の井戸は、芭蕉が宿泊したときのものだそうです。

  

境内には、芭蕉が詠んだ「涼しさを我宿にしてねまる也」(句意は前述)の上の写真の句碑(いわゆる「涼し塚」)と、下の写真の「芭蕉と清風たちの歌仙の連句碑」が建っています。

 


空腹になったので近くの食堂に入ろうとしますが、下の写真の張り紙が!・・・

まあ、首都圏の人間が地方にコロナをばら撒いているいるのは確かなので、気持ちはよくわかりますが・・・お腹が空いた・・・

 

 

 

ps

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14 末の松山)、(15 塩釜神社) 、 (16 青葉城)、(17 松島・クルーズ)、(18 松島・雄島)、 (19 松島・瑞巌寺)、(20 日和山)、 (21 登米) 、 (22 湯殿山)、(23 羽黒山)、(24 象潟)、 (25 酒田)、(26 念珠ケ関)、(27 村上) 、 (28 新潟) 、

29 寺泊)、(30 出雲崎)、 (31 春日山城)、(32 親不知)、(33 那呉浦)、 (34 倶利伽羅峠) 、(35 金沢)、 (36 実盛の兜) 、 (37 安宅の関)、(38 那谷寺)、(39 山中温泉)、 (40 永平寺)、(41 福井)、(42 今庄宿)、 (43 敦賀

、(44 木之本)、(45 姉川の戦い)、 (46 大垣)、(47 芭蕉忍者説 )、(48 深川 )、(49 室の八島 )、(50 尿前の関 )、(51 封人の家 

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鳴子温泉 (宮城県)  2020.10.24

2021-03-05 21:04:09 | Weblog

(写真は、紅葉の名所「鳴子峡」)

 


強風と横殴りの雨の中を、「尿前の関」と「封人の家」の見物を何とか終わり、鳴子温泉駅に戻って来ました。 

駅前には足湯(無料)が上の写真の右側の様に設置されています。

鳴子温泉は、”日本三大こけし発祥の地”ということで、温泉街のあちらこちらに「こけし」の姿があります。

駅周辺の飲食店で遅い昼食を食べます。 

上の「山菜そば」の左側は、甘味噌を香ばしいシソの葉で巻いたもので、鳴子温泉名物の「焼きしそ巻き」です。

(温泉卵と「こごめ」のお浸し)

 


話は少し前後します。

封人の家へ向かうため鳴子温泉駅から「奥の細道号」に乗車しましたが、鳴子温泉駅を出ると、電車は直ぐにトンネルに入ります。

そのトンネルの前で、紅葉の名所の「鳴子峡」がチラリと見えるので、シーズン中は減速運転をしてくれます。  

車窓からは、一面の紅葉と、渓谷に架かる「大深沢橋」が、上の写真の青丸印の様に小さく望めます。

下の写真は、逆に、その「大深沢橋」から、「奥の細道号」がトンネルに入る瞬間を捉えた写真です。

(TV朝日BS「鉄道絶景の旅」から:写真の白丸印が奥の細道号)

(TV朝日BS「鉄道絶景の旅」から:大深沢橋)

(TV朝日BS「鉄道絶景の旅」から:奥の細道号)


「鳴子温泉」は、1000年以上の歴史を有し、仙台の秋保温泉、福島の飯坂温泉と並んで、古くから「奥州三名湯」の一つに数えられています。

また「鳴子温泉郷」は、その中心となる「鳴子温泉」、更に「東鳴子温泉」、「川渡(かわたび)温泉」、「中山平(なかやまだいら)温泉」、「鬼首(おにこうべ)温泉」の五つの温泉の総称です。

「鳴子温泉郷」は、多彩な泉質の温泉地が集まっており、国内にある11種類の泉質のうち、何と!9種類もの泉質が鳴子温泉郷にあるそうです。

「鳴子温泉」は、各旅館がそれぞれ独自の泉源を有しているため、各旅館で泉質が少しずつ異なるそうです。

 


遅い昼食を食べ終えて、温泉街の端にある、宿泊予定の「鳴子観光ホテル」へ向かいます。

鳴子温泉の温泉街を通り抜けてホテルへ向かいますが、温泉街には、閉鎖された旅館や更地が点在し、寂れた印象です。 

宿泊した上の写真の鳴子観光ホテルは、400年の歴史があり、102もの部屋がありますが、所謂、高度成長時代の大型宿泊施設です。

(ホテルの部屋からの温泉街の眺め)

このホテルの源泉の温度は、70度と高いため、常に加水しているそうです。

(男湯「源蔵の湯」:ホテルのパンフレットから)

露天風呂は屋根付きの檜風呂でした。

(露天風呂:ホテルのパンフレットから)

以下、夕食です。

(刺身、牛舌焼き、仙台牛しゃぶしゃぶ等)

(カニあんかけ茶碗蒸し、アワビのロースト)

(冷酒の利き酒)

 

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バスで行く「奥の細道」(その51) 封人の家(山形県) 2020.10.24

2021-02-27 18:35:33 | Weblog

(写真は、「封人((ほうじん)の家」の馬屋)


前回は、強風と横殴りの雨の中を、延々と歩いて、何とか「尿前(しとまえ)の関」を見物しました。

「尿前の関」からホテルに戻り、ずぶ濡れになった服を全て着替え、芭蕉が2泊したという「封人((ほうじん)の家」へ向かいます。

ホテルを出て、JR鳴子温泉駅から、陸羽東線の「奥の細道号」に乗ります。

JR鳴子温泉駅から「奥の細道号」で2駅先の堺田駅で下車します。

堺田駅の目の前に、写真の「堺田分水嶺(ぶんすいれい)」広場があります。

堺田分水嶺で分かれた水脈は、西側(山形県側)は、最上川を経て日本海へ、東側(宮城県側)は、北上川を経て太平洋へ注ぎます。

分水嶺の多くは、山岳の稜線などにありますが、この分水嶺のように、平坦な堺田の集落の中にあるのは、全国でも珍しいそうです。

       

上の左端の写真の石碑の後のアスファルトの道の様に見える部分が、水脈が分岐する場所です。

左端の写真は、風雨が強くなり上手く撮れませんでした。  

という訳で、最上町観光協会のホームページから転写させて頂いた中央と右端の2枚が、同じ場所の水流が分岐している写真です。

 

堺田分水嶺広場から国道47号に出て、強風と横殴りの雨の中を、5分くらい歩いて行くと、下の写真の「封人((ほうじん)の家」に着きました。

「封人の家」は、芭蕉が逗留した建物の中で、全国で唯一、現存している貴重な建物です。(重要文化財)

「封人」とは国境を守る人という意味です。

入場料:250円、 公開:4月~11月(冬季は閉鎖)

「封人の家」(旧有路家住宅)は、上の写真の様に、茅葺き屋根の大型の古民家で、仙台藩と新庄藩の国境に位置していました。

家主の「有路(ありじ)家」は、熱心な馬産家で、堺田村の庄屋も務めていました。

この封人の家は、役屋という村役場の性格も持ち、更に問屋も兼ね、また街道筋の旅宿の機能も備えていました。

この建物は、床の間、入り座敷など5部屋の他に、玄関、土間、馬屋(厩)がありました。

(建物平面積81坪、茅葺屋根面積171坪)

ここ最上町は、かつては、新庄藩の保護の下、山形県内では随一の馬の産地で、乗用馬として、江戸や越前まで移出していました。

明治時代に入ると、軍馬の購買地に指定され、昭和19年まで、軍馬として買上げらていました。

この辺りは、冬は相当に雪が深く、寒さも厳しいため、馬が寒くないように、またいつでも馬の安全が確認できるようにと、馬屋も人の住居の中に一緒になっていました。

ここ封人の家では、当時のこの様な、馬屋や人々の生活の様子が再現されています。

(勝手口)

(裏側)

 


芭蕉は、取締りの厳しい仙台領の「尿前の関」を何とか越え、出羽の国へと旅路を急ぎました。 

しかし、間もなく日暮れになってしまいます。

しかも、大雨になってしまったため、仕方なく、この「封人の家」に、2泊3日も滞在します。 

(奥の細道:「大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す」)

芭蕉は、その時の印象を句に詠んでいます。

 ”蚤虱(のみしらみ)  馬の尿(ばり)する  枕もと” 

この句は、この家の主が、芭蕉を馬小屋に泊めるという酷い扱いをした、と誤解されがちですが、前述のこの地方の家屋の構造を前提に読み解く必要があります。

つまり、馬の尿は勢いが強く、馬屋は、芭蕉が寝ていた座敷から、土間と囲炉裏を挟んで離れていたが、それでも聞こえた、とユーモアを交えた解釈をする必要があります。

この地方の家屋の構造として、土間を隔てて母屋の内に馬小屋が設けてあり、人馬ともに同じ屋根の下に居住していたので、頭のすぐ上で馬の尿する音を聞く様な感じがしたのでしょう。 

(松尾芭蕉が逗留したとされる中座敷)

(土間から見た広い座敷)

(囲炉裏)

(土間)


住宅の敷地の左手前に、上の写真の芭蕉句碑があります。

 ”蚤虱(のみしらみ)  馬の尿(ばり)する  枕もと”

なお当初の句は、「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)こく 枕もと」でした。

確かに、「尿(ばり)こく 」よりも「尿(ばり)する」の方が落ち着きがよいですし、品がよい?ですよね。 

因みに、上の句では(馬の)尿は「バリ」と読みますが、前回の「尿前の関」は「シト」と読みます。

 

 

(見取り図) 

 

ps

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、(44 木之本)、(45 姉川の戦い)、 (46 大垣)、(47 芭蕉忍者説 )、(48 深川 )、(49 室の八島 )、(50 尿前の関

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バスで行く「奥の細道」(その50) 尿前の関(宮城県) 2020.10.24

2021-02-23 06:48:59 | Weblog

 

(写真は、尿前(しとまえ)の関)

 


2017年10月から2年間、私は、旅行社の「バスで行く奥の細道」に参加しました。 

このバス旅行は、2か月に1回の開催で、毎回2泊3日でした。

スタートの「深川」から、約2,400キロ、ゴールの「大垣」まで、2年間もの超長旅だったので、参加メンバーの15名とはすっかり親しくなりました。

ただ、心残りだったのは、平泉から山形の湯殿山までの間の立石寺や最上川については、メンバーの皆さんが複数回行ったことがあるということで、これらを飛ばしてしまったことでした。

この飛ばした区間がずっと気になっていたので、昨年の秋に思い立って、この奥の細道の未制覇区間を3泊4日で訪れて来ました。   

以下に、この「奥の細道」の未制覇区間の昨年秋の旅行について、今回からシリーズで連載します。

 


東京 9:40 →(東北新幹線)→ 11:49 古川  12:15 →(陸羽東線・奥の細道号)→ 13:01鳴子温泉 

 

(東京駅)

(陸羽東線の奥の細道号)

(鳴子温泉駅)


JR鳴子温泉駅で下車して、取り敢えず、今晩の宿の鳴子観光ホテルへ向かいます。  

ホテルの案内で聞いたら、「尿前の関」(しとまえのせき)までは、徒歩15分くらいだというので、荷物を部屋に置いて直ぐに出かけます。

外に出ると、風雨が段々と強くなってきました・・・ 

横殴りの雨に濡れながら、もう20分も歩いたでしょうか、行けども行けども、それらしき案内も標識も何も見当たりません・・・ 

やがて、強風のために傘の骨が折れてしまいました・・・ 

下着までずぶ濡れになって、強風と横殴りの雨の中を、必死で歩いて行きます。

ようやく、初めて尿前の関の入口の標識らしきものがありました。

標識に従って、細くて暗い道を進んで行くと、ようやく、写真の「尿前の関」の門がありました。

「尿前の関」の門から入り、関所の屋敷があったという敷地へ、石段を下りて行きます。 

案内板によると、関所は、間口73メートル、奥行き80メートル、面積1,760坪もあったそうです。

また、関所は、切石垣の上に設けられた土塀で囲まれており、屋敷内には、長屋門、役宅(187坪)、厠、土蔵など10棟が建っていたそうです。

関所の門をくぐり、石段を降りた所には、芭蕉像と石碑があるだけです。

芭蕉像の脇の石碑には、芭蕉一行がこの「尿前の関」を通過するのに苦労した経緯が記されています。

石段を上って、尿前の関の門に戻り、門の前の細い道を更に奥へ進むと、自然石に刻まれた下の写真の石碑が建っていました。

石碑の正面には、上の写真の様に大きく「芭蕉翁」の文字があり、石碑の裏面に「蚤虱 馬の尿する 枕もと」の句が刻まれています。

(句意については、次回の封人の家で詳しく説明します。)

 

平泉を出て、出羽街道の中山峠を越えた芭蕉は、「尿前の関」を経て、尾花沢(山形県)へ向かいます。

「尿前の関」(しとまえのせき)は、出羽(でわ)街道の途中の、「陸奥(むつ)の国」と「出羽の国」の国境にあり、仙台藩が設けた関所でした。

(「陸奥の国」は、現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県にまたがる大国で、「出羽の国」は、現在の山形県と秋田県。)

当時、最上(もがみ)氏と伊達(だて)氏の対立が続いていたことから、尿前の関は、人馬や物資の出入りを厳しく取り締まっていました。

 

芭蕉と曽良は、野宿をしながら、出羽街道の中山峠を越えて、鳴子温泉を目指しますが、この中山峠越えコースが、”奥の細道の最大の難所”でした。

この出羽街道の中山峠越えは、芭蕉の頃は、人が滅多に通らない寂しい街道でした。

芭蕉と曽良は、この出羽街道の山道を、小笹を踏み分け、棒でマムシを叩きながら、沢を渡り、岩にけつまずきながら進みます。 

この「尿前の関」に着く迄に、険しい山道を、風雨にまみれ、野宿しながら歩いたので、どう見ても、怪しげな恰好の2人連れだったでしょう。

その怪しげな恰好に加えて、芭蕉と曽良は、通行手形を持っていませんでした。

当時、旅人は、仙台領に入る際に通行手形を受け取り、領外に出るときに返却することになっているのですが、芭蕉と曽良は、その大切な通行手形を持っていなかったのです!

芭蕉は、事情を説明してもなかなか信じてもらえなかった、と「奥の細道」に書いています。

(奥の細道:「此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす」)

そりゃそうですよね、よそ者であった芭蕉一行が、通行手形無しで、この関所を抜けるのは相当困難だったと思いますよ。

 

また、仙台藩は、芭蕉を幕府の隠密だと疑っていたので、関所の役人は特に厳しく取調べをした、という説もあります。

(芭蕉が幕府の隠密だったという説については、「芭蕉忍者説」を見てね。)                               

あの筆まめな曽良が、この出羽街道の中山越えについて記録を残していないのは、難所の連続と、関所の厳しい取調べに疲労困憊したせいであろう、と言われています。

 

下の写真は、「尿前の関」の道向かいにある「出羽道中 中山越」の石碑です。

中山越えは、尿前の関への細い道を、この石碑で左折し、写真の暗い林の中の道へ入って行きます。

 

 

ps

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甲州街道を歩く( 17-2:犬目)(山梨県上野原市) 4km   2020.11.24

2021-02-17 12:36:51 | Weblog

   

(写真は、犬目峠からの富士山)

 

県道30号(旧甲州街道)をどんどん下って行くと、正面に「恋塚の一里塚」が現れました。

「恋塚一里塚」は、日本橋から21里(84キロ)で、塚の大きさは直径12メートル、高さ5メートルもあります。

この一里塚は、江戸時代には、南塚の塚木は杉で、北塚の塚木は松だったそうです。

写真は、現存する南塚ですが、塚木の杉は残っていません。

この恋塚一里塚から、県道30号(旧甲州街道)をどんどん下って行きます。

やがて旧甲州街道は、一旦、県道30号から分かれて、「馬宿」の集落に入ります。

分岐した旧道を進むと、上の写真の大庭家の「馬宿」跡の大きな建物があります。

大庭家は、江戸時代には、百姓代(ひゃくしょうだい)を務めていたそうです。

百姓代とは、村方三役のひとつで、組頭(年寄)や名主(庄屋)の不正を監視する役です。  


 
旧甲州街道の恋塚旧道は、この馬宿の先から、土の道になりますが、直ぐに、再び、県道30号に合流します。

この合流地点が、歩いて来た恋塚旧道の西口です。

ここから、上野原市を出て、大月市に入ります。

県道30号をどんどん下って行くと、右手の斜面に、写真の様に、馬頭観音像が祀られていました。

更に、坂道を下って行くと、写真の「山谷バス停」がありました。

バス停の時刻表を見てみると、何と!、1日1便だけです!

この「山谷バス停」の辺りから、富士山が見えました!!

甲州街道を歩いて来て初めて見る富士山なので感動します!

葛飾北斎も歌川広重も、この辺りから、”犬目峠からの富士山”として描いています。 

(葛飾北斎「甲州犬目峠」:岩波文庫「北斎 富嶽三十六景」から)

実際の犬目峠周辺の道は、山深いところにあるために、この絵の様に、他の山に遮られることなく富士山を望むことが出来る場所はありません。

下記の歌川広重「甲斐犬目峠」の絵を見ても、富士山の手前に他の山がそびえ立っています。

しかし、「北斎漫画」には、「甲斐の猿橋」、「甲州矢立の杉」などの多くの場所の正確なスケッチを残しているので、北斎が甲州各地を訪れているのは間違いありません。

そこで、この北斎の甲州犬目峠は、敢えて、想像上の景色を描いたものだといわれています。

(歌川広重「甲斐犬目峠」:二玄社「歌川広重 富士三十六景」から)

この絵の右下の隅に、絶壁の急勾配の坂道を登って行く2人の旅人が描かれています。(茶色の丸印)

また、右脇には、立ち止まって富士山を眺めている2人の旅人も描かれています。。(赤色の丸印)

広重は、犬目峠周辺の風景について、旅日記に、「甲斐の山々遠近連なり、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり。十歩十二歩行間にかはる絶景」と書いています。

実際の犬目峠周辺の道は、この絵に描かれている桂川からは、かなり離れているために、この絵の様に、渓谷を覗き込む景観から富士山を望むことは出来ません。

従って、広重は、渓谷の深さと富士山の遠望を効果的に再構成し直したものと思われます。

(歌川広重「富士見百図:甲斐犬目峠」:二玄社「歌川広重 富士三十六景」から)

 

山谷バス停の先で、県道30号から、斜め右下に下りる「原田旧道」に入ります。

この原田旧道で、県道30号をショートカットし、再び、県道30号に合流して、どんどん下って行きます。

早朝に上野原宿をスタートしてから、整形外科医のアドバイスを無視して約15キロも歩いたせいでしょうか、股関節炎が再発したみたいです。

痛みを我慢しながら坂道を下って行きます・・・ 

足を引きずりながら歩いていると、晴天なのに、いきなり、みぞれが降り始めました!

弱り目に祟り目です・・・

中央高速とJR中央本線をくぐると、本日のゴールのJR鳥沢駅まで、あと一息です。   

県道30号が、国道20号に突き当たったので、もう、鳥沢宿に入ったみたいです。

犬目宿からJR鳥沢宿までは約 4キロです。

 

JR鳥沢駅から中央本線に乗り、八王子で横浜線に乗り換えて、何とか無事に、新横浜駅に帰り着きました。  

 

ps.この「甲州街道を歩く」シリーズは、甲州の峠道の雪が解け、コロナが落ち着くまでお休みします。

 これに代わって、次回からは、「バスで行く奥の細道」シリーズの未制覇だった部分をお届けします。

 この未制覇だった部分は、平泉の次から最上川下り迄で、昨秋に旅行しました。

 

 

 

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甲州街道を歩く( 17-1:犬目)(山梨県上野原市)  2020.11.24

2021-02-12 09:29:43 | Weblog

(写真は、尾張の殿様の定宿)


甲州街道の難所「座頭転がし」を無事に抜けると、歩いて来た矢坪旧道の西口にあたる新田に出ました。

この新田の辺りは、「犬目宿」の東側にあたり、写真の立派で長い塀の旧家があります。

この家が、尾張藩主の常宿だった「陣屋」跡です。

この陣屋は、代々、米山伊左衛門を名乗り、尾張藩主の定宿を勤めると共に、庄屋も兼ねていました。

陣屋の脇の道端に、上の写真の「念佛石経塔」と「庚申供養塔」がありました。

尾張藩主御常宿から先に進むと、一旦、犬目宿の東側の集落が途切れます。

旧甲州街道の下り坂を進んで行くと、県道30号に合流します。

更に進むと、集落が見え始め、下の写真の無人の野菜売りもあります。

集落の中を進んで行くと、上の写真の「犬目宿碑」がありました。

この辺りが、犬目宿の西側で、西側の集落には、本陣や問屋などが置かれていました。

犬目宿は、本陣2、問屋1、旅籠15軒でした。

残念ながら、昭和45年の大火で、宿場町の6割が焼失してしまいました。

それでも、出格子造りの雰囲気のある建物が点在します。

宿場町の中程に、写真の「犬目平助 生家」の解説板があります。

1836年の「天保の飢饉」に際して、ここ犬目村の「兵助(へいすけ)」と、下和田村(大月市)の武七が、共に「甲州一揆」を起こしました、

このときの「兵助」は40歳で、妻や幼児を残して参加しましたが、当時、一揆の首謀者は死罪でした。

家族に類が及ぶのを恐れた兵助が、妻へ宛てた「離縁状」が、この生家に残されているそうです。

この甲州一揆は鎮圧され、武七以下13人の首謀者は投獄、処刑されました。

しかし、兵助は各地を流浪の末、上総国(千葉県)の木更津に身を隠し、晩年、こっそりと犬目村に戻りました。

そして、役人の目を逃れて隠れ住み、明治2年、71歳で故郷のここ犬目宿で、ひっそりと亡くなりました。

犬目兵助生家の先の右手に上の写真の「明治天皇御小休所址碑」があります。

ここが、上条家が勤めた「笹屋本陣」跡です。

本陣跡の道路向うが上の写真の「問屋場大津屋跡」です。

 


犬目宿の西の外れには、犬目兵助の菩提寺である写真の「宝勝寺」があります。

県道30号を更に進むと、上の写真左側の1803年建立の「白馬に跨る不動尊像」がありました。

その先に、下の写真の赤い鳥居があり、この鳥居は「白瀧山 白馬不動尊の参道口」で、山中には不動院と白滝があるそうです。

737年、疱瘡(天然痘)が大流行したので、時の天皇が神の啓示を仰ぐと、犬目の白鳥不動尊を祈願せよとのお告げがありました。

天皇の命により、名僧・行基が、白滝に打たれ祈願すると、諸国の疱瘡が治まったといいます。

県道30号を更に進むと、右側の擁壁に設けられた上の写真のスロープが現れます。

ここが「君恋坂旧道」の東口です。 

君恋坂旧道を進んで行きます。

君恋坂旧道を抜けると、下の写真の様に県道30号に合流しました。

県道30号を更に進んで行くと、1798年建立の上の写真の「白滝山不動明王塔」がありました。

多分、先ほどの「白馬に跨る不動尊像」、赤い鳥居の「白瀧山 白馬不動尊の参道口」などと関係する一連の石碑なのでしょう。

 

 

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甲州街道を歩く( 16-2:野田尻)(山梨県上野原市) 4km   2020.11.24

2021-02-05 16:55:04 | Weblog

(写真は、甲州街道の難所「座頭転がし」)

 

野田尻宿を出て、県道30号沿いに、西光寺、荻野一里塚跡を過ぎ、どんどん進んで行くと、やがて荻野の集落に入りました。

荻野の集落を抜けると、県道30号は、中央高速沿いになりました。

やがて、この中央高速を「矢坪橋」で渡ります。

「矢坪橋」を渡ると、上の写真の「大乗妙典 (だいじょうみょうてん) 日本廻国(かいこく)供養塔」(1813年建立)がありました。

「大乗妙典 日本廻国 供養塔」とは、江戸時代に、全国六十六ケ国を巡礼し、一国一ケ所の霊場に、法華経を一部ずつ納め終えた行者が、その納経達成を記念して建てた塔です。

「矢坪橋」の先の「矢坪坂」を上って行き、上の写真の右手のスロープの「矢坪旧道」に入ります。 

その矢坪旧道の入口に、写真の「矢坪坂の古戦場跡」の説明板がありました。

説明板によると、1530年、相模国の北条氏の軍勢が、この「矢坪坂」を上って、甲斐国に攻め込んで来ました。

これに対し、甲斐国の武田家の家臣の小山田氏の軍勢が、「矢坪坂」の上で待ち構え、戦闘となりました。

激戦の末、武田側の小山田氏が破れ、「矢坪坂」から撤退しました。

その後、この矢坪坂付近からは、当時の激戦の際の弓矢が多数掘り出されたそうです。

 矢坪坂を上り切ると、甲州街道は細い山道になり、甲州街道の難所「座頭ころがし」を目指します。

長閑で快適な矢坪旧道を進みます。

突然、「熊出没」の看板が!

えぇ~っ!イノシシの次は熊ですか・・・

中山道踏破のときは、山奥の街道沿いに、クマ避けに鳴らす様に鐘が設置され、熊を捕獲するための罠や檻が置かれており、生々しい感じでホントに怖かったです。

(中山道のクマ避けの鐘と熊捕獲の檻については、「中山道を歩く・奈良井」と「中山道を歩く・細久手」を見てね。)      

でもこの辺りは、写真の様な、立派な造りの民家が点在しているので、もし熊に遭遇したら、この辺りの民家に逃げ込むことに決めて先へ進みます。 

やがて、右手に上の写真の「武甕槌(たけみかづち)神社」の鳥居がありました。

武甕槌神社は、軍神を祀るところから軍勢神社とも呼ばれるそうです。

武甕槌神社を過ぎ、雑木林を抜けると、上の写真の青面金剛像が彫られた庚申塔がありました。

やがて、矢坪旧道は、県道30号沿いの崖の中腹の獣道の様な山道になりました・・・

山道の途中に、上の写真の「矢坪金毘羅神社参道」の標石がありました。

更に進んで行くと、かっては甲州街道の難所だった「座頭転がし」の標識があります。

この辺りは、深い谷を挟んだヘアピンカーブの山道で、狭く曲りくねり、崖側の頭上からは、石が転がり落ちてくる危険がありました。

その昔、先導者の鈴音を頼りに進んできた座頭(目の不自由な人)達が、屈曲している山道を、先に回り切ってしまった先導者の鈴音の方に進み、谷底に転落死したそうです。

(中山道の「座頭転がし」については、「中山道を歩く・碓氷峠」を見てね。)     

現在は、座頭が谷底に転がり落ちたという崖の側には、写真の様に緑色の金網が張られていて安全です。

「座頭転がし」を無事に抜けると、これまで歩いて来た矢坪旧道の西口にあたる蛇木新田の舗装路に出ました。


 
この辺りは、もう次の「犬目宿」の東側になります。


野田尻宿から犬目宿までは約 4キロです。

 

 

 

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甲州街道を歩く( 16-1:野田尻)(山梨県上野原市) 2020.11.24

2021-01-30 08:53:17 | Weblog

    

(写真は、野田尻宿の町並み)


「野田尻宿」は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠9軒でした。

ひとつ手前の「鶴川宿」と同様に、鶴川が水量が増して川留になると、大いに賑わいました。

安藤広重は、ここ野田尻宿に宿泊したときの様子を、「小松屋といへるにとまる。広いばかりにて、きたなき事おびたゞし。」と酷評しています。

野田尻宿の町並みは、残念ながら、明治19年の大火で、跡形もなく燃え尽きてしまいました。 


野田尻宿に入ると、右手に「明治天皇御小休所址碑」がありますが、ここが「宮田本陣」跡です。

宮田本陣跡の道路向いに上の写真の「野田尻宿碑」がありました。

野田尻宿碑の後ろの家は、「旅籠・大黒屋」跡です。

上の写真の「犬嶋神社」は、野田尻宿の鎮守です。

以下は野田尻の町並みです。

野田尻宿を出ると、緩やかな上り坂になります。 

緩やかな上り坂の左手に、上の写真の「お玉ヶ井碑」が建っています。

伝説によると、昔、野田尻宿の旅籠の美しい女中の「お玉」が、長峰の池に住む「竜神」と恋仲になりました。

しかし、お玉は、旅籠の主人に注意されたために、姿を消してしまいます。

すると、旅籠の前に置いてあった手桶から水が湧き出し、お玉は「竜神」と結ばれて竜になりました。

これは、お玉は念願の竜神との恋が叶ったので、水不足に悩んでいた野田尻宿の人々のために、ここ「お玉ヶ井」に水を湧き出させたのだそうです。

緩やかな上り坂の正面は「西光寺」です。

「西光寺」は、824年創建の臨済宗で、この辺りの臨済宗の本山です。

西光寺の前のY字路を、右手の上り坂に入ります。 

その上り坂を先に進み、道標「旧甲州街道 大月・甲府方面」に従って、左手の「北久保橋」で中央高速を跨ぎます。 

北久保橋を渡り終わると、土の道になりました。

土の道を進んで行くと、県道30号に出たので、ここを、「犬目・鳥沢方面 旧甲州街道」の木製の道標に従って右折します。 


 
県道30号を更に進んで行くと、右手の擁壁の先に「荻野一里塚跡」の解説板がありました。

この荻野一里塚は、江戸日本橋から20里目(80キロ)です。

次回は、この一里塚から、更に、甲州街道の最大の難所だった「座頭ころがし」を越えて、次の「犬目宿」へ向かいます。

 

 

 

 

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甲州街道を歩く( 15-2:鶴川)(山梨県上野原市) 4km   2020.11.24

2021-01-23 06:53:20 | Weblog

(写真は、大椚観音堂の二十三夜塔)

 

鶴川宿のメインストリートを出て、「旧甲州街道(大月・甲府方面)」の標識に従って、坂を上って行きます。 

やがて、Y字路の分岐点があり、これを右折すると、下の写真の古い蔵がありました。 

更に、竹林や雑木の中の緩やかな上り坂を進んで行きます。 

やがて、道は緩やかな下り坂になり、中央高速の側道に出ました。 

その側道を暫く進むと、左手に「鳶(とび)ケ崎橋」があり、この橋で中央高速を跨ぎます。

鳶ケ崎橋を渡り、急な上り坂を進んで行くと、左手に下の写真の「大椚(おおくぬぎ)一里塚」跡碑がありました。

日本橋から数えて19里目(76キロ)です。

大椚一里塚から、更に、緩やかな上り坂を進んで行くと、下の写真の1800年建立の「廿三夜(にじゅうさんや)塔」(注)がありました。

 (注)廿三夜塔:月を信仰の対象として、「講中」といわれる仲間が集まり、悪霊を追い払うために、陰暦の23日の夜に、月待ちをする行事。(二十三夜待ち)

         当日の夜は、お経を唱え、飲み食いや雑談をして夜更かしし、月の出を拝みました。

         その供養を行った記念として建てられたのが、下の写真の「廿三夜塔」で、月待塔(つきまちとう)とも呼ばれました。

廿三夜塔から、更に、緩やかな上り坂を進みます。 

緩やかな上り坂の左手に、上の写真の「大椚(おおくぬぎ)宿 発祥の地」の朽ちた木の標柱がありました。

大椚宿は、前の鶴川宿と次の野田尻宿との中間に位置する「間の宿」(あいのしゅく) でした。

「大椚宿発祥の地」の標柱の右横にあるのは、1777年建立の「秋葉山常夜燈」です。

大椚宿発祥の地標柱から、更に、緩やかな上り坂を進みます。 

緩やかな上り坂を進んで行くと、左手に写真の「大椚(おおくぬぎ)観音堂」がありました。

観音堂の境内には、写真の「廿三夜塔」(注:前述)などの石塔がたくさん並べられていました。

観音堂の境内の奥には、上の写真の「吾妻(あずま)神社」がありました。

案内板によると、神社の境内にあった大椚(おおくぬぎ)が地名の由来でしたが、残念ながら枯れてしまったそうです。

大椚観音堂を出て、緩やかな下り坂を進みます。 

やがて、緩やかな下り坂は、中央高速に沿った道になりました。 

やがて、中央高速沿いの道の左手の小公園に、下の写真の「古池や かわず飛びこむ 水の音」の「芭蕉句碑」がありました。

案内板によると、この小公園の東側に「濁り池」、更にその北西に「殿の井戸」があったそうです。

ただし、芭蕉の上の句の古池は、この「濁り池」とは直接の関係はなさそうです。

この「濁り池」は、中央高速の建設の際に埋められたそうです。

芭蕉句碑の横に上の写真の「長峰砦跡」の碑がありました。

案内板によると、武田信玄は、甲斐の国(山梨県)の東口を北条氏の侵略から防衛するために、この地に「長峰砦」(中世の山城)を築いたそうです。

この地は、甲斐・武蔵・相模三国が国境を接する地なので、“境目の城”と呼ばれました。

この「長峰砦」跡は、中央高速の建設工事の際の発掘調査によって、郭、堀切、横堀の跡が発見されましたが、この史跡も、工事完成時に埋め戻されました。

小公園から先に進んで、写真の「新栗原橋」で、中央高速を跨ぎます。

新栗原橋を渡ってから、坂道を下って行くと、切通しの間から、先方に集落が見えて来ました。 

あの集落が次の宿場町の「野田尻宿」の様です。


鶴川宿から野田尻宿までは約 4キロです。

 

 

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甲州街道を歩く( 15-1:鶴川)(山梨県上野原市)  2020.11.24

2021-01-16 09:49:47 | Weblog

(写真は、鶴川宿の町並み)

 


甲州街道の「上野原宿」を出て、「鶴川」を「鶴川橋」で渡ると「鶴川宿」です。 

“人足による川越”が行われていた「鶴川の渡し」が、現在の鶴川橋の少し下流にありました。 

「鶴川」は、甲州街道で唯一の「川越(かわこし)河川」で、増水期には「川越(かわこし)人足」を置いて、川越賃銭を徴収していました。

また、冬の渇水期には、仮橋を架けて、橋銭を徴収していました。

甲州街道には、鶴川以外にも笛吹川等の橋のない川は数カ所ありましたが、これらの川は全て渡船で、鶴川が唯一の川越河川でした。

 

旅人は鶴川の番所を手形で通過できても、川越ではそうはいかず、番所役人よりも川越人足の方が怖かったそうです。

甲州街道は、人通りが少ないため、川越人足の収入は少なく、生活の苦しさから、他国の旅人から大金を強請する事が多々ありました。

更に大きな事件になってしまった例もあり、特に有名なのは、歌舞伎の団十郎一座が、川越人足によって川に突き落とされたというエピソードです。

もっとも、この話にはオチがあり、団十郎の祖先が武田氏に仕えていたのに対し、川越し人足の祖先は、武田勝頼を裏切った小山田氏の家臣だったから、というものです。

 

「鶴川宿」は、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠8軒でした。

鶴川は都留川とも書かれ、鮎が名物でした。

鶴川宿は、小さな宿場町でしたが、鶴川が川留めになると、大いに賑わいました。


鶴川を渡り、「鶴川宿」に入ります。

宿場町の入口に、写真の「鶴川宿碑」 がありました。

先に進むと、上の写真の1688年建立の「萬霊塔」があります。

萬霊塔は、人も獣も広く生あるものの霊を祀るための塔です。

宿場町の左手には、写真の1661年創建の鶴川村の鎮守の「牛頭天王(ごずてんのう)社」がありました。

宿場の中心部分には、上の写真の問屋も兼ねていたという「柏屋脇本陣」跡があります。

その隣りは、上の写真の「旅籠澤田屋」跡です。

上の写真のは、「加藤家・問屋場」跡です。

以下は、宿場町の町並みです。

江戸時代の古い民家は残っていませんが、新築の家も宿場町の調和を保った造りで、町並み全体が落ち着いた雰囲気です。

宿場町の端に、「富田本陣」があったそうですが、現在は上の写真の「老人ホーム・あいらーく鶴川宿」になっています。

この辺りが、宿場町の西の枡形で、街道は直角に曲がり、左折します。

その先は、「旧甲州街道(大月・甲府方面)」の標識に従って、次の野田尻宿を目指して、坂を上って行きます。 

 

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