ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

バスで行く「奥の細道」(その43)「敦賀・気比神社」(福井県) 2019.10.9

2020-02-12 10:28:14 | Weblog

(写真は、気比神宮の大鳥居)


年末年始の温泉三昧で、一次中断しましたが、「奥の細道」もゴールの大垣まであと一息、バス旅行を続けます。  


「芭蕉」と親友の「等栽」(とうさい)は、「福井」を発って、「今庄(いまじょう)宿」に一泊、その翌日の夕暮れには、「敦賀」の旅籠・出雲屋に到着しました。

実は、山中温泉で芭蕉と別れた「曽良」が、芭蕉の到着の5日も前に「敦賀」に到着していて、先回りして、出雲屋に1両を預けていました。

このため、出雲屋での芭蕉の待遇は良かったみたいです。

曽良は、敦賀の先の芭蕉の宿泊予定の旅籠にも先回りしてお金を預けるなど、かなり精力的に動いていました。

何だか、これが山中温泉で腹痛をおこした重病人の曽良の行動とは思えませんが、しかし、口うるさい芭蕉のストレから逃れて、ホントに腹痛が急回復したのかも?・・・

さて、話を戻して、出雲屋に着いた芭蕉と等栽は、直ぐに「金ヶ崎城跡」へ向かい、ここで、宿の主人から、南北朝時代の「沈鐘伝説」(注)を聞き、下記の句を詠みます。

 ”月いづく 鐘は沈める 海の底” 

  (仲秋の名月は雨で見えないが、暗い海の底には鐘が沈んでいるそうだ。月明りもなく、鐘の音もない十五夜だ。)

  (注)「沈鐘伝説」:1337年、新田義貞らの南朝軍は、金ヶ崎での足利軍との戦いに破れ、義貞の息子の義顕は、陣鐘(軍勢の進退の合図に鳴らす鐘)を海に沈めて、金ヶ崎城を枕に討死しました。

            のちに、敦賀の国守が海に海士を入れて探らせましたが、陣鐘は逆さに沈み、龍頭(釣鐘を吊るすための竜の頭の形をした鐘の頭部の金具)が海底の泥に埋まって、引き上げることが出来ませんでした。


金ヶ崎城跡から宿に戻った芭蕉は、出雲屋の主人から、「今晩は晴れだが、北国の天気は変わり易い」と言われます。

そこで、今晩は中秋の名月の前夜だけども、今のうちに、近くの「気比(けひ)神社」に参詣しておこうと、出雲屋の主人の案内で、夜の気比神社へ出掛けました。

 


我々の「奥の細道」バス旅行は、写真の敦賀の市街地への入口の手前の新保のサービスエリアで、昼食を食べてから、芭蕉が宿に着いてから直ぐに出掛けたという「金ヶ崎城跡」へ向かいました。

 

金ヶ崎城跡へ向かう途中に、写真の「金前寺」(こんぜんじ)があります。

金前寺の境内には、1793年建立の写真の「芭蕉鐘塚」がありました。

金前寺の石段を上ると、目的の「金ヶ崎城址」と「金ヶ崎宮」があります。 

「金ヶ崎宮」は、金ヶ崎城跡の南西中腹にある後醍醐天皇の皇子の恒良親王を祀ってある神社で、明治23年の創建です。

「金ヶ崎城」は、芭蕉が句に読んだ様に、新田義貞と足利軍が戦った古戦場です。

また、「金ヶ崎城」は、南北朝時代の戦いの他にも、戦国時代の「金ヶ崎城の戦い」(注)でも有名です。

(注)「金ヶ崎城の戦い」

  1570年、お市の方を嫁がせて浅井家と同盟を結んでいた織田信長は、越前(福井県)の朝倉義景を攻撃しますが、同盟関係にあった妹婿の小谷城(琵琶湖東岸)の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕しました。

  織田信長の最大のピンチでしたが、この時、朝倉勢の追撃を防ぐために、殿(しんがり)を務めたのが豊臣秀吉であり、信長本隊が本拠地まで帰還するのを援護しました。

  この戦いは、「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)と呼ばれ、日本の戦国史上有名な織田信長の撤退戦となりました。

 (実際の殿(しんがり)の中心になったのは明智光秀だったのですが、この金ヶ崎の退き口の戦いでの光秀の名は、のちに、秀吉の手で歴史から抹消されたらしいです。)

城址からは、下の写真の様に、「敦賀湾」が見えます。

「敦賀湾」は、明治時代には、ロシアのウラジオストックへの玄関口だったそうです。


次に、我々のバス旅行は、芭蕉が、「敦賀」に到着した日の夜に参詣したという「気比(けひ)神社」へ向かいます。

「気比神社」は、越前の一ノ宮で、北陸道の総鎮守です。

写真は、気比神社の「大鳥居」(国重文)で、大鳥居の前の大通りを隔てた向かい側に、下の写真の「遊行の砂持ち神事」の像が見えます。

この像は、土石を入れたもっこを担いでいる遊行上人と土を掘っている男の3人です。

気比神社の参道がぬかるみ、民衆が難渋しているのを見て、遊行上人が自ら砂を運び修繕したという故事に基づく像だそうです。

写真は、気比神社の拝殿です。

上の写真の「芭蕉像」の台座には、”月清し 遊行の持てる 砂の上”の句が刻まれています。

上の写真は、「芭蕉翁月五句の碑」で、芭蕉は、敦賀を中秋観月の名所と定めて、気比神社を訪れ、この句碑に刻まれている句を詠みました。

「国々の 八景更に 気比の月」、「月清し 遊行のもてる 砂の上」、「ふるき名の 角鹿(つぬが)や恋し 秋の月」、「月いづく 鐘は沈る 海の底」、「名月や 北国日和 定めなき」

出雲屋での待遇に気を良くしたのか?・・・上記の様に、一気に5句も!・・・ここ敦賀に来て、芭蕉はパワー全開の様です。

上の写真は、境内にある「芭蕉句碑」(右側)と「芭蕉翁杖跡碑」(左側)です。

芭蕉句碑には、”(気比のみや) なみたしくや 遊行のもてる 砂の露 (ばせを )”、とあります。

また、芭蕉翁杖跡碑には、 ”なみたしくや 遊行のもてる 砂の露 (はせを)”と、”月清し 遊行のもてる 砂の上 (はせを)”、の2句があります。


p.s
ここまでの奥の細道・バスツアーについては、下記をクリックしてください。

 

1 千住~白河)、(2 那須・黒羽)、(3 黒羽・雲岩寺) 、(4 殺生石)、(5 遊行柳)、(6 白河の関)、(7 須賀川)、(8 安達ケ原の鬼婆)、(9 しのぶもじ摺り) 、(10 医王寺)、 (11 実方中将の墓)、(12 宮城野)、(13 多賀城)、

14 末の松山)、(15 塩釜神社) 、(16 青葉城)、(17 松島・クルーズ)、(18 松島・雄島)、(19 松島・瑞巌寺)、(20 日和山)、 (21 登米) 、(22 湯殿山)、(23 羽黒山)、(24 象潟)、(25 酒田)、(26 念珠ケ関)、(27 村上) 、(28 新潟) 、

29 寺泊)、(30 出雲崎)、(31 春日山城)、(32 親不知)、(33 那呉浦)、(34 倶利伽羅峠) 、(35 金沢)、 (36 実盛の兜) 、(37 安宅の関)、(38 那谷寺)、(39 山中温泉)、(40 永平寺)、(41 福井)、(42 今庄宿

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房総・白浜温泉 (千葉県)  2020.1.3

2020-02-06 10:38:26 | Weblog

(写真は、仁右衛門島の「伊勢海老の活き作り」。)

 

今年の正月は、房総の「白浜温泉」に1泊して温泉でのんびりしました。  

横浜駅 → 東京駅 (11:00) → (JR特急わかしお) → (12:52) 安房鴨川駅 (13:08) → (JR内房線)→ (13:16) 千倉駅    (13:45) → (安房白浜行き路線バス) → (14:04) 塩浦バス停  

(東京駅)

  

(安房鴨川駅)

(千倉駅)

(千倉駅前のバス停)

(塩浦バス停)

 

「ウミサトホテル」 (1泊2食付き正月料金:21,500円)

ホテルの近くの海岸沿いの漁師小屋で、上の写真の干物類の土産を買いました。

(ホテルの部屋から)

(大浴場:ホテルのパンフレットから)

ホテルの夕食は、海の幸が豊富なバイキングでした。

写真右上の活きたアワビは、事前予約が必要な品(追加料金1,000円)ですが、アワビの身が分厚くて、最高に美味しかったです!

 

翌朝、ホテルの送迎バスで、JR千倉駅まで行き、千倉駅から JR内房線に乗って、安房鴨川駅の一駅手前の上の写真の「太海(ふとみ)駅」で下車します。

駅から徒歩12分 の「仁右衛門島」(にえもんじま)へ、海岸沿いの小道を歩いて行きます。

仁右衛門島の渡船場から渡し舟で、僅か5分で仁右衛門島です。

 (仁右衛門島の観覧料:往復の渡船料含: 1,250円) 

2人の船頭さんが漕ぐ珍しい「二丁櫓」の渡し船で島に渡ります。

 

仁右衛門島は、写真の様に、風光明媚な島で、また、源頼朝の伝説もあります。 

鎌倉時代に、この島に住み始めた初代の「平野仁右衛門」からずっと、平野家が一戸だけ、現在に至るまで、この島にお住まいだそうです。

この島の持主の「平野仁右衛門」さんの一族が住んでいる島、というところから、島の名前が「仁右衛門島」(にえもんじま)だそうです。

平野家の当主は、代々、平野仁右衛門を名乗り、現在の島主が、何と!推定で38代目だそうです!

以下の写真の現在の平野家の家屋は、1704年に建て直されたもので、観光客に公開されています。

 

平野家の家屋を出て、島をぐるりと一回り散策します。

 

島の東部には石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、夜襲を避けて潜伏したとされる洞窟がありました。(源頼朝隠れ穴)

言い伝えでは、1180年、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房に逃れた際、平野仁右衛門に助けられ、この島で平家軍から一時身を隠し、巻き返しを図ったそうです。

(源頼朝の隠れ穴)

昼食は、渡し舟で渡船場に戻り、舟乗り場の脇の写真の「江澤館」で、「伊勢海老の活き作り」(2,200円)と「刺身定食」(1,650円)を食べました。

 

 

 

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伊東温泉(2/2):東海館(静岡県)  2019.12.29

2020-01-30 17:07:55 | Weblog

(写真は、伊東温泉・東海館の「お座敷文化大学」)

 

昨年の年末は、伊豆・伊東温泉の「曽我兄弟の首塚」にお参りしたあと、下の写真の木造三階建ての「山喜旅館」で1泊しました。

山喜旅館は、上の写真の様に外観はみすぼらしいですが、1階から3階まで通し柱10本で支えられた木造三階建ての由緒ある建物です。

大正時代に建てられた”ノスタルジックなこの温泉旅館”は、共同トイレで部屋にバスが無いので、最近の若い人には不人気らしいですが、私は好きです。

(同じ様な「木造三階建ての温泉旅館」については、熊本・日奈久温泉の「金波楼」、 群馬・四万温泉の「千と千尋の神隠しの舞台」を見てね。)  

昭和15年創業のレトロな造りと、リーズナブルな料金に惹かれて宿泊予約しました。(1泊2食付きの正月料金で13,200円)

写真は旅館の夕食です。

ここ伊東温泉は、全国でも5本の指に入るくらい湯量が豊富な温泉地なのです。

温泉の浴槽も、レトロなタイル張りで、塩味もあり身体が温まる温泉でした。

 

翌朝、山喜旅館を出て、すぐ近くの「東海館」の見学に行きます。

下の写真は、街の中心部を流れる松川べりから撮影した「東海館」です。

写真は、細かい細工を駆使した唐破風の玄関の荘厳な造りです。

テレビニュースでは、新年を迎える東海館の様子が放送されていました。

「東海館」は、昭和3年開業、平成9年まで、70年近く営業した歴史があります。

その後は伊東市に寄贈され、現在は、伊東温泉の観光文化施設になっています。(入館料200円)

また、映画「テルマエ・ロマエ」の原作第4巻にも、東海館がモデルとして描かれているそうです。 

この東海館で実施しているのが、芸者の着付けとお化粧をして作法を学べる「体験スポット・お座敷文化大学」です。

最盛期の昭和30~40年代には、伊東の町には750名もの芸者さんがいたそうです。

芸者の姿で温泉街の散策ができる「90分の芸者姿体験コース」(12,800円)と、お座敷のお稽古まで体験できる本格派の「お座敷お稽古1泊2日コース」(18,800円)の2コースがあります。  

「芸者姿体験コース」は、芸者のかつらを付け、プロによるメイクで、化粧と衣装の着付けをして、記念写真撮影を行います。

また、「お座敷お稽古コース」は、お座敷デビュー体験を目的とした体験で、着付をしたあとで、芸妓講座、作法、都々逸、踊りのレッスンを受ける本格派コースです。

写真は、三階の120畳の大広間で、ここでは、ご紹介した「体験スポット・お座敷文化大学」などが開催されています。

「東海館」は、当時の一流の職人達が、桧や杉などの高級木材や、変木と呼ばれる形の変わった木々をふんだんに用いています。

客室は、部屋の入口に屋根を葺いた一戸建て風になっていて、廊下には、様々な形をした飾り窓があり、その窓飾りで、部屋がわかる様になっています。

客室の廊下も、変木を配するなどこだわり抜いた造りです。

客室の書院の欄間や障子や飾り窓には、以下の写真の様に、幾何学模様や網干状などのデザインが施されており、最高レベルの職人の腕の結晶を見ることが出来ます。

(欅の階段)

(ガラス窓の隅は掃除し易い様に丸みを帯びています。)

(障子に帆かけ舟)

(投網)

(部屋から川面を見下ろす)

写真は、望楼で、伊東の街を360度見晴らせます。

東海館では日帰り入浴(入浴料500円)もやっていますが、大浴場は浴室が狭く、2時間待ちとのことだったので諦めました・・・

 


東海館を出て、伊東の繁華街の海女屋の海鮮丼(2,200円)昼食です。

別注文した下の写真の金目鯛の刺身(1,600円)が美味しかったです。

昼食を終えて、早目に帰宅しました。

(JR伊東線で伊東から熱海へ)

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伊東温泉(1/2):曽我兄弟の首塚(静岡県)  2019.12.29

2020-01-24 09:42:46 | Weblog

(写真は、曽我兄弟の首塚)

 

伊豆・熱海・箱根の一帯で、私が一番好きな温泉地は「伊東温泉」です。 

昨年の年末は、伊豆の伊東温泉にある「曽我兄弟の首塚」(注)にお参りに行き、伊東温泉で1泊しました。

(注)「曽我兄弟」 : 源頼朝が行った富士の裾野の”巻狩り”(当時の軍事演習)の際に、「曾我五郎」と「曾我十郎」の兄弟が、父親の仇である「工藤祐経(すけつね)」を討ちました。

                       しかし、兄の十郎は、騒ぎに気付いた武士たちに討たれ、弟の五郎は取り押さえられて斬首されました。

            兄の十郎には、東海道の大磯宿に、恋仲の「虎御前」(とらごぜん)がいましたが、仇討ちの後、虎御前は、兄弟の遺骨を持って出家します。

            その後、虎御前は、兄弟の仇討ち話を語り継いでいきますが、この話が次第に世間に広まり、江戸時代に入ると、歌舞伎などで、”曽我物”として演じられ、人々の心をとらえました。

(富士の裾野仇討ちの図:伊東温泉・東海館の展示パネルから)

  

(小田原の曽我梅林で売られている曽我兄弟の「五郎餅」)

          (「曽我兄弟の墓」がある城前寺については、 「曽我梅林」(小田原市)を見てね。)

          (大磯宿の虎御前の墓については、 「バスで行く東海道・保土ヶ谷~大磯」の「8.大磯」を見てね。)

 


我が家から徒歩10分で新横浜駅、新横浜駅から新幹線で25分で熱海駅、熱海駅から伊東線で5駅の20分で、目的の伊東駅です。

伊東駅の観光案内所で、伊東市街地の散策地図を貰って、市街地の外れにある「東林寺」を目指して歩いて行きます。

 

東林寺の手前に、写真の「葛見(くずみ)神社」がありました。

神社の本殿の左手奥には、国指定天然記念物の写真の「大クス」があります。

 

葛見神社の先に、今回の旅行の目的地の「東林寺」がありました。

「曽我兄弟」が、母の再婚先に預けられた関係で、曽我兄弟は、その父や祖父とは苗字が異なり混乱してくると思いますので、先ず、下記の苗字の関係を頭に入れてから、先に進んで下さい。

「曽我兄弟」は「曽我十郎」と「曽我五郎」、兄弟の父は「河津三郎祐泰(すけやす)」、兄弟の祖父は「伊東祐親(すけちか)」、そして仇が「工藤祐経(すけつね)」です。

「東林寺」は、伊豆の豪族である「伊東祐親」(曽我兄弟の祖父)が、殺害された自分の息子の「河津三郎祐泰」(曽我兄弟の父)の菩提を弔うために創建した寺です。

曽我兄弟の父の「河津三郎祐泰」は、領地争いが原因で、「工藤祐経」に殺害されました。 

殺害された「河津三郎祐泰」の2人の息子(曽我兄弟)は、母の再婚先の「曽我家」で成長し、富士裾野で、父を殺害した「工藤祐経」を討ち取り、仇討ちを果たしました。

これが、冒頭でご説明した「曽我兄弟の仇討ち」です。

伊東家の位牌などが並ぶ東林寺の本堂は拝観自由ですが、私が訪れたときは、法要の最中だったため拝観は出来ませんでした。

東林寺の境内の鐘楼の脇から、裏山に上る急な細い山道があり、この坂道をしばらく登ると、「曾我兄弟」の首塚がありました。

「曾我兄弟」の2つの首塚の横には、曾我兄弟の父の「河津三郎祐泰」の墓もありました。

仇討ちを成し遂げた曾我兄弟の首塚は、父の祐泰の傍らで、父の無念を晴らしたことを自慢げに報告しているようです。

(右側が曽我十郎の首塚)

(曽我五郎の首塚)

(河津三郎三郎の墓)

碑には、「曽我之十郎祐成御首塚」、「曽我之五郎時致御首塚」、「河津三郎祐泰之墓」と彫られていました。

東林寺を出て、祐泰の父の「伊東祐親」(曽我兄弟の祖父)の墓へ向かいます。

「伊東祐親」(曽我兄弟の祖父)の墓は、伊東家の菩提寺である東林寺のすぐ近くにあるだろうと思っていましたが、意外と離れた、東林寺の向かいの岡の上にあり、かなりの距離を歩いて行きます。

「伊東祐親の墓」には、写真の様に、祐親のものと伝わる五輪塔がありました。

 

曽我兄弟関連の史跡巡りを終わって、歩いて市街に戻ります。

写真は、明治時代の有名な詩人でありながら医者でもあった木下杢太郎の実家です。

「木下杢太郎記念館」として公開されていますが、残念ながら、年末年始は休館でした。

ここから、市街地の中心を流れる松川沿いに、海岸へ向かって歩いて行きます。

  写真の「東郷記念館」は、日本海海戦で有名な「東郷平八郎」元帥が、昭和4年に夫人の療養のために建てた別荘です。

東郷平八郎も、晩年はこの建物で過ごしたそうです。

ボランティアのオジサンが、建物の内部を詳しく説明してくれました。

海岸に出ると、写真の「按針メモリアルパーク」がありましました。

説明板によると、将軍徳川家康の命を受けて、ここで、日本初の洋式帆船を建造したのだそうです。

按針メモリアルパークの横は、写真の「なぎさ公園」です。

 

 

ps.更に複雑な曽我兄弟の仇討の背景

伊豆に流された「源頼朝」は、北条政子と出会う前に、「八重姫」と愛し合い、「伊東温泉」で密会を重ねました。

しかし、何と!、この「八重姫」の父は、罪人である「頼朝」の監視役であった「伊東祐親」でした。

そう、驚くことに、”曽我兄弟の祖父”の「伊東祐親」は、「源頼朝」の監視役だったのです!!

「伊東祐親」は、平家の役人であり、頼朝の監視役という立場もあり、罪人の頼朝と自分の娘の関係を知り、激怒します。

そして、無残にも、何と!、頼朝と八重姫の子の「千鶴丸」を殺し!、二人の中を引き裂きます。

この曽我兄弟の祖父の「伊東祐親」は、源頼朝が挙兵すると平家の側に付いて戦いましたが、富士川の戦いで破れ、最期は自刃しています。 

この様な状況を利用して、「工藤祐経」は、頼朝に取り入って、「伊東祐親」の「伊東荘」を奪ったのでした。

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天狗党の最後(福井県敦賀)  2019.10.9

2020-01-18 17:38:58 | Weblog

(写真は、敦賀にある天狗党の首領「武田耕雲斎」

   の銅像)


今回のテーマは、江戸時代の最大の惨劇「天狗党

の乱」です。

 

幕末の1864年、「天狗党」を名乗る水戸藩の過激

攘夷派60名が幕府に攘夷を迫るために、筑波山で

挙兵しました。

これに対し、幕府は、高崎や古河など諸藩連合の

6,000名の討伐軍を差し向けます。

しかし、天狗党は、この討伐の大軍に夜襲をかけ、

何と!、大勝利を収めます。

この後、天狗党は、水戸藩の家老・武田耕雲斎に

率いられ、自分達のお殿様である「一橋慶喜」に

陳情と弁明を行うため、京を目指します。

 

この天狗党は、討伐軍を次々に打ち破り、

約1,000名にまで膨れ上がりました。

天狗党は、大砲10門などの火力を持っている

うえに、交戦馴れして徐々に強くなっていきます。

これに対し、平和ボケした諸藩の連合軍は、極力

交戦を避けようと弱腰です。

真冬の中山道を京へ向かう天狗党は、信州の

「和田峠」では、松本藩と高島藩(諏訪)の

連合軍を打ち破ります。

(信州での「和田峠の戦い」については、

 「中山道を歩く・和田峠」を見てね。)

更に、中山道を進みますが、弱腰の討伐軍の

諸藩は、遠巻きに包囲しながらも、なかなか

戦を仕掛けようとはしません。

やがて、天狗党は、大砲を担ぎ、病人を戸板に

乗せての過酷な雪中の行軍となります。 

そして、バスで行く「奥の細道」でご紹介した

「今庄宿」を通過し、「木の芽峠」を越えて、

敦賀の「新保(しんぽ)宿」に入ります。

このとき、天狗党を包囲していた討伐軍の

総指揮者は、何と!、天狗党が自分達の

お殿様と慕う「一橋慶喜」でした。

天狗党の面々は、お殿様の「一橋慶喜」が、

自分達の誠意を汲んでくださるものと信じて、

ここ「新保」の「新保陣屋」で投降しました。

 

823名の天狗党の浪士達は、敦賀の海岸沿いの

16棟の「ニシン蔵」に収容されました。

「ニシン蔵」の環境は劣悪で、雪国である敦賀の

真冬に、各蔵に50~60名ずつに分けて押し込め

られ、寒さで亡くなる者も出始めました。

この虐待に怒り、武士として一戦交えてから死ぬ

べきだった、と後悔する者も少なくなかった

そうです。

慕っていた一橋慶喜への期待は裏切られ、武田

耕雲斎をはじめ、首謀者352名全員が、

何と斬首!!、残りの者たちも厳しい処分が

下されました。

処刑は、ニシン蔵の脇に穴を掘り、5回に分けて

斬首して、死体をそこに放り込むという、残酷

非道なものでした。

更に、処刑後に、天狗党処刑の情報が故郷の

水戸に伝わると、水戸藩では、天狗党の家族らを

次々に処刑しました。

 

しかし、明治維新以降、天狗党の残党が、天狗党

の家族を処刑した者に対して、凄惨な仕返しの

私刑を行い続けました。

「天狗党の乱」は、この様に、日本の幕末に於ける

最大の悲劇でした!

 

我々の「バスで行く・奥の細道」ツアーは、福井

市内を抜けて、「今庄」、「木の芽峠」を経由

して、北陸道を「敦賀」へ向かいます。

 

先ず、天狗党が投降したという、敦賀の新保

(しんぽ)の「新保陣屋」跡でバスを降ります。

 

写真は、武田耕雲斎が、幕府軍の先陣を務めた

加賀藩と、降伏の条件交渉をした「新保陣屋」跡

です。

 

 

 

次に、写真の「松原神社」でバスを降ります。

(福井県敦賀市松原町)

 

「松原神社」は、上の写真の武田耕雲斎らの天狗党

烈士の霊を祀った神社です。

武田耕雲斎は、下記の辞世の句を残しています。

 ”咲く梅の 花ははかなく散るとても 香りは

      君が袖にうつらん”

  (梅の花は散ったとしても、その残り香は、

          あなたの袖に移ることでしょう。

  (いつか、この思いをわかっていただけるに

           違いない。))

前後の写真の「武田耕雲斎等の墓」は、国史跡で、

彼らが処刑後に埋葬された墓所です。

 

 

敦賀市と水戸市は姉妹都市になっており、毎年

10月10日に、「松原神社例祭」の「浪人まつり」

として、411柱の霊を慰める祭が行われて

います。

我々のツアーが松原神社を訪れたのは、その例祭

の前日だったので、神社の境内は、お祭りの

飾り付けで忙しそうでした。

 

墓前で熱心にお参りしているオジサンがいたので、

近寄って話を聞いてみました。

オジサンの先祖は、天狗党の首謀者として斬首

された浪士だそうで、毎年、この「浪人まつり」

に参加するために、水戸から来ているとのこと

でした。

神社の境内には、武田耕雲斎らが収容された

写真の「ニシン蔵」があり、現在は「水戸烈士

記念館」として使用されています。

 

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一乗谷の朝倉氏遺跡(福井県) 2019.10.8

2020-01-04 09:53:09 | Weblog

(写真は、復元された「一乗谷の朝倉氏の遺跡」

 の町並み)


「バスで行く奥の細道」のツアーのメンバーは

全員が歴史好きです。

 

前回は、福井県の永平寺をご紹介しましたが、

永平寺まで来たのなら、すぐ近くの「朝倉氏の

一乗谷」へどうしても行ってみたい、との

皆さんの要望で、急遽「一乗谷」にも立ち寄る

ことになりました。 


戦国時代、「一乗谷」には、5代100年間に

わたって、越前国(福井県)を支配した朝倉氏

の城下町がありました。

そして、朝倉氏が織田信長に滅ぼされた後は、

一乗谷はそのまま見捨てられ、長い間、

田畑の下に埋もれていました。

その後、何と!400年を経て、この一乗谷の

城下町が、近年発掘されました!

遺跡としては、長い間、見捨てられて田畑の下に

埋もれていたのが幸いしたのでしょう、戦国時代

の町並みが、奇跡的に当時のままの姿で発掘

されたのです!

武家屋敷や町屋から道路に至るまで、町並がほぼ

完全な姿で発掘され、国の重要文化財・特別

史跡・特別名勝に”三重指定”されました!

最近のお城ブームで、天守閣や櫓などのの復元は

あちこちで行われていますが、戦国時代の城下町

の町並みの復元は非常に珍しく、歴史ファン必見

です!!

一乗谷は、福井市の南東約10キロに位置する、

上の航空写真の様に、細長い谷間です。

三方を山で囲まれた一乗谷は、ただ一つの出口の

足羽川が外堀の役目を果たし、両側の峰の上には

「一乗谷城」が築かれていました。

一乗谷城は、一度も戦闘に使用されることなく

廃城となってしまいました。

 

現在でも、一乗谷城の曲輪、空堀、土塁などの

遺構が、尾根や谷筋に沿って残っているそう

です。

しかし、年寄りが多い我々「奥の細道ツアー」は、

山の上の一乗谷城へは登りませんでした・・・

 

かっては、この一乗谷の谷間には、朝倉氏の館を

はじめ、武家屋敷・町屋・職人屋敷などが整え

られていました。

また、応仁の乱により荒廃した京から多くの公家

や文人たちが、この一乗谷に避難してきたため、

華やかな文化が花開き、「北の京」と呼ばれて

いました。

 

1573年、織田信長は、柴田勝家を先鋒として

一乗谷に攻め込み、町並みに放火しました。

この放火は三日三晩も続き、それまで繁栄を

極めていた一乗谷は、全てが灰燼に帰して

しまいました。

 

我々のバスツアーは、一乗谷の朝倉氏遺跡の

駐車場で下車して、武家屋敷の散策を開始

します。 

ここで発掘された塀の石垣や建物の礎石を

そのまま使って、戦国時代の町並みが復元

されています!

建物の柱や壁・建具なども、出土した遺物に

基づいて、正確に復原されているそうです。

前頁の写真の左手は、「中級武家屋敷の門」で、

屋敷の中は、下の写真の様に、井戸や小屋等が

あります。

 

 

 

武家屋敷の家の中では、上の写真の様に、武士が

将棋を指していました。

 

 

写真は、仕切りのない広い空き地ですが、「重臣

の屋敷」跡が並んでいた場所です。

 

 

重臣の屋敷地区は、1つ1つの区画が大きく、

基礎石や井戸の跡は残っていますが、建物は

復元されていません。

 

写真は、「庶民の町屋」が並んでいる区画です。

町屋の中は、次頁の写真の様に、当時の生活の

様子が覗える様に展示されています。

 

 

 

町屋の広場には、上の写真の様に、共同の井戸や

トイレがあります。

上の写真は、朝倉氏遺跡の中の資料館で、下の

写真は、館内の復元街並みのジオラマです。

 

 

一乗谷川を橋で渡り、当主の朝倉氏が居住した

「朝倉館」跡へ歩いて行きます。

写真は、朝倉館の入口の「唐門」です。

 

現在の唐門は、江戸時代中期に、朝倉義景の

菩提を弔うために建てられたのだそうですです。

ここ朝倉館には、室町幕府の15代将軍・足利義昭

も招かれていたことでしょう。

朝倉館跡の中には、写真の「朝倉義景の墓」が

あります。

朝倉義景は、織田信長によって滅ぼされた朝倉氏

五代の最後の当主です。

朝倉館は、山の斜面まで続き、山側には、上の

写真の「朝倉義景館跡庭園」がありました。

 

そして、この山の上に「一乗谷城」遺構が

あります。

 

 

 

 

 

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武雄温泉 (佐賀県)  2019.11.21

2019-12-19 19:39:44 | Weblog

(写真は、東京駅を設計した「辰野金吾」による

 「武雄温泉の楼門」)


先月、所用で実家の熊本に帰省した際に、

JR熊本駅から鹿児島本線に乗り、鳥栖駅で

長崎本線に乗り換え、武雄温泉駅で下車して

「武雄温泉」に行って来ました。

 

JR熊本駅 → (鹿児島本線) → 鳥栖駅

→ (長崎本線) → 武雄温泉駅

 

「武雄温泉」の温泉街は、上の写真の武雄温泉駅

から、徒歩約10分のところにあります。


約1300年前に書かれた「肥前風土記」の中にも

出てくる「武雄温泉」には、神功皇后も入浴した

と伝えられます。

そして、1590年代の「文禄・慶長の役」の際は、

朝鮮出兵のために、豊臣秀吉によって名護屋城に

集められた兵士達が武雄温泉に入浴しました。

その際、秀吉は、この兵士達が、他の入浴客に

迷惑をかけない様に「入浴心得」を発しました。

その後、江戸時代に入ると、武雄温泉は、長崎

街道の宿場町として栄え、宮本武蔵なども訪れ

ました。

そして、幕末には、シーボルトや吉田松陰らも

入湯したそうです。


温泉は、「美人の湯」と呼ばれ、サラッとした、

柔らかな湯ざわりの弱アルカリ単純泉です。

温泉の入り口に立つ朱塗りの「楼門(ろうもん)」

は、「天平式楼門」と呼ばれる、釘を1本も使用

しない方法で建てられており、国の重要文化財

です。

この楼門は、東京駅や日本銀行を設計した「辰野

金吾」によって、1915年に建てられました。

 

ところで、東京駅のドームの天井には、ヘビや

タツなど8つの干支(えと)のレリーフがある

のをご存知ですか?

十二支(じゅうにし)のうちなぜ8つだけ

なのか?、長い間、謎とされていました。

(東京駅のドームの天井の干支については、

 「東京駅リニューアルオープン」を見てね。)

 

そして、近年、武雄温泉の管理会社が、「楼門」

の2階の天井にある4つの干支のレリーフと、

東京駅のドームの天井にある8つの干支の

レリーフを合わせると、十二支が揃うことが

わかったと発表しました。

これは、辰野金吾が仕掛けた壮大なミステリー

だったんですねえ。

(楼門の2階の4つのレリーフの公開は、毎朝9時

~10時の1時間のみ(除:火曜)なので、

お昼頃に着いた私は、楼門のレリーフの実物は

見学出来ませんでしたが・・・

 

楼門を入った奥の「武雄温泉 新館」(国重要

文化財)も、辰野金吾の設計です。

 

どちらも竜宮を連想させるような鮮やかな色彩と

形が特徴です。

 

桜門から見える新館の辺りの景色は、アニメ映画

「千と千尋の神隠し」を思わせます。

新館は、昭和48年までは共同浴場でしたが、

現在は、武雄温泉の資料館として開放されており、

当時の共同浴場の内部を自由に見学することが

できます。(入場無料)

 

新館の中央の入り口から入って、右手が「五銭湯」

の女湯、左手が「五銭湯」の男湯、その奥が

「十銭湯」でした。

(「五銭湯」の男湯。女湯も同じ造り。)

五銭湯の天井には、写真の様に、湯気抜きの塔が

あります。

上の写真は、「十銭湯」で、五銭湯より狭い浴槽

ですが、浴槽底のタイルは、マジョリカタイル

です。

マジョリカタイルは、イギリスの陶器メーカーの

商品名の高級タイルですが、この十銭湯の

マジョリカタイルは全て和製の模造品だそう

です。

 

当時の浴場の見学を終え、新館の2階へ

上がります。 

当時は、2階は、次頁の写真の様に、入浴

した後の休憩所でした。

上の写真の様に、新館2階の中央窓からは楼門を

一望出来ます。

 

新館の見学を終えて、私は、地元の人がよく

入りにくるという上の写真の「元湯(もとゆ)」

(400円)に入りました。

 

明治9年建築の「元湯」は、現在使用されている

温泉施設の建物としては、日本最古だそうです。

 

次頁の写真の様に、44~45度の「あつ湯」と、

42~43度の「ぬる湯」の浴槽が隣りあわせに

並んでいたので、私はぬる湯の方に入りました。

(武雄温泉のパンフレットから)

高い天井と広くてゆったりとした浴槽で、

レトロな雰囲気が漂っていて素敵です。

 

この「元湯」の他にも、「鷺乃湯(さぎのゆ)」

(600円)、「蓬莱湯(ほうらいゆ)」(400円)

等の大衆浴場があります。

 

更に、大衆浴場以外にも、「殿様の湯」や「家老

の湯」などの7部屋の貸切湯もあります。

(1室1時間3,800円)

殿様湯は、江戸時代の中期に、武雄領主の鍋島氏

専用の風呂として造られた総大理石の豪華な風呂

だそうです。

(武雄温泉のパンフレットから)

 


武雄温泉の楼門の周辺には、立ち寄り湯が

楽しめる旅館やホテルが点在しています。

武雄温泉駅に戻り、駅の南口から、嬉野温泉

行きのJR九州バスで15分の人気の紅葉

スポット「御船山楽園」へ向かいます。

 

「御船山楽園」は、標高210メートルの御船山の

山麓にある武雄領主・鍋島氏の別邸跡の池泉

回遊式庭園で、東京ドーム10個分ほどの広大な

広さです。

 


また、御船山楽園の隣の枯木塔バス停の前にある

近くにある写真の「慧洲園(けいしゅうえん)」

にも立ち寄ってみました。

慧洲園は、池泉回遊式の日本庭園で、”昭和の

小堀遠州”と称えられた中根金作の作だそうです。

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名護屋城(日本100名城)(佐賀県) 2019.11.17

2019-12-18 06:02:35 | Weblog

(写真は、「名護屋城」の「天守台跡」から望む「玄界灘の島々」)

 

Q:お城の規模では、第1位が江戸城、第2位が

大阪城ですが、では第3位はどこの城でしょうか

A:名古屋城(なごやじょう)かな。

Q:残念、不正解です。

  しかし、読み方は正解です?

A:え~っ?・・・?、どういうこと?

Q:つまり、正解は、「愛知県の名古屋城

(なごやじょう)」ではなくて、「佐賀県の

名護屋城(なごやじょう)」です。

皆さん、半信半疑の様ですね。

それでは、これから、一緒に、第3位の佐賀県

の名護屋城を見に行きましょう。

 

「名護屋城」は、前回ご紹介した朝市や七つ釜で

有名な佐賀県の「呼子」(よぶこ)にあります。

実は、今回、私が呼子を訪れた一番の目的はこの

「名護屋城」でした。

 

「呼子」のバスセンターから、昭和バスで10分の

「名護屋城博物館入口」で下車、徒歩5分で

「名護屋城」です。

「名護屋城」は、大陸侵攻を目指す「豊臣秀吉」

が、朝鮮半島へ兵を送る前線基地として、

1日平均2万7千人も動員して、僅か5カ月で

築いた城です。

この豊臣秀吉による大陸侵攻は、歴史上は「文禄

・慶長の役」(1592年~1598年)と呼ばれて

います。

名護屋城は、下の屏風図の様に、中央の最上段に

本丸、そして中段には、本丸を取り囲むように、

二の丸、三の丸、遊撃丸、東出丸、弾正丸、

そして下段には、山里丸、台所丸を配置した

巨大な城でした。

本丸の北西の隅には、”金箔の瓦”の「五重七層

の天守」(地上六階・地下一階)が建って

いました。

(「肥前名護屋城図屏風」に描かれた五重七層の

  天守:上の屏風図の右手 

 :名護屋城博物館発行の特別企画展の小冊子

  より)

この”金箔瓦の天守”は、海側からよく見える

様に建てられているのが特徴で、明や朝鮮からの

使者に対して、秀吉の軍事力や財力を見せつけ、

出撃していく兵士には安心感を与えるための

”見せるための城”でした。

 

当時の名護屋城の城郭は、大坂城に次ぐ広壮な

規模で、城下には、全国から160もの戦国大名

が集結し、諸大名の陣屋が密集して構築され

ました。

これにより、名護屋城の周辺は、最盛期には人口

20万人を超える巨大な城下町となりました。

 

また、文禄・慶長の役の際、朝鮮半島から多くの

人々が日本に連れて来られ、これらの人々により、

佐賀県を代表する唐津焼、有田焼などが始まり

ました。

現在も、城下町の跡には、徳川家康、上杉景勝、

前田利家などの全国の大大名の陣屋跡が残って

います。

 

秀吉の死後、名護屋城は廃城となりましたが、

その際に多くの建物は、近くの「唐津城」に

移築されたそうです。

更に、江戸時代の島原の乱の後には、名護屋城が、

原城の様に一揆に使われることを恐れた幕府

により、石垣も徹底的に破壊されました。

 

「護屋城博物館入口」バス停で下車したら、

「名護屋城」へ向かう前に、先ず、お城の

道路向いにある「名護屋城博物館」に入ります。

( 月曜休館、入場無料:但し任意の歴史遺産維持

 協力金100円あり)

この館内で、名護屋城跡の散策地図を貰い、次頁

の写真の無料のタブレット(注)を借りましょう。

(注)無料のタブレット:往時の名護屋城の城郭の

様子を再現したアプリ「バーチャル名護屋城」が

見られ、この無料タブレットを使って名護屋城内

でかざせば、420年前の名護屋城の姿が甦ります。

「名護屋城博物館」には、「日本列島と朝鮮半島

との交流史」をテーマに、当時の名護屋城に

関する展示されているので、ここで予備知識を

得てから、名護屋城を散策しましょう。

 

名護屋城博物館を出て、道路向いの「名護屋城跡」

の長さ100メートルの「登城坂」を上って行き

ます。

 

上の写真は、登城坂の入口の「大手門」跡です。

 

登城坂を上り切ったところの右手が下の写真の

「東出丸」跡です。

 

上の写真は、東出丸の「西側 櫓(やぐら)台」

跡です。

 

 

東出丸から三の丸へ向かいます。

 

上の写真は、「三の丸」です。

 

 

上の写真は、三の丸の石垣です。

上の写真は、「三の丸」の「井戸跡」です。

「三の丸」の前方に見える上の写真の階段を上がる

と、本丸の入口となる「本丸大手門」跡です。

上の写真は、本丸大手門跡から三の丸を

見下ろしたところです。

 

上の写真は、「本丸」の名護屋城址の石碑です。

 

上の写真が「本丸」跡です。

 

 

上の写真は、本丸の南西隅櫓跡から眺めた

「櫓台と馬場」です。

 

写真は、本丸の北西に位置する「天守台」跡です。

 

「天守台」跡からは、玄界灘に浮かぶ島々が良く

見え、晴れた日には壱岐や対馬も見えるそうです。

この「天守台」の上には 、 当時、”金箔瓦”の

「五重七層の天守」がそびえていました。

上の写真は、天守台の地下1階部分の礎石です。

上の写真の左側は天守台から見た「二の丸跡」で、

土塁の右側は「遊撃丸跡」です。

(遊撃丸跡)

 

遊撃丸という名称は、文禄の役の際、朝鮮から

講和使節として来日した「遊撃将軍」の宿舎が

あったことによるそうです。

上の写真は、天守台から見た「本丸の多聞櫓」跡

です。

「多聞櫓跡」の地面は、上の写真の様に、

コンクリートで固められています。

三の丸に戻って「馬場」の方向に向かいます。

 

上の写真は、「二の丸」跡です。

 

上の写真は、二の丸から高さ17メートルの

天守台の石垣を見上げたところです。

天守台の海側の石垣は、上の写真の様に、隙間なく

石が積まれています。

 

この石垣の表面は、海側からの天守台の景観を

考慮した設計で、石垣は日の光を反射して

眩く輝いていたことでしょう。

この石垣は、次頁の写真の様に、2つに割った

石の割れ目を、石面の表面にして積んでいます。

 

この工法は非常に手間がかかるため、この石垣が

築かれている場所は、天守台の海から見える側や、

朝鮮使節の宿舎のある回り等に限られています。

 

 

上の写真は、「二の丸」の「長屋建物跡」です。

上の写真は、「弾正丸(だんじょうまる)」で、

奥に凹んで見えるのが、「搦手(からめて)口」

への降り口です。

弾正丸という名称は、ここが秀吉の姻戚の浅野

弾正長政の住居だったためです。

(搦手口)

名護屋城跡を出て、お城の周辺に点在する「陣跡」

を見物します。

現在、名護屋城周辺には、118ヵ所の陣跡が

確認されており、うち65ヵ所に遺構が残って

いるそうです。

このうち徳川家康、伊達政宗、加藤清正、

黒田長政、小西行長、島津義弘、鍋島直茂、

福島正則、上杉景勝、片桐且元、古田織部

などの23箇所の陣跡が特別史跡に指定

されています。

私は、次頁の写真の「木下延俊(のぶとし)」

(秀吉の正室の北政所の甥)の陣跡と、

その次の写真の「前田利家」の陣跡を見に

行きました。

(木下延俊の陣跡)

(前田利家の陣跡)

(前田利家の陣跡)

 

 

 

(大名・陣跡配置図)

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佐賀県・呼子 2019.11.17

2019-12-17 19:19:59 | Weblog

(写真は、呼子のイカの活造り)

 

福岡在住の知人に久し振りに会って酒を飲むため

に、11月15日、羽田空港から福岡空港へ向かい、

福岡のホテルに2泊しました。

宿泊したホテルは、博多川沿いの博多中洲

ワシントンホテルプラザです。

(1泊朝食付:6,500円)

 

福岡空港から5分の地下鉄・中州川端駅で下車

して、次頁の写真の川端商店街を通り抜けます。 

 

 

昼過ぎでお腹が空いたので、取り敢えず、川端

商店街の「一竜」で「博多ラーメン」を食べます。

 

 

 

宿泊予定のホテルは、下の写真の「櫛田神社」

の前の博多川を渡ったところにあります。

 

  

(櫛田神社の境内に展示されている「博多山笠」)

 

福岡に到着した日は、その知人と、中州の歓楽街

で飲み明かして、近くの予約したワシントン

ホテルに2泊します。 

 

2泊した翌朝に、中州川端駅から地下鉄に乗って、

乗り換えなし(相互乗り入れ:快速)で1時間

20分、「JR西唐津駅」で下車します。

(西唐津へ向かう電車の車窓から)

(JR西唐津駅)

 

JR西唐津駅から、次頁の写真の昭和バスで30分、

「呼子(よぶこ)」で下車します。

 

呼子バス停の近くの「呼子の朝市」から見物

スタートです。

 

 

呼子は、昔からイカ漁が盛んな港町で、100年

もの間続いているという「呼子朝市」が

行われています。

約200メートルの「朝市通り」には、毎日、

約50軒の露店や店舗が並びます。

写真は、自家製のイカの一夜干し、みりん干し等

です。

おばあさんが座るパイプ椅子とトロ箱を置いた

だけの露店が多く、飾り気のない売り方に

和まされます。

 

呼子朝市を見終わったところで、朝市の一角に

ある写真の「歳香亭(さいこうてい)」に入り、

呼子名物の「イカの活造り」を注文します。

(イカ活造り定食:3,100円)

運ばれてきたイカは、包丁で刺身用に刻まれて

いるにも拘わらず、未だ生きていて動いて

います!

透き通ったイカの刺身は、甘みがあって、

コリコリとしていて歯応えがよいです!

東京で食べるイカの刺身は、時間がたって

白い色になっているので、しばらくは

食べる気がしません・・・

 

活造りの皿は、いったん下げられますが、刺身

以外のゲソの部分が、下の写真の様に、天ぷらに

なって再び出されました。

こちらも美味い!

 

ついでに、次頁の写真の活アワビ刺身(3,300円)

も注文します。

 

「呼子のイカ活造り」を満喫したところで、朝市

通りの一番奥にある上の写真の「鯨組主中尾家

屋敷」を見学します。(210円:写真撮影禁止)

鯨組主中尾家屋敷は、鯨組主として巨万の富を

築いた「中尾家の屋敷」として建てられた町屋

建築の遺構だそうです。

 

中尾家は、江戸時代中期から明治の初めまで、

8代の170年間にわたり、捕鯨業を一手に

引き受けていた名家です。

豪壮な造りの主屋は、吹き抜けの広い土間、

大きな梁、風格のある座敷など、歴史を感じ

させます。

 

中尾家屋敷を出て、呼子港にある「七ツ釜遊覧船」

の乗り場へ向かいます。(1,800円)

 

(呼子港のイカ釣り漁船)

(七ツ釜遊覧船のイカ丸)

 

港を出ると、10分ほどで「七ツ釜」の断崖絶壁が見えてきました!

奇岩景勝の七ツ釜の洞窟は、7つのカマドを並べたような海蝕洞窟です。

写真中央の一番大きな洞窟は、間口が3メートルですが、奥行きが何と!、110メートルもあるそうです。

遊覧船は、この洞窟の中へ入って行きます。 

えぇっ~、こんな狭い洞窟に入って行くの?、

壁にぶつかりそう~・・・

ギリギリの横幅、天井もギリギリの高さです!

遊覧船は、間口3mほどの洞窟に、ゆっくりと

進入します。 

絶壁が目の前です!

この縦に切り立った岩は、「柱状節理」

(ちゅうじょうせつり)と言われるもので、

デッキに立ち目の前に迫って来る柱状節理は

スゴイ迫力です!

エメラルド色に輝く海と、柱状節理に圧倒

されます!

 

岸壁の洞窟に入る瞬間はスリリングですが、

洞窟内部は、静かで、深く澄んだエメラルド色の

神秘の別世界です!

 

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鞠智城(続日本100名城)(熊本県    菊池市)  2019.10.31

2019-12-16 11:13:44 | Weblog

 

 

(写真は、鞠智城の鼓楼)

所用で実家の熊本に帰省した際に、近年、城跡が

発掘・整備されたという「鞠智城」

(きくちじょう)へ行ってみました。

 

663年、白村江(はくすきのえ)の戦いで、

「大和朝廷」は、唐と朝鮮の新羅の連合軍に

大敗しました。

大和朝廷は、唐と新羅の連合軍による日本への

侵攻を恐れ、「大宰府」を守るために福岡県に

「大野城」を、その後方支援基地として熊本県に

「鞠智城」(きくちじょう)を築きました。

 

熊本市の中心街の桜町バスセンターから、

産交バスで1時間の菊池プラザで下車します。

上の写真の菊池プラザバス停からタクシーで5分

(1,220円)の「鞠智城跡」に着きました。

「鞠智城跡」は、台地状の丘陵に築かれた「古代

山城」で、国の史跡に指定されています。

昭和42年からの発掘調査により、八角形の建物跡

をはじめ、72棟の建物跡や、貯水池跡、土塁跡

など、当時の姿を物語る遺構が相次いで発見され

ました。

これらの発掘調査に基づき、平成6年から、4棟

の復元建物(八角形の鼓楼、米倉、兵舎・板倉)

をはじめ、城の土塁などの整備を進めています。

入口近くには前頁の写真の「温故創生館」が

あり、館内には、下の写真の様な鞠智城の

ジオラマも展示されており、鞠智城の構造

などのビデオも放映していました。

温故創生館の前には、前頁の写真の

「温故創生之碑」が建っています。

 碑の人物像は、防人(さきもり)とその妻子など

です。

鞠智城の防人は、軍務に従事しつつ、空き地を

開墾して食料を自給していたそうです。

防人は、一般的には、3年交代でしたが、年限を

過ぎても帰郷出来ない者もいたみたいです。

因みに、故郷への帰りの旅費は、自腹だったそう

です。

「鞠智城跡」の敷地内を、矢印の道順に従って

歩いて行きます。

次頁の写真の建物は、見張りのための「鼓楼」

で、三層目に置かれた太鼓で合図したり、時を

知らせたりしていました。

古代山城で八角形をしているのは、ここ鞠智城

だけだそうです。

上の写真は、校倉(あぜくら)造りの高床式の

「米蔵」で、米などの穀物を保管していました。

上の写真は「兵舎」で、鞠智城の守りについた

防人たちが暮らすための建物です。

 

上の写真は、「板蔵」で、武器や武具の武器庫

です。

 

 

上の写真は、城内の建物の礎石です。

矢印に従って、城跡の中でも、もっとも高い

展望台へ向かいます。

 

上の写真の「灰塚」展望台からは、見事な

パノラマが広がります。

 上の写真の様に、遠くには、長崎県の雲仙岳まで

望めます。

展望台から、いったん、八角形の鼓楼へ戻り、

次に、城域の南側を歩いて行くと、上の写真の

「堀切門跡」がありました。

上の写真は、城の南側の防衛ラインである「南側

土塁線」です。

その先にも、矢印が続いていますが、この先は、

かなりの高低差もありそうで、パンフレットの

地図を見ながら、城跡を一周するコースは

諦めました。

 

鞠智城跡の入口にある温故創生館からタクシーを

呼び、そこから5分の菊池市の中心部にある

「菊地神社」へ向かいます。

 

「菊池市」は、菊池一族の発祥の地であり、戦国

時代には、肥後国(熊本県)の中心地でした。

尚、南北朝時代に活躍した「菊池一族」の

「菊池城」は、同じ菊池市の「隈府(わいふ)」

にあり、上記の「鞠智城」とは関係ありません。

「菊地神社」は、南北朝時代に南朝側で戦った

菊池氏3代を祀るで、その横に「菊地市民広場」

があります。

下の写真は、その菊地市民広場の「菊池武光公

・騎馬像」です。

「菊池一族」は、平安時代から室町時代の後半まで

の約450年、九州で活躍した一大豪族でした。

その「菊池一族」の中で、「菊池武光」は、

南北朝時代の15代当主でした。

足利尊氏の北朝が有利な情勢の中、武光は、南朝

の後醍醐天皇の皇子の「懐良(かねなが)親王」

を盛り立てて、北朝からは百戦錬磨の勇将として

恐れられました。

武光は、向かうところ敵なし、百戦百勝、遂には、

太宰府を占拠して九州を統一します。

 

しかし、その後の南朝に不利な状況の中で、南朝

の雄として最後まで戦い抜き、そのひたむきな

姿勢は後世まで語り継がれました。

 

菊地市民広場の脇の写真の「菊地温泉」の日帰り

温泉でひと風呂浴びます。

 

温泉を出て、メインストリートを、菊池プラザ

まで歩き、そこからバスで、熊本市の中心街の

桜町バスセンターへ戻りました。

次頁の写真は、菊地のメインストリート沿いの

建物です。

メインストリート沿いの写真の椋(むく)の木は、

前述の「懐良親王」のお手植えとされる「将軍木」

です。

 

(鞠智城跡の全体図)

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ラグビーW杯 2019 (東京・味の素スタジアム)(ウェールズ対ニュージーランド:3位決定戦)  2019.11.1

2019-12-15 16:54:43 | Weblog

(写真は、試合前のオールブラックスの「ハカ」)

日本中が熱狂した、ラグビーW杯も終わって

しまい、私は、”ラグビー・ロス”の日々ですが、

皆様は如何お過ごしでしょうか。

でも、野球の方では、東京オリンピックの予選を

兼ねた「プレミア12」(WBSC)の1次

ラウンドが台湾で行われ、日本は、苦労しながら

も3連勝して、現在千葉で開催中の2次ラウンド

に進みました。

千葉では、昨日はオーストラリアに3:2で辛勝

しましたが、本日はアメリカに3:4で敗れ

ました。

明日のメキシコ戦に期待しましょう。

この「プレミア12」(WBSC)の2次ラウンド

のTV観戦で、”ラグビー・ロス”を徐々に回復

したいと思っています。 

 

と言う訳で、話は、先々週に戻りますが、

「ラグビーワールドカップ2019」の3位決定戦

「ウェールズ対ニュージーランド」を観に、

「東京・味の素スタジアム」に行って来ました。

 

3位決定戦のチケットを購入したのは、日本は

決勝戦進出は無理でも、ひょっとしたらベスト8

に進出し、1勝して3位決定戦に回るかも

知れないと思ったからです。

その期待は外れましたが、幸運なことに、優勝

候補のニュージーランド(オールブラックス)が

3位決定戦に回ってきました。

大会開催前に買っておいた次頁の写真のオール

ブラックスのTシャツと帽子が役に立ちます!

京王線の「飛田給駅」で下車、人の流れに乗って

会場へ向かいます。

 その途中で、顔に両チームのシールを貼って

もらいました。(500円)

 

選手入場です。 

先ず、台風19号の被害に遭われた方へ黙祷を

捧げます。  

 

そして、国歌斉唱に続いて、いよいよ、

お待ちかねの試合前の「ハカ」です。

 

私のチケットは、一番安いカテゴリーD(ゴール

裏)の10,000円だったせいか、残念ながら

「ハカ」の背中しか見られません・・・

 

でも、生の「ハカ」が見られて、取り敢えずは

満足です。

対するウェールズは、自陣の10メートルライン

を越えずに、整列したままで受け止めます。

 

キックオフ 

試合の主導権を握ったのはオールブラックスで、

早くも、前半4分、そして12分に、続け様に

トライが決まります。

その後、ウェールズも反撃、一時は4点差に迫り

ましたが、結局、32分、40分と連続トライを

挙げられ、28-10の大差で折り返します。

ハーフタイムの場内アナウンスで、競技場は、

この日1番の大盛り上がりを迎えます?

 

上皇様と上皇后様のご来場の紹介があり、お手を

振られる姿がスクリーンに映し出されると、

競技場は割れんばかりの大拍手と大歓声に

包まれます。

(お姿に見とれて、スクリーンに映し出された

 お二人の写真を撮り忘れました・・・)

そもそも、東京のラグビー場の名称が「秩父宮

ラグビー場」となっている様に、皇室とラグビー

には深いご縁があります。

「秩父宮ラグビー場」の名称は、ラグビーの普及に

尽力された秩父宮様を偲んで付けられたものだ

そうです。

 

(スクリーンに映し出されるファンの応援風景)

 

後半のキックオフ。 

後半2分、早くも、オールブラックスのトライと

コンバージョンで、35-10と、大差で一方的な

試合展開に。

結局、ウェールズはノートライのまま、40-17

の大差で、オールブラックスの勝利です。

 

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熊本県・玉名市 ( 「いだてん」 金栗四三の故郷 )  2019.9.12

2019-12-14 07:48:22 | Weblog

(金栗四三が、毎日水浴びをした井戸のポンプ )

 

現在放映中のNHK大河ドラマ「いだてん」は、

従来の戦国時代などの大河ドラマに比べて、

現代に近いドラマなので、歴史好きの大河ファン

には人気がない様です。

また、お年寄りの間では、あちこち話が飛び過ぎ

て、ストーリーがよく分からない、とイマイチの

評判です。

しかし、舞台が私の故郷の熊本とあって、ここは

ひとつ、私一人分だけでも低迷する大河を応援

しようと、先々月、実家の熊本に帰省した際に、

「いだてん」の主役「金栗四三」の故郷である

「玉名市」に行って来ました。

 熊本駅からJR鹿児島本線に乗って、30分の

玉名駅で下車します。

駅前から、無料周遊バスに乗って、「いだてんの

故郷」を巡ります。

無料周遊バスは、1時間に1本程度しかないので、

事前に時刻をチェックしておく必要があります。

大河ドラマの低迷を反映してか、乗客は私一人

だけで、運転手さんに気の毒でした。

運転手さんも、裏番組の「ぽつんと一軒家」に

視聴率を取られてしまったみたいで、

とぼやいていました・・・

 

「金栗四三の住家(池部家)」で、無料周遊バスを

下車します。

 

金栗四三(大河ドラマの配役は、中村勘九郎)は、

22歳の時に、池部家の養子となり、スヤさん

(綾瀬はるか)と結婚しました。

写真は、「金栗四三の住家(池部家)」です。

(入場無料)

 

ここが、結婚後、2人が暮らした家で、「金栗

四三資料館」を併設しています。

ここには、金栗夫婦の他に、その子供達や養母の

池部幾江(大竹しのぶ)さんも一緒に暮らして

いました。

家の中には、金栗四三愛用の家財道具など、

当時のままが展示されています。

上の写真は、ドラマで度々出て来た、毎日水浴び

をした井戸のポンプです。

上の写真は、往年の金栗四三の暮らし振りが

分かる住家の内部です。

併設されている隣の「金栗四三資料館」は、隠居

部屋として建てられた離れを改装した家屋だそう

です。

上の写真は、資料館に展示されていた家族写真で、

ここの庭先で撮影されたもので、左から、妻スヤ、

妻の弟、四三、母幾江です。

資料館には、金栗四三の写真や衣類がを展示して

います。

親切なボランティアのオバサマが、当時の金栗

夫妻の暮らしぶりについて、ご家族の思い出話を

交えて、仔細に説明してくれ、質問にも丁寧に

答えてくれます。

思い出の写真と共に、金栗家から、この家が

玉名市へ寄贈されたのだそうです。

上の写真は、金栗四三がよく日向ぼっこをして

いたという縁側です。

池部家を出て、矢印に従って、近くの金栗四三の

墓へ向かいます。 

墓は、この地区の集落を一望に見渡せる小高い丘

の上にあり、墓の前には、四三の書の「体力・

気力・努力」の記念碑がありました。

「金栗四三の住家」バス停に戻り、無料周遊バスに

乗って、次に下の写真の「玉名市立歴史博物館」

へ向かいます。

(ストックホルム大会でプラカードを持つ四三

 :歴史博物館のパンフレットから)

博物館では、常設展の他に、企画展「金栗

四三展」をやっていました。

(入場料:300円、撮影禁止) 

玉名市立歴史博物館の前のバス停で無料周遊バス

に乗り、次に「いだてん 大河ドラマ館」へ向かい

ます。

「いだてん 大河ドラマ館」(玉名市) 

(~2020年1月13日)

(入場料:600円、パネル等の一部を除いて

 原則撮影禁止) 

大河ドラマ「いだてん」の「ドラマゾーン」と

「史実ゾーン」に分かれ、撮影のセットを再現

したジオラマ、ロケのメイキング映像、金栗四三

の生い立ち、エピソードの説明板等が展示して

ありました。

 

「いだてん 大河ドラマ館」を出て、次頁の

写真の「菊水堂」で、金栗四三の好物だった

という写真の「長者饅頭」(114円)を買って

から、玉名駅に戻り、JR鹿児島本線で

熊本に帰りました。

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熊本・藤崎宮の秋季例大祭 2019.9.16 

2019-12-13 11:17:15 | Weblog

 

(写真は、藤崎宮の飾り馬の奉納行列)

 

先月、法事のため、実家の熊本に帰省した際に、

遭遇した出来事の続きです。

帰省の最終日の9月16日、熊本市の中心部にある

「藤崎宮」にお参りに行きました。

と言うのは、この日が、ちょうど藤崎宮 の「秋季

例大祭」の日だったからです。

 

藤崎宮は、熊本市民が、毎年、初詣に行く神社

なのですが、秋の例大祭は、熊本県の祭りの中

でも、最も盛り上がる祭りなのです。

私の子供の頃は、この「秋季例大祭」は、

「ぼした祭り」という名称でしたが、私は、

この祭りを凄く楽しみにしていました。

子供の頃、この「ぼした祭り」の”ぼした”は、

「加藤清正」が朝鮮を”滅ぼした”という意味

だと聞かされていました。

しかし、”朝鮮を滅ぼした”という趣旨の

「ぼした祭り」という名称は”使用禁止”となり、

現在は、「例大祭」という、インパクトの

弱い名称になっています。

(もっとも、歴史上は、清正は朝鮮を滅ぼしては

 おらず、むしろ朝鮮で苦戦したみたいですが、

 なにせ、熊本では、清正は英雄を越えて神様

 ですから、その清正が苦戦などするハズも

 なく?)

この祭りのハイライトは、「随兵(ずいびょう)

行列」と「飾り馬」です。

 

「随兵行列」は、「加藤清正」が自ら随兵頭と

なり、兵を引き連れて「藤崎宮」へ参拝し、

朝鮮出兵からの無事帰還を感謝したのが始まり

だそうです。

その後、藩主が細川氏の時代になっても、この

藤崎宮への随兵行列は継承され、明治維新後は、

町方の手に受け継がれていきました。

随兵行列は、朝6時頃に藤崎宮を出発、ご神体を

乗せた神輿の後ろに、甲冑姿の随兵が続きます。

  

私は、前日の法事で酒を飲んだため早起き出来ず、

朝6時出発の随兵行列には間にあいませんでした

・・・ 

(随兵行列 : ダイドー(株)の公式ホーム

        ページから)

そして、祭りの最大のハイライトは、随兵行列に

続く、「飾り馬」の奉納行列で、”馬追い祭り”

とも呼ばれます。

今年は、67もの団体が飾り馬を奉納、

約1万5千人の勢子(せこ)たちが躍動して

沿道を盛り上げました。

67団体は、町内会、企業、高校の同窓会、祭り

愛好会など多彩です。

馬が少なくなったいまどき、67頭もの飾り馬が

参加する盛大な祭りなんて珍しいですよね。

”馬追い祭り”では、私の子供の頃は、馬を興奮

させるために、飾り馬に酒を飲ませていました。 

馬が酔っ払った状態で暴れて跳ねるのを、勢子

たちがラッパを吹いたり、太鼓を叩きながら、

「ぼした! ぼした!」と囃し立てて、練り

歩いていました。

暴れる馬を、如何に上手く制御するかが祭りの

見せ所でした。

従って、当時は、毎年、馬に蹴られて怪我人が

続出し、死者が出た年もあったくらいに荒っぽい

お祭りでした。

当時、私は子供心に、馬に酒を飲ませて暴れ

させる行為について何の疑問を持ちませんでした。

しかし、最近の風潮としては当然のことかも

しれませんが、馬に酒を飲ませ、鞭の様な物で

叩く様子が、インターネット動画で拡散し、

動物愛護協会などのからの非難の嵐で炎上した

そうです。

これを受けて、現在は、 例大祭の主催者が、動物

虐待行為の防止に向け、参加団体を指導している

とのこと。

 

今年、見物して、昔の様な迫力はない、穏やかな

祭りになった印象でしたが、でも、祭りが廃止に

ならずに、時代に合わせた穏やかな祭りとして、

今後、定着していけば嬉しいな、と思いました。

 

下の写真の様に、小さな子供達が大勢参加出来る

祭りも良いですよね。

 

次頁の写真の様に、地元のテレビ局が、飾馬奉納

「馬追い祭り」の模様を生中継しています。

 随兵行列とそれに続く馬追いの法被姿の勢子たち

が、藤崎宮から、熊本市の中心部のアーケード街

を抜けて、御旅所(おたびしょ:祭礼の祭神の

巡幸の際に、仮に神輿(みこし)を鎮座しておく

場所)のある新町までを練り歩きます。

「ぼした! ぼした!」ではなくて、「どーかい、

どーかい」の掛け声で馬追が展開されます。

 

朝6時出発の「朝随兵」に対し、午後2時からは、

この逆方向で、藤崎宮に戻る「夕随兵」が始まり

ます。

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熊本・桜町バスターミナル・オープン 2019.9.14 

2019-12-12 19:30:00 | Weblog

(写真は、オープン当日の「桜町バス

 ターミナル」)

 

いや~、驚きました!

まさか、日本がアイルランドに勝利するとは!

(対戦相手のアイルランドについては

 「ラグビーワールドカップ(日産スタジアム)」  

 を見てね。)

これからの残りの期間中、日本国内は熱気に

包まれそうです。

ところで、話は変りますが、法事のため、今月

8日~16日、実家の熊本に帰省しました。

帰省中の9月14日、ちょうどこの日に、”国内

最大”のバスセンターが、熊本市にオープン

しました。

(正式名称は「サクラマチ クマモト」)

       

  

(オープンを伝えるTVニュース)   

   

 

(オープンを伝えるポスター)

新宿バスタや、福岡の天神バスセンターを

抜いて、”日本一のバスセンター”の誕生

なのです!

乗降場所が29カ所もあり、1日に4,300台もの

バスをさばきます。

ここは、熊本市内、天草・阿蘇など県内のほぼ

全ての路線バス、そして、福岡・大分・宮崎

などの九州全域、大阪等への高速バスの始発

ターミナルです。

バスの入口は1か所ですが、出口は、上記の

各目的地の方向へ向けて複数個所あります。

   

(バスの通路:バスの中から撮影)

そして、最大の特徴は、乗客の安全のために、

次頁の写真の様に乗り場とバスの通路を仕切る

「ホームドア方式」を導入したことです。

この日は、熊本は猛暑でしたが、ホームドアが

閉まっているお蔭で、屋内空間の乗り場は空調が

効いており、待ち時間を快適に過ごせます。 

このバスセンターは、地下1階、地上5階建ての

商業施設で、149のテナントが入り、TOHO

シネマズ、マンションも併設しています。

上の写真は、地下1階のグルメコーナーです。

上の写真は、来月、TOHOシネマズが入る予定の

熊本城ホールです。

路線バス、高速バス、タクシーへの乗り換え、

食事、買い物、映画など、全てがこのバス

ターミナルの屋内で完結するので、人の流れを

変える新たな中心になりそうです。

(チケット売り場)

(タクシー乗り場)

オープン当日(9/14)、熊本県内のバスと電車が

全て無料になる(除くJR)ということで、バス

センターだけでなく、バスや電車乗り場も混雑

していました。

産交バスは、熊本県内全域をカバーしているので、

例えば、人吉や天草からの往復路線バスで、

1日がかりでバスセンターを見物に来ても、

交通費タダということです!

2階以上の各階は階段状で、テラスの植栽も

ふんだんで、緑の丘のように見え、開放的な

屋外空間です。

次頁の写真は、5階の展望デッキにある高さ

4メートルの「巨大くまモン像」です。

 

屋上は、写真の様に、庭園広場になっており、

次頁の写真の様に、熊本城まで一望出来ます。

 

1階はバスターミナルでその奥に商業施設が並び、

2階のコンコースの両側も商業施設が並び、1階

のバスターミナル入り口ともつながっています。

次頁の写真の1階中央が、バス出口で、両側に

乗り場の出入り口があります。  

上の写真の右側がマンション棟です。

地震で大きな被害を受けた熊本城は、大天守の

外観修復がほぼ完了、また、JR熊本駅周辺でも

再開発工事が進んでいます。

この新バスターミナルの完成と併せて、熊本地震

からの復興の弾みになれば、嬉しいです。

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ラグビーワールドカップ2019 (横浜・日産スタジアム)  2019.9.22

2019-12-11 04:41:00 | Weblog

(写真は、アイルランドのトライの瞬間)  

いよいよ、ラグビーのワールドカップが始まり

ましたね。

日本が初戦でロシアを30対10で破ったので、

これからの期間中、日本国内は盛り上がり

そうです。

私は、高校時代は男子校で、体育の時間は、柔道、

剣道、ラグビーが必須科目でした。

私は、柔道は好きでしたが、ラグビーは嫌い

でした。

ラグビーの授業は、小石混じりの普通の運動場で

行われたので、タックルされると、膝を

擦り剥いて血だらけになるからです。

タックルを避けるため、私は、出来るだけボール

をパスされない様な位置にいて、後ろの方から

くっ付くいて走っていました・・・

ラグビーの細かいルールはもう忘れてしまい

ましたが、それでも、高校時代の授業のお蔭で、

ラグビーのTV中継を見ていても、何となく

ゲーム展開が理解出来ます。

九州はラグビー王国で、我が高校のラグビー部は

猛練習で有名でした。

そのため、部員にとっては授業時間は貴重な睡眠

時間?で、先生達も、「寝かしといてあげ

なさい。」と言って、授業中にラグビー部員を

指名することはありませんでした。

今回のワールドカップの当初のチケット抽選の際、

当選確率が数倍になるという横浜市民の特別枠で、

横浜での試合の全てに申し込んだのですが、全て

外れました・・・

それでもめげずに、6月の先着順販売に申し

込み、根性で12時間も待ち、横浜か東京で

1万円以下の席、という条件で下記の2席を

取りました。

①「アイルランド V スコットランド」

(9/22)横浜

②「3位決定戦」(11/1)東京

 

と言う訳で、昨日(9/22)、日産スタジアムの

「アイルランド V スコットランド」を見に

行って来ました。

上の写真が、パソコンからA4用紙に自分で印刷

したチケットです。

(購入時点で希望して、郵送料を払えば、綺麗な

チケットを郵送してくれます。)

我が家から歩いて30分の日産スタジアムへ

向かいます。

途中のパブやバーは、写真の様に、試合前にも

ビールを飲もうという、両チームのサポーター

で店の外まで溢れています。

スコットランドのサポーターの中には、写真の

様に、スカート姿の男性もいます。

上の写真は、所持品検査のテントで、1時間並ぶ

という情報もありましたが、待ち時間ゼロでした。

上の写真の様に、スタジアムの前の階段に大勢の

人が座っているのは、広場に設置された

ビューワーのイタリア・ナミビア戦のライブを

観戦しているからです。

場内に入って、焼きそばとビールを買って、席で

ビールを飲みながら、試合開始を待ちます。

ビールは、大会のスポンサーの関係で、

ハイネケンしか売っていません・・・

試合開始前の記念撮影でしょうか。

アイルランドは、今週の土曜日(28日)に日本と

対戦する相手です。

そして、スコットランドは、前回大会で、日本の

決勝進出を阻んだ因縁のチームです。

 

世界ランク1位のアイルランドと、7位の

スコットランドの対戦なので、熱戦が期待

できます。

 

下の写真の赤丸印は、ワイヤーで吊るされた上空

からのテレビカメラです。

 

試合開始前、グランド上では、上田信也と櫻井翔

が、次頁の写真の様に、日テレの生放送の解説を

開始しましたが、何を喋っているのか、会場内

には聞こえません・・・

観客、6万3千人とのアナウンスがあります。

(報道陣)

 

いよいよ、試合開始です。

開始早々、写真の様に、早くもアイルランドが

先制トライします。

アイルランドにラッキーなボールのバウンドも

あり、以降は、ずっとアイルランドがボールを

キープ、流れは完全にアイルランドに傾きました。

その後、アイルランドは、モールで一気に

押し込み、上の写真の様に、再びトライします。

更に、スコットランドが落としたボールを、

アイルランドが蹴り込んだところを抑え込んで、

上の写真の様に、3つめのトライで、もう、

完全に一方的な試合展開です・・・

後半開始から、小雨が降り始めて、グランドが

霞んで、遠くのプレーが見辛くなってました。

私の席は、屋根の下で、濡れずにラッキーです。

後半は、小雨の中、スコットランド陣地周辺での

攻防戦となり、また、アイルランドのトライ・・・

終わり近くになって、ようやく、アイルランド

陣地周辺での攻防戦となりますが、それも

つかの間、再び、スコットランド陣地周辺での

攻防戦に・・・

試合はこのまま、アイルランドがスコットランド

をノートライに抑え、27-3で圧勝です。

(試合後)

(試合後のアイルランドチーム)

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