ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

バスで行く「奥の細道」(その9) ( 「しのぶもじ摺り」石 : 福島県 )  2017.11.15


(写真は「しのぶもじ摺り石」)

芭蕉の「奥の細道」の目的は、「しのぶもじ摺り」などの
「枕詞」(まくらことば)の地をたどって行くことでした。

芭蕉が、奥州街道を外れて、わざわざ「しのぶもじ摺り石」
を見物に行ったのは、「信夫(しのぶ)」の里が有名な
「歌枕」であり、そこに「文知摺石」があったからに
他なりません。

平安時代、嵯峨天皇の皇子の中納言・源融(みなもとの
とおる)は、按察使(あぜち:監督官)として、陸奥国に
赴任していました。

その源融が、ある日、「文知摺石」を訪ねて「信夫の里」
にやって来ました。

源融は、村長の家に泊まり、美しくて気立てのやさしい村長
の娘の「虎女」(とらじょ)を見初め、虎女もまた源融の
高貴さに心を奪われました。

こうして、二人の愛情は深まり、源融は、そのまま1ヶ月余り
も、村長の家に逗留しましてしまいました。

やがて、源融を迎えるための使いが都からやって来ます。
別れを悲しむ虎女に、源融は再会を約束し、都に旅立ちます。

再会を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく、「文知摺
(もじずり)観音」に、百日詣りの願をかけます。

やがて満願となりましたが、都からは何の便りも
ありません。

嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと、文知摺観音の「文知摺
(もじずり)石」の面に、慕わしい源融の面影が彷彿と
浮かんで見えました!   

懐かしさのあまり虎女がかけ寄ると、それは一瞬にして
かき失せてしまいました。

そして遂に、虎女は病の床に臥せてしまいました。

ちょうどこの時、都から、源融の歌が寄せられたのでした。

 ”みちのくの 忍ぶもちづり(注) 誰ゆえに 
  乱れ初めにし 我ならなくに ”
 (小倉百人一首:河原左大臣・源融)

 (「もじ摺り石」の乱れ模様の様に、あなた以外の誰の
ために、心を乱す私でありましょうか。)

源融の歌をひしと抱きしめながら、虎女は、その短い生涯を
閉じました。

(注)「信夫 文知摺(しのぶ もじずり)石」:「信夫」は
  福島市内の地名で、「文知摺石」は、信夫の里の

      「文知摺(もじずり)観音」の境内にある巨石。

  「文知摺」とは、石に絹布をあてがい、その上から
忍(しのぶ)草の草木汁を摺り(すり)付けて、石の表面の
乱れ模様を染めたもので、当時、信夫地方の特産品として
都の貴族達にも珍重された。

  「文知摺石」を磨くと、表面が鏡の様になるので、
「文知摺石」は、別名「鏡石」とも呼ばれた。

因みに、この「源融」は、紫式部の「源氏物語」の
「光源氏」のモデルだそうです。
驚き!

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芭蕉が、ここ「信夫の里」を訪れたときには、歌枕として

有名だった「文知摺の石」は、何と!、半分ほど土に

埋まっていたそうで、村の子供が、その経緯を次のように

語ったそうです。

この石は、昔は、山の上にあったのですが、ここを通る

人たちが、畑の麦の葉っぱを無断で取って荒しては、

この石に擦りつけて試していました。

地元の人々がこれを嫌い、石を谷に突き落としたので、石の
上面が下になってしまい、半分ほど土に埋まってしまい
ました。

芭蕉は、いかにもありそうな事だと、嘆息しながら句を詠み
ました。

”早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり)”

(田植えをする早乙女たちの素早く器用な手さばきに、忍草

   を取っては擦り出していた、昔の手振りがしのばれる。)


パック旅行のバスは、「文知摺石」がある福島市内の

「文知摺(もじずり)観音」に到着しました。



江戸時代には福島藩主の堀田正虎が、明治時代には信夫郡の
郡長が、ここの「文知摺」石の周辺を整備したそうです。


(堀田正虎の顕彰碑)


「文知摺観音」の入口に、上の写真の「芭蕉像」と、次頁の
写真の「芭蕉句碑」がありました。

”早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺”


(もちずり観音堂)


上の写真が、源融の顔が写ったと言う「信夫文知摺り石」
です。


文知摺り石の前には、上の写真の様に、「綾形石」という
もう一つの薄くて平らな石が置いてあり、実際には、
この平らな石で、布地を押し当て模様を付けて染めたらしい
です。


上の写真は、虎女と源融の墓です。


(河原左大臣・源融の歌碑)


(文知摺観音の多宝塔:重文)


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コメント一覧

ウォーク更家
天皇の皇子だった源融
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですね、現代だったら、身分の差なんて、と源融が虎女を都に連れて行くストーリーなのでしょうけどね。

るほど、確かに語感としては、枕詞「しのぶもじ摺り」に「いじらしい」雰囲気を感じます。
もののはじめのiina
罪な源融くん 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/92433ca73afa13d433a85d47ba4ede28
「信夫(しのぶ)もじ摺り(ずり)」の石に、いわくありですネ。
源融も虎女を都に連れて行けばいいのに、罪な君でした。・・・諸事情があるのですね・・・

枕詞「しのぶもじ摺り」に、「いじらしい」雰囲気が なにやら感じられます。


> 何も考えたことのない水田ですが、ダムの機能、土壌の肥料の活用、水質浄化など、凄くよく出来た仕組みなんですね。
iinaも好い勉強になりました。
田んぼを歩いていて、取水口より低い水の流れをどのように水を引くのかを疑問に思って農家の方に訊ね、
溝に板をはめて水嵩を上げ田んぼに取水することを教えてもらいました。
そんな経緯から日本に稲作が根付いた、大発明を識りました。

ウォーク更家
文知摺り石の前の綾形石
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうでしたか、私のときには、周りの柵はありませんでした。

よく覚えていらっしゃいますね。
仰せの通り、文知摺り石の前に、もう一つ、綾形石という立て札のある台石のような石が置いてありました。

確かに、その様な説明を受けた気がしますので、ブログに、この綾形石の写真を加え説明を追加しました。

ご指摘、ありがとうございました。
hide-san
文知摺り石
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
文知摺り石を写真で拝見すると、周りに柵が無くなって居ますね。
ボクが訪ねた時は、周りに柵がしてあって、
文知摺り石の前に、もう一つ台石のような石が置いてあって、
その石で布地を押し当て模様を付けて染めたように、
案内があったと思いました。

それにしても懐かしいですね。
ウォーク更家
よろしくお願いします
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
こちらこそ、読者登録、ありがとうございます。

よろしくお願いします。
鈴木
こんにちは
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