気ままなピークハンターズの山旅

日本百名山の頂と風景や国内旅行を中心とした絶景を掲載致します

歴史ある中山道の要衝和田峠(わだとうげ)

2022-12-23 10:28:42 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある
和田峠(わだとうげ)を掲載してみたいと思います

旧道の和田峠トンネル(和田宿側坑口)
和田峠(わだとうげ)は、中山道(中仙道)の峠で、
長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある 最大標高1,531m
中山道は、江戸幕府によって整備された街道であり、
平均すると2里程度の間隔で宿場町が置かれていたが、
この和田峠は険しい山の中にあり、
峠の江戸側の和田宿と京都側の下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長い
冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていた
このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や
茶屋が設けられていたほどである
これらの茶屋は「西餅屋(下諏訪宿側)」
「東餅屋(和田宿側)」「接待(和田宿側)」などと呼ばれ、
いまでも地名にその名を残している

樋橋(とよはし)茶屋跡
樋橋村は江戸時代(寛永十一年)に誕生しました
中山道 和田峠の登り口に立場茶屋として栄え、
茶屋本陣があり大名、公家、幕府役人や一般の旅人が休んでいきました
文久元年(1861)十一月六日皇女和宮 様が
御降嫁の時茶屋本陣でおやすみになられました
茶屋本陣の(御殿)を修築しお休みいただきましたが、
その折ご心境を詠まれた和歌を本陣に残されたと伝えられています
この時のお通りは四万人ともいわれます
茶屋本陣跡は昭和四十五年に下諏訪町文化財に指定されました

下諏訪宿から和田峠にかかり6キロメートルばかり登ったところに
樋橋という本陣茶屋のある立場があった
家は10軒ばかりで、茶屋が数軒あったという

樋橋(とよはし)茶屋について語られた案内板

樋橋(とよはし)茶屋本陣跡記念碑

元治元年(1864)十一月二十日、
水戸藩の尊攘派で天狗党と呼ばれた千余人の一行が上京の途次通行し、
幕命でこれを阻止するために高島藩・松本藩連合軍とが戦った(和田山領合戦)、
樋橋戦争 とも呼ばれた戦いがありました

旧道和田峠への道標

水戸天狗勢こと水戸浪士たちの塚

中山道一里塚 江戸より53里

和田峠への新道下に設置されている一里塚

一里塚跡の説明書き

旧道の和田峠トンネル(和田宿側坑口)
トンネル通行に際して信号青で車通行が出来る

中山道 和田峠標識

中山道旧道 江戸時代、人馬が行き交った風情が残っています
皇女和宮 様が四万人ものお供を引き連れてお通りになったと
言われている中山道 街道跡

中山道 江戸方 京方への道標

中山道 旧道和田峠から和田宿へ下ってくると
接待茶屋跡があります

接待茶屋跡前にある湧水

中山道の碑

ここはかつての接待茶屋(和田峠施行所、永代人馬施行所ともいう) 跡で、
茅葺屋根の建物が復元されている
文政11年(1828年)江戸呉服町の豪商・かせや与兵衛(中村有隣)から
幕府へ多大な寄付金があり、これを元に和田宿へ50両が下附され、
和田峠を越える旅人のためにこの施行所が設けられた
冬期には旅人に粥や焚火を提供し、牛馬には年中小桶一杯の煮麦が与えられた

接待茶屋跡を登り詰めると中山道 旧道和田峠があります
茅葺屋根の建物が見えるが、ここは「接待茶屋跡」



最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう









コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 晩秋の長野県伊那市と茅野市... | トップ | 近世五街道の中山道笠取峠 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

登山に通った峠道」カテゴリの最新記事