こんにちは!
blogカテゴリー登山に通った峠道も98話となり、
訪れた峠道を少し振り返ってみたいと思います
印象に残った絶景が広がる峠、歴史を感じる峠、最も美しかった峠等
掲載してみたいと思います
2024年も関東甲信越を中心とした歴史散歩を楽しめる峠、
絶景を楽しめる峠等巡っていきたいと思っております
今回の振り返り記事は旧中山道宿場を繋ぐ歴史をある峠
道3話(最終)をお届けしたいと思います
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/00/d7dcaafcffdeb4162dcd2f8f6b100d0a.jpg)
旧中山道沿いにある馬籠宿街並み
石畳を緩やかに進み馬籠峠へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/94/d6eac0e3ca378566c532abf744533fb7.jpg)
馬籠峠
馬籠峠(まごめとうげ)は、長野県木曽郡南木曽町と
岐阜県中津川市の境にある旧中山道の峠 標高790メートル
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/a8/b9b5ec4c540f7fb4f07b39d93d163bdb.jpg)
妻籠宿と馬籠宿の両宿の間にある馬籠峠
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/24/b678e01ac9e293675260ee76c9600f0d.jpg)
中山道の宿場町の中でも史蹟として保存状態の良い
両宿を含めて観光地として訪れる人も多い 峠には
「白雲や青葉若葉の三十里」という正岡子規の句碑が建っている
峠の名前は馬籠宿に由来するものであるが、
反対側の妻籠宿に由来する妻籠峠(つまごとうげ)という呼び名も
江戸時代には行われていた
かつては長野県内の峠だったが、
山口村が中津川市と越県合併したことで
県境の峠となった峠道は中山道の旧道と
岐阜県道・長野県道7号中津川南木曽線が並走し、
分岐と交差を繰り返している
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/99/c20df2f80ffc5b75d3afbcfb6b7fdee7.jpg)
馬籠峠 峠の茶屋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/c4/ad62230f7c31791fa70b917263bb246e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/80/3edfe7660631a33b2a56fda6f601c91c.jpg)
馬籠峠から妻籠宿へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/7e/32158f80857550fe9402c57dc492360b.jpg)
歴史ある古民家が建ち並ぶ妻籠宿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/cc/917fda0f7f4a4024e855b01591a91824.jpg)
妻籠宿街並み
外国人観光客も多く訪れサムライロードとも呼ばれている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/6e/0c5e12b4b26965ba7a5d18189c007d01.jpg)
旧中山道の難所と言われた鳥居峠(とりいとうげ)へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/46/b78f939fd20860c6c45c9eb0df6cf17a.jpg)
旧中山道の面影が残る石畳の遊歩道から鳥居峠へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/3b/6eeaffb8d832d496673c6cfa3fe4824e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/58/bbe48311b2558badce9cc811c7d6dd62.jpg)
旧中山道の面影が残る道標石
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/54/abb06c7a03d58a3b63be4f52c6b3aa67.jpg)
中山道幾多の戦場の舞台となった鳥居峠
鳥居峠(とりいとうげ)は、長野県の塩尻市奈良井と
木曽郡木祖村藪原を結ぶ峠 標高 1,197m
中世には「ならい坂」「やぶはら坂」と呼ばれた
美濃国と信濃国の国境に位置しているので、
中世には戦いが何度も行われた 平安時代後期、
以仁王の令旨を受けた>源義仲(木曽義仲)は
平家追討の旗揚げをし、八幡宮にて挙兵の奉納をした後、
県坂(現在の鳥居峠) 御嶽遥拝所に参拝し、大夫房覚明に執筆させて
ここより出陣をしたとされる 硯水の傍に柳の木があり、
義仲は枝を折り 「我が事ならば、
この柳に根を生じて繁茂するであろうと立ち去った」とされ、
この柳はその後見事に根付き、成長したという伝説が残っている
渓斎英泉の浮世絵「木曽街道 薮原宿 鳥居峠」の絵には、
木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれている
木曾義元が戦勝祈願のため、峠に鳥居を建てて以来、
鳥居峠と呼ばれるようになったといわれている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/eb/26250c07be0ec31c39ba66e0e1cde24b.jpg)
鳥居峠から奈良井宿に繋がる林道
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/64/db4322aaff2d9922f8a54270f25e2f57.jpg)
歴史的建造物が建ち並ぶ奈良井宿街並み
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/0e/e3903f15ac72e9cd9644ce328fd5ade3.jpg)
奈良井宿街並み
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/a6/d891ee7021b04a26041aef7ae6d7296a.jpg)
旧中山道の一里塚(復元されたものだと思われます)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/65/40388967f241088b556389893944fa90.jpg)
この辺に旧中山道街道沿いに一里塚があったと言われている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/05/75459d23ffb783ad761b4f2c49746f73.jpg)
和田峠の下に和田旧トンネル
今でも信号機がある相互通行の車道トンネル
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/95/847c9e8968f480a3a6dae8fc9a8bf337.jpg)
和田峠から和田旧トンネルを見おろす
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/9a/a68c2a0e54bb8c1daa5558c0e797ae1f.jpg)
和田峠茶屋
和田峠(わだとうげ)は、中山道(中仙道)の峠で、
長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある
最大標高1,531m 中山道は、江戸幕府によって整備された街道であり、
平均すると2里程度の間隔で宿場町が置かれていたが、
この和田峠は険しい山の中にあり、峠の江戸側の和田宿と
京都側の下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長い
冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていた
このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や
茶屋が設けられていたほどである
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/e9/d0a3240c10fc7c1bb8f5ca1e0f20182e.jpg)
和田峠からビーナスラインにつながる高原道路
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/a9/f0443730f9a02365748417275b134387.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/cb/8406754b3cc2dcf84b08f03ceca9a892.jpg)
中山道旧道の案内板
左方向に江戸方 接待 右方向に京方 和田峠とある
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/19/4d59d0fd5bd687ff274dc7256989b0e8.jpg)
茅葺屋根の建物が見えるが、ここは「接待茶屋跡」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/81/8e040867866eea8d6fda94fdb60d1307.jpg)
中山道石碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/6d/8f35d11d13e06a61bf24ee1ef60cf5e4.jpg)
中山道の歴史が書かれている和田峠案内板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/4f/45447ad119c58b86efbbbaace5551fab.jpg)
「東餅屋(和田宿側)」「接待(和田宿側)」などと呼ばれ、
いまでも地名にその名を残している
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/25/89098088d5949c28ffc46b0a78db65d4.jpg)
和田峠から長野佐久方面に下って来ると
笠取峠 (長野県)(かさどりとうげ) 茶屋が見えてきました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/77/887aa2ccd215a5b52abd6b06393cc31c.jpg)
笠取峠石碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/c4/cddd1150dbdf4b989f22f5e1d951a0e6.jpg)
笠取峠 (長野県)は>長野県北佐久郡立科町と
長野県小県郡長和町との境にある、旧中山道および国道142号の峠
標高は900m 芦田宿と長久保宿の間にあり、
旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり、皆いつの間にか笠を取っている
ことから笠取峠と呼ばれるようになったと
伝えられる 松並木が残り往時の面影を留めている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/90/97d0b64d85c1b5858bd8fa51897b60c9.jpg)
笠取峠マツ並木
この峠道は、近世五街道の1つ中山道の笠取峠である
徳川政権は、関が原の戦い後の慶長6年(1601年)
東海道に伝馬制を実施し、翌7年には中山道にも着手した
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/41/68986b540969fb7bcfdaaa2e85b77124.jpg)
笠取峠マツ並木にある
中山道六十九次 長窪、芦田、望月の宿場が描かれた石碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/6b/30533a08436a4b90f38598c99d653115.jpg)
笠取峠マツ並木は徳川秀忠は、
慶長九年(1604)諸街道の改修、一里塚の設置とともに
街道に樹木を植えさせて並木をつくらせた
この幕府の植樹政策によって街道の並木は全国的な広がりをみせ、
松・杉のほかに樫・榎・漆などが植えられた
特に箱根や日光の並木は、「昼尚暗き」杉の並木として
広く知られている 笠取峠のマツ並木は、近世五街道の一つ
中山道芦田宿の西方1キロメートル地点から笠取峠にかけて
約2キロメートルにわたっている
言い伝えでは慶長七年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、
近隣の村へ人足が割り当てられ小苗を植え付けたとされ、
幕末まで手入れ・補植等管理されていた
現在、松の総本数はおよそ150本で、その内、
約60本の松の樹齢は150~300年以上経たものである
その景観は往時の中山道をしのばせてくれるみごとなものである
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
blogカテゴリー登山に通った峠道も98話となり、
訪れた峠道を少し振り返ってみたいと思います
印象に残った絶景が広がる峠、歴史を感じる峠、最も美しかった峠等
掲載してみたいと思います
2024年も関東甲信越を中心とした歴史散歩を楽しめる峠、
絶景を楽しめる峠等巡っていきたいと思っております
今回の振り返り記事は旧中山道宿場を繋ぐ歴史をある峠
道3話(最終)をお届けしたいと思います
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/00/d7dcaafcffdeb4162dcd2f8f6b100d0a.jpg)
旧中山道沿いにある馬籠宿街並み
石畳を緩やかに進み馬籠峠へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/94/d6eac0e3ca378566c532abf744533fb7.jpg)
馬籠峠
馬籠峠(まごめとうげ)は、長野県木曽郡南木曽町と
岐阜県中津川市の境にある旧中山道の峠 標高790メートル
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/a8/b9b5ec4c540f7fb4f07b39d93d163bdb.jpg)
妻籠宿と馬籠宿の両宿の間にある馬籠峠
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/24/b678e01ac9e293675260ee76c9600f0d.jpg)
中山道の宿場町の中でも史蹟として保存状態の良い
両宿を含めて観光地として訪れる人も多い 峠には
「白雲や青葉若葉の三十里」という正岡子規の句碑が建っている
峠の名前は馬籠宿に由来するものであるが、
反対側の妻籠宿に由来する妻籠峠(つまごとうげ)という呼び名も
江戸時代には行われていた
かつては長野県内の峠だったが、
山口村が中津川市と越県合併したことで
県境の峠となった峠道は中山道の旧道と
岐阜県道・長野県道7号中津川南木曽線が並走し、
分岐と交差を繰り返している
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/99/c20df2f80ffc5b75d3afbcfb6b7fdee7.jpg)
馬籠峠 峠の茶屋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/c4/ad62230f7c31791fa70b917263bb246e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/80/3edfe7660631a33b2a56fda6f601c91c.jpg)
馬籠峠から妻籠宿へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/7e/32158f80857550fe9402c57dc492360b.jpg)
歴史ある古民家が建ち並ぶ妻籠宿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/cc/917fda0f7f4a4024e855b01591a91824.jpg)
妻籠宿街並み
外国人観光客も多く訪れサムライロードとも呼ばれている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/6e/0c5e12b4b26965ba7a5d18189c007d01.jpg)
旧中山道の難所と言われた鳥居峠(とりいとうげ)へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/46/b78f939fd20860c6c45c9eb0df6cf17a.jpg)
旧中山道の面影が残る石畳の遊歩道から鳥居峠へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/3b/6eeaffb8d832d496673c6cfa3fe4824e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/58/bbe48311b2558badce9cc811c7d6dd62.jpg)
旧中山道の面影が残る道標石
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/54/abb06c7a03d58a3b63be4f52c6b3aa67.jpg)
中山道幾多の戦場の舞台となった鳥居峠
鳥居峠(とりいとうげ)は、長野県の塩尻市奈良井と
木曽郡木祖村藪原を結ぶ峠 標高 1,197m
中世には「ならい坂」「やぶはら坂」と呼ばれた
美濃国と信濃国の国境に位置しているので、
中世には戦いが何度も行われた 平安時代後期、
以仁王の令旨を受けた>源義仲(木曽義仲)は
平家追討の旗揚げをし、八幡宮にて挙兵の奉納をした後、
県坂(現在の鳥居峠) 御嶽遥拝所に参拝し、大夫房覚明に執筆させて
ここより出陣をしたとされる 硯水の傍に柳の木があり、
義仲は枝を折り 「我が事ならば、
この柳に根を生じて繁茂するであろうと立ち去った」とされ、
この柳はその後見事に根付き、成長したという伝説が残っている
渓斎英泉の浮世絵「木曽街道 薮原宿 鳥居峠」の絵には、
木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれている
木曾義元が戦勝祈願のため、峠に鳥居を建てて以来、
鳥居峠と呼ばれるようになったといわれている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/eb/26250c07be0ec31c39ba66e0e1cde24b.jpg)
鳥居峠から奈良井宿に繋がる林道
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/64/db4322aaff2d9922f8a54270f25e2f57.jpg)
歴史的建造物が建ち並ぶ奈良井宿街並み
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/0e/e3903f15ac72e9cd9644ce328fd5ade3.jpg)
奈良井宿街並み
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/a6/d891ee7021b04a26041aef7ae6d7296a.jpg)
旧中山道の一里塚(復元されたものだと思われます)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/65/40388967f241088b556389893944fa90.jpg)
この辺に旧中山道街道沿いに一里塚があったと言われている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/05/75459d23ffb783ad761b4f2c49746f73.jpg)
和田峠の下に和田旧トンネル
今でも信号機がある相互通行の車道トンネル
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/95/847c9e8968f480a3a6dae8fc9a8bf337.jpg)
和田峠から和田旧トンネルを見おろす
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/9a/a68c2a0e54bb8c1daa5558c0e797ae1f.jpg)
和田峠茶屋
和田峠(わだとうげ)は、中山道(中仙道)の峠で、
長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある
最大標高1,531m 中山道は、江戸幕府によって整備された街道であり、
平均すると2里程度の間隔で宿場町が置かれていたが、
この和田峠は険しい山の中にあり、峠の江戸側の和田宿と
京都側の下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長い
冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていた
このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や
茶屋が設けられていたほどである
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/e9/d0a3240c10fc7c1bb8f5ca1e0f20182e.jpg)
和田峠からビーナスラインにつながる高原道路
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/a9/f0443730f9a02365748417275b134387.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/cb/8406754b3cc2dcf84b08f03ceca9a892.jpg)
中山道旧道の案内板
左方向に江戸方 接待 右方向に京方 和田峠とある
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/19/4d59d0fd5bd687ff274dc7256989b0e8.jpg)
茅葺屋根の建物が見えるが、ここは「接待茶屋跡」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/81/8e040867866eea8d6fda94fdb60d1307.jpg)
中山道石碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/6d/8f35d11d13e06a61bf24ee1ef60cf5e4.jpg)
中山道の歴史が書かれている和田峠案内板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/4f/45447ad119c58b86efbbbaace5551fab.jpg)
「東餅屋(和田宿側)」「接待(和田宿側)」などと呼ばれ、
いまでも地名にその名を残している
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/25/89098088d5949c28ffc46b0a78db65d4.jpg)
和田峠から長野佐久方面に下って来ると
笠取峠 (長野県)(かさどりとうげ) 茶屋が見えてきました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/77/887aa2ccd215a5b52abd6b06393cc31c.jpg)
笠取峠石碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/c4/cddd1150dbdf4b989f22f5e1d951a0e6.jpg)
笠取峠 (長野県)は>長野県北佐久郡立科町と
長野県小県郡長和町との境にある、旧中山道および国道142号の峠
標高は900m 芦田宿と長久保宿の間にあり、
旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり、皆いつの間にか笠を取っている
ことから笠取峠と呼ばれるようになったと
伝えられる 松並木が残り往時の面影を留めている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/90/97d0b64d85c1b5858bd8fa51897b60c9.jpg)
笠取峠マツ並木
この峠道は、近世五街道の1つ中山道の笠取峠である
徳川政権は、関が原の戦い後の慶長6年(1601年)
東海道に伝馬制を実施し、翌7年には中山道にも着手した
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/41/68986b540969fb7bcfdaaa2e85b77124.jpg)
笠取峠マツ並木にある
中山道六十九次 長窪、芦田、望月の宿場が描かれた石碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/6b/30533a08436a4b90f38598c99d653115.jpg)
笠取峠マツ並木は徳川秀忠は、
慶長九年(1604)諸街道の改修、一里塚の設置とともに
街道に樹木を植えさせて並木をつくらせた
この幕府の植樹政策によって街道の並木は全国的な広がりをみせ、
松・杉のほかに樫・榎・漆などが植えられた
特に箱根や日光の並木は、「昼尚暗き」杉の並木として
広く知られている 笠取峠のマツ並木は、近世五街道の一つ
中山道芦田宿の西方1キロメートル地点から笠取峠にかけて
約2キロメートルにわたっている
言い伝えでは慶長七年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、
近隣の村へ人足が割り当てられ小苗を植え付けたとされ、
幕末まで手入れ・補植等管理されていた
現在、松の総本数はおよそ150本で、その内、
約60本の松の樹齢は150~300年以上経たものである
その景観は往時の中山道をしのばせてくれるみごとなものである
最後まで御覧頂きありがとうございます
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