気ままなピークハンターズの山旅

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近世の旧中山道宿場を繋ぐ歴史ある峠道

2024-03-02 12:51:36 | 登山に通った峠道
こんにちは!
blogカテゴリー登山に通った峠道も98話となり、
訪れた峠道を少し振り返ってみたいと思います
印象に残った絶景が広がる峠、歴史を感じる峠、最も美しかった峠等
掲載してみたいと思います
2024年も関東甲信越を中心とした歴史散歩を楽しめる峠、
絶景を楽しめる峠等巡っていきたいと思っております
今回の振り返り記事は旧中山道宿場を繋ぐ歴史をある峠
道3話(最終)をお届けしたいと思います

旧中山道沿いにある馬籠宿街並み
石畳を緩やかに進み馬籠峠へ

馬籠峠
馬籠峠(まごめとうげ)は、長野県木曽郡南木曽町と
岐阜県中津川市の境にある旧中山道の峠  標高790メートル

妻籠宿と馬籠宿の両宿の間にある馬籠峠

中山道の宿場町の中でも史蹟として保存状態の良い
両宿を含めて観光地として訪れる人も多い 峠には
「白雲や青葉若葉の三十里」という正岡子規の句碑が建っている
峠の名前は馬籠宿に由来するものであるが、
反対側の妻籠宿に由来する妻籠峠(つまごとうげ)という呼び名も
江戸時代には行われていた
かつては長野県内の峠だったが、
山口村が中津川市と越県合併したことで
県境の峠となった峠道は中山道の旧道と
岐阜県道・長野県道7号中津川南木曽線が並走し、
分岐と交差を繰り返している

馬籠峠 峠の茶屋



馬籠峠から妻籠宿へ

歴史ある古民家が建ち並ぶ妻籠宿

妻籠宿街並み
外国人観光客も多く訪れサムライロードとも呼ばれている

旧中山道の難所と言われた鳥居峠(とりいとうげ)へ

旧中山道の面影が残る石畳の遊歩道から鳥居峠へ



旧中山道の面影が残る道標石

中山道幾多の戦場の舞台となった鳥居峠
鳥居峠(とりいとうげ)は、長野県の塩尻市奈良井と
木曽郡木祖村藪原を結ぶ峠   標高 1,197m
中世には「ならい坂」「やぶはら坂」と呼ばれた
美濃国と信濃国の国境に位置しているので、
中世には戦いが何度も行われた 平安時代後期、
以仁王の令旨を受けた>源義仲(木曽義仲)は
平家追討の旗揚げをし、八幡宮にて挙兵の奉納をした後、
県坂(現在の鳥居峠) 御嶽遥拝所に参拝し、大夫房覚明に執筆させて
ここより出陣をしたとされる 硯水の傍に柳の木があり、
義仲は枝を折り 「我が事ならば、
この柳に根を生じて繁茂するであろうと立ち去った」とされ、
この柳はその後見事に根付き、成長したという伝説が残っている
渓斎英泉の浮世絵「木曽街道 薮原宿 鳥居峠」の絵には、
木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれている
木曾義元が戦勝祈願のため、峠に鳥居を建てて以来、
鳥居峠と呼ばれるようになったといわれている

鳥居峠から奈良井宿に繋がる林道

歴史的建造物が建ち並ぶ奈良井宿街並み

奈良井宿街並み

旧中山道の一里塚(復元されたものだと思われます)

この辺に旧中山道街道沿いに一里塚があったと言われている

和田峠の下に和田旧トンネル
今でも信号機がある相互通行の車道トンネル

和田峠から和田旧トンネルを見おろす

和田峠茶屋
和田峠(わだとうげ)は、中山道(中仙道)の峠で、
長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある
最大標高1,531m  中山道は、江戸幕府によって整備された街道であり、
平均すると2里程度の間隔で宿場町が置かれていたが、
この和田峠は険しい山の中にあり、峠の江戸側の和田宿と
京都側の下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長い
冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていた
このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や
茶屋が設けられていたほどである

和田峠からビーナスラインにつながる高原道路



中山道旧道の案内板
左方向に江戸方 接待  右方向に京方 和田峠とある

茅葺屋根の建物が見えるが、ここは「接待茶屋跡」

中山道石碑

中山道の歴史が書かれている和田峠案内板

「東餅屋(和田宿側)」「接待(和田宿側)」などと呼ばれ、
いまでも地名にその名を残している

和田峠から長野佐久方面に下って来ると
笠取峠 (長野県)(かさどりとうげ) 茶屋が見えてきました

笠取峠石碑

笠取峠 (長野県)は>長野県北佐久郡立科町と
長野県小県郡長和町との境にある、旧中山道および国道142号の峠
標高は900m  芦田宿と長久保宿の間にあり、
旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり、皆いつの間にか笠を取っている
ことから笠取峠と呼ばれるようになったと
伝えられる 松並木が残り往時の面影を留めている

笠取峠マツ並木
この峠道は、近世五街道の1つ中山道の笠取峠である
徳川政権は、関が原の戦い後の慶長6年(1601年)
東海道に伝馬制を実施し、翌7年には中山道にも着手した

笠取峠マツ並木にある
中山道六十九次 長窪、芦田、望月の宿場が描かれた石碑

笠取峠マツ並木は徳川秀忠は、
慶長九年(1604)諸街道の改修、一里塚の設置とともに
街道に樹木を植えさせて並木をつくらせた
この幕府の植樹政策によって街道の並木は全国的な広がりをみせ、
松・杉のほかに樫・榎・漆などが植えられた
特に箱根や日光の並木は、「昼尚暗き」杉の並木として
広く知られている 笠取峠のマツ並木は、近世五街道の一つ
中山道芦田宿の西方1キロメートル地点から笠取峠にかけて
約2キロメートルにわたっている
言い伝えでは慶長七年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、
近隣の村へ人足が割り当てられ小苗を植え付けたとされ、
幕末まで手入れ・補植等管理されていた
現在、松の総本数はおよそ150本で、その内、
約60本の松の樹齢は150~300年以上経たものである
その景観は往時の中山道をしのばせてくれるみごとなものである


最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう

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