徐州には小高い丘に、古代の中国の英雄、項羽の小さな記念堂があった。
力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う
時に利あらず騅(名馬の名)逝かず
騅逝かざるを奈何(いかん)せん
虞や虞や若(なんじ)を奈何せん
という項羽の最後の言葉(詩)を思い浮かべたし、記念堂にもこの項羽自身が作ったという詩が書いてあった。そして項羽と虞美人の人形もおいてあったと思う。
「虞や虞や若(なんじ)を奈何せん」という一節は、私の幼い頃母からよく聞かされた覚えがある。この一節は母が好きであったようだ。
今、私は陳舜水著の「小説十八史略」を本棚から取り出して読んで見ている。
楚の軍隊に四方を固められ、所謂「四面楚歌」の中、項羽は8年も項羽につれそった愛人、虞美人と別れる。項羽はこの歌を何度も歌い、虞美人もそれに唱和したと史記には書いてあるそうである。
「項王、涙数行下る。左右皆泣き、能く仰ぎ視るものなし。」で史記の記述は終わっているのだそうだ。
伝説では、この時に虞美人は項羽の剣で自ら命を絶ったという。そしてこの時、虞美人の血がおちたところに可憐な草が生え、それが虞美人草と名づけられたという。
虞美人草とは「ひなげし」のことである。
「楚漢春秋」という本には、この項羽の詩に対する虞姫の次の返歌がのっているのだそうだ。
漢兵すでに地を略し
四方は楚歌の声
大王の意気尽きたれば
賤妾なんぞ生をやすんぜん
唐の武帝と楊貴妃の別れの場や日本の謡曲の「船弁慶」での義経と静御前の別れの場、同じく謡曲「巴」の木曾義仲と巴御前の別れの場なども思い起こしてしまう。英雄とその愛する女性の別れの場は、絵になるのであろう。
項羽と虞姫との別れは「垓下」という土地でおきたことになっているが、「垓下」と項羽祈念堂のあった徐州とがどういう関係なのか、同じ場所なのかどうか、その後私は調べていない。
画像:虞美人草(ひなげし)
力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う
時に利あらず騅(名馬の名)逝かず
騅逝かざるを奈何(いかん)せん
虞や虞や若(なんじ)を奈何せん
という項羽の最後の言葉(詩)を思い浮かべたし、記念堂にもこの項羽自身が作ったという詩が書いてあった。そして項羽と虞美人の人形もおいてあったと思う。
「虞や虞や若(なんじ)を奈何せん」という一節は、私の幼い頃母からよく聞かされた覚えがある。この一節は母が好きであったようだ。
今、私は陳舜水著の「小説十八史略」を本棚から取り出して読んで見ている。
楚の軍隊に四方を固められ、所謂「四面楚歌」の中、項羽は8年も項羽につれそった愛人、虞美人と別れる。項羽はこの歌を何度も歌い、虞美人もそれに唱和したと史記には書いてあるそうである。
「項王、涙数行下る。左右皆泣き、能く仰ぎ視るものなし。」で史記の記述は終わっているのだそうだ。
伝説では、この時に虞美人は項羽の剣で自ら命を絶ったという。そしてこの時、虞美人の血がおちたところに可憐な草が生え、それが虞美人草と名づけられたという。
虞美人草とは「ひなげし」のことである。
「楚漢春秋」という本には、この項羽の詩に対する虞姫の次の返歌がのっているのだそうだ。
漢兵すでに地を略し
四方は楚歌の声
大王の意気尽きたれば
賤妾なんぞ生をやすんぜん
唐の武帝と楊貴妃の別れの場や日本の謡曲の「船弁慶」での義経と静御前の別れの場、同じく謡曲「巴」の木曾義仲と巴御前の別れの場なども思い起こしてしまう。英雄とその愛する女性の別れの場は、絵になるのであろう。
項羽と虞姫との別れは「垓下」という土地でおきたことになっているが、「垓下」と項羽祈念堂のあった徐州とがどういう関係なのか、同じ場所なのかどうか、その後私は調べていない。
画像:虞美人草(ひなげし)