この懐かしき本たちよ!

まだ私の手元に残っている懐かしい本とそれにまつわるいろいろな思い出、その他、とりとめのない思いを書き綴りたい。

#117 トルストイ「青春日記」

2005年06月13日 | ロシア文学
この本は私の本棚でほとんど手にとられずに長く居つづけて来た。いつどのようにして買ったのかも覚えていない。発行所が「近代文庫」というのも聞きなれない。しかしこの本の訳者は原久一郎氏でありしっかりしたものだ。出版は昭和30年(1955年)12月となっている。私は上巻しか持っていない。あるいは、特別に安くで売っていたのでとりあえず買ったというものなのかも知れない。トルストイの19歳から24歳の日記の抜粋のようである。

トルストイのこの間の日記を誰がどのようにして編集してこの本になったのかはわからない。もし下巻も持っていれば、訳者の解説がのっており、それを読めばわかるのだろうが。アンナ・カレーニナの中のレーヴィンの日記で、この本を思い出し、ちょっと読み返している。

トルストイの1847年(彼は19歳)の3月17日にはじまり、この上巻は1852年12月31日(彼は24歳)で終わっている。

トルストイの魅力は、彼の晩年の求道者としてのイメージと、彼の若いときの放縦な生活とが大きく違っていることである。ダイナミックな人生と言えるだろうか。

編集者がわざわざそのように選んだのか、トルストイ自身が編集してそのような構成にしたのかはわからないが、この「青春日記」の第1ページの1847年3月17日の記述はこうである。

「1847年3月17日
大学の付属病院へ入院してから、今日でもう6日になる。そして僕はこの6日間、ほとんど自己満足の生活に終始した。
 フランス人の言い草ではないが、「Les petit causes produisent de grand effets. 些細な原因が由々しい結果を招来する」というのはほんとうだ。僕は「トリッペル」を背負い込んでしまった。筋は無論わかっている。こういうしろものの普通伝播される場所からだ。・・・・」

そして、この上巻の最後の1852年の12月31日の日記の記述はこうである。

「1852年12月31日
朝からヒルコーイスキーのところで酒宴がはじまり、それを皮切りにあちらことらと飲み歩き、遂に1月1日の午前2時近くまでぶっ徹しだった。」

それから1952年3月20日の日記にもこういう記述がある。
「1852年3月20日
11月から療養生活をはじめ、まる2ヶ月、つまり新年まで、家の中で寝て暮らした。この2ヶ月は退屈ではあったが、しづかな有為な生活だった。」
これには「花柳病にかかり水銀療法を行う」との訳者の註がついている。

私は誤解されるのを恐れながらも、この日記を読んでいてトルストイに一層の魅力を感ずるといいたい。きれいごとではなく、青春という混沌の中でもがいているトルストイという人間がよくわかる。この日記も、きっとトルストイ自身が公開を認めたものであろう。

小説「アンナ・カレーニナ」の中でレーヴィンがキティーにどのような日記を見せたのかはわからないが、「こんなおそろしいもの」と彼女が言った理由も想像できるような気がする。
(若い人達の得意の絵文字を使うとすれば、ここで、「クスクス」の絵文字「参ったな」というような絵文字を私は入れるところなのだろう。
「冗談じゃないわよ!」と公爵令嬢のキティーに怒られそうだが。)

*画像:トルストイ「青春日記」(上)原久一郎訳 近代文庫刊 1955年発行 全333ペー     ジ 定価100円


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