何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

元気をもらえるのか?

2016年03月21日 | 喪失感
勿論名前は伏せるし、どんな繋がりのある人とかも伏せる。

とある公務員とだけ言っておこう。


祥一郎が日に日に状態が悪化し、なんとかしようと四方八方、様々な人に相談していたときだった。

しかし祥一郎は亡くなり、悲しみにくれる私はその中の一人にその後の話を聞いてもらった。


勿論慰めの言葉も貰ったし、「またなにかあれば言ってください。」とも言われた。


けれども・・・・・・・・・

私は介護の仕事をしている。その話題になったときにその人は、

「私も母親を特別老人ホームに預けてるんですよ。でも元気なお年寄りを見てると元気をもらえませんか?」

・・・・・・・・・・・・

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私は耳を疑った。

最愛の、この世でたった一人の家族を喪ってまだ三カ月経たないというのに、そんなことで元気が貰えるのだろうか。

その人は、最愛の人を亡くしてそういう方法で元気をもらったのだろうか。


元気なお年寄りなら、私の職場にも大勢いる。
元気過ぎて、職員にあまりに注文が多く、文句が多い為、疎ましがられている人も居る。
まあ生きることに貪欲なのだろう。


実は私も職場でときおりそんなお年寄りに話しかけることが有る。

「〇〇さんは、いつまでもお元気ですね。」

「〇〇さんにいつも面会にくる奥さんとは、いつも仲がいいですね。」

「〇〇さんの妹さん、毎日来てくれていいですね。」

等等、忙しい雑務の合間に話しかける事が有る。



けれども、そんな話をしたところで、私は元気をもらっただろうか。

否!

寧ろ自分の今の境遇が、堪らなく切なく哀しくなるばかりだ。
妬ましいと思う事も有る。


本当は職員のプライベートな話はあまりしてはいけないのだけれど、

「実は・・・・・・・・僕のパートナー、つい先日亡くなってしまったんですよ・・。」

とつい漏らしたこともある。
その時は「ええ、ほんとなの?なんで?ガン?」

などと反応してくれる人もたまには居る。しかし次の瞬間にはもうそんな話をしたことは忘れている。
殆どの方が認知症なのだから仕方が無い。

或いは、車いすからベッドへ移乗しようとして疲れきってふと床に座り込み、もう100歳近いおじいさんをじっと見つめることもあったりする。

(このおじいさん、こんな歳なのに、本当に元気だな・・・・・・・)などと思いながら。




間違っても、今の職場の環境で、祥一郎を亡くした悲嘆が少しでも軽くなったことは無いし、ましてや少しの元気も貰ったことは無い。
むしろ日々の最低限の業務をなんとかこなしていくだけで精一杯なだけだ。



件の公務員の人は勿論悪気があって言ったのではないだろう。むしろ励まそうとしたのだろう。

しかしその「元気をもらえるでしょう?」

などと言える精神構造が、今の私には理解できない。


祥一郎を喪った悲しみ、寂しさ、悔しさ、後悔、贖罪感や罪悪感、自責の念・・・・・・それらが、少しでも軽くなるような環境や言葉が、いまこの世にあるとは私には到底思えない・・・・・・・・


祥一郎・・・・・・・そんなものが本当にあるのかな・・・・・・・・・

そっちへ行ってお前と強く抱きしめ合う以外に、この世にそんな癒され元気を貰えるものがあるのかな・・・・・・・・・