何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

桜の季節・・・・・・・涙で見えない花びら

2016年03月25日 | 菩提を弔う
あちこちで桜の開花宣言が・・・・・・・・・

あっという間に満開になって、ある意味、一年で一番浮かれた時期に入ってくのだろう。

花見だ夜桜だ、そして街には赤い顔した、生きるって素晴らしいというような顔をした人々が増える季節。


私の通勤経路にもかなりな桜並木が有って、去年まではそれを眺めながら、仕事で疲れきった心を慰めていたもjのだ。


そして・・・・・・・・

今年の桜を、私はどんな思いで眺めるんだろう・・・・・・・・・・・・・

季節の移ろいを感じるのだろうか。

ああ、今年も綺麗に咲いたなあと感慨に耽るのだろうか。

散りゆく花に、短い盛りを惜しむのだろうか。


おそらくどれも違う、どの思いも抱けないだろう。


どんなに満開に咲き誇っても、きっと相変らず下を向いて、散った花びらしか目に入らないだろう。


むしろ満開の桜を、憎らしい、疎ましいと思うかもしれない。

あっと言う間に散っていく桜だけれど、おそらく、いや確実にまた来年咲き誇る季節がやってくる。




しかし私のあの20数年間、祥一郎と過ごしたかけがいのない年月はもう二度とやってくることはない・・・
そして祥一郎ももう二度と、命の花を咲かせることは無い・・・・・・・・・・・・


そう思うと、徐々に満開になっていく桜に、恐怖さえ感じるかもしれない。

未曾有の悲しみに打ちひしがれた私を、桜が見下し、嘲笑っているように感じるかもしれない。



祥一郎が元気だったころ何度か

「ねえ、ちょっと弁当でも作って花見に行かない?」

と提案したことがある。

案の定祥一郎からは、「今さら花見?あっちこっちで咲いてるからそれ見て充分やろ。それにうち、あの花見の浮かれた連中嫌いやねん。」

という答え。

まあ私もそれほど本気では無かったのだけれど。祥一郎の反応も予想の範疇だったし。


でも・・・・・今となっては一度くらい二人だけの花見をやっておけば良かったと思っている。

粗末な弁当を作って、近所の小さな公園で、一本しかない桜を見上げて、ふたりっきりの花見をやっておけばよかった。

そうすればこの季節、(嗚呼、祥一郎と一度だけ花見をしたことがあったなあ。)と、涙がこぼれるかも知れないが、ひとしきりの感慨にふけることも有ったかもしれない。

少なくとも、咲き始める桜に妬ましさや恐怖は抱くことは無かったかもしれない。

桜に罪はない。

でも、その美しい生命の輝きを、私はまともに見ることはできないだろう。少なくとも今年は。

いや、今後何年もそうなのかもしれない。


祥一郎・・・・・・・・・

そちらに桜は咲いているのかい?

それとも一年中お花畑のような世界なのかい?

おっちゃんは花の華やかさには無縁の世界に生きているよ。

唯一お前の仏前に供える、楚々とした仏花だけが、お前の居なくなった部屋で咲いているよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・