何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

彼が死んでから気づく・・・・・

2016年03月23日 | 何故死んでしまったの
「生きている時より、貴方を愛おしく感じる。」

どこかで聞いたような台詞だ。

それって、どうなんだろう。

喪ったから、今はもう逢えないから、亡くしたものをもう取り戻せないからじゃないのか。

かく言う私も、今は居ない祥一郎が愛おしくて、逢いたくて、取り戻したくてたまらない。

親孝行したいときに親は無しというけど、好きだよ、いつまでも一緒だよ、俺たちは永遠だよ、なんて、相手が生きてる時に言わないだろう、普通。


だから人間は愚かなんだね。

当たり前に、普通に傍に居たあの人が、もうこの世に居ない。

これこそ喪失感というものなんだろうな。
無くなってから気づく。亡くなってからあの人がどんなに自分にとって大事で愛しい人だったのか気づく。

その愚かな人間の一人に、私もなったということだ。いや初めからそうだったのだろう。

あの突然の永遠の別れなど想像することもなく、そのうち何とかなるだろうと直前まで愚かにも思っていたのだから。


四六時中愛しい人との突然の死別を想像して生きてる人なんてそうそう居ないだろう。

日常に埋没し、相手を疎ましく思ったり、喧嘩もしたり、たまには一人になりたいと思ったりするのは、かけがいの無い人がそこに生きてるからこそ出来る。


みんな、そんな理屈はわかってるはずだ。

でも人間は環境の動物。今存在する環境で物を考え感じることしかできないんだ。


そして後悔先に立たず・・・・・・・・・・・・・・・


祥一郎・・・・おっちゃんもそんな愚かな醜態を晒しながら、今を生きているよ。

でも・・・・・だからといってお前を亡くしたことを諦めたり、悲しむのを止めたり、逢いたい気持ちを
抑えたりはやっぱりできない。

いつかまた逢えるんじゃないかという期待も捨てることはできないんだ・・・・・・

何度も言うよ。

愚かだね、人間は。おっちゃんは。


祥一郎・・・・お前と大喧嘩したとき、口もききたくないとき、お前が突然亡くなってしまう事を想像して、すぐ仲直りなんかできないだろう。


祥一郎・・・・・・お前とまた喧嘩したいよ。口もききたくないと思ってひとりで飲みに行きたいよ。

だって、それはお前が居たからできたのだからね。そしていつのまにかほとぼりが冷めて、いつもの二人の暮らしに戻る。



だけど、もうそれはできない・・・・・・・・・