goo blog サービス終了のお知らせ 

MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

 伊皿子坂社会経済研究所のスクラップファイルサイトにようこそ。

#2699 Z世代が「やる気なさげ」に見えるワケ

2024年12月31日 | 社会・経済

 厚生労働省が2023年に大学4年生、大学院2年生を対象に実施した調査(「新しい時代の働き方に関する研究会報告書」2023年11月13日)によれば、「大学生にとっての働きたい組織」の特徴は、以下の3点に集約されるとのことです。

 一つ目は、「リスクをとりチャレンジングな事業成長を目指している」よりも、「安定し確実な事業成長を目指している」を支持するというもの。不確実な時代を生き抜く知恵として、まずは「安定」を重視するということなのでしょう。

 二つ目は、「短期で成長できるが、体力的・精神的なストレスもかかる」よりも「短期での成長はしにくいが、体力的・精神的なストレスがかからない」を支持するというもの。無理をしてストレスフルな環境に身を置くよりも、身の丈に合った仕事を淡々とこなしていきたいということなのかもしれません。

 そして三つ目は、「その会社に属していてこそ役に立つ、企業独自の特殊な能力が身に付く」よりも、「どこの会社に行ってもある程度通用するような汎用的な能力が身に付く」を志向するということです。その会社で何をするかよりも、会社が何をしてくれるかを基準に考えるのが現代の就活のお作法とのこと。離職・転職は織り込み済みで、自分個人のキャリアアップを第一に考える(思いのほかドライな)彼らの姿に、イマドキを感じるのは私だけではないでしょう。

 「Z世代」などと呼ばれ、それ以前の世代とは一線を引かれる彼らは、(旧世代が作り上げてきた)この社会にどのように抗い、どのように生きていこうとしているのか。(そうした疑問に応えるように)10月23日の経済情報サイト「Forbes JAPAN」に『Z世代が解雇される3つの理由』と題する記事が掲載されていたので、小欄にその概要を残しておきたいと思います。

 Z世代に対する最も一般的な批判は、「やる気が見られない」というもの。Z世代は達成したい目標を掲げて「一生懸命」働くということをしない…と主張する声は大きいが、それはなぜかを掘り下げようとする人はあまりいないと記事は記しています。

 2008年の金融危機からコロナ禍の混乱に至るまで、Z世代は「雇用主が忠実な従業員をどのように扱うか」を目の当たりにしてきた。解雇、減給、雇用の不安定さは、Z世代の親たちが抱える共通のテーマだったと記事はしています。こうした視点に立てば、Z世代が従来のキャリアパスになぜ懐疑的になるのかがわかろうというもの。努力が必ずしも報われるとは限らないと知れば、「自力で苦境を乗り越える」ことの困難さも理解できる。つまり、他の世代の目に映るZ世代の「やる気の欠如」は自己防衛の一形態であり、頑張ってもさほど安定が得られない環境に身を置くことへのためらいなのかもしれないということです。

 さて、Z世代が職場で直面する問題につながっている「もう1つの要素」として、記事は彼らが身に着けてきた「コミュニケーション(の方法の)変化」を挙げています。この世代は、ネットやデジタル機器がある環境で生まれ育った「デジタルネイティブ」とされるが、それが従来型の職場環境における対人スキルにつながるとは限らない。SNSやテキストベースのやり取りにどっぷり浸かって育った彼らは、対面での意思疎通、特に職場でのやり取りに苦戦する可能性があると記事はしています。

 また、彼らは(パンデミックにより)打ち合わせの代わりに、慣れ親しんだ手短なテキストでのやり取りが容認されていた時代に社会に出ざるを得なかった由。キャリア形成の重要な時期にオフィスに出社して同僚と顔を合わせて働く機会を逃してしまい、仕事に必要とされるコミュニケーションスキルを身に着けられなかった可能性もあるということです。

 記事によれば、こうした問題は(主に)職場がZ世代に「慣らしの機会」を提供することなく、職場に溶け込むことを期待する場合に生じるとのこと。このようなコミュニケーションギャップは誤解やミスを招きやすく、Z世代が仕事熱心でないという印象につながりかねないと記事は説明しています。

 そして、Z世代が職を失う可能性がある最も決定的な理由として、記事は「長時間労働や常時対応、仕事漬けの生活を重視する従来の労働文化を拒否している点」を挙げています。彼らより年長の世代にとって、「成功」は勤勉さや会社にキャリアを捧げることと結びついている。しかしZ世代は、こうしたミレニアル世代の(出世を念頭に置いた)「ハッスル文化」を支持していないと記事は指摘しています。

 記事によれば、彼らが求めているのは「給料以上」のもの─つまり、バランスや意義、そして雇用とは別の個人的な充実感だということ。実際、Z世代の半数が就職を検討する際の最優先事項の1つに「ワークライフバランス」を挙げており、この「本音をはっきり口にする」世代は、有害な職場環境に我慢することを潔しとせず、「思っていたのと違う」仕事はすぐに辞することを厭わないということです。

 もちろん、これは「怠惰」とは違う感覚。(言うならば)Z世代はキャリアアップよりも、個人のウェルビーイングやメンタルヘルスを優先する傾向が強いということだと記事は言います。こうした優先順位の変化は、年長の同僚や、従業員に期待以上の成果を求める企業にとっては不快かもしれない。しかし、少なくともZ世代はそれでも、残業したり、勤務時間外でも常にEメールに対応したりすることを(感覚として)好まないということです。

 さて、雇用の安定やキャリアアップといった約束が守られるとは限らない、目まぐるしく変化する世界で育ってきたZ世代。その彼らが直面する職場の問題の多くについて、(彼らを迎える世代は)全て彼らに非があるわけではないと認識することが重要だと記事は最後に綴っています。

 彼らは、(努力に対して必ずしも報いてくれるわけではない)会社で働くばかりが人生ではないことを悟っている。Z世代を名乗る彼らは、時代遅れの働き方や現代のニーズに適応できていない職場と「今日も格闘している」のだと話す記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2698 「闇バイト」の闇

2024年12月30日 | 社会・経済

 「闇バイト」を使う強盗事件の報道が相次ぐ中、住宅に押し入り暴力を振るうという乱暴な手口に、不安を抱く女性や高齢者が増えているとの話を聞きます。

 実際、実行役として逮捕された容疑者の多くが20代の若者で、SNSなどに示された高額報酬につられて応募し、犯罪行為に加担したケースが多いとされています。例えば、今年10月に横浜市で高齢男性が手足を縛られ殺害された事件の実行犯となった22歳の容疑者は、SNSの「ホワイト案件」との投稿に応募。途中で闇バイトと気づいたが身分証で個人情報を把握され、「家族への危害を考えると断れなかった…」と供述しているということです。

 地域で「闇バイト」による事件が多発していることを受け、愛知県警が昨年管内で特殊詐欺事件として検挙した容疑者178人を分析したところ、SNSなどで集められた闇バイトが全体の4割(67人)を占めることが分かったとのこと。SNSを通じ「バイト」として集められた若者が、実行犯として次々使い捨てられている状況が見て取れます。

 一方、相次ぐ凶悪な犯行に警察も本腰を入れ、この種の犯罪の未然某防止に力を入れる姿勢を見せています。10月18日の読売新聞によれば、今年に入って首都圏で起こった「闇バイト」を実行役にした強盗事件のうち、東京、埼玉、神奈川、千葉の4都県で起きた5事件は同一の指示役によって引き起こされた可能性が高いとのこと。類似の事件は8月以降、少なくとも13件発生しており、4都県警は合同捜査本部を設置して捜査態勢を強化するとしています。

 記事によれば、一連の事件でこれまでに25人の実行役らが逮捕されているとされており、実行役を通じ事件全体の解明が急がれています。捜査関係者によると、一連の指示役は複数の名前を利用している同一犯とみられ、8月以降に4都県で起きた7事件では、「小山」のほか「赤西」「夏目漱石」「ジョジョ」など約20のアカウントを利用している由。警察は、SNSでメンバーを集めて事件を繰り返す「匿名・流動型犯罪グループ」(トクリュウ)が関与しているとみているということです。

 さて、ここで言う「闇バイト」とは、SNSやネットの掲示板などで、「短時間で高収入」「簡単なホワイトバイト」などと呼びかけて、応募すると、詐欺の受け子や出し子、強盗の実行犯などに加担させられる手口を指しています。

 就職情報サイトの「マイナビ」が今年の2月に行った、アルバイトをしている高校生651人にインターネットで実施したアンケート調査によると、46.6%が、サイトや求人情報誌を通さず「SNSで直接アルバイトを探した経験がある」と答えたという話。また、全体の34.5%が「SNSで見つけたアルバイトで、実際に働いた経験がある」と回答していることから、若い世代ではSNSによるアルバイト探しが身近になっている状況がうかがえます。

 その他、『SNSで怪しい求人を見かけたことがある』と回答した高校生の割合が41.3%にのぼっており、『SNSで怪しい求人の勧誘を受けたことがある』と回答した高校生も10.4%いたことから、そうした中には高校生が常識的に考えても「明らかにおかしい」バイトが(割と普通に)存在している状況のようです。

 さて、それにしても「アレ?おかしいな…」と感じた際に、実行役たちはなぜすぐに断れなかったのか。それは、犯罪グループの指示役が、「闇バイト」たちを確実に犯罪に向かわせるための手段が、入手した個人情報を盾にとって脅迫しているからだとされています。

 報道によれば、闇バイトに応募すると秘匿性の高い通信アプリをインストールするよう指示され、その後、「アルバイトをするための登録のために必要だ」などと個人情報を送るよう求められるということです。そして個人情報を送信すると、(初めて)バイトの詳細が伝えられる。「これはヤバい奴だ…」と気づいて断ろうとしても、既に送ってしまった情報をもとに脅されるということです。

 警察庁がまとめた闇バイトの実態を伝えるための「事例集」には、例えば「自宅に押しかけて、まず母親から狙うと脅される」とか、「やめたいと言ったら家族全員殺すなどと脅迫される」などといった証言も見受けられます。つまりは、実行役本人は「気が付いた時にはもう遅い」という状態の中で、自身や家族の身を守るため、顔も知らない相手の指示に従って必死で役割をこなしているだけということなのでしょう。

 ともあれ、そんな杜撰な状況の中で(犯罪の)素人が行う犯行が上手くいくはずもありません。そして、陰に隠れた指示役たちも、(そんなことは十分に分かったうえで)捨て駒の実行役を次々と(とっかえ引っかえ)動員し、愉快犯のように犯行を繰り返しているのは想像に難くありません。

 「騙される方が悪い」では済まないこの状況。結局のところ、悪いものは元から断たなくては駄目だということなのでしょう。警察当局には、SNS上の怪しげなバイト募集や書き込みを片っ端から調べて回るくらいの意気込みを見せてほしいと、思わないではありません。


#2697 健康診断は誰のため?

2024年12月29日 | 医療

 先日、都内に暮らす92歳の母親のところに、地元の区役所から「定期健診のおしらせ」が届きました。事前に予約すれば、二駅先の医療機関で(無料で)受診できるということ。丁寧に読んだ母が「久しぶりに行ってみようかしら…」などと言うので、思わず「まあまあ…」と止めた次第です。

 普段は鷹揚な彼女も(歳が歳だけに)「健康」の二文字には敏感です。「今さら癌が見つかったからといって手術ができるわけでもなし、心配事が増えるだけだから…」と説得しても聞き入れてくれません。毎月通っている近所の(かかりつけの)先生に相談してみたら?とお任せしたところ、「僕がいつもちゃんと見てるから大丈夫」と言ってもらえてようやく安心できたようです。

 それにしても、足腰の弱った90代の高齢者に「健康診断を受けに行きなさい」というのは、何ともお役所仕事。出かけるリスクの方がよっぽど大きいだろうにと笑ってしまったところです。

 そういえば、私自身も毎年職場で「人間ドック」の通知をもらうたび、「お金もかからないからまあいいか…」と何の疑いもなく指定の病院に足を運び胃カメラやら脳ドックやらを一日かけて受けていましたが、確かにあまり役に立った記憶はありません。「要精検」やら「日常生活に注意」などは毎年いくつもあるものの、放っておいて不都合が生じたことはなかったような気がします。

 そもそも、1回何万円ものお金をかけて、健康データを毎年毎年チェックしていく必要が本当にあるのでしょうか?…10月21日の経済情報サイト「現代ビジネス」に、精神科医で作家の和田秀樹氏が『健康診断は日本だけのフシギな慣習! 健診で予防できないどころか命が縮まることも』と題する一文を寄せていたので、(気になる方のために)指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 日本人にとってなじみの深い「定期健康診断」(健診)は、実は世界ではほとんど行われていない。単一の診療科で問診や検査を受けられる国はあっても、体調が悪いわけでもない人に法律で健診を強制しているような国は、日本以外にはないと氏はこの論考に記しています。

 氏によれば、日本の健診の始まりは1911年に制定された工場法とのこと。当時問題となっていた結核や赤痢などの感染症の集団感染や蔓延を防ぐことが主な目的だったとされています。そして54年には、世界で初めて組織的な人間ドックがスタート。72年には労働安全衛生法が制定され、労働者は年一回、健診を受けるよう、事業者に義務づけられたと氏はしています。

 さらに2008年には、40~74歳を対象に腹囲や体重、血圧、血糖値、脂質を測定して、生活習慣病のリスクの高い人を早期に見つけるメタボ健診を導入。同時に75歳以上の後期高齢者も任意で受けることができるようになり、日本では(その気になれば)死ぬまで健診を受け続ける制度が整ったということです。

 さて、問題はここからです。健診というのは、(単純化すれば)基準値から外れた「異常値」の人を選び出し、その人たちを医療につなげていくしくみとのこと。それにより、高血圧、脂質異常症、糖尿病、肥満などを防いだり、改善したりすることで、脳卒中や心筋梗塞などにならないようにしようというのが建て前だと氏は説明しています。

 なので、異常値と判定された人の多くは、医者から薬を飲むように言われ、食事や運動などの生活指導を受けることになる。しかし、それが本当に病気の予防になるかどうかは、実はよくわかっていないというのが氏の指摘するところです。

 メタボ健診で生活習慣病のリスクが高いと判断され、特定保健指導の対象となった人を調べた研究によれば、その後の保健指導によって1年間で、男性で腹囲が2.2cm、体重が1.kg、女性で腹囲が3.1cm、体重が2.2kg減少するなど(確かに)数値は改善。血圧や血糖値、脂質も改善していたということです。

 しかし、最も重要なのは数値が改善したかではなく、(言うまでもなく)脳卒中や心臓病の予防効果があったかどうか。でも、その肝心なところは調べられていないと氏は話しています。

 それどころか、1991年に発表されたフィンランドの比較試験では、どこも具合が悪くないのに健診によって問題を探し、医者があれこれと厳しく介入することでかえって命を縮めてしまうという結果すら出ているとのこと。その他、健診の効果を検証する臨床試験は欧米を中心にいくつも行われているが、健診を受けた人と受けなかった人で、全体の死亡率、心臓病、脳卒中、がんによる死亡率に差は見られていないということです。

 これらの研究結果を総合すると、健診は病気を予防する効果が見られないばかりか、医療の厳しい管理でかえって命を縮める可能性もあるという結論になる。「タダより高いものはない」と言うが、実質タダの健診を受けたために、高い代償を払うハメになるかもしれないというのが氏の見解です。

 氏によれば、健診でメタボ症候群に該当する人は、予備軍も含めて約1671万人(2022年度)にのぼる由。これは、メタボ健診の対象となる40~74歳の人口(約5900万人)の約4人に1人に該当するということです。

 この人たちが、医者から処方された薬を飲み、その後、何十年も薬を飲み続けることになる、まさに「薬漬けの医療」にどっぷり浸かっていくことになると氏は言います。

 一方、24年3月、新潟大学の研究チームが、メタボ基準の女性の腹囲を現在の「90cm」から「77cm」にすべきという新基準案を提案したが、かける網を大きくすればリスクの見逃しは少なくなるとしても、治療の必要がない健康な人もたくさん網にかけてしまうことの害について議論されることはほとんどないということです。

 メタボ症候群に該当する人の数は2020年度の約1715万人をピークに、高齢化や人口減少にともなって50年には約1330万人に減少するとの推計がある。これまでも、血圧、コレステロール値、血糖値などの基準値がシラッと引き下げられてきた経緯を考えれば、基準値を引き下げるという提案が、メタボ患者の数を確保しておきたいという策略に思えるのは私だけだろうかと、氏はこの論考で疑問を投げかけています。

 メタボ健診を受けるかどうかは、個人が判断すべきこと。しかし、勧められるままに健診を受け、すすめられるままに治療を始めてしまうその先は、(好きなものも食べられず)ヨボヨボ道に続いているかもしれないことは覚えておいてほしいと話す(臨床医としての)和田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2696 匿名世界は「甘え」の掃きだめ

2024年12月28日 | 社会・経済

 10月4日、東京都で、全国初となる(客からの迷惑行為などの)カスタマーハラスメント、いわゆる「カスハラ」を防ぐ条例が成立しました。

 この条例では、カスハラを「客から就業者に対しその業務に関して行われる著しい迷惑行為で、就業環境を害するもの」と定義。「何人もカスハラを行ってはならない」と規定しています。客や事業者などに対しては、カスハラを防ぐための対応を取るよう求めるとともに、運用にあたっては「客の権利を不当に侵害しない」ことを規定する内容で、来年4月1日から施行されるということです。

 小池百合子都知事の肝いりとされるこの条例。違反しても罰則などはなくあくまで「宣言条例」の域を出ませんが、(それ自体)こうした条例による線引きや規制が必要なくらいの問題行為が巷にあふれていることへの証左なのかもしれません。

 確かに、(例えば)駅員への暴力や店員への土下座の強要、さらにはそうした様子をSNSに晒すなど、常識の範囲を大きく超えた行為が目に付く時代となりました。ハラスメントやハードクレームなど、立場の弱いものに対する執拗な攻撃というのは確かに昔からあったのでしょうが、(反社勢力とかではない)ごく一般の人々の間に広がるこうした風潮には、どこかで歯止めをかける必要があるのでしょう。

 それにしても、なぜこの優しい日本人の間で、人を傷つける言動に対するハードルが(条例が必要なまでに)下がってしまったのか。10月15日の情報サイト「Newsweek日本版」に、立正大学教授で社会学者の小宮信夫氏が『日本に「パワハラ」や「クレイマー」がはびこる理由』と題する一文を寄せているので、参考までに小欄にその一部を残しておきたいと思います。

 学校教育では、社会には「法の支配」がありその基礎は「権利と義務」だと教える。しかし、日本の実社会は、「甘え(権利ではない)」と「義理(義務ではない)」に大きく影響されていると小宮氏はこの論考の冒頭に綴っています。

 この法文化の二重構造の源流を探るには、明治政府の近代化政策にまで遡らなければならないと氏は言います。明治政府は、欧米列強から日本を守るため、西洋に追い付くことを最優先事項とした。とりわけ、治外法権を撤廃し西洋と対等の立場で経済成長を図るには、西洋の法制度の早急な移植が不可欠だったということです。

 そこで、近代法が西洋の法を模して急遽制定されたが、伝統的な道徳や慣習については手付かずのまま残された。それは、さながら在来の道路の上に高速道路を建設するようなもので、一般の国民が利用・生活する道路はそのまま形で残されたと氏は話しています。

 要するに当時の明治政府には、日本の近代化を早急に実現するため、手間のかかる日常生活における行為規範の近代化に手を付ける余裕がなかったということ。加えて、各地の支配層が(自らの政治的正統性を脅かしかねない)自由主義、平等主義、民主主義といった西洋法の精神の受容を拒否したことで、伝統的な行為規範を残存させる結果につながったというのが小宮氏の認識です。

 このように、日本の近代的な法制度が、自発的エネルギーに基づく闘争の成果ではなく、西洋法の戦術的な模倣の産物であったため、法律と日常生活との間に乖離が生じた。つまり、法律が、政府から一方的に与えられた統治の道具として冷ややかに受け止められる一方で、日常生活については義理などの伝統的な規範によって従来通りに規律され続けたというのが氏の指摘するところです。

 結果、日本の文化は二重性を呈するようになった。つまり、知っている人間(自己の所属集団)に対する規範と、知らない人間(社会一般)に対する規範という、二つの異なった行為規範から成る規範意識が生成されたと氏はしています。

 そして現在に至るまで、二つの行為規範は、「うち」と「よそ」という言葉で表象される生活空間の区別に応じて使い分けられてきた。要するに、「うち」(本音)の世界では、相変わらず「甘えと義理」(タテ型・交換型ルール)がまかり通り、「よそ」(建前)の世界でのみ「権利と義務」(ヨコ型・調整型ルール)を扱っているということです。

 それでも社会秩序が保たれてきたのは、この「うち」の世界における、「甘え」と「義理」とが均衡していたから。言い換えれば、これまで社会秩序が保たれてきたのは、「義理」の力で「甘え」が暴発しなかったからだと氏は説明しています。

 なぜ暴発しなかったかと言えば、「うち」の世界は「同調圧力」が高いから。その正体は、聖徳太子の「以和為貴(わをもってとうとしとなす)」から、日本企業のQCサークル(小集団改善)にいたる、日本人に脈々と受け継がれてきた「みんな一緒」という意識だというのが氏の見解です。

 ところが、バーチャルな世界(インターネットやSNS)が拡大するにつれ、(「義理」の世界を支えていた)同調圧力が弱まってきた。匿名性の高いバーチャルな世界では、他人から名指しで非難されるリスクを回避できるため、ネットやSNSのコメントが、「甘え」の掃きだめになったということです。

 バーチャルな世界を「実名制」にすれば同調圧力が効くだろうが、「匿名制」を撤廃するのはもはや現実的ではない。「甘え」の暴発がバーチャルな世界に限定されていれば問題はまだ小さいが、バーチャルな世界とリアルな世界の境界が曖昧になった現在では、「甘え」がリアルな世界に侵攻してくると氏は指摘しています。

 それは、リアルの世界での「甘え」と「義理」のバランスの崩壊なので、「甘え」だけが突出する結果になる。一方、「義理」についても、「古臭い」「人権侵害」「老害」「忖度」などと蔑視される傾向が強いので、「甘え」と「義理」のバランスは崩れる一方だということです。

 結論として、近年問題視されている「パワハラ」や「クレイマー」も、このバランスを崩した社会における「甘え」の突出に起因したものだと氏は説明しています。それ自体、他者(世間)の視線を失い抑えが効かなくなって、ダダ洩れするばかりの(ある種サディスティックな)個人の感情だということでしょうか。

 いずれにしても、「ストレスやフラストレーションを解消するためなら、他人を攻撃してもいい」という発想は、「甘え」以外の何物でもないということでしょう。偏った正義を振りかざす「甘え」を発現しないためには、(まずは)ストレスやフラストレーションを「正しく」解消する必要があると話す小宮氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。


#2695 高齢者による犯罪の深刻化

2024年12月27日 | 社会・経済

 少し前のデータになりますが、平成29年の『犯罪白書』によれば、2016年の刑法犯検挙者のうち65歳以上の高齢者はほかの年齢層と比較して最も多く、全体の20.8%を占めていたということです。

 同白書によれば、特に「暴行」で検挙された高齢者は20年前の約40倍にのぼっていたとのこと。そう言えば、夜の駅などで駅員などにキレて掴みかかる…といった高齢者の暴力事件が増えているという話もよく耳にするところです。

 実際、企業のカスタマーセンターを運営している知人の話を聞くと、クレームの現場では今では高齢者のボリュームゾーンとなっている「団塊の世代」が、モンスターとして確固たる地位を築いている由。正論を盾に説教をしながら、しっかりとその存在感を発揮しているようです。

 学生運動で理論を磨き、社会や政治への関心も強い彼らのこと。年老いたとはいえ今でも自分の生き様に強い自信とプライドを持ち、「企業戦士」として激しい競争社会で身につけた交渉力を武器に、相手を「論破」し続けているのでしょう。

 ともあれ、政治・経済の世界から犯罪に至るまで、高齢者の活躍の場が広がっているのは事実のようです。国民の3人にひとりが65歳以上の高齢者になんなんとしているのですから、それもまあ仕方のないこと。中には「やらかして」しまうじいちゃん・ばあちゃんがいてもおかしくはありません。

 7月25日の情報サイト「JBpress」に、ジャーナリストの山田 稔(やまだ・みのる)氏が、『窃盗からわいせつまで「超高齢者犯罪」が頻発するシルバー危機社会の深刻度』と題する一文を寄せていたので、参考までに概要を残しておきたいと思います。

 社会の高齢化が急速に進む中で、高齢者による自動車暴走事故や認知症患者増加の問題が盛んにクローズアップされている。そうした中でもう一つ見過ごすことのできない大きな問題が、高齢者が加害者となる、「高齢者犯罪」の増加だと山田氏はこの論考で指摘しています。

 総人口に占める高齢者の比率が高まれば、犯罪が増えることも当然想定される。そこで、法務省が毎年発行している「犯罪白書」(令和5年版)を見てみると、65歳以上の高齢者の検挙人員は平成20年(2008年)の4万8805人がピークで、その後高止まりから減少に転じ、令和4年(2022年)は3万9144人だったということです。

 しかしその一方で、70歳以上は平成23年(2011年)以降検挙数が増え続け、令和4年は3万283人、なんと高齢者全体の77.4%を占めるまでになっている由。他の年齢層で検挙者の減少傾向が続く中、全検挙者に占める高齢者の割合はほぼ一貫して上昇し続けており、令和4年は23.1%に達しおよそ4件に1件が高齢者犯罪だと氏は説明しています。

 それでは、高齢者たちは一体どのような罪で検挙されているのか。「令和4年の刑法犯に関する統計資料」(警察庁)によると、高齢者の検挙人員が多い犯罪の上位には、①窃盗/2万6866人(全体の33.9%)、うち万引き1万9309人(同42.1%)、②暴行/4107人(同17.1%)、③占有離脱物横領/1879人(同22.4%)の3つが挙げられるとのこと。もっとも、これらの犯罪は令和に入ってから減少傾向にあり、例えば「窃盗」は平成26年(2014年)には検挙者が3万4518人いたが、現在では22%も減少しているということです。

 一方、近年(特筆して)増加傾向にあるのが「性犯罪」だと氏は指摘しています。平成25年(2013年)はわずか20人(全体の2.1%)だった強制性交等が、令和4年(2022年)は41人(同3.1%)と倍増。強制わいせつは、平成25年(2013年)の192人(7.7%)が令和4年(2022年)は331人(10.8%)と1.7倍に急増しているということです。

 口は悪いですが、(いわゆる)「エロじじい」もそれだけ増えているということでしょうか。高齢者が身も心も元気なのは悪いことではありませんが、加齢により自制心をコントロールできない高齢者が増えているとなれば必要な対応もあるかもしれません。

 さて、高齢者の犯罪が増えれば、当然、刑務所に収容される受刑者も増加するはず。 高齢入所受刑者は平成28年(2016年)に2498人と、平成元年以降で最多となった後、29年以降は2100─2200人台で推移し、令和4年(2022年)は2025人まで減少していると氏は説明しています。

 もっとも、高齢者率は14.0%で約20年前の平成15年(2003年)に比べ9.7ポイント上昇。中でも70歳以上の入所受刑者数は1342人と平成15年の2.8倍にまで増えており、高齢者全体に占める割合も66%と高率だということです。

 やはり、ここでもその存在感を示しているのが、件の「団塊の世代」ということでしょう。中でも、特に女性受刑者で見ると令和4年の70歳以上は256人で、平成15年の実に5.4倍に達しているということです。

 超高齢化社会が進むこれからの時代、高齢者人口のさらなる増加、社会における経済格差の拡大などで、事態はますます悪化していく可能性があると氏はこの論考の最後に綴っています。

 年老いた親を施設に入れたからといって安心はできない。いつなんどき老親が、セクハラや性犯罪の「加害者」になるかもしれません。思いもかけないところで進んでいる高齢化。実は、切実な問題がごく身近にも潜んでいると話す山田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2694 秋篠宮家の「ご難場」

2024年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム

 11月に行われた記者会見で、安定的な皇位継承のあり方について問われた秋篠宮皇嗣殿下が、「皇族は生身の人間」と述べ、宮内庁は影響を受ける皇族の考えを理解する必要があると指摘したことがネット上で話題を呼びました。

 殿下の指摘は、(ご本人のお言葉によれば)「宮内庁の幹部は、その人たちがどういう考えを持っているかということを理解して、若しくは知っておく必要があるのではないか」というもの。つまり、(制度の問題として)勝手に議論を進めるんじゃなくて、自分たち(当事者の)の意見をしっかり聞いてほしい…ということなのでしょう。

 会見で示された殿下の御意向を受け、宮内庁の西村泰彦長官は12月12日の定例記者会見で、「まさにそのとおりで、十分お話を伺う機会はなかったと反省している」と述べたと伝えられています。

 まあ、部外者から見れば、記者会見で世論に訴えたりせず(長官に)直接言えばいいのに…と思わないでもないですが、既に宮内庁と秋篠宮家の間には、そうした話ができないような関係が出来上がっている(つまり、信頼関係が失われている)ということなのかもしれません。

 御長女眞子さまの結婚に関するトラブル以降、その公務の在り方や宮内庁との関係、さらには家族のつながりや子供の教育に至るまで、世間の注目を浴び「ご難場」が続く秋篠宮家。一部週刊誌による煽りなどを受けて、SNS上に「バッシング」とも見える厳しい投稿が続いているのも気になるところです。

 禍中の秋篠宮妃紀子さまは11月11日の誕生日に当たり、ネット上の批判について「こうした状況に直面したときには、心穏やかに過ごすことが難しく、思い悩むことがある」とのコメントを残されています。しかし、こうしたリアクションが(また)火に油を注いでいる可能性すらあるとのこと。

 まあ、(まさしく)平等日本唯一の特権階級に対する庶民の「やっかみ」…と言ってしまえばそれまででしょうが、ここまで悪役扱いされるのは宮様だって心外なことでしょう。事ここに至るまでの経緯を振り返ってみると、「宮内庁はもう少しやり方があっただろうに…」と思わないでもありません。

 そんな折、昨今の秋篠宮家の世論に対する姿勢について、12月7日の経済情報サイト「現代ビジネス」に、『国民に対して“ファイティングポーズ”をとってしまった「秋篠宮さま発言」』と題する論考記事が掲載されていたので、参考までに一部を小欄に残しておきたいと思います。

 秋篠宮皇嗣殿下がこれまで以上の逆風に晒されていると、記事はその冒頭に記しています。

 11月30日の59回目のお誕生日に行われた記者会見場で、記者から「秋篠宮家へのバッシングとも取れる情報についての受け止め」を問われた秋篠宮さまは、「当事者的に見るとバッシング情報というよりも、いじめ的情報と感じる」と発言されたとのこと。

 長男・悠仁さまの進学に対して反対署名が1万筆以上集まるなど、秋篠宮家に対する国民感情が悪化する中、(6月ごろに発覚した)次女・佳子さまの“独居騒動”も追い打ちをかけているということです。

 小室夫妻の結婚問題、悠仁さまのお受験、佳子さまの独居騒動、そして秋篠宮邸にかかった莫大な工費…これらの秋篠宮家に関するニュースがネット上にアップされるたびに、記事のコメント欄はバッシングとも取れるコメントで溢れたと記事はしています。

 誕生日の会見での発言は、その厳しい現状や、体調が万全ではない紀子さまを思い、皇嗣殿下としては抑止力につながることを願ってのことだったのだろう。しかし、今回の件は「完全に悪手だった」と、宮内庁関係者はうなだれているということです。

 殿下のお気持ちは痛いほどわかる。しかし、ネット上でバッシング的なコメント、(つまり)殿下で言うところの「いじめ的情報」を発したネットユーザーも“日本国民”であることに間違いないというのが記事の指摘するところ。つまり、秋篠宮さまは国民に対して“ファイティングポーズ”をとってしまったというのが記事の認識です。

 そもそも皇室とは国民の中に入っていくもの、ともに歩んでいくもの、国民あっての皇室。これは国民の税金で成り立っていることからも明らかだと記事は言います。皇室の方々は、日本国民の安寧と幸せを願う立場であり、ましてや皇位継承順位1位の「皇嗣」秋篠宮さまが国民に対して“攻撃的な言葉を発した”とすれば、皇室に対する国民の意識にも大きな影響があるだろうということです。

 ネット上に様々な情報が飛び交い、何よりも個性や多様性に価値が置かれるこの時代、全ての国民の「象徴」であり続けるというのは(かように)難しいことなのでしょう。自分たちがスポンサーでありカスタマーだと思えば、国民は言いたい放題。一方、(本人が望んだわけでもないのに)国民のサーバント(奉仕者)として宿命づけられた宮家の人々には、「私達だって人間だ」と叫ぶ権利も認められていないということでしょうか。

 ともあれ、いったんファイティングポーズをとってしまえば、相手もまた身構えるもの。自分たちとは違う(相いれない)相手として、国民から覚めた目で見られてしまっても仕方のないことかもしれません。宮内庁には(これ以上宮家に敵を増やさぬよう)、皇室をめぐる物語のきちんとした管理をお願いしたいものだと、記事の指摘を読んで私も改めて感じたところです。


#2693 バブル崩壊の影響を長引かせたもの

2024年12月24日 | 社会・経済

 戦後の日本経済の大きなターニングポイントとなったのが、1980年代末に起こったバブル経済とその崩壊であることに(今となっては)もはや誰も異論はないでしょう。戦後の高度成長期が一息も二息もつき、社会全体がモヤモヤした空気に包まれていたそんな時代の一体何が(かの)不動産バブルを生みだし、日本経済にその後も30年余にわたる傷跡を残したのか。

 10月7日の金融情報サイト「THE GOLD ONLINE」が、経済アナリストで獨協大学教授の森永卓郎氏による「バブル崩壊の裏に隠された大蔵省と日銀の失態」と題する論考を掲載していたので、引き続きその主張の一部を追っていきたいと思います。

 振り返れば、市場最高値となった1989年12月末の日経平均株価は3万8,915円。以降、1年ごとに年末の株価を見ると、1990年は2万3,848円、1991年は2万2,983円、1992年は1万6,924円と、株価は「つるべ落とし」で下がっていき、誰の目にもバブル経済の崩壊は明らかだったと森永氏はこの論考で語っています。

 本来なら、バブル崩壊を財政金融政策で緩和していかなければならないはず。ところが現実には、ここで不思議なことが起きていたと氏は言います。

 「不動産向け融資」の伸び率を金融機関の総貸出の伸び率以下に抑えるように大蔵省が指導する「総量規制」を導入したのは1990年3月27日のこと。バブル崩壊が一般に認識されるようになって、実に3カ月も経ってからのことだったということです。

 しかも、この総量規制が解除されたのは翌1991年の12月だった由。バブルを抑制するために導入するのならともかく、バブル崩壊後にこんな指導をしたら、バブル崩壊後の谷を深くするに決まっているというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 実際、不動産の価格、特に大都市商業地の地価は、バブル解消を通り越して、はるか深い谷(逆バブル)に沈み込んでいったと氏は言います。

 さらに、(当時)逆噴射をしたのは日銀も同じだった。バブル崩壊後の1990年3月20日、日銀は公定歩合をそれまでの4.25%から5.25%に引き上げ、さらに(あろうことか)1990年8月30日には公定歩合を6.0%まで引き上げたと氏は続けます。

 さすがに公定歩合は6.0%をピークに1991年7月1日に5.5%に引き下げ、その後1995年9月8日に0.5%となるまで段階的に引き下げている。ただ、バブル崩壊後の実に1年以上にわたって「逆噴射」を続けたことは(紛れもない)事実だということです。

 それどころか、資金供給の面ではさらに恐ろしいことが起きていたと氏はしています。日銀が自由にコントロールできる資金供給量をマネタリーベース(現金+日銀当座預金)と呼ぶ。そのマネタリーベースの対前年伸び率を各年の12月の数字で見ていくと、1989年が12.6%だったのに対して、1990年は6.6%、1991年は▲2.8%、1992年は1.4%、1993年は3.7%、1994年は4.0%、1995年は6.1%。バブルが既に崩壊していたにもかかわらず、(資金供給という面から言えば)、日銀は少なくとも5年にわたって金融引き締めに走っていたということです。

 なぜ、大蔵省と日銀は、常識では考えられない引き締めをバブル崩壊後も続けたのか。その理由は、正直言って、よくわからないと森永氏はここで(匙を投げたように)話しています。

 財務省と日銀が罹患している「引き締め病」のためか、アメリカからの圧力に屈したのか、明確な証拠はどこにもない。ただ、はっきりしていることは、「市街地価格指数」で見ると、6大都市圏の商業地の地価は、1990年から2000年にかけての10年間で、5分の1に大暴落。そして、戦後の日本経済を支えてきた「株式の持ち合い」と「不動産担保金融」が崩壊に向かったことだけだということです。

 さて、バブル崩壊の気配が濃厚となってきたそんな折、政府の経済対策や日銀の金融政策で、なんだか方向性の定まらないチグハグな何かが起きていたのは、私も(そして誰もが)肌で感じていたところ。一方で、当時のマスコミや国会の論争は(いまだ)、投機的な株や不動産等への投資を抑え、値上がりしすぎた不動産や諸物価の高騰をどう鎮静化すべきか…といった議論に終始していたような気もします。

 思えば、バブル経済の崩壊から早くも35年年の歳月が経過しようとしています。日本中が浮かれたバブルの季節が終焉を迎え、「崩壊」に向けた秋風が漂う中、財務省や日銀の政策決定に当たって一体何が議論されていたのか。

 バブルの時代を「懐かしむ」空気が漂ってくる昨今ですが、同じ失敗(?)を繰り返さないためにも、関係者が社会から引退する前に、もう一度しっかり検証しておく必要があるのではないかと、森永氏の指摘を読んで私も改めて感じているところです。


#2692 誰がバブルの引き金を引いたのか?

2024年12月24日 | 社会・経済

 3年間のコロナ禍(2020~22年)が中国経済に深刻な影を落としている。2023年の中国経済には力強い回復がみられず、消費が委縮して不動産バブルが崩壊。中国経済はいよいよデフレに突入したと、東京財団政策研究所主席研究員の柯 隆氏が指摘しています。(「ごまかしても覆い隠せない、習近平中国経済のひどすぎる惨状!」2024.10.08現代ビジネス)

 (しかし)氏によれば、中国政府が発表している公式統計では中国経済の減速を必ずしも確認できないとのこと。2023年、中国の実質GDPは5.2%成長したと公表されているが、この統計は明らかに実績を過大評価したもの。中国経済の動きをみると明らかに下り坂を辿っており、2023年6月に21.3%とされた若年層失業率がその後公表されなくなったのはその証左(のひとつ)だということです。

 一方、そのような状況にも関わらず、上海株価総合指数は突如として急騰を見せていると柯氏は話しています。きっかけとなったのは、中国人民銀行(中央銀行)が実施した金融緩和政策で、政府が公開市場操作で金融市場に1兆元以上(20兆円以上)の流動性を供給し、株式市場はまさに「官製バブル」の様相を呈しているということです。

 市場に資金があふれれば、行き場を探した元が消費に向かい、再び不動産市場にも活気が戻るという目論見かもしれませんが、中国の人々の不安や不満がどこまで解消されるかは不透明な部分も多いところ。中国首脳部も、日本経済がバブル崩壊に至った経緯を十分に分析・研究し同じ「轍」を踏まないよう対策を講じているということなので、今後の動きに注目していきたいと感じるところです。

 さて、そこで思い出されるのが、30年以上の年月を経て、未だに日本経済に影を落とし続けているバブル経済とその崩壊です。私自身、以来、実際に社会人としてその波にもまれ続けてきただけに、過程における政府や日銀の対応に興味は尽きません。

 折しも10月7日の金融情報サイト「THE GOLD ONLINE」が、「バブル崩壊の裏に隠された大蔵省と日銀の失態」と題する記事において、経済アナリストで獨協大学教授の森永卓郎氏の指摘を取り上げていたので、小欄にもその主張の一部を残しておきたいと思います。

 1985年のプラザ合意による超円高が訪れた後、日本経済は深刻な景気後退に突入した。政府と日銀は景気悪化を食い止めるため、大きな財政出動と大胆な金融緩和を重ねる大規模経済対策に打って出たと、森永氏は「バブル物語」の切っ掛けを語っています。

 当時の財政政策を見ると、公共事業費(実質公的固定資本形成)の伸びは、1986年が3.9%、1987年が5.1%、1988年が5.5%、1989年は▲0.4%と、高いといえば高いが「とてつもなく大きい」というわけではない。一方、日銀は、それまで5.0%だった公定歩合を1986年1月に4.5%に引き下げ、その後も同年3月に4.0%、同年4月に3.5%、同年11月に3.0%と急激な引き下げを行ない、1987年2月に2.5%の最低水準まで引き下げたということです。

 こうして、政府や日銀が急激な金融緩和などによって円高不況に対抗しようする中、1985年末に1万3,113円だった日経平均は、1986年末に1万8,701円、1987年末に2万1,564円、1988年末に3万159円、1989年末に3万8,915円に上昇。株価は4年間でおよそ3倍に値上がりしたと氏は言います。

 不動産価格も同様に急騰し、全用途平均の市街地価格指数(2010年3月末=100)は、1985年に159.4だったのが、1990年には46%高の233.3となり、翌1991年には257.5と最高値を記録したということです。

 世間では、財政出動と日銀の金融緩和がバブルをもたらしたと言われている。実は私(←森永氏)もそうだと思っていたが、財政出動の規模はたいしたものではないし、公定歩合も2.5%まで下げただけ。それでバブルになってしまうなら、近年のゼロ金利政策はもっと大きなバブルを引き起こしているはずだと氏はここで指摘しています。

 では、何がバブルの引き金を引いたのか。森永氏はその最大の原因を日銀の「窓口指導」に見ています。

 氏によれば、日銀は、それぞれの銀行ごとに貸出の伸び率の上限を指示する「窓口指導」をずっと行なってきた由。バブル期には、表向き1980年代後半には廃止されたことになっていたが、それが存続していたのは周知の事実だということです。

 そして、バブル期の窓口指導がとてつもない圧力を銀行に与えていたことが、最近になって次々と明らかになってきたと氏はしています。バブル期には、日銀の窓口指導で各行に前期比3割増といった大きな貸出枠が与えられた。これを消化しないと翌年の貸出枠を減らされてしまうため、各行も必死になって貸出に励んだということです。

 一方、世の中は円高不況の嵐が吹き荒れていて、新たな資金需要はほとんどない。本来、銀行は不動産や株式の投機にカネを貸すことを許されていないのだが、そんなことは言っていられない。結果的に、銀行は投機に手を貸す形で、融資を拡大させていったと氏は説明しています。

 結果、その積み上げがバブル発生の最大の要因になった。しかもこの投機資金への融資はしばらくはうまくいき、株価や地価が急騰したことで、十分なリターンを獲得したということです。

 さて、さもさりながら生まれたバブルは必ず弾けるもの。暴落が始まったのは1990年の年初頃だったと私も記憶しています。

 不動産価格の高騰による格差の拡大や株長者の御乱行をマスコミや野党が煽り、世の中の乱れ全てをバブル経済のせいにして政府を責めていたその頃、相次ぐ景気鎮静化策と不動産売買などへの規制の強化をバラバラに打ってきたツケが一気に表面化し、あっという間に株価の暴落が起こりました。

 そこに始まった(後世に)「失われた」とまで呼ばれる期間が、実にその後30年もの間続くとは(当時は)誰も考えていなかったでしょう。何が時代をそうさせたのか…話は「バブル経済の崩壊」と、その後の政府・日銀の対応へと続いていきます。

(→「#2693 バブル崩壊の影響を長引かせたもの」に続く)


#2691 貯めたお金も使ってなんぼ

2024年12月22日 | 社会・経済

 総務省が10月8日に発表した8月の家計調査によると、2人以上世帯の消費支出は29万7487円と物価変動の影響を除いた実質で前年同月比1.9%減少したということです。

 同省によれば、勤労者世帯の実収入は実質で前年同月比2.0%増えた一方で、消費支出は1.2%減と4カ月連続で減少している由。南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が8月上旬に発令されたほか、台風の影響もあり自動車の購入や旅行への支出が減ったほか、節約志向が止まらず野菜や果物、肉類の購入点数などを減らす動きも続いているとされています。

 個人消費が伸び悩んでいる背景に、(賃金の増加が物価の上昇に追いつかないことによって)実質賃金が依然マイナスで推移している現実があるのは言うまでもありません。少なくとも消費者は「可処分所得の増加は一時的なもの」と捉え、生活の先行きに根強い不安感を抱いているものと考えられます。

 とはいえ、日本人の持つ金融資産が増加傾向にあるのもまた事実。日銀が9月に発表した2024年4〜6月期の資金循環統計(速報)によると、6月末時点の家計の金融資産(総額)は前年同期比4.6%増の2212兆円。6四半期連続で過去最高を更新中とのことです。

 では、そうしたお金が「どこ?」にあるかと言えば、その多くが「高齢者のお財布の中」という指摘があるようです。

 内閣府が今年8月に結果を公表した世代ごとの家計が有する金融資産の分析調査によると、80代前半の金融額は平均で1564万円、85歳以上では1550万円とのこと。世代別で金融資産が最も多いのは退職金を受け取る60代前半で、平均で1838万円となっているが、(それでも)80代との差は15%程度にとどまっているということです。

 その意味するところは、高齢世代はお金を持っているのに「使わない」ということ。調査報告書は、高齢者の間で長寿に備えて金融資産の取り崩しを控える動きや、将来への不安から子どもに財産を残したいという意向が背景にあると見ています。

 「資産運用立国」への脱皮を掲げる政府は、「資産所得倍増プラン」(令和4年11月策定)に基づきNISAや idecoなどを活用した国民の資産形成を促していますが、いくらお金を貯めてもそれを使わなくては経済が回らないのは自明です。

 折しも、10月11日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」が、『消費あっての資産運用立国』と題する一文を掲げていたので、参考までのその主張を小欄で取り上げておきたいと思います。

 内閣府がまとめた2024年度の経済財政報告によれば、老後に備えてためた金融資産が85歳以上でも、ピークの60代前半から平均1割強しか減っていないとのこと。人生100年時代を迎え「倹約は美徳」と考える人も多いが、この美徳は経済に負の影響をもたらす恐れがあると筆者はコラムに記しています。

 コラムによれば、筆者の知人の母親が99歳で他界されたとのこと。(その生活ぶりから)遺産などは誰も期待していなかったが、結局、彼女が残した預貯金や株式などの総額は予想以上に多かったということです。

 しかし、その知人も既に70歳。子育ても終わり消費支出も限られる。(遺産が手に入ったからと言って)資産から消費に回る金額は、実際そう多くないだろうと筆者は言います。

 そして、彼の資産は30年後に70歳になる子供に相続されるのだろう。かくして金融資産は消費に向かうことなく、高齢者から高齢者へ引き継がれることになるというのが、筆者がコラムで指摘するところです。

 こうした「倹約のループ」は何をもたらすのか。政府は「資産運用立国」を掲げて新NISA(少額投資非課税制度)などの政策を打ち出してきた。預貯金偏重の日本人にとって積極的な資産運用は重要だが、資産運用だけでは勿論お金は回らないと筆者は話しています。

 (「オルカン」で知られるようになった)全世界株型の投資信託の人気ぶりからも分かるように、低成長の日本では投資家の多くが海外を見ている。資金が国内での消費に向かわなければ日本経済の成長に貢献しないし、現在の円安もその状況を反映したものだということです。

 (それ以上の問題として)そもそも日本人は倹約で幸せになっているのだろうかと、筆者はここで問いかけています。最近「DIE WITH ZERO」という本が売れているが、消費して資産を遺さないことが幸福につながると説いている。資産運用は(あくまで)手段に過ぎず、資産を消費して幸福になることが目的のはずだということです。

 投資理論でも、「生涯を通して消費を増やすこと」を資産運用の目的関数としている。方や、現在の日本人は消費を我慢して、個人の幸せを諦めているようにみえるというのが筆者の認識です。

 資産運用立国を掲げるのであれば「消費立国」も目指さないとバランスを欠く。そのためには将来不安を減らすことが重要だが、資産を持つシニアから子育て世代への資産移管を促す大胆な優遇策が必要だろうと筆者は提案しています。また、金融機関は資産運用だけでなく、資産を賢く取り崩して消費し生涯の幸福度を高めるメニューも強化すべきだということです。

 さて、確かにコラムも言うように、お金を「今必要としている人」に効率的に渡していくことは、「相続税の税収を挙げること」よりも経済に与える影響ははるかに大きいことでしょう。また、例えば「70歳で5000万円を預けてもらえれば、責任をもって(衣・食・住)死ぬまで(この)レベルの生活を保障します」といった商品を提案してもらえれば、手を挙げる高齢者もきっと多いのではないでしょうか。

 いずれにしても、どんなお金持ちだってお金はあの世までは持っていけない。何より重要なのは、消費を通して人生を豊かにするというポジティブな消費者教育だと話すコラムの指摘を、私も頷きながら読んだところです。


#2690 「少し変わった人」はどこにでもいる

2024年12月21日 | 教育

 少し前の話ですが、夏の盛りの8月11日、人気のお笑い芸人「やす子」に対するSNSでの不適切な投稿があったとして批判を浴びていたYou tuberのフワちゃんが、芸能活動を休止すると自身の「X」(旧ツイッター)で発表し話題を呼びました。

 この日の投稿でフワちゃんは、関係者らに「大きなご迷惑とご心配をお掛けしていることをお詫びいたします」と謝罪した上で、「この度の件の責任の重さを考え、一つの区切りとして、しばらくの間、芸能活動をお休みさせていただくことにしました」と報告。「活動休止期間は、自分のことを見つめ直す時間にできればと思っております」と綴ったということです。

 超ド派手な服装とハイテンションなキャラクターがトレードマークとなり一躍テレビでブレイクしたフワちゃんですが、今回の不適切な書き込み以外にも、芸能界のルールを外れた様々なトラブルが指摘されていたのも事実のようです。

 時間を守れない、先輩芸能人にもタメ口、時折見せる感情の爆発、飛行機や新幹線などの公共空間での迷惑行 為…などなど、時と場所をわきまえない彼女の突飛な行動に苦言を呈する業界人も多く、ネット上には発達障害の可能性について触れる言説も多く見受けられます。

 そういえば、一般的に「生きづらい人」を指す言葉としてずいぶんと一般的となったこの「発達障害」という存在。なんでもかんでもその一言で片づける風潮はどうかと思いますが、確かに近年のメディア(で注目されている人)を見ていると、「この人、相当変わっているな…」と感じることが多くなったような気もします。

 ま、芸能関係の人ばかりでなく、例えば政治の世界などでもこの「相当変わった」人たちが注目され、活躍しているのが今のご時世というもの。「みんなと同じように」「世の中になじむ」ことよりも、常識を突き抜けた才能や個性が世の中に求められているということなのかもしれません。

 いずれにしても、ある意味(社会生活を営む上で支障となる程度の)「強い個性」を意味する「発達障害」が、ここまで一般化するようになったのは何故なのか。9月28日の『週刊現代』に『「小学生の10%に発達障害の可能性」ってホントですか...「子供たちが被害者」となっても学校が「いい加減すぎる運用体制」を取る「衝撃の理由」』と題する特集記事が掲載されていたので、参考までにその内容の一部を残しておきたいと思います。

 2002年に文部科学省が教育現場での調査結果を発表し、社会全体での認知度が上がっていった「発達障害」。しかし、その結果過剰ともいえる診察が横行し、子供たちがその最大の被害者となっていると記事はその冒頭に記しています。

 授業を聞かず友達と大声で話す。同級生とケンカをする等々…一昔前であれば、「ひょうきんな奴」「ヤンチャな子」として先生や保護者が温かく見守り、成長するにつれ落ち着くようになっていった子供たちが、今では「ちょっとした問題」を起こしただけで、「障害のある子供」として扱われてしまうケースが急増していると記事は言います。

 実際、文部科学省の最新の調査結果によれば、発達障害によって特別支援教育(通級指導)を受けている子供は、'06年は6894人だったのに対し、'22年は12万2178人と16年で約18倍にも増えている由。そして驚くべきことに、同じく文部科学省が発表した別の資料によれば、小学生の実に10・4%が「発達障害の可能性がある」とされているということです。

 記事によれば、発達障害とは、ADHD(注意欠如多動症)、ASD(自閉スペクトラム症)、学習障害など多くの疾患の「総称」で、実際にはそれぞれ別の特徴があるとのこと。「ADHDは、多動で忘れっぽい」「ASDはコミュニケーションが苦手でこだわりが強い」「学習障害は読み書き計算が苦手」といったように、その特徴は大きく異なっているということです。

 1944年にオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーが、認知や言語の発達は正常だが、偏りがあって社会参加が難しい人がいることを発表。以降、「アスペルガー症候群」として社会に浸透してきた発達障害は、今では誰もが知る言葉となったと記事はしています。

 SNSを少し覗けば、クラスに馴染めない子供を持つ親たちが、「うちの子、発達障害かも…」と悩みを共有する時代。認知度が上がったことで親がすぐに疑うようになったのも、急増の要因の一つとされているというのが記事の認識です。

 また、親の価値観の多様化も発達障害の増加に関係していると記事は指摘しています。昔は「先生の言うことは正しく、指導には従うべき」という社会文化が一般的だった。しかし現在では、親の価値観の多様化や教師不足、学校現場の疲弊などから「育てにくい子」「指示が聞けない子」が『発達障害かもしれない』と特別視され、一般教室から排除されがちになっているということです。

 もちろん、①離席が多い、②話し続ける、③すぐに手が出てしまう…といった子供たちは昔から一定の割合で存在していた。しかし、当時は(現在とは違い)こうした子供たちは、『ディフィカルティチャイルド(難しい子供)』として扱われるだけだったと記事は言います。

 集団生活になじめない子供たち。そうした中には実際に障害のある子がいるとしても、集団生活ができない子供のすべてが発達障害であるわけがないというのが記事の認識です。教室の中に発達障害の子供が増えたわけではなくて、教育現場の人たちが、育てにくい子供をすぐに発達障害とレッテル付けすることに問題があるということです。

 そして、問題はそれだけではない。教育現場で摩擦を生じる子供の言動に対し、(親や教師の求めに応じ)対処療法として薬を処方し子供を落ち着かせようとする医師もいると記事は話しています。

 記事によれば、特にADHDとASDの併存が疑われる場合、ADHD治療薬と抗精神病薬などの薬を組み合わせて投与する医師がいるとのこと。実際、ADHD治療薬の場合は、脳内の快楽物質であるドーパミンの働きを強める作用があり、子供を落ち着かせるという意味で一定の効果が出る可能性があると記事は言います。

 しかし、投薬によってもたらされた状態は、あくまで一般的に言う「治癒」とは異なるもの。しかも、もしもADHDではない子供が飲み続けた場合、ただ薬漬けにされるだけで問題解決には至らないということです。

 基本的な認識に立ち返れば、発達障害は病気ではなく特性として扱う必要がある。発達障害は「足が速い」というのと一緒で、環境が整えばよい方向にも働くものだと記事は改めて指摘しています。

 個々人に違いがあるだけで、優劣があるわけではない。トラブルになったからといって、すぐに障害があると疑うのは子供の個性を否定することに繋がりかねず、(安易なチェックリストで子供の人生が変わってしまうことのないよう)周囲が知識を得、理解することが肝要だということです。

 さて、冒頭のフワちゃんの態度が「発達障害」に依るものかどうかは私の立場で知る由もありませんが、彼女の個性や視点が「特別」なものであることは私にも何となく理解できるところです。そんな彼女を「ルールに従わない」と切り捨てるばかりでなく、周囲のフォローによって、その個性や魅力が発揮できればいいのになと、思わないではありません。


#2689 「壁」の撤廃は誰のため?

2024年12月18日 | 社会・経済

 今年の暮れも差し迫った12月17日、自民、公明、国民民主3党の税制調査会長は所得税の非課税枠「年収103万円の壁」をめぐって国会内で協議。国民民主の古川元久税調会長らは自公の提案を不服として10分ほどで会議を退出し、「協議は打ち切りだ」と述べたと報じられています。

 キャスティングボードを握る国民民主は、「国民の手取りを増やす」として所得税非課税枠の拡大を目指しており、最低賃金の伸び率に合わせ103万円から178万円への引き上げを求めています。一方の自公は、7兆円とも言われる税収減を理由に2025年は20万円上げて123万円にする案を提示したものの、国民民主により強く拒否された形です。

 この流れに、(女性問題で)役職停止中の国民民主党の玉木代表は自身の「X」に、「温厚なわが党の古川元久税調会長も席を立ったようです。『178万円を目指す』と合意したのに123万円では話になりません」と投稿したとされています。一方、17日午後に開かれた自民党の税制調査会では、出席者から「責任ある財源論から考えて、できないものはできない」などとの意見が出されたということです。

 この話を聞いて、所得税の控除額を引き上げれば確かに「手取り」は増えるのだろうけれど、それはあくまで所得税を(それなりに)払っている人の話。低所得者への恩恵はそれほど大きくないのではないか…などと考えていた折、12月17日の日本経済新聞の投稿欄「私見卓見」に、京都産業大学教授の八塩裕之氏が『拙速な所得税改革は避けよ』と題する投稿を寄せていたので、参考までにその主張を小欄に残しておきたいと思います。

 国民民主、党が主張する「103万円の壁」に関する所得税改革が論争になっているが、国民生活に広く影響する所得税の在り方については、時間をかけて冷静に検討すべきだと八塩氏はこの論考で述べています。

 同党の主張は基礎控除の75万円引き上げで、現在の政局では、これによって生じる国や自治体の税収ロスが注目されている。しかし、税収ロスを問う前に、そもそも所得税の減税の仕方自体に大きな問題があるというのが氏の主張するところです。

 今回の問題の発端は、最低賃金が上昇し、大学生などの被扶養者のアルバイト所得が増えて、所得税が課され始める103万円を超えるケースが出てきたこと。(氏によれば)それによって扶養者に適用されていた特定扶養控除が適用されなくなるため、仕事を控える動きが生じているということです。

 今回の学生の問題は、インフレで所得が増えると所得税の適用税率が上がり自然と増税が起きる「ブラケットクリープ」をどうするかという話。もちろん何らかの対処は必要だが、ただ、そのために基礎控除を大幅拡張することには問題があるというのが氏の見解です。

 例えば、仮に「75万円の基礎控除拡張による減税」を来年から実施するとして、それを現在の所得税(+復興特別所得税)・個人住民税を維持しつつ給付を行う政策に置き換えてみる。するとこれは、年間給与2000万円の人には32.77万円、年間給与1300万円の人には25.11万円の給付金を(毎年)配り続ける政策に等しいと氏は説明しています。

 一方、年間給与400万円の人には11.33万円の給付金が毎年配られるが、税を払わない低所得者には一切給付はない。こうした(再分配に逆行する)給付政策に対して強い批判が出ることは間違いないが、国民民主党が主張する所得税改革は、まさにこれを実行するものだというのが氏の指摘するところです。

 この問題を「所得税制度」に則してみると、所得控除を拡張することによる減税効果が、高い限界税率に直面する「所得の高い層」に大きく及ぶことは明らかだと氏は言います。

 諸外国では近年、この問題を避けるため、所得控除のあり方の改革が行われてきた。また、仮に基礎控除を引き上げる場合でも、それによって給与や年金への控除の上限を下げるといった改革を合わせることも考えられるということです。

 (いずれにしても)所得税は、国税制度の中核をなす紛れもない基幹税。今回、基礎控除を一度大きく拡張してしまうと、これを戻すのは政治的にも極めて難しくなると氏は言います。

 政治的な意地の張り合いや人気取りのために、朝三暮四に走るようなことは厳に慎む必要があるということでしょう。せめて拙速な改革は避け、時間をかけて、冷静に所得税のあり方を改めて検討すべきだと話す八塩氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2688 「出会いがない」にはワケがある

2024年12月17日 | 社会・経済

 1970年ごろまで年間100万組を超えていた日本の「婚姻数」が2011年以降は年間60万組台に減少し、昨年2023年には(ついに)47万4717組と戦後初めて50万組を割り込んだと、6月5日の「朝日新聞DIGITEL」が報じています。

 一方、同記事によれば、結婚した夫婦が持つ子どもの数を示す「完結出生児数」は1970年代から2.2前後で推移し、現在でも1.9と大きくは変わっていない由。日本は婚外子が少ないことから、専門家は少子化の主要な原因が(この)「未婚化」にあると指摘しているところです。

 まあ、若い人が減っているのだから婚姻数が減るのも当然ですが、それにしても(特に未婚の女性たちから)よく聞くのは、「出会いがない」とか「適当な相手が見つからない」という言葉。正直、私の周りでも独身男性が余っているように見えるのに、これは一体どうしたことなのでしょう?

 結婚問題に詳しいコラムニストの荒川和久氏が、9月25日のYahoo newsに寄せた『女性の上方婚志向「せめて私と同額か、それ以上稼げていない男は相手にしない」が9割』と題する論考においてその理由に迫っているので、指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 結婚における女性の「上方婚志向」というものが、しばしば指摘される。ここで言う「上方婚」とは、女性が結婚相手に対して自分より収入が上の相手を求めるという志向のことだと荒川氏はこの論考に記しています。

 とはいえ、これは圧倒的なお金持ちの男性を希望するという非現実的な「玉の輿」願望ではない。結婚後の経済生活や子育て等を考え、「せめて自分の年収よりも高い男性と結婚しておかないと…」というリスクを考えての希望だというのが氏の認識です。

 これは、これから結婚に踏み切ろうとしている女性としては、当然の願望(そして条件)の一つと言える。実際、昭和の皆婚時代も、大正時代の第一次恋愛至上主義旋風の時代も、「相手の稼ぎ」は優先順位の高い条件として存在していたということです。

 しかし、残念ながら、結婚を希望するすべての女性の上方婚を満足させられるほど、現代の結婚適齢期の男性は稼げていないと氏は言います。

 もちろん、(「机上の空論」と言われればそれまでですが)未婚男女の年収格差がないのだから、男女それぞれが年収同類婚を達成できれば(少なくとも数字上は)「皆婚」が可能となるはず。しかし、現実はそううまくいくはずもなく、年収同類婚で満足する女性の割合はせいぜい2割程度。7割以上の女性が「自分より上の収入男を狙う」ということです。

 結果、男性は順番に年収の高い方から男は売れていくが、女性の場合は、必ずしも年収基準で男が選ぶわけではないので、バラツキが出る。わかりやすく言えば、年収500万以上の男性は完売しても、同額以上の女性は余る可能性があると氏は現状を説明しています。

 そうした組み合わせのいたずらによって、女性は「自分より稼ぐ男が婚活市場にいない」という状況に直面する。婚活の現場で「適当な相手がいない」と女性が嘆くのはそういうことだというのが氏の見解です。

 そして、問題はここから始まる。上方婚する相手がいないとわかった婚活女性は、(だからといって)下方婚を選択することはしない。自分より稼げない相手と結婚するくらいなら、自分で経済的に自立してたくましく一人で生きることを選択しがちだと氏はしています。

 このようにして、本来結婚のボリューム層を構築するはずの(皆婚時代はまにそこが婚姻数のメインだった)300-400万円台の年収層が、軒並み「結婚相手がいない」と途方にくれることになる。同じ「相手がいない」でも、女性は相場通り「希望する年収の相手がいない」なのだが、男性は「こっちが好きになっても相手から好きになってもらえない」がゆえの「相手がいない」になるということです。

 だからと言って、「女性は上方婚志向をやめるべきだ」などと主張したいわけではない。それでなくても夫婦で生活していく中では、出産や子育て期にどうしても夫の一馬力にならざるを得ない場合もあると氏は言います。

 実際、1980年代から、フルタイム就業の妻割合は大体3割で変わっていない。そもそも、専業主婦世帯が減ったのも、夫の稼ぎでは回らなくなって妻がパートに出ざるを得ないようになったからだということです。

 そのような状況(リスク)を考えた時、今現在の結婚相手の収入に固執してしまうのは、将来の収入の見通しがあまりにも立たない不安があるからではないか。その不安の元凶になっていることこそが、若者の手取りが30年間も増えていないという「失われた30年」だと荒川氏はこのコラムの最後に綴っています。

 昨今では、さらに「新しい資本主義」だの「異次元の少子化対策」などの名のもと、社会保険料の負担までがそこに繰り返し加わっているとのこと。結婚を希望する男女のミスマッチは、政府主導のマッチングアプリとか、そうした「小手先」の対策で何とかなるようなものでないのは素人の私でもわかります。

 今、政府に必要なのは、若者たちが将来の家庭生活をイメージできるようなビジョンを持てる環境を整えること。「異次元の少子化対策」と花火は打ちあがるが、最近では政府の政策はまるで「結婚滅亡計画」のように見えるとコラムを結ぶ氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。


#2687 国民の不安を煽ってきたツケ

2024年12月16日 | 社会・経済

 厳しい厳しいと言われ続けてきた日本の財政状況が、気が付けば改善の兆しを見せている由。政府債務残高の対GDP比は既にコロナ前の水準に戻っており、「政府純債務/GDP比」も14年ぶりに100%を下回った。政府が長年財政健全化の目標に据えてきた「基礎的財政収支」(プライマリーバランス)の黒字転換も、来年度(2025年度)には達成される見込みだということです。

 おかしいな…大した努力もしていないのに、どうしてこんなに簡単に「改善」の姿を見せたりしているのか。その辺りのカラクリに関し、第一生命経済研究所首席エコノミストの永濱利廣(ながはま・としひろ)氏が9月25日の総合経済サイト「PRESIDENT ONLINE」に、『「増税しないと財政の危機」と不安を煽ってきた政府の大誤解』と題する論考を寄せているので、(前回に)引き続きその概要を追っていきたいと思います。

 おさらいですが、名目経済成長率(=経済成長率+インフレ率)」が国債利回りを大きく上回っていれば、債務残高/GDP比」は低下する。要するに、マクロ経済学の考え方では、インフレになれば財政は確実に改善するというのが氏の指摘するところです。

 しかしその一方で、(現在の日本は)少子高齢化の影響で約3~4割が年金で暮らす無職世帯となっている。賃金が上昇してもなかなか個人消費が増えていかないこの状況は、インフレに対して極めてぜい弱な側面を露わにしているということです。

 そもそも日本の個人消費が弱いのはなぜなのか。端的に言えば、その理由は国民負担率が急上昇したから。要するに「増税」と「社会保障負担増」によるものだと氏はここで説明しています。

 実際、2020年以降のG7諸国の国民負担率の変化を比較してみると、日本の国民負担率だけがダントツで上がっていることがわかる。経済の低迷で実質賃金が下がる中、消費税が2度にわたって引き上げられ社会保険料も繰り返し引き上げられてきた。つまり、家計の負担ばかり増えていたわけで、個人消費が伸びないのは当然と言えば当然だというのが氏の認識です。

 そうした中、(「増税メガネ」の名のとおり)「増税」のイメージばかりが強く残った岸田政権だが、(よく見れば)家計を支援する政策にも(結構)取り組んでおり、「エネルギー負担軽減策」や「定額減税」など(ある意味一般には評判の良くない)政策にも、その時々に切り込んできたと氏は一定の評価をしています。

 経済の構造改革についても、「新しい資本主義」の名の下、「貯蓄から投資」「GX(グリーン・トランスフォーメーション)」「半導体産業への投資」といった政策が進められた。いずれも競争力強化につながる政策で、世界的な潮流にも沿ったものだったといことです。

 中でも、成果として挙げられるのは「賃上げの実現」だと氏は話しています。今期、春闘の賃上げ率が5.1%と33年ぶりの大幅アップとなり、最低賃金の引上げも順調に進んでいる。日本の実質賃金は、27カ月ぶりにプラスに転じたということです。

 しかし、個人消費はまだまだ低迷しており、経済成長の足枷となっているのもまた事実。政府は家計支援や個人消費のテコ入れについて、もっと踏み込んだ政策を実施すべきというのが氏の見解です。

 そして、「もっと踏み込んだ個人消費テコ入れ策」が必要な理由がもう一つ。それは、お金についての「価値観」を刺激することだと氏はこの論考で説いています。

 2009年にギウリアーノ氏とスピリンバーゴ氏という2人の経済学者が連名で記した論文によると、各世代のお金についての価値観は、その世代が社会に出た時代、具体的には18歳から24歳までの経済環境に「一生左右される」由。つまり、例え今後景気が良くなっても、若い頃に不況を経験した「氷河期世代」の財布の紐は緩まないと氏は説明しています。

 実際、現在「新NISA」に積極的なのは、20代から30代前半くらいの世代とのこと。彼らは、アベノミクス以降の株が上がっている局面で社会に出た世代だと氏は言います。そして、次に積極的なのは50代後半以降のいわゆる「バブル世代」だという話です。

 一方、(氏によれば)氷河期世代は投資にあまり積極的ではないとのこと。そうしたデフレ環境の下で育った氷河期世代の財布の紐を緩めるには、かなり積極的な政策が必要だというのが氏の指摘するところです。

 日本は、過去30年にもわたりデフレ経済が続いてきた世界でも異例の国となっている。そんな中、人々の考え方や行動にはすっかり「デフレマインド」が染み付いていて、「実質賃金が安定的にプラス」という程度では、みな財布の紐を緩めてはくれないだろうと氏は話しています。

 個人消費を盛り上げるためには、時に「お金を使えば使うほど得をする税制優遇」など、かなり思い切った政策が必要かもしれない。「景気は気から」という言葉もあるが、これも侮れない真実と言えるというのが氏の考えです。

 日本が長期デフレに陥った諸悪の根源は、日本人の努力不足でも何でもなく、ひとえにバブル崩壊後に続いた「政府の経済政策の失敗」にあると氏は言います。バブル経済の崩壊は、人々の生活を経済的に傷つけたばかりでなく、その意識にも深い傷跡を残しているということでしょうか。

 まずは、(「超高齢化」「老後の備え」などという言葉にビビらされ)「守り」に徹してきた日本人のマインドを切り替えていくこと。バブル崩壊とその後30年も続いたデフレによって歪められてしまった「日本人の価値観」を何らかの方策によって少しずつ解凍していくことができれば、日本経済復活の見込みは大きいものとなるだろうと話す永濱氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2686 インフレも悪いことばかりじゃない

2024年12月15日 | 社会・経済

 内閣府は7月29日の経済財政諮問会議で、財政健全化の指標となる国と地方の「基礎的財政収支」(プライマリーバランス)について、2025年度に8000億円程度の黒字に転換するとの試算を示しました。

 「基礎的財政収支(=PB)」とは、(一口に言ってしまえば)政策に充てる経費を税収などでどれだけ賄えるかを示す指標のこと。政府は、国と地方あわせて来年度における黒字化を目標としてきましたが、これが実現すれば、小泉政権で01年に政府目標として掲げて以来、実に四半世紀ぶりの黒字復帰となる見込みです。

 経済財政諮問会議後の記者会見で、新藤経済再生担当大臣(当時)は「基礎的財政収支黒字化の目標達成の道筋が見えてきた」と胸を張り、「今後の経済財政運営は、(中略)経済規模を拡大させ2025年度の黒字化を目指す目標に沿ったものとなるよう検討していく」と述べたと報じられています。また、黒字化への自信について聞かれた岸田文雄首相は「経済あっての財政」と述べ、経済成長を優先させつつ、財政健全化を図る方針を示したということです。

 さて、思えば、新型コロナ対策などを含め景気対策と称する幾多のバラマキにより、近年の自民党政権は財政状況の悪化を招いてきました。そしてコロナ後も、少子化対策やら防衛増税やらで国民負担率を上げてきた背景には、厳しい財政事情があったはずです。

 しかるに、(気が付けば)いつの間にか「PB黒字化が確実視」…などという調子のよい話を聞くと、なんか狐に摘ままれた、というか騙されたような気持ちになるのは私だけではないでしょう。

 財務省の「差し金」か何かは知りませんが、あれほど厳しかったはずの財政状況が、(手の平を返したように)どうしてこんなに簡単に「改善」の様相に転じたりするのか。その辺りの理由について、9月25日の総合経済サイト「PRESIDENT ONLINE」に第一生命経済研究所首席エコノミストの永濱利廣(ながはま・としひろ)氏が、『「増税しないと財政の危機」と不安を煽ってきた政府の大誤解』と題する論考を寄せているので、参考までにその指摘を残しておきたいと思います。

 「日本の財政が厳しい」と長年言われてきたが、実はここに来て財政指標が大幅に改善していると、長濱氏はその冒頭に綴っています。2024年1~3月期時点の「政府債務残高の対GDP比(粗債務)」は前年から▲5%ポイント近く低下し、コロナ前の水準に戻っている。「政府純債務/GDP比」に至っては前年から▲17%ポイント以上低下し、2010年1~3月期以来、実に14年ぶりに100%を下回ったということです。

 なぜ財政が急速に改善しているのか。その最大の理由は「インフレ」にある。近年の政権によって進められた増税によって、政府の税収が増えていることも一因だが、最も大きいのは「インフレ」の影響だというのが氏の見解です。

 一般的に、政府債務残高の対GDP比は、経済成長率やインフレ率によって変動すると氏は言います。(そこで)2023年度の低下幅(▲11.0%ポイント)の中身を見ていくと、「増税などで財政収支が改善した影響」よりも「名目経済成長率(経済成長率+インフレ率)」の影響のほうがはるかに大きい。名目経済成長率の中でも、「インフレ率上昇」の影響が95%以上と、はるかに大きいことがわかるということです。

 日本政府は、「政府債務残高/GDP比」の上昇を抑制するため、「プライマリーバランス(PB)」(基礎的な財政支出と税収が均衡している状態)を目標としてきた。しかし、財政を改善するには、(実際の)財政収支が黒字である必要はないと氏はしています。

 「名目経済成長率(=経済成長率+インフレ率)」が国債利回りを大きく上回っていれば、「債務残高/GDP比」は低下する(←たしかに!)。要するに、マクロ経済学の考え方ではインフレになれば財政は改善するが、増税したからといって財政が改善するとは限らない、というのが氏の指摘するところです。

 こう主張するのは筆者(=永濱氏)だけではない。例えば、アメリカのバーナンキ元FRB議長も、2017年に日銀が開催したシンポジウムで「日本はインフレ率を高めることで財政の持続可能性を高めることができる」と主張していたと氏は言います。

 日本政府もそろそろ、こうした「マクロ経済学の常識」を踏まえた政策に転換すべき時が来ている。具体的には「増税により財政を改善させる」方向ではなく、「賃金上昇によるマイルドなインフレ」、および「家計支援策による個人消費のテコ入れ」を軸に据えるべき時にきているというのがこの論考における氏の認識です。

 本当のところ、財務省を中心とした日本政府もこうしたことは(勿論)よくわかっている。特に「マイルドなインフレで財政を再建する」点については、強く意識しているのではないかと氏は話しています。

 ただ、インフレが続けばすべてうまくいくかというと、そんなに簡単な話ではない。通常の場合、インフレ下では賃金も上昇するため現役世代にはそれほど影響はないことが多い。だが、年金で生活している世帯などは、賃金上昇の恩恵を受けにくいため、物価上昇のデメリットが直撃しやすい点も考慮する必要があるということです。

 現在、日本では2%以上のインフレが続いている。決して激しいインフレではないが、年金で生活する世帯にとって無視できない負担となっている(し、世論や野党も「物価上昇」を黙ってはいない)と氏は説明しています。

 一方、日本の社会は、少子高齢化の影響で約3~4割が年金で暮らす無職世帯となっているのは皆の知るところ。賃金が上昇しても、なかなか個人消費が増えにくい構造を踏まえれば、(たとえ「バラマキ」の誹りを受けようとも)まずは家計を支え、個人消費をテコ入れする経済政策が必要不可欠となっていると話すこの論考における永濱氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2685 最期くらいは静かに逝きたい

2024年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 9月15日は「敬老の日」。高齢化が一気に進んでいるこの日本では高齢者は(ともすれば)「社会のお荷物」のように言われがちですが、せめて1年に一日くらいは、子供や孫から敬われたりしたいものです。

 そのためにも必要なのは、なるべく現役世代に迷惑をかけずに健康に生きていくこと。「ピンピンコロリ」などという言葉もあるように、死ぬ直前まで元気で過ごし、病気で苦しんだり介護を受けたりすることがないまま、寿を全うできればそれに越したことはありません。

 それでは、今のお年寄りたちは一体何歳ぐらいまで、日常生活に制限のない状態で生活できているのか。その目安となる「健康寿命」(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間)を見てみると、直近の2019年時点で男性が72.68歳、女性が75.38歳。日本人の2020年の平均寿命が男性が81.64歳、女性が87.74歳なので、健康寿命と平均寿命との間には、男性で約9年、女性で約12年の差があることがわかります。

 この差は、病気などを抱える(いわば)「不健康期間」と解釈でき、要介護になったり、寝たきりになったりしながら命をつないで生きている期間が10年近くあるのが、平均的な日本人の「死に様」ということになるのかもしれません。

 それでも、だれもが死ぬ時くらいは人生に満足を感じながら、苦しむことなく安らかな心持ちで最期を迎えたいと願うもの。人工呼吸器や透析器のチューブに繋がれ辛く苦しい思いをしながら、それでも長生きしたいと思う人はそんなに多くはないことでしょう。

 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるか。9月17日の総合情報サイト「現代ビジネス」が、医師で作家の久坂部羊氏による『せっかく穏やかな「死」を迎えた78歳女性を、わざわざ「蘇生」させるために行われた「非人間的な医療行為」』と題する論考を掲載しているので、参考までにその一部を残しておきたいと思います。

 日本では「死に目に会う」ことを、欠くべからざる重大事と受け止めている人が多い。特に親の死に目に会うのは子として当然の義務、最後の親孝行のように言われたりもするが、(感情論はともかく)その実態はどのようなものかと、氏は医師として紹介しています。

 深夜、心肺停止でだれにも看取られずに亡くなりかけていた高齢の親を見事に蘇生させ、家族が死に目に会うことを実現させてくれたと(当直医氏の対応を)感謝する遺族は多い。たしかに家族は喜んだかもしれない。しかし、亡くなった患者本人はいったいどのような心境だったろうと、氏はその冒頭に綴っています。

 心肺停止の蘇生処置がどういうものか具体的に知らない人が多いので、こうした話は美談のように受け取られがち。しかし、医療の実態を知る身としては、なんという無茶なことをと呆れるほかないというのが氏がこの論考で指摘するところです。

 蘇生処置とはどのようなものか。まず、人工呼吸のための気管内挿管は、喉頭鏡というステンレスの付きの器具を口に突っ込み、舌をどけ、喉頭を持ち上げて、口から人差し指ほどのチューブを気管に挿入するもの。意識がない状態でも、反射でむせるうえ、喉頭を持ち上げる際に前歯がてこの支点になって折れることもままあると氏は言います。

 そのあとのカウンターショックは、裸の胸に電極を当てて、電流を流すもので、往々にして皮膚に火傷を引き起こす。心臓マッサージも、本格的にやれば、肋骨や胸骨を骨折させる危険性が高く、高齢者の場合、骨折は一本や二本ではすまないということです。

 太いチューブを差し込んで機械で息をさせ、火傷を起こし、ときには皮膚に焼け跡をつける電気ショックを与え、肋骨や胸骨がバキバキ折れる心臓マッサージをしてまで家族が死に目に会えるようにすることが、果たして人の道に沿ったものなのか。

 医師がなぜそんなことをする(場合がある)のかと言えば、言わばアリバイ作りのため。何もしないで静かに看取ると、遺族の中には「あの病院は何もしてくれなかった」とか「最後は医者に見捨てられた」などと、よからぬ噂を立てる人がいるからだと氏は説明しています。

 看護師が巡回したら、心肺停止になっていましたなどと告げれば、遺族によっては「気づいたら死んでいたというのか。病院はいったい何をやっていたんだ」と、激昂する人も出かねない。死に対して医療は無力なのに世間の人はそう思っていないので、医者はベストを尽くすフリをせざるを得ない場面も多いということです。

 それが患者さん本人にとって、どれほどのつらい思いを与えていることか。死を受け入れたくない気持ちはわかるが、何としても死に目に会うとか、最後の最後まで医療に死を押しとどめてもらおうとか思っていると、死にゆく人を穏やかに見送ることはとても難しくなると氏はしています。

 確かに以前、私の父親の入院先の病院で、夜中に(静かに)息を引き取った老親を前に、当直の若い医師に向かって「看護師は何をやっていたんだ」「病院に親を見殺しにされた」と激高している人を見たことがあります。

 親が死んで驚き、やり場のない悲しみをどこかにぶつけたい遺族の気持ちは判らないではありませんが、医師も周囲の入院患者も、そして亡くなった患者本人もそれはそれでいい迷惑。いくら怒っても生き返るわけではないのだから、「十分頑張った」と落ち着いて受けとめる胆力も時に必要なのかもしれません。

 色々あった人生も、最後くらいは静かに逝きたいもの。少なくとも自分の親族には、私に万一のことがあった場合には、静かに穏やかに逝けるよう無理せず送り出してほしいと、しっかり伝えておきたいと思った次第です。