MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2029 ポスト・ポストモダンの社会

2021年11月30日 | 社会・経済


 戦後のヨーロッパ社会において「ポストモダン(Postmodern)」という概念・運動の(ある意味)「引き金を引いた」と言われるフランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは、著書『ポストモダンの条件』(1979)において、「ポストモダンとは、大きな物語(グランド・セオリー)の終焉」を指すものだと述べています。

 マルクス主義のような壮大なイデオロギーの体系(=大きな物語)を背景にまとった時代は終わりをつげ、メディアによる記号・省庁の大量消費が行われる高度に情報化された社会が訪れる。つまり、「モダン=近代」の次に到来する情報に満たされ混沌とした社会は、民主主義と科学技術の発達が迎える一つの「帰結」として存在するものだということです。

 こうした考え方は、情報社会の進展とともに広く社会に受け入れられ、その後のインターネットの広まりとともに、論理に基づく「知性」は過去の遺物として人々から疎まれ、煙たがられる存在になっている観があります。

 戦後の哲学を支えた実存主義にせよ、構造主義にせよ、ポストモダニズムにせよ、その根柢にあるのは、社会構造が人々の共同行為によって作り上げられているという虚構に過ぎない。実は、そこには当初から普遍的な真理や規範、ひいては意味を持った現実すら存在せず、小さな集団の多種多様な意見があるだけだというものです。

 そして、こうしたポストモダニズムの思想が結実したのが、現在のネオリベラリズム(新自由主義)であり、さらに政治の世界で先鋭化させたのがアメリカのドナルド・トランプ前大統領と言えるかもしれません。

 一方、昨今の、デジタル技術の進展による社会の変質や人工知能(AI)の普及、新型コロナウイルス感染症による生活習慣の変化などにより、系統だった本質論を欠くはずの「ポストモダン」(の方向性)にも、いよいよ変化の兆しが訪れるだろうと考える向きもあるようです。

 10月13日の総合情報サイト「AERA dot.」に、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が「公共財を私財に付け替える現代 ポストモダンは近代以前へ退行する」と題する一文を寄せているので、備忘の意味で紹介しておきたいと思います。

 講演会で話をすると、時に思いがけない質問を受けることがある。先日は「ポストモダンのその後はどんな世界になるのでしょう?」と訊かれ、意表を衝かれたと氏はこのコラムに綴っています。

 その際、咄嗟に「近代以前に退行すると思います」と答えてしまったが、口にしてみたら妙に腑に落ちるところがあった。聴衆のいくたりかが大きく頷いていたこともあり、時代が「近代以前に戻りつつある」と感じている人がずいぶんいるのだと知ったということです。

 ポストモダンとは、「大きな物語」が無効を宣告される時代だと教えられてきた。すべての人々はそれぞれの人種、国籍、性別、信教、階級、政治イデオロギーなどの「虜囚」である。だから、すべての人の世界観には主観的なバイアスがかかっており、「私の見ている世界は客観的な現実だ」と主張する権利は誰にもない…ポストモダンの世界ではそういう考え方が支配的になったと氏は言います。

 私(内田氏)も「そうかも知れない」と思ってきた。それがおのれの世界認識や価値判断の客観性を過大評価しないという「節度」を意味するなら、それは結構いいことではないかと感じてきたというのが氏の振り返るところです。

 しかし、蓋を開けてみたら、(突き詰められた)ポストモダンの社会は節度とは無縁だったと、氏はこのコラムで指摘しています。万人が共有しうる客観的現実がないなら、各自が自分にとって都合のよい主観的妄想のうちに安らいでいればよい。「オレの見ている世界はオレにとってリアルだ。以上、終わり」と、いちいち理屈で説明する必要もなく話が済むようになったということです。

 今にして思えば、「アメリカ・ファースト」と「オルタナティブ・ファクト」のドナルド・トランプこそ、こうしたポストモダンの趨勢を代表する人物だったと内田氏は話しています。

 啓蒙思想家のロックやホッブズやルソーは、市民ひとりひとりが私権の制限を受け入れ、私財の一部を供託することで近代の「公共」は成立したと説いた。そのような歴史的事実がほんとうにあったのかどうかは別にして、そうした社会契約によって「万人の万人に対する闘い」が終わったというのが、近代市民社会が採用した「大きな物語」だったということです。

 しかし、「この先」の「ポストモダン」には、もはや「公共という物語」の居場所は本当にどこにもなくなるだろうと氏は言います。建前のない世界に暮らすためには、やれ「正義だ」「真実だ」と四の五の言ってはいられない。社会全体の共通善は、もはや時代遅れの「モダン」の中にだけ存在する言葉で、「公権力」とは(それに従う者たちの)利益のために費やすものだということでしょうか。

 「オレ様主義」と化したポストモダンはこの先「モダン」を裏付ける理性をさらに失い、欲望と暴力に依拠する中世以前の社会に先祖返りしていくのか。公権力を私的欲望の実現のために用い、公共財を私財に付け替えることに励むようになったのだとしたら、確かにこれは「近代以前への退行」と呼ぶ他ないとこの論考を結ぶ内田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


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