MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2607 「盛者必衰の理」とは?

2024年07月10日 | うんちく・小ネタ

 今年のNHKの大河ドラマは、平安時代に著された「源氏物語」の作者とされる紫式部を主人公に戴く『光る君へ』。ラブストーリの名手とされる大石静氏の書下ろし脚本により、これまでの戦記物や英雄列伝とは一味も二味も違った平安絵巻が、日曜日の夜のお茶の間に繰り広げられています。

 画面の中に登場するのは、宮中を中心とした平安貴族の面々の権力争いとラブロマンス。「猟官」という言葉がありますが、一般庶民の人々の生活を置き去りにして(組織の中での)出世を追い求める彼らの姿に、ドラマ「半沢直樹」を重ね合わせた人も多いかもしれません。

 ドラマ「光る君へ」の中で、主人公紫式部の「思い人」役を担うのが、平安中期に摂政関白太政大臣の任に就いた藤原道長。「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と歌い、(孫である)後一条天皇の即位により天皇の外祖父として時の権力をその手中に収めた人物として歴史に名を残しています。

 ドラマでは、道長は民衆のために力を尽くした優れた為政者として描かれていますが、その治世が(現代の視点から見て)素晴らしいものであったかと言えばなかなかそうとも言えない様子。時に(言うことを聞かない)天皇に譲位を迫ったりしながら、お上(天皇)の威光をかさに政治を牛耳っていたようです。

 さて、その後平安時代は、藤原氏を中心とした(こうした)貴族政治の腐敗の中で武士の台頭を許し、平氏の隆盛につながっていくわけですが、「奢れるものは久しからず」とはよく言ったもの。その平氏もついには滅び、鎌倉幕府の成立につながっていったのは世の習いといったところでしょうか。

 「盛者必衰」の言葉が示すように、なぜ権力が続くことはないのか。こうした疑問に対し5月23日の経済情報サイト「現代ビジネス」が、慶応義塾大学准教授岩尾俊兵の近著「世界は経営でできている」を抜粋する形で、『なぜ政権や王朝が滅亡するのか「たったひとつの答え」』と題する記事を掲載していたので、参考までに小欄に概要を残しておきたいと思います。

 日本にあまり咲いていない沙羅双樹の花を探して眺めてみなくとも、歴史の教科書を開けば盛者必衰の理は嫌というほど表れている。既存の政権や王朝を滅ぼす原因として、歴史番組や歴史映画は「異民族の侵略」「大災害と飢饉」「内乱と革命」などの悲劇を取り上げがちだが、こうした物語は原因と結果を取り違えているに過ぎないと岩尾氏はこの著書に綴っています。

 異民族が侵略を試みていない時期などないし、災害と飢饉への備えはいつの治世でも必要なこと。内乱と革命を虎視眈々と狙う者など、どの時代にも存在するというのが氏の認識です。

 政権や王朝は常に危機に対峙している。つまり、危機そのものが政権・王朝を滅ぼすと考えるより、それら日常的に直面している危機に対処できないほど落ちぶれたときに、「危機という最後の一押しで滅びる」と考える方が自然だということです。

 政権や王朝を弱体化させる原因は、国家経営の失敗に尽きる。すなわち経営の巧拙こそが歴史を動かすと氏は話しています。

 例えば、アレクサンドロス大王の古代マケドニア、チンギス・カンが統治したモンゴル帝国、近代の列強にいたるまで、大帝国はしばしば世界征服を目的に掲げる。そして、戦争を完遂するため、大帝国は支配地域に重税を課し圧政を敷くということです。

 一方、こうした政治では、「国家を目的とし、国民を手段とする」という逆転現象が起こる。そしてそのために、政権に徐々に綻びが生まれるというのが氏の見解です。

 その理由は、そもそも国家は国民が共同で作り上げた虚構であり、国家自体は究極の目的にはなりえないから。究極の目的になり得るのは「国民一人ひとりの幸せ」のはずで、国家も、政治体制も、政治理念も人間が作った人工物。本来ならば人間を幸せにしない人工物は捨てられるだけのはずだが、人はこのことをいつも忘れてしまい、そのたびに大混乱が起こって歴史に新たな一頁が足されていくということです。

 例えば、歴史の中で何度もどこでも見られる現象として「財政」の問題があると氏は続けます。むしろ財政を国家経営そのものだと思っている人も多く、古今東西どんな国家でも、官吏は増税を大使命だと勘違いしているかのように振る舞うというのが氏の認識です。

 もちろん、彼らは「自分たちの使命は(増税ではなく)財政健全化だ」と堂々と主張するだろう。しかし、財政健全化もまた国家の目的にはなりえない。財政健全化は国民の幸せを実現するための手段のひとつに過ぎないというのが氏の指摘するところです。

 仮に国民を重税で苦しめた挙句に財政健全化に成功したとしても、そんな国を望む国民はいない。そんな国では結局、内乱と革命によって国自体が立ち行かなくなり、当の官吏も含め誰も幸せにならないだろうと氏は説明しています。

 政権が重税を課せば課すほど、一般市民はその税を逃れるための方法を編み出すもの。租税と脱税の知恵比べ合戦は歴史の常であり、結果、増税しても税収が増えることなく、それどころか一般市民は苦しみ、さらに脱税によって新たに権力を得る層が生まれてくるということです。

 世界中どこでも、歴史の中で、租税回避の特権を得るものが必ず台頭してくる。典型的には王の親族だと氏はこの著書に記しています。

 男系王朝において権力者は娘の嫁入りを通じて次期国王の親戚(外戚)になることができる。皇帝の外戚がこうした特権を通じてますます権力を伸ばし、ついには「外戚の影響力を増すために幼齢の帝を立てる」という本末転倒な結果にいたるということです。

 これこそ王や帝に対する侮辱の最たるもの。そのうちに、本来は「人民を幸せにする」という約束を果たすために権限を委任されていたにすぎない政治権力は、まるで「特権階級だけが人民だ」と定義しているかのような行動に出ると氏は言います。

 特権階級の権利・権限は拡大し市民の権利・権限は極限まで縮小される。細かい差はあれ、後漢でも、藤原摂関政治でも、李氏朝鮮でも、ほぼ同様の説明が通用する。世界の歴史は登場人物の名前以外は似たような出来事の繰り返しだということです。

 「奢れる者は久しからず」の言葉はありますが、(例え本人が奢らなくても)歴史というものはそうして繰り返されていくものなのでしょう。平安貴族の昔から、気が付けば権力はその寄って立つところを忘れ、(限られた小さな器の中で)作為と欺瞞によって奪い合うものになってしまうのかもしれません。

 今あるシステムの主導権を握ることに専心し、政治本来の目的を見失った権力者たち。政治とは権力闘争だという意見もあるでしょうが、それこそが権力が(こうして)長続きしない原因なのかもしれないなと、記事を読んで私も改めて感じたところです。



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